海へ出る
肩幅よりは少し大きなだけの文机。脇に置かれた燭台に灯された淡い光が、部屋の明かりの全てだった。
狭い畳の部屋には電灯も在ったが、それが機能しているのを俺は知らない。
暗い部屋。窓の向こうの頼りない外灯と、蝋燭。その光だけが、夜の明かりの全てだった。
その中で、僕 はひたすら広げた紙にペンを走らせている。
時に、流れるように。一心不乱に、蚯蚓 のようにも見える文字で原稿用紙を埋めたかと思えば、用紙一面を絡まった蛇のような線でぐちゃぐちゃにしては、掌の中で握りつぶす。
そんな時は、決まってボサボサの髪を毟るように掻きあげ、怒気を孕んだ真っ赤な瞳で用紙を見つめては、狭い卓の隅に立てられた本に手を伸ばす。
伸ばした指は――空を掻いた。
雀の囀りが、覚醒前の脳を揺り動かす。それはどこか、小さな嘴でついばまれているような、扉をノックされているような、錯覚に瞼を開ける。
瞬間、焦燥感に駆られ「しまった」と口を開く。両眼を見開いたまま勢いよく身体を起こしかけて、力を抜く。
視界に淡い紺色のカーテンが目に入ったからだ。
隙間から漏れた明るい光が、焦りを増長させたのだと、すぐに理解した。
部屋に満ちた、朝の空気。普通の日常。
それらに対して、なぜ焦るのかを、俺は既に知りすぎていた。
胸を膨らませて息を吐き出し、嫌にじっとりと汗ばんだ寝間着の心地に気付いてうんざりと体を起こす。
最初の時とは違って、緩慢な動きだった。
自室を出ると、リビングから人の気配がする。
足を踏み込むと案の定、母親が朝の支度に励んでいる最中で、声をかけてくる。
「おはよう、愁 。相変わらず、早いのね」
「ああ、うん……おはよ」
気のない生返事で、母親の前を素通りしようとする。
「朝ご飯は?」
その背中を母親の問いが追ってくる。
「の、前にシャワー」
一旦、リビングから出て廊下を渡り、浴室へ向かいながら大きくあくびを漏らした。
蛇口を捻って出てきた液体が熱を持つよりも早く、頭からかぶる。
肌に触れるには冷たすぎだったけれど、おかげで寝起きの不快感は払拭されそうに思えた。
少しぬるめの湯で汗を洗い流して、さっぱりしてリビングに戻ると、食卓では父が新聞を広げていた。
「一丁前に朝シャンか」
吐き捨てるような調子で、投げかけられた言葉に内心呆れる。
昔気質といえば、飛び出した死語への体裁も整うのだろうか。突っ込むこともできない。硬く、生真面目で融通の利かない父の言葉を、黙ってやり過ごして食卓に着く。
父の好みに合わせた白米と味噌汁、焼き魚と卵焼き。ちなみに今日は塩鮭だ。
毎朝食べている味に辟易はしないが、パンならもっと楽なのに、と食卓に座ることもできない母親に視線を送る。
手を合わせ、箸を手に持ち、味噌汁を啜る。のぼる湯気と手にした碗から伝わってくるそれを、身体の中への流し込む。
冷たいシャワーで冷やした身に、その熱は染み入るようだった。
そうして、ようやく母が席につけるかという頃、父が食を終えて立ち上がる。
玄関まで見送りに行こうとする母には見向きもせず、父は「行ってくる」と低く言い残してリビングを出ていく。
慌てた様子で、母がその背中を廊下を追って行き、玄関ドアの閉まる重い音から間を置いて戻って来る。
殆ど毎朝起きる日常の出来事で、俺は母に対して律儀だと思いながら箸の先に掬った白米を口に運ぶ。
伸びをしながら大きな溜め息を声に出して、母は自分で用意した食卓に座る。父や俺のより小ぶりの茶碗に、半分も盛られていない。おかずの量も半分。
母が手を合わせた時、俺は残して置いた卵焼きを口に放り込み、咀嚼して飲み込むと、両手を合わせた。
「ごちそうさま」
「お粗末様です」
言いながら、母はにっこりと笑みを作って俺を見る。
「なに?」
気恥ずかしいような、むずがゆさを覚えながら身を引く。
席を立ち、父の分の食器と自分のを重ねて運ぶ。
「なんでもないよ」
と返す表情も穏やかで、落ち着かない。
顔をそらし、背を向けて流しに向かい。
電気ポットのスイッチを入れて、湯を沸かす間に部屋に戻る。
身支度を済ませて、リビングに戻りだして置いた二つのカップにインスタントコーヒーの粉末を入れて湯を注ぐ。
