海へ出る
ザアザアと大きく水の音が響いている。
木造アパートの古い扉を開けた僕は、その部屋の様子に茫然と立ち尽くした。
事態が飲み込めず、状況も分からずに、困惑して訳も分からないまま声を上げて必死に手を伸ばす。
天井から吊られ、揺れる、見覚えのある後ろ姿に。
「たか……せ……ッ!」
喉から絞り出した自分の声で目が覚める。
天井に向かって伸びた影に全身が一瞬粟立ち、それが自分の腕だと気付いて力を抜く。
落ちてきた腕がベッドマットの上で跳ねた。
夕飯は要らないと言って、部屋に引き籠り、そのまま眠っていたらしい。
起き上がって目に映った薄暗い部屋は、月明かりに照らされ、その明かりが夢の中を連想させて吐き気がした。
親友だった男が、古いアパートで首を吊る。
昔からよく見ている、夢の一部だ。
今日まではその男の名さえも知らなかったけれど。
男は“僕”の親友で、幼馴染。学生の頃から一緒に作家を目指した。
社交性もあり人気者で作家としても成功した彼と、内気で何の才能にも恵まれなかった僕。
ただ差は開く一方だった。
時に妬み、恨み、彼の持つ文才に嫉妬さえしながらも、僕は彼に憧れていたし、彼のことが、彼といられることが誇りだった。
彼の文章と同じ理想を追い求めながら、一緒に歩き走る日々が眩しい。
最初は、そんな夢だった。
だけど彼は死んだ。
電話で僕を呼び出しながら。
呼びつけたアパートの自室で、自ら首を吊っていた。
発見者は、当然僕だった。
僕は必死に手を伸ばす。何かを叫びながら。
ゆらりと天井から伸びた縄が軋むように揺れる。
全身がぐっしょりと濡れていた。髪から、重たそうな着物から。滴り落ちる雫が、既に真っ黒に濡れて染まったアパート畳の床に。そのシミの中にひとつ、またひとつとおちていくのを、見開いた目で見つめていた。
その時に、深い悲しみと絶望と、憎悪が僕を支配した。
「ぼくはたかせ を………」
――許さない。
嫉妬と孤独と衝動だった。
自殺したことによって、彼の書いた本は売れた。彼がいなくなった後も。だが、僕の作品が日の目を見ることはその後もなかった。
僕はそれでも毎晩、自分の文机に置いた彼の最期になった本を睨みながら執筆に没頭する。
その本は彼の自殺よりもだいぶ以前に出されたものだった。遺書もなく、彼が僕に残したものは激しくも忌まわしい、その感情のみ。
窓の外を雪がちらつく冬の晩、僕は文机に突っ伏したまま、動かなくなる。
多分、それが“僕”の最期なのだろう。
最初に夢を見た日のことは思い出せない。
いつ頃からだったか夢の内容を認識し、断片的なそれらの夢が繋がっていると知った。それさえいつのことだったか思い出せはしない。
フィクションの見過ぎなのだと最初は思った。――夢の話をして、誰かにそう言われたのだったかもしれない。
夢の中の僕は俺ではないし、名前も知らない夢の住人のことだ。
“僕”の感情と体験に毎夜うなされて迷惑こそすれど、それ以上の気には留めないようにしていた。
なのに、昼間の出来事は偶然にしては嫌な一致としか思えない。
時間は零時を過ぎている。
浴室を使うのがバレるとまた父親から何か言われそうだと思いながらも、汗でベタベタな体をそのままにするのは不快だった。
幸い、親にも見つかることなく入浴を終えることとなる。
冷蔵庫から水のペットボトルを手にして部屋に戻り、電気を点けて学校の資料に目を通そうと鞄を開けた。
そこに朝、家から持って行った本が入っているのに気付いて、手に取る。
記憶にも留められなかった作者の名前に目が釘付けになった。
「……『高瀬 沢紀 』?」
知らない作家だった。見たことも読んだこともない。
だけど、それが『夢』に出てきた本だという確信が背筋を凍り付かせる。思わず本を投げつけた。
「俺は、僕じゃない………! “たかせ”なんて知らねぇ」
頭を抱える。
おかしくなりそうだと思い、おかしくなってるのかもしれないと疑う。
布団に潜り込む。
