海へ出る
ホールでの長く退屈な入学式を終え、学科に分かれてシラバスのガイダンスを受ける。
高校までとはまるで違う教室の雰囲気に、大学生という実感が湧きあがる。
とりあえず解散となり、辺りを見渡す。学科には知り合いがいないので、誰とも言葉を交わすことなく教室を後にした。
さて、と息をつき、襟元を緩めた時、バックポケットに入れたスマホが振動を伝えてくる。
画面には、トークアプリのポップアップで『愁?』と出ている。
首を傾げ、返信を打つより早く次の通知が届く。
今度は、もっと簡潔に一文字。
「『下』?」
顔を上げると、すぐ傍の窓に近付いて下を覗き込む。手を振る人影がすぐに見つかった。通知の主だ。
『そっち行く』
と、返信しながら階段を探して降りようとしていた時、教室から出てきた人物と肩がぶつかった。
「すみません!」
反射的に振り返って謝罪を述べる。
「こちらこそ」
彼は軽く会釈して、去って行く。
ちらりとしか見えなかった横顔。見送った背中に、俺には覚えのない既視感が駆け巡った。
竦みあがるような感覚に、呆然とその場で足を止める。
心臓がドクドクと立てる音と、背中を這うように伝う冷や汗を感じながら、追いかけることもできずにただ立ち尽くしていた――。
「おーい、愁?」
校内で迷子になったと思われていたらしい俺は、迎えに来た高校からの友人の呼びかけで我に返った。
全身が震え上がる嫌な動悸は、呼び掛けに恐々振り返った時にはもう、嘘のように治まっていた。
さっきのはなんだったのだろうと考える間もなく、友人は俺を促して校内を歩き始める。
友人は学科で作った新しい友達を待たせていて、彼らを連れて学内にあるカフェテリアに行こうと誘って来る。
カフェテリアでは、俺たちと同じ新入生やその保護者。在校生と思われる生徒達が入り混じっている。人は多く見えるが、混雑した印象はなく席が広々としていて解放感があった。
俺たちはそれぞれ自販機で飲み物を買い、テラスに出る。そこで、友人達が学科の授業や選択科目についてやりとりするのを、ちょっとした距離を感じながら見聞きしていた。
疎外感、といっても居心地が悪い訳ではない。
友人も、その新しい友人は話題を振ってくれるし、俺が話しかけづらいという訳でもない。自己紹介も済ませていた。
社交的とまではいかないが、内向的過ぎる訳でもないと自負している。だが、入学初日に初対面の人間を友人として複数名紹介される友達を持つと、いささか自信はない。
「腹が減ったな」
唐突に誰かが言って、また誰かが同意を示す。
時計では昼に差し掛かろうという頃だった。
今日はカフェテリアも学食も入れるよう解放はされているが、営業はしていない。当然のように外に行くことを提案する声が上がった。
誰からともなく同意を示す声が複数上がって、芋づる式に全員が立ち上がる。
「愁も行くだろ?」
迷って反応の遅れた俺を、友人が促すように声をかけてくれる。
だが、考えて俺は首を振った。
「ごめん、まだ学内で見たいところがあるから俺はいいや。みんなも、また」
同じように立ち上がると、軽く手を振って彼らとは別れる。
その足で、図書室のある棟へと向かう。
都市経営の図書館と比べても遜色のない、立派な造り。
足を踏み込むと、図書を扱う独特の空気にひやりとする。
管理された温度、静まり返るような静けさと冷たさ。
棚と棚の間を縫うようにして、巡る。
読みたい本があるわけでも、探しているものがあるわけでもないが、こうしてあてもなく本棚に並んだ書籍を眺めるのが好きなのだと思う。
よく見るタイトルを目に留め、手に取った。
本を手にして、表紙を眺める。
それ自体に意味はなかった。
ひとりになり、書籍を前にすると、否応なしに思い出されるものがある。
――夜毎、現と幻の狭間で俺の頭を悩ませるあの光景。押し流されそうな重たい感情。
先ほど感じた悪寒には、あの夢と同じ気配を感じた。
ただの錯覚なのだと、強く。心から脳に。脳から体に。
そうでなければ、おかしくなりそうで。
ずっと曖昧に、有耶無耶に、繰り返しうなされては頭を悩まされてきた。にも関わらず、俺はこうして、まだ本を手にしている。
「なぜ……」
ぽつりと唇から小さくこぼした時、右の肩に軽い衝撃を受ける。後ろの人がぶつかってきたのだということは、すぐに理解した。
こんなに狭い通路で、人の気配に気づかずにぼーっとしていたことを、恥じ入って振り返る。
「すみません」
と、相手がこちらに振り返るのと、それは同時だった。
「いえ……」
と顔を上げた瞬間、冷たいものが身体の芯を通るような感覚に襲われる。或いは、何かが抜け出るような。
「――よく、ぶつかりますね」
"彼"は俺を見て、そう言って少し気まずげに笑う。
俺は彼に見覚えがあった。それは先ほど俺がぶつかった相手だったからだ。
