海へ出る

 朝ご飯を頂き、旦那さんの車で竹田駅の手前まで送ってもらうことになった。
「もっと便利なところまで乗せていくのに」
 と残念そうに提言してくれた親切に感謝し、一宿の恩と共に礼に変える。
 車を降り、二人で新高瀬川と呼ばれるらしいほとんど用水路のような小さな川の隣を歩く。綺麗に舗装された道路と住宅地の間を流れている。
 鴎外の『高瀬舟』はおろか、昨日伏見港で見た資料から受けた面影は皆無に等しかった。
 修学旅行で見た上流の方が、まだイメージとしてわかりやすい。
 だけども、
 ――かつてはここから…………
 と、昨日、今日と見て来たばかりの宇治川の景色を思い浮かべる。
 この川の水は宇治川へ流れ、やがて淀川と合流し、大阪湾へと続いていく。
「本当は、大阪の方にまで足を延ばして、淀川の河口なんかも見たかったんだけど……」
 と、高瀬は濁した。
 行けない距離でも、急ぐほど余裕がないわけでもなさそうだが、高瀬はそれを予定には入れなかったらしい。
 時間に追われるのは好きではないので、そのことに対して不満はない。
 
 しばらく歩くと、高瀬が「寄ってもいいか」と問いかけてくる。
 首を傾げると指し示されたところに、開いているのか閉まっているのかわからない小さな古本屋があった。
「古書店にはいくつか寄りたいと思っていたんだ」
 と喜々として向かうのに俺はついて行く。
 異論はなかったし、興味もあった。ついでに、何か資料になりそうな本やおもしろいものを探せれば、などと思う。
 
 店はどうやら開いているようだった。建付けのあまりよくないガラス戸を開いて、中に入る。
 人が一人歩くだけで精一杯の通路とも言えない通路の脇に、びっしりと本が敷き詰められていた。
「すごいな……」
 昔ながらの古書店には殆ど馴染みがない。
 テレビなどでしか見たことのない光景に胸が躍った。
 乱雑で、無規律にも見える書籍や紙の集合体は、同じものを扱う見慣れた光景とは全く違って見える。整然と並んだ図書館や図書室とは一線を画すもののように思われた。
 しばらく高瀬とは通路を別れたりしながら、思い思いに本を物色する。
 うろうろと眺め、めぼしいものはないかと諦めて、棚の向こうの高瀬を見つけて前から近付く。
 茫然と立ち尽くすようにしたその手には、一冊の本があった。
 俺はその本に視線を落とす。
 作者名には、『竹田舟』と書かれていた。
 緑色の装丁。表紙の真ん中には川が描かれている。
「たけだ ふね……? いや、」
 ふね、と口に出した瞬間、いつかの高瀬の言葉が脳裏に浮かぶ。
しゅう……?」
「そう。読みは君と同じ」
 店内の静謐に溶けるような、囁きだった。
「高瀬は、この作家を……知ってるのか?」
「ずっと――探してた。もしかしたら京都でなら、見つかるんじゃないかって思ってた」
 高瀬の声は、静かだが喜びに打ち震えるような響きを持っていた。
 ずっと鳴りを潜めていたはずの、あの動悸が始まる。
「どう、して……?」
 僕は震える声で彼に問いかける。
「好きだと思ったから」
 穏やかな表情で、古びたその一冊にじっと視線を落としている。
 彼から伝わる感情が理解できない。
 僕は、どうしたらいいのか、湧き上がるものがどういった類のものであるのか、理解できずに半歩後ずさる。
「……君……が……?」
「この本はこの作家の死後に出された、たった一冊の本なんだ。彼の作品は残念なことに世に広まらなかった。それでも書き続けていたんだ。――――それでも有名にはなれなかったみたいで、見つからないんじゃないかとも思っていたけど…………ずっと、探していた。よかった」
 本で埋め尽くされ、光があまり入らず暗い小さな店の片隅。古いガラス戸を埋め尽くすほど詰みあがっている。その隙間から差し込む一筋の日の光が、彼の背に落ちていた。
 薄暗く、俯く彼の瞳の縁に小さな光がわずかに揺れる。
 だがそれは、数度の瞬きで消えてしまった。
「そう…………」
 かわりに、僕が零した。
 高瀬は静かに言葉を紡いだ後から変わらずじっと、本の表紙に視線を落としている。
 俺はその姿に釘付けにされていた。
 そうか。と、言おうとして、自分から何かが流れるのに気付いた。
 それは古びた灰色のコンクリートの床に落ちた。床を濃い色に小さく染める。商品からは離れていたのは幸いだった。
 けれど、意図せず流れ続けるそれは、拭っても拭っても、止まってくれない。
「……どうしたんだ? 竹田」
 腕で必死に顔を拭う姿に、高瀬はそこでようやく気付いた様子で、俺を覗き込んだ。
「わかんねぇ……」
「外、出た方がいい。先に行ってて」
 出口の方へと俺の背を押して、高瀬は反対方向へと向かう。
 分かった。と頷きながら、狭い棚の間をすれ違う瞬間になぜか、高瀬の腕を掴んでしまった。
 無意識の自分の挙動に俺は驚き、高瀬も目を見開いてぽかんとした。
 俺は慌てて手を離す。
「ごめ……」
「すぐ行くから、外で待ってて」
 言いかけた俺の言葉を遮って、高瀬はあまりにもいつも通りに、穏やかに微笑んでみせた。
 温かな手に背を押されて、俺は店を出る。

 外の風に当たりながら、尚も止まらない両目から溢れる涙を、手で拭っては払う。
 しばらく待って、身体流す液体が治まろうかと思った頃、背後のガラス戸が再び開く。
「お待たせ。大丈夫か?」
「ああ……大丈夫。……悪い……なんか」
「気にするな、ゴミでも入ったんじゃないか? 結構、埃っぽかったから」
 バツの悪そうに顔背けた俺の羞恥など、全く意に介した様子も見せずに、高瀬は笑う。
 突然、自分が店の中で友人の前で泣き出した。という事実は気恥ずかしさしかもたらさない。けれど、目の当たりにした友人本人に全く気にした様子が見られなかったので、これ以上気にすることの方が恥ずかしいようにも思えた。
「――買ったのか。本」
「うん。そうみたいなんだ」
 彼はそう言って、袋にも入れられていないままの本を手にして、不思議そうに小首を傾げる。
「どうして俺、この本を手に入れたかったんだろう……」
「なんだそれ」
 あまりにも不可解そうに言うので、今度は俺が笑う番だった。
「さっきは――――」
 店内で本を手にして高瀬が聞かせてくれた言葉を、そのまま教えてやろうと続けかけて、全く思い出せないことに気付く。
 思わず、隣に立つ高瀬の顔を見上げる。
 あの瞬間、確かに目にしたはずの彼の顔さえ思い出せない。なぜそんな風に思うのか。それさえもわからなかった。
「なんだっけ……俺も覚えてない」
 顔を見合わせ、首を傾げながら、やがて二人で笑い出す。
 なんだか変な心地がするのに、身も心もすっかり軽くなった気がする。そんな些細なことはどうでもいいようにも思えた。
「腹が減らないか? 昼飯でも食おう」
 何だか軽くなった身体がエネルギーを求めている。
 高瀬を促すように言って、そういえば、と俺はにやりと笑って見せる。 
「なんで京都に来たんだったかってのまでは、忘れてないよな?」
「馬鹿にしないでくれよ」
 言いながらも自信のなさそうに視線を泳がせる高瀬に並んで、俺はしたり顔で一緒に歩き出した。
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