海へ出る

 翌朝、朝食には寝坊という体を取って両親と顔を合わせるのを避けた。
 母が心配そうにするノックの音を無視する。音も声も止み、やがて玄関扉の音に耳を澄ませてから、布団から這い出した。
 今日は学科でオリエンテーションと新入生歓迎会がある。行かないわけにはいかなかった。
 指定された教室に着くと真っ先に声を掛けられる。
「おはよう。昨日はどうも」
 軽く手を上げた彼は、僕に向かってにこやかに挨拶を投げかけてきた。
 俺は胸騒ぎと動揺を抑えながら、挨拶を返す。
「おはよう……」
 顔が引きつりそうになるが、彼は気にした様子を見せない。
「あのさ、名前聞いてもいいかな?」
「そうか……、言ってなかったな。竹田 |愁《しゅう》だ」
「竹田くん?」
 俺の名を反復して、首をひねる。
「どうかしたのか?」
 その様子に、今度は俺が首を傾げた。
 彼は笑って首を振る。
「いやごめん。昨日、俺のこと知ってる風だったから、名前を聞いたら、思い出せるかと思ったんだけど」
「俺も、……名前を聞いていいかな?」
「高瀬だよ。高瀬 |早汽《さわき》」
 昨夜見た、あの本の作者の名前の文字が脳裏に浮かぶ。
 どくん、と血液が脈打つ音が重く響く。
「シュウ、ってどんな漢字?」
 構わず高瀬は問いかけてくる。
 短く返した。
「哀愁の」
「――ふね。……じゃ、ないんだね」
「え……?」
 どういう意味だと問いかけようとして、
「覚えてるの、たかせ」
 口から飛び出したのは別のものだった。
「え?」
 僕の勢いに驚いた彼が顔を上げる。
 その表情で、俺は殆ど叫ぶように彼から一歩離れる。
「違うっ! 何でもない!!」
「竹田……?」
「ごめん。……なんでもないから、気にしないで欲しい」
「うん、大丈夫だよ。気にしないから――じゃあ、またあとで」
 高瀬の言葉の途中で、校内のチャイムが響いて、彼は軽く手を上げて席の方へと歩いていく。
 俺は言い知れぬ不安を内に仕舞い込みながら、オリエンテーションを終える。
 新入生歓迎のパーティーでは、朝のことなどなかったかのように高瀬が話しかけてきた。
 簡易な軽食が用意された立食式の交流会。
 場が賑やかだったからだろうか。それとも、人の目があって緊張していたからだろうか。いずれにせよ、それが幸いしてヘマをするようなことはなく、俺は俺でいられた。
 だから、高瀬とも普通に話ができたんだと思う。
 この時、会の中で行われた自己紹介において高瀬の名前が『高瀬沢紀』とは違うのだと知り、なぜだか肩の力が抜けた。
 パーティーが終わって、授業登録に向かおうかという時も高瀬は一緒だった。

 俺個人の――いや、“僕”の事情や、見知らぬ“たかせ”のことを差し置いておけば、高瀬は気の良い人間だった。
 性格も良く快活で爽やかで、話しやすい。とても気が合う。
 ああだこうだと言いながら授業の選択と登録を終える。
 そのほとんどが、高瀬とは丸かぶりだったことに不安こそあれど、いやな気持ちは全くしない。
 帰るか? と聞くと、図書館に行こうと思うと言うので、俺もそのままついて行くことにする。
 読書をする友人は、俺の周りでは少し珍しかった。

「高瀬はどんな本を読むんだ?」
「いろいろかな。竹田は?」
「一通り目は通すけど……エンタメが多い、かも?」
「そっか」
 特に明確な答えが欲しかったわけではなかったので、具体的な返答でないことは気にならない。
 図書室の自動ドアが開き、俺たちは合わせたように自然と口を噤む。
 本棚の隙間を昨日と同様に歩きながら、一瞬迷った後、俺は声を顰めて前を歩く高瀬に問いかけた。
「なあ、『高瀬沢紀』って作家、知ってるか?」
 俺の問いかけに、高瀬はぴたりと足を止める。
 その動きに、後ろを歩いていた俺は思わずつんのめりそうになる。
「――知ってる」
 その頭上で、低い声がした。
 一瞬、それが高瀬の口から出たものだとは思えなくて俺は顔を見上げる。
「少し昔の作家だよね。母親が好きだったとかで、同じ名前を付けた――なんて聞いた気がするけど」
 笑みの形をした唇から紡がれる声は、聞き慣れてきたものと同じだった。
 そうか。高瀬も家族が本を読むのか。と、親近感を覚える。
「竹田の好きな作家? あ、もしかして、昨日も今朝も、その作家と勘違いして……?」
「ちがうちがう!!」
「…………俺はあんまり好きじゃないんだよね。その人の話。だからあんま知らない」
 慌てて否定する俺を少し笑って、高瀬はさっき聞いたような低い声で小さく呟いた。
 その声音が、図書室という場所を意識した物だったのか、他の意味があったのか、俺にはわからない。
 再び歩き出した高瀬が次に足を止めた棚は、昨日俺たちがぶつかった場所だった。
 高瀬が熱心に本を探す間、俺も棚を見上げる。
 ふと見上げた頭上に、見覚えのある色の背表紙が。その隣に同じ作者名の書籍が数冊並んでいた。
 手に取るつもりはなかった。
 なのにじっと見つめてしまったのは、手が届きそうになかったからだ。
「踏み台を持って来ようか」
 下の棚を見るのに屈んでいた高瀬が、そのままの姿勢で言う。
「いや、大丈夫」
 立ち上がって隣まで歩いてくると、俺の見ていた場所にちらりと視線をやって、ふーんと呟く。
「帰ろうか」
「借りないのか?」
「探してる本がなかったから」
 あっさりと言って、踵を返す高瀬について図書室を後にし、雑談を交えて一緒に帰路についた。
 その日から、驚くほど何事もなく、穏やかに日常を過ごすこととなる。
 俺の日常に突然現れた“僕”は、突然鳴りを潜めた。
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