海へ出る

「竹田はゴールデンウィークの予定は、何か決まってる?」
 高瀬が声をひそめながら、そう訊いて来たのは連休に入る直前のことだった。
 あの嘘のようによく眠れた仮眠以降も相変わらず、夜には夢を見続けていた。
 どうせ眠れないのなら、連休中は深夜にバイトを探そうかと考えていた。その矢先のことだったので、そう答える。
 そうか。と続きを濁して会話を切り上げようとするのを察して、俺は手元から目を離し、高瀬に視線を向ける。
「高瀬は?」
「え?」
「連休。何かするのか?」
 訊くと、高瀬は視線を俺とは逆の方向に、横へと少し彷徨わせる。
 浮遊するように泳いだそれは、ゆっくりと下に落ちて、やがて俺のものとかち合った。
「ちょっと遠出をしようと思って……」
 高瀬が言い出した時、図書室の閉館を告げるアナウンスが流れ出す。
 時間を気にしていなかった俺たちは、少し慌てて資料を片付け始めた。
 俺は出した資料を棚に戻しながら、ふと目に入ったその文字に、思わず手を伸ばす。
「『高瀬舟たかせぶね』」
森鴎外もりおうがいだね。好きなの?」
「お前はいつもそう聞くんだな」
「意外だからかも」
 含み笑いでそう言った高瀬に、俺も笑いながら軽口を返す。
「うるさい。——タイトルが気になっただけだよ。昔教科書で見たなってぐらい……いや、ちょっと重くて苦手だったかも? 高瀬こそ」
「俺は家にあるよ。名前繋がりで買ったか――いや、家にあったんだったかな」
 首を左右に振るように傾げる。眉間にしわを寄せて考えながら、覚えてないなと頷く。それから、内容に触れた。
「――うん。嫌いじゃあないかな」
 身体の奥で何かが弾むような、重い振動がする。覚えのある感覚に、徐々に大きくなる鼓動が聞こえる。
 だが、不安に反してそれはすぐに治まった。
「借りる?」
 高瀬に問われ、俺は一瞬悩む。
「うん………」
 借りるなら、早くした方がいい。そういう問いだった。
「いや、……今日はやめておく」
 そう言って本を棚に戻しかけて、その指から本が離れない。
 『高瀬舟』という文字が妙に気になった。
 ――友人の名が入っているからだろうか。それとも?
 動きを止めた俺を、高瀬が訝し気に見る。
 俺は本を棚に押し込むように戻す。今度は、手を離せた。
 鞄に、広げたノートや筆記用具を戻して、既に綺麗に片付いた向かいの机を見て、入口へと向かう。
 カウンターのところでは、高瀬が本を借り出しているところだった。
「何か借りたんだ」
 俺が先に開いた自動ドアを追いかけてくる形でくぐり、隣に並んだ高瀬に向かって話しかける。
 高瀬はあまり、自分の話をしない。
「ガイドブックをね」
「ガイド? ああ、そういえば、さっきどこかに行くって言ってたっけ」
 さっき高瀬が言いかけて途絶えた話題を思い出す。
 続きを促すように顔を見ると、高瀬もじっと俺を見た。
「……京都に、行こうと思っているんだ」
「へえ。旅行か」
「まあ、それもあるんだけど。………竹田も取ってるだろ、史学の授業」
 逡巡するように黙った後、高瀬は繕うように言い添える。
 俺は、突然現れた講義のことに、忘れた内容でもあったかと思案を巡らせる。
「学期末の課題について、最初に説明があっただろ。レポートだって。探し物のついでに、その資料と情報を集めておこうかと思ってさ」
 確かに、そのようなことを教授が言っていたことに、心当たりはある。
 けれど、俺はやや呆れも込めて息を吐いた。
「……お前って、結構真面目なんだな」
「連休が明けたらあっという間だっていうからね」 
 なぜか得意げに高瀬は言う。
 そう意気揚々と返されると、自分も始めておかなければならないと感じてくる。
「ちなみに、どんな?」
 ちらりと高瀬を伺い見る。
「さっき高瀬川の話をしたよね」
「ああ……。うん?」
 思いがけない切り替えしに、俺は面食らいながら曖昧に頷く。
「森鴎外の『高瀬舟』には冒頭、「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。」と書かれてる。だけど、『高瀬川』の名前は全国各地で使われていた川船である【高瀬舟】にちなんで付けられたものだそうだ」
「へぇ。じゃあ逆ってことか?」
 それと、旅行の話がどう繋がるのだろうと考えがよぎりながらも、俺は続きを促すように訊ねた。
「そうとも限らないとは思うけどね。少なくとも森鴎外の『高瀬舟』は、京都から大阪へと流刑人を送る高瀬川を渡る小舟の上のなんだから、間違いではないってことなのかも」
「ふうん?」
 俺は首を傾げる。
 その話でふと、思い出されたことがあって、俺は続ける。
「ああでも、確か昔修学旅行で見た川と、その話の内容から受けた印象は少し違ったって記憶があるな」
 『高瀬舟』における物語におけるイメージは夜の光景で、実際に京都の『高瀬川』を見たのが昼だったからかもしれない。
 中学三年生の時に行った修学旅行の光景を思い浮かべた。
「小さくて、歓楽街にあって。すぐ近くの鴨川の方が大きくてそれっぽい、と思っ…………?」
 途中まで言葉を紡ぎかけて、口から出る音が途絶える。
 何かが、思い浮かべた記憶に引っ掛かったからだ。
「竹田の見た『高瀬川』は上流だね。運河だった頃の名残だ」
 つっかえるような俺を少しだけ見ながら、高瀬は指摘する。
 その高瀬の言葉も、俺の中の俺じゃない何かを揺さぶった。
「高瀬川……上流……運河………?」
 口の端で呻くようにつぶやく。

 その時、唐突に思い出した。
 そうだ。あの日、……修学旅行で京都に……高瀬川を見た日の夜だ……初めて夢を見たのは……。
 忘れていた。ずっと。

 目の前が開けたような、変な気分になる。
 俺は決して、それを望んではいなかったから。

「竹田……?」
「いや。それで?」
 不思議そうな視線を、払うように首を横に振る。
「高瀬川は既に運河としての役割を終えて、今は上流と下流に分断されているんだ。そして、その下流の水はやがて宇治川へと流れて行く。――その宇治川の近くに親戚が住んでるんだ。連休中に泊まりに来てもいいっていってくれてるんだけど……もしよければ、竹田も一緒にどうだろう?」
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