ひとつを食べ終える寸前の母の前に置いて、自分のは立ったまま軽く口をつける。
リビングの隅の棚から何気なく取って来た単行本を軽く開きながら、再び椅子に腰を下ろす。
「ずいぶんゆっくりでいいのね」
母親が軽く両手を合わせた後、呟くように言う。
独り言のつもりはないようなので、返事をする。
「近いからね。まだ時間がある」
「そう。――それ、お父さんの本?」
珈琲に手を付けながら問いかけてくる。
「お母さんのじゃないならね」
「私は本は読まないわよ」
目次をぼんやりと眺めながら、会話をしたそうな母の相手をする。
そうだね、と生返事を返して次に相手が口を開くのを待ったが、一向にその気配が感じられない。
顔を上げると、視線だけがじっとこちらを向いている。
「見られていると読みづらいんだけど」
「あなたもお父さんと一緒で本が好きね」
「好きって程じゃない。別に、普通」
父親と一緒、だとか、似て、だとかそういう風に括られるのはあまりいい気分じゃない。
飲み込んだ俺の言葉を理解しているという様子の、困ったような微笑みもなんだか居心地が悪い。
「親父のことは知らねぇけど、親父が本を買い与えてくれたことは感謝してるよ。暇つぶしにはいい娯楽だから」
早口にまくしたて、立ち上がると本を閉じる。
母親の食器と、空になったカップを引っ掴むように取り上げる。
「ほら、そろそろ時間だろ。行ってらっしゃい」
流しの湯を張った洗い桶に食器を突っ込んで、母親をリビングから追い出す。
親父とはソリが合わない。だから、仲も良くない。
俺はそれを別に構わないと思っているが、母親は父と俺の関係性に何かしら思うことがあるようで、時折こんな風に伺う様子を見せる。
パートに出かける母の「行ってくるね」という声に応じながら、洗い物を済ませる。
父のことも母のことも嫌いじゃない。父に関しては、好きという感情には辿り着けそうにはもうないが、それでも嫌いにはならないだろう。
机に置きっぱなしにしていた、見覚えのないタイトルと作者名。
棚の中に複数ある本の中からこれを手に取ったのは、ただ背表紙が似ていたからに過ぎない。
俺の知らない、あの背表紙に。
狭い畳の部屋には電灯も在ったが、それが機能しているのを俺は知らない。
暗い部屋。窓の向こうの頼りない外灯と、蝋燭。その光だけが、夜の明かりの全てだった。
その中で、
時に、流れるように。一心不乱に、
そんな時は、決まってボサボサの髪を毟るように掻きあげ、怒気を孕んだ真っ赤な瞳で用紙を見つめては、狭い卓の隅に立てられた本に手を伸ばす。
伸ばした指は――空を掻いた。
雀の囀りが、覚醒前の脳を揺り動かす。それはどこか、小さな嘴でついばまれているような、扉をノックされているような、錯覚に瞼を開ける。
瞬間、焦燥感に駆られ「しまった」と口を開く。両眼を見開いたまま勢いよく身体を起こしかけて、力を抜く。
視界に淡い紺色のカーテンが目に入ったからだ。
隙間から漏れた明るい光が、焦りを増長させたのだと、すぐに理解した。
部屋に満ちた、朝の空気。普通の日常。
それらに対して、なぜ焦るのかを、俺は既に知りすぎていた。
胸を膨らませて息を吐き出し、嫌にじっとりと汗ばんだ寝間着の心地に気付いてうんざりと体を起こす。
最初の時とは違って、緩慢な動きだった。
自室を出ると、リビングから人の気配がする。
足を踏み込むと案の定、母親が朝の支度に励んでいる最中で、声をかけてくる。
「おはよう、
「ああ、うん……おはよ」
気のない生返事で、母親の前を素通りしようとする。
「朝ご飯は?」
その背中を母親の問いが追ってくる。
「の、前にシャワー」
一旦、リビングから出て廊下を渡り、浴室へ向かいながら大きくあくびを漏らした。
蛇口を捻って出てきた液体が熱を持つよりも早く、頭からかぶる。
肌に触れるには冷たすぎだったけれど、おかげで寝起きの不快感は払拭されそうに思えた。
少しぬるめの湯で汗を洗い流して、さっぱりしてリビングに戻ると、食卓では父が新聞を広げていた。
「一丁前に朝シャンか」
吐き捨てるような調子で、投げかけられた言葉に内心呆れる。
