海へ出る

 幾人かの人だかりが、僕に背を向けていた。
 その中央に見知った人物を見つける。
 彼は振り返らない。
 どんどんと遠ざかり、人だかりは一人、二人と減っていき最後には中央の一人になる。
 駆け寄る僕の足は、彼に追いつかない。

「どうしてどうしてどうしてどうしてどうして―――――」

 そしてまた一人、二人と人垣が増えては散りながら、遠くへと。
 どんどん遠ざかる。
 僕はもつれる足で、何度も転びそうになりながら必死で走り、追いかける。

「置いていかないでくれ。独りにしないでくれ。一緒にと言ったじゃないか……! なぜお前が僕を―――たかせ!!」


 脳に響くような自らの叫び声で、俺は目を覚ます。
 自分の口から発した声なのか、夢の中でだけのものだったのかは判断できない。
 まだ瞼に焼き付くように残る背中は、彼の最期の時のものだった。

「どうして、……置いて……」
 僕は勢いで起こした体を壁に預け、頬を伝った雫と共に溢す。



 
 
 朝の光に瞼の奥が痛む。
 よくは思い出せないが、身体の重みが今日もあまりいい睡眠ではなかったことを物語っている。
「おはよう」
 そういってリビングに出ると、不機嫌そうな父親の怒気の篭った声が挨拶よりも早く降って来る。
「まだ寝ていたのか。大学に入ってからたるんでるんじゃないのか」
 それが妙に癇に触って不快だった。
「親父には関係ないだろ」
 低く洩らした反論は、想定以上に父親の逆鱗に触れたようで、テーブルが音を立てて揺れる。鋭く響いたのは、食器がぶつかる音だ。
 父親は立っていて、その両手がテーブルに打ち付けられていた。
 新聞は倒れた碗の味噌汁が染み入り、茶碗もひっくり返っている。テーブルの上はそれだけでもう惨状だ。
 その光景を眺めながら、ただ胸の奥がムカムカと怒りを燻ぶらせていた。
 父親はこちらを睨んでいるが、向かってくる様子はない。
 できるとも思えず、猶更余計にその態度が気にくわなかった。
「今日も飯はいい」
 吐き捨てるように言って、部屋へとUターンする。
 鞄だけ手に引っ掴み、再び部屋を出るとリビングを足早に通り過ぎて玄関を出た。
 今日は朝から行かなくてもいいはずだったが、大学で時間を潰すしかないだろう。

 起きている間に、夢の住民に揺さぶられなくなってから半月が経ち、もうじき春の大型連休に入ろうかという時分。
 入学式とその翌日に身に起こった不可解な現象が嘘のように高瀬との友人関係にも何も問題は訪れなかった。
 そのかわりなのか、夜間の睡眠は悪化の一途を辿っていると言える。
 日に日に夢の内容は濃く、重たくなっている。
 起きて時間を置くごとに、寝ている間の夢の内容が鮮明になり、俺の記憶や現実と混濁していく。

「今日も顔色が悪いな」
 カフェテリアで課題を広げていると、後からやってきた高瀬が前の席に座る。
「寝不足なんだよ」
「夜遊び? それとも読書?」
 涼し気に問いながら、次の授業の教科書を広げる。
「どっちだと思う?」
 俺はふん、と笑って軽口で問い返す。
「竹田の場合は、夜遊びより読書って感じがするけど」
「そんなに本好きに見えるか?」
「あんまり。でも、図書室で知り合ったからかな」
「俺から見たら、俺より高瀬の方がよっぽど本好きに見えるよ。物知りだしな」
 半月の付き合いの中で、高瀬は俺の知らないことを良く知っていることに気付いていた。
 どんな話題を振っても会話に行き詰まることがない。
「そんなことはないけど。ところで授業前に少し寝たら? また講義中に寝そうだよ、竹田」
 実際、講義中に気付いたら寝てしまっていることはとても増えた。
 何しに大学に来ているのだろうか。内心では自分でも薄々感じることがある。
「短時間の仮眠はスッキリするっていうからね」
 寝た寝た。と高瀬に促される。
 言った本人は、机をひじ掛けにして教科書片手に横を向いてしまう。
 話しかけないから話しかけるな、という所作にも思えた。
 押しつけがましくなく、さりげない。こういう部分が、俺は結構気に入っていた。高瀬と一緒にいて話す時間は、和やかな気持ちになれる。
 俺は大人しく机に突っ伏すことにする。
 目を閉じるのが早いか、意識はすぐに遠のいていった。

 その眠りがあまりにも深くて、目を覚ました時は驚いた。寝すぎたと思って顔を上げると、高瀬は俺が突っ伏す直前と同じ涼しい顔で教科書を眺めていたから。
 茫然として、
「何時だ………?」
 と呟くと、高瀬はちらりと俺を見て笑う。
「まだ10分経ってないよ」
 はっきりと意識が覚醒し、すっきりしたと思ったのも束の間。
 その言葉に、また眠気が押し寄せてくる。
「ちゃんと起こすから」
 その声を遠く聞きながら、また眠りに落ちていく。
 次の眠りも、高瀬に名前を呼ばれるまでどんな夢も見なかった。



「シュウ……。いつか、一緒に――――」

 起きる直前、淡く、遠く、誰かの声が聞こえたような気がしただけ。
 その声は、僕の名を呼ぶ声と似ていた。

「竹田。起きた? そろそろ授業行くよ」
 少し寝ぼけながら、時刻を求めて時計を見る。
 取得している講義が始まる時間のちょうど十分前だった。
「……うん。一緒に行こう」 
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