短い睡眠の中で、文机に向かう背中と藍色の背表紙をじっと眺めていた。
木造アパートの古い扉を開けた僕は、その部屋の様子に茫然と立ち尽くした。
事態が飲み込めず、状況も分からずに、困惑して訳も分からないまま声を上げて必死に手を伸ばす。
天井から吊られ、揺れる、見覚えのある後ろ姿に。
「たか……せ……ッ!」
喉から絞り出した自分の声で目が覚める。
天井に向かって伸びた影に全身が一瞬粟立ち、それが自分の腕だと気付いて力を抜く。
落ちてきた腕がベッドマットの上で跳ねた。
夕飯は要らないと言って、部屋に引き籠り、そのまま眠っていたらしい。
起き上がって目に映った薄暗い部屋は、月明かりに照らされ、その明かりが夢の中を連想させて吐き気がした。
親友だった男が、古いアパートで首を吊る。
昔からよく見ている、夢の一部だ。
今日まではその男の名さえも知らなかったけれど。
男は“僕”の親友で、幼馴染。学生の頃から一緒に作家を目指した。
社交性もあり人気者で作家としても成功した彼と、内気で何の才能にも恵まれなかった僕。
ただ差は開く一方だった。
時に妬み、恨み、彼の持つ文才に嫉妬さえしながらも、僕は彼に憧れていたし、彼のことが、彼といられることが誇りだった。
彼の文章と同じ理想を追い求めながら、一緒に歩き走る日々が眩しい。
最初は、そんな夢だった。
だけど彼は死んだ。
電話で僕を呼び出しながら。
呼びつけたアパートの自室で、自ら首を吊っていた。
発見者は、当然僕だった。
僕は必死に手を伸ばす。何かを叫びながら。
ゆらりと天井から伸びた縄が軋むように揺れる。
全身がぐっしょりと濡れていた。髪から、重たそうな着物から。滴り落ちる雫が、既に真っ黒に濡れて染まったアパート畳の床に。そのシミの中にひとつ、またひとつとおちていくのを、見開いた目で見つめていた。
その時に、深い悲しみと絶望と、憎悪が僕を支配した。
「ぼくは
――許さない。
嫉妬と孤独と衝動だった。
自殺したことによって、彼の書いた本は売れた。彼がいなくなった後も。だが、僕の作品が日の目を見ることはその後もなかった。
僕はそれでも毎晩、自分の文机に置いた彼の最期になった本を睨みながら執筆に没頭する。
その本は彼の自殺よりもだいぶ以前に出されたものだった。遺書もなく、彼が僕に残したものは激しくも忌まわしい、その感情のみ。
窓の外を雪がちらつく冬の晩、僕は文机に突っ伏したまま、動かなくなる。
多分、それが“僕”の最期なのだろう。
最初に夢を見た日のことは思い出せない。
いつ頃からだったか夢の内容を認識し、断片的なそれらの夢が繋がっていると知った。それさえいつのことだったか思い出せはしない。
フィクションの見過ぎなのだと最初は思った。――夢の話をして、誰かにそう言われたのだったかもしれない。
夢の中の僕は俺ではないし、名前も知らない夢の住人のことだ。
“僕”の感情と体験に毎夜うなされて迷惑こそすれど、それ以上の気には留めないようにしていた。
なのに、昼間の出来事は偶然にしては嫌な一致としか思えない。
時間は零時を過ぎている。
浴室を使うのがバレるとまた父親から何か言われそうだと思いながらも、汗でベタベタな体をそのままにするのは不快だった。
幸い、親にも見つかることなく入浴を終えることとなる。
冷蔵庫から水のペットボトルを手にして部屋に戻り、電気を点けて学校の資料に目を通そうと鞄を開けた。
そこに朝、家から持って行った本が入っているのに気付いて、手に取る。
記憶にも留められなかった作者の名前に目が釘付けになった。
「……『
知らない作家だった。見たことも読んだこともない。
だけど、それが『夢』に出てきた本だという確信が背筋を凍り付かせる。思わず本を投げつけた。
「俺は、僕じゃない………! “たかせ”なんて知らねぇ」
頭を抱える。
おかしくなりそうだと思い、おかしくなってるのかもしれないと疑う。
布団に潜り込む。
短い睡眠の中で、文机に向かう背中と藍色の背表紙をじっと眺めていた。