海へ出る

 散歩中もその後も、確かに自分の意識が身体を動かしているのに、心だけが浮いたようにどこか遠い。
 不思議な感覚の中にいた。
 高瀬の様子も可笑しい気がする。
 だが、互いに疲れているのだろうと思い、判断していた。
 風呂を借り、布団に入った後もぼんやりと眠れず、外から聞こえる音を聞いていた。

 外を宇治川が流れている。夜が深まり、静けさを増したことによって、閉まった窓からもその音が聞こえてくる。
 ざざぶりの雨音にも似た、水の音。
 夢の中で何度も聞いた、あの。
 ――そうか、あれは川の音だったのか。


 貴瀬、お前じゃないのか。

「ここから、この目まぐるしく変わる波に乗り、どこまでも広い海に出よう」

 そう言ったのは。
 どうして、僕をただの動かない舟の上に置いて逝く。
 一人で舟を降りて、沈んでいくんだ。
 僕はどうして―――それでも書くことをやめられないんだ………

 漕ぎ出した舟は海になんて出られなかった。ここから海に出るなんて、途方もない。ただの夢だった。
 どこにでも行けるなんて幻想だ。どこかに行けるのは夢想の中でだけだ。
 成功者以外には。


 ただ苦しい。
 瞼の裏に焼き付いた君の最期も、破られて残骸だけの約束も。遺った本も、綴る文字も、真っ白な原稿用紙も。独りの部屋も、外を流れる川の音も。
 どうして、どうして、と。
 疑問符だけが連なり、やわらかな真綿となって僕の首に巻き付く。息がつまる。
 なのにそれは、とても緩慢なうごきで首元を這うばかりで、根を断つほどには締まってくれない。
 どころか、糸は長くなるばかりだった。
 そうしてただ、いつまでもいつまでも。
 同じ場所には行けなかった。

 何度、縄を首に巻き付けてみても、ひたすらに文章を綴ってみても。
 書いていなければ壊れそうで、書いているから壊れていたのかもしれない。
 泣きたいような、怒りたいような、激しい衝動と歪みが顔の皮膚を、身の内を。焼き、裂かれて、引き攣った痛みに変る。それでもまだ、痛みと感覚が表面に宿る限り、僕は君に追いつかない。
 昇る光に、いつか見たいと話したオーシャンブルーに、藍色の本に、君に。
 伸ばす手は、いつまでも。



「おはよう」
 掌の向こうに突然現れた顔に驚いて、瞬きを繰り返す。
 閉じて開いた瞼の端から、小さく涙が零れた。
 見慣れない部屋は明るく、顔を覗き込んだ高瀬はいつもの爽やかな笑みを浮かべている。
 俺は混乱気味に息を吸って吐き、ここが家じゃないことを思い出す。
「驚いた」
 思わず呟き、もう一度大きく息を吐き出す。
「そんなに驚くとは思わなかったから、ごめん」
 驚いたのは、夢の情報量に、だったがいつも通りの高瀬の明るさには何だか救われる思いがした。
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