だけど、――そうじゃない。
それだけじゃ、なかった。
高校までとはまるで違う教室の雰囲気に、大学生という実感が湧きあがる。
とりあえず解散となり、辺りを見渡す。学科には知り合いがいないので、誰とも言葉を交わすことなく教室を後にした。
さて、と息をつき、襟元を緩めた時、バックポケットに入れたスマホが振動を伝えてくる。
画面には、トークアプリのポップアップで『愁?』と出ている。
首を傾げ、返信を打つより早く次の通知が届く。
今度は、もっと簡潔に一文字。
「『下』?」
顔を上げると、すぐ傍の窓に近付いて下を覗き込む。手を振る人影がすぐに見つかった。通知の主だ。
『そっち行く』
と、返信しながら階段を探して降りようとしていた時、教室から出てきた人物と肩がぶつかった。
「すみません!」
反射的に振り返って謝罪を述べる。
「こちらこそ」
彼は軽く会釈して、去って行く。
ちらりとしか見えなかった横顔。見送った背中に、俺には覚えのない既視感が駆け巡った。
竦みあがるような感覚に、呆然とその場で足を止める。
心臓がドクドクと立てる音と、背中を這うように伝う冷や汗を感じながら、追いかけることもできずにただ立ち尽くしていた――。
「おーい、愁?」
校内で迷子になったと思われていたらしい俺は、迎えに来た高校からの友人の呼びかけで我に返った。
全身が震え上がる嫌な動悸は、呼び掛けに恐々振り返った時にはもう、嘘のように治まっていた。
さっきのはなんだったのだろうと考える間もなく、友人は俺を促して校内を歩き始める。
友人は学科で作った新しい友達を待たせていて、彼らを連れて学内にあるカフェテリアに行こうと誘って来る。
カフェテリアでは、俺たちと同じ新入生やその保護者。在校生と思われる生徒達が入り混じっている。人は多く見えるが、混雑した印象はなく席が広々としていて解放感があった。
俺たちはそれぞれ自販機で飲み物を買い、テラスに出る。そこで、友人達が学科の授業や選択科目についてやりとりするのを、ちょっとした距離を感じながら見聞きしていた。
疎外感、といっても居心地が悪い訳ではない。
友人も、その新しい友人は話題を振ってくれるし、俺が話しかけづらいという訳でもない。自己紹介も済ませていた。
社交的とまではいかないが、内向的過ぎる訳でもないと自負している。だが、入学初日に初対面の人間を友人として複数名紹介される友達を持つと、いささか自信はない。
「腹が減ったな」
唐突に誰かが言って、また誰かが同意を示す。
時計では昼に差し掛かろうという頃だった。
今日はカフェテリアも学食も入れるよう解放はされているが、営業はしていない。当然のように外に行くことを提案する声が上がった。
誰からともなく同意を示す声が複数上がって、芋づる式に全員が立ち上がる。
「愁も行くだろ?」
迷って反応の遅れた俺を、友人が促すように声をかけてくれる。
だが、考えて俺は首を振った。
「ごめん、まだ学内で見たいところがあるから俺はいいや。みんなも、また」
同じように立ち上がると、軽く手を振って彼らとは別れる。
その足で、図書室のある棟へと向かう。
都市経営の図書館と比べても遜色のない、立派な造り。
足を踏み込むと、図書を扱う独特の空気にひやりとする。
管理された温度、静まり返るような静けさと冷たさ。
棚と棚の間を縫うようにして、巡る。
読みたい本があるわけでも、探しているものがあるわけでもないが、こうしてあてもなく本棚に並んだ書籍を眺めるのが好きなのだと思う。
よく見るタイトルを目に留め、手に取った。
本を手にして、表紙を眺める。
それ自体に意味はなかった。
ひとりになり、書籍を前にすると、否応なしに思い出されるものがある。
――夜毎、現と幻の狭間で俺の頭を悩ませるあの光景。押し流されそうな重たい感情。
先ほど感じた悪寒には、あの夢と同じ気配を感じた。
ただの錯覚なのだと、強く。心から脳に。脳から体に。
そうでなければ、おかしくなりそうで。
ずっと曖昧に、有耶無耶に、繰り返しうなされては頭を悩まされてきた。にも関わらず、俺はこうして、まだ本を手にしている。
「なぜ……」
ぽつりと唇から小さくこぼした時、右の肩に軽い衝撃を受ける。後ろの人がぶつかってきたのだということは、すぐに理解した。
こんなに狭い通路で、人の気配に気づかずにぼーっとしていたことを、恥じ入って振り返る。
「すみません」
と、相手がこちらに振り返るのと、それは同時だった。
「いえ……」
と顔を上げた瞬間、冷たいものが身体の芯を通るような感覚に襲われる。或いは、何かが抜け出るような。
「――よく、ぶつかりますね」
"彼"は俺を見て、そう言って少し気まずげに笑う。
俺は彼に見覚えがあった。それは先ほど俺がぶつかった相手だったからだ。
だけど、――そうじゃない。
それだけじゃ、なかった。