私が恋をしたあなたは××でした



 幼い頃、初めて見たその人は、見知らぬ人を隣に連れていた。
 それから何年か経った後、その人の隣に居たのは祖母だった。
 私はそれが、羨ましかった。とても。
 祖母はそのままいなくなり、家には私と母がのこされた。
 私の心にはその光景と羨望だけが焼き付いて、今も離れない。


「貴方も早くいい人を見つけて貰ってもらわなくちゃね」

 その言葉は、父を早くに亡くした母の口癖のようなものだった。
 そうじゃないと、父のところに逝けないと言わんばかりに。
 けれど、私がその言うことを聞くことはなかった。
 そんな母も、やがて———

 母がいなくなった後も、幾度となく母と同じようなことを言う人がいた。
 友人も、知り合いも、次々と“女性としての“人生のレールに乗って行く。私を置いて、どこまでも。
 私はそれでもずっと、遠い昔に見たあの人の影を追っていた。

「ねえ、どうして結婚しないの」
 生まれたばかりの赤ん坊を腕に抱いた親友は、私の向かい側で困ったように小首を傾げる。
 私は、眉を顰めた。
 隣で大きな口を開けた幼子が、母と私を見比べている。
 その口から食べかすが零れた。
「ねぇ――」
 親友が三年前に産んだ女の子は、すっかり人の形をしている。
 こぼれた物をおしぼりで拭いてやりながら、笑みを見せて頭を撫でた。
 コロコロと動く丸い瞳と表情が愛らしい。と素直に思う。
 同時に、恐ろしさに似た寒気を覚えながら。
「幸せ?」
 私は親友に問う。
 その少しやつれた、青い顔に。
 夏バテなの、と笑った彼女の前にはサラダとドリンクバーの野菜ジュースしか置かれていない。
 その笑みは、かつて純白のヴェールに覆われて見たそれとは、重ならなかった。
「…………うん」
 力なく頷く彼女の返答に、私は肩を落とす。
 そう。と、私の漏らした短い相槌は、溜息と共に落ちて行った。 
 もしかすると、最後に彼女と会ったのはその時だったのかもしれない。
 親友ともいつしか疎遠になった。
 会社と住み慣れた家とを往復するだけの毎日。
「引っ越さないの? 不便じゃない?」
 と問われることが増えた。
 一人で暮らすには確かに大きく、古い家だ。
 郊外に立つ庭付きの一軒家といえば、外聞がいいだけの。
 それでも、私はこの家を手放す気がない。

 しばらくして、会社を辞めた。
 いつしか足腰が弱り、手伝いの人を頼るようになった。 
 そうして起き上がることもほとんどなくなり、ただ天窓を見上げて空を見ていることが増えた。

 今日は風が強い。
 薄い色の空。灰とも青ともつかない。ただ、白じゃないとわかるのは、そこに薄っすらと白い靄のような雲が在るから。
 雲足は速く、白いのと薄い灰色が青白い空を通過するように流れていく。ほんのわずかに濃いグレイが大きな塊を少しずつ崩しながら、煽られるようにして流れてくる。
 その末尾に、はぐれたような千切れ雲が小さく後を追っていた。
 それが何故か、自分のように思えて私はその雲をずっと見つめていた。
 追っていた雲は窓枠の外へと消え、更にぼうっとしているうちに部屋が暗くなった。
 日が落ちたのか、目を閉じているのか、それとも―――

「今頃来たの?」
 真っ暗な視界の中、私のすぐ傍に感じる気配に向かって問いかける。
 返事はない。
 穏やかで、冷たい。沈黙だけが存在した。
「遅すぎるわ。私はずっとあなたを待ってたのに」
 闇に向かって、ずっと溜め込んでいた恨み言を漏らす。
 たくさん言いたいことがあった気がするのに、それを前にすると、もはやどうでも良かった。
 暗闇に向かって手を伸ばす。
 自分の腕なのに、鉛のように重たい気がした。
 ふう、と息を漏らすと全身の力が抜けていくよう。
 音もなくシーツの上に落ちる腕を眺めて、目を閉じる。

「——でも、やっと来てくれたのね」


 私が生涯を賭けて恋をしたその人は、きっと死神でした。

1/1ページ
    スキ