海へ出る

「たか……せ……?」
 茫然とした俺の口から、聞き覚えのない名前が衝いて出る。
 まるで俺の中から湧き上がった何かが、俺の体を使って勝手に言葉を発したかのような。
 そのことにハッと、俺は口を手で抑える。
 彼は、困ったように首を傾げた。
「ええと……すみません。……知り合い……だっけ……?」
 深く考え込むように思案しながら、ゆっくりと首を傾げる。
「いや……ごめんなさい。人違い……? です」
 俺は訳がわからず困惑したまま、彼の顔を凝視しながらゆるく首を横に振る。
「なら、いいんだけど……。同じ学科だったよね。これから会うと思うので、よろしく」
 様子のおかしい俺を気味悪がる様子もなく、彼は人懐っこい笑みを満面に乗せこちらに手を差し伸べた。
 ――僕は、困惑したままその手を凝視する。
「どうして……?」
「あ、ごめん握手嫌だった? つい。初対面の人に求めちゃうのが癖みたいなんだ。忘れて」
 首を傾げた僕に対し、嫌味のない爽やかで屈託のない態度で言う。
 俺は首を横に振って、
「いや。――こちらこそ、よろしく」
 そう言って、彼の手を取った。
 親しくなれる気がしたし、親しくなりたいと思った。
 暖かい彼の手を握り返し微笑みを作りながら、変な、嫌な気分に耐える。
 這い寄るような俺の中の気配が、黒々とした臓物から恨み言を吐き出そうとするのを堪えた。
「それ……じゃあ、また」
 冷や汗なのか、脂汗なのか、身体中から噴き出すような気分がする。熱いのか、寒いのかじわじわと押し寄せる不快感。
 逃げるように立ち去ろうとしたところを、後ろから呼び止められる。
「それ、借りるの?」
 と手に持ったままの本を指摘されて、俺は少しだけ表情が緩んだ。
 差し出す手を断って、自分で本棚へと戻す。

 そして、今度こそ、彼とはその場で別れた。
 彼から見えないように本棚の隙間を泳ぎ、図書室を足早に飛び出す。
 そのまま学内も通り抜け、大学を後にする。
 何かに追われるように、歩みはどんどん速度を速め、気付いたら走っていた。

 ガシャンッ

 玄関の扉が重く閉まる音で我に返る。
 がむしゃらに走り続けて、気付いた時には家の玄関の中で息を切らしていた。
 自分の吐き出す息の音が響いてうるさい。
 うるさいのに、胸と肩は上下し続ける。
 冷えた玄関ドアに背中を預け、ズルズルとその場にしゃがみ込んで、呟く。

「……ちがう……俺……じゃない………じゃ……たか……ちが……」

 押し寄せる感情と記憶、その情報が積もるように降っては押し寄せてくる。
 湧き上がる疑念を振り払いたいのに、その波に溺れる。窒息しそうになりながら。
  
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