昔気質といえば、飛び出した死語への体裁も整うのだろうか。突っ込むこともできない。硬く、生真面目で融通の利かない父の言葉を、黙ってやり過ごして食卓に着く。
父の好みに合わせた白米と味噌汁、焼き魚と卵焼き。ちなみに今日は塩鮭だ。
毎朝食べている味に辟易はしないが、パンならもっと楽なのに、と食卓に座ることもできない母親に視線を送る。
手を合わせ、箸を手に持ち、味噌汁を啜る。のぼる湯気と手にした碗から伝わってくるそれを、身体の中への流し込む。
冷たいシャワーで冷やした身に、その熱は染み入るようだった。
そうして、ようやく母が席につけるかという頃、父が食を終えて立ち上がる。
玄関まで見送りに行こうとする母には見向きもせず、父は「行ってくる」と低く言い残してリビングを出ていく。
慌てた様子で、母がその背中を廊下を追って行き、玄関ドアの閉まる重い音から間を置いて戻って来る。
殆ど毎朝起きる日常の出来事で、俺は母に対して律儀だと思いながら箸の先に掬った白米を口に運ぶ。
伸びをしながら大きな溜め息を声に出して、母は自分で用意した食卓に座る。父や俺のより小ぶりの茶碗に、半分も盛られていない。おかずの量も半分。
母が手を合わせた時、俺は残して置いた卵焼きを口に放り込み、咀嚼して飲み込むと、両手を合わせた。
「ごちそうさま」
「お粗末様です」
言いながら、母はにっこりと笑みを作って俺を見る。
「なに?」
気恥ずかしいような、むずがゆさを覚えながら身を引く。
席を立ち、父の分の食器と自分のを重ねて運ぶ。
「なんでもないよ」
と返す表情も穏やかで、落ち着かない。
顔をそらし、背を向けて流しに向かい。
電気ポットのスイッチを入れて、湯を沸かす間に部屋に戻る。
身支度を済ませて、リビングに戻りだして置いた二つのカップにインスタントコーヒーの粉末を入れて湯を注ぐ。
ひとつを食べ終える寸前の母の前に置いて、自分のは立ったまま軽く口をつける。
リビングの隅の棚から何気なく取って来た単行本を軽く開きながら、再び椅子に腰を下ろす。
「ずいぶんゆっくりでいいのね」
母親が軽く両手を合わせた後、呟くように言う。
独り言のつもりはないようなので、返事をする。
「近いからね。まだ時間がある」
「そう。――それ、お父さんの本?」
珈琲に手を付けながら問いかけてくる。
「お母さんのじゃないならね」
「私は本は読まないわよ」
目次をぼんやりと眺めながら、会話をしたそうな母の相手をする。
そうだね、と生返事を返して次に相手が口を開くのを待ったが、一向にその気配が感じられない。
顔を上げると、視線だけがじっとこちらを向いている。
「見られていると読みづらいんだけど」
「あなたもお父さんと一緒で本が好きね」
「好きって程じゃない。別に、普通」
父親と一緒、だとか、似て、だとかそういう風に括られるのはあまりいい気分じゃない。
飲み込んだ俺の言葉を理解しているという様子の、困ったような微笑みもなんだか居心地が悪い。
「親父のことは知らねぇけど、親父が本を買い与えてくれたことは感謝してるよ。暇つぶしにはいい娯楽だから」
早口にまくしたて、立ち上がると本を閉じる。
母親の食器と、空になったカップを引っ掴むように取り上げる。
「ほら、そろそろ時間だろ。行ってらっしゃい」
流しの湯を張った洗い桶に食器を突っ込んで、母親をリビングから追い出す。
親父とはソリが合わない。だから、仲も良くない。
俺はそれを別に構わないと思っているが、母親は父と俺の関係性に何かしら思うことがあるようで、時折こんな風に伺う様子を見せる。
パートに出かける母の「行ってくるね」という声に応じながら、洗い物を済ませる。
父のことも母のことも嫌いじゃない。父に関しては、好きという感情には辿り着けそうにはもうないが、それでも嫌いにはならないだろう。
机に置きっぱなしにしていた、見覚えのないタイトルと作者名。
棚の中に複数ある本の中からこれを手に取ったのは、ただ背表紙が似ていたからに過ぎない。
俺の知らない、あの背表紙に。
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