凍えた心臓

 聞き慣れたはずの鐘の音が響いて、目を開ける。
 顔を上げると黒板の前に先生がいて、手にしたチョークを置く。
「それじゃあここまで」
 そう言うと、日直が号令をかける。私達は日直の声で席を立ち、頭を下げ、出ていく先生を見送る。
 黒板には数学の方程式が書かれている。
 見慣れた教室の景色、見覚えのあるクラスメイト達。
 そのどれもが、なぜか不思議と懐かしかった。
 首を傾げて、教室の中を見渡す。
 無意識に、誰かを探そうとした。 
 その誰かは、あっさりと見つかる。
 私の座る席の隣の列。前から二番目。
 黒縁の眼鏡をかけた、真面目そうな幼馴染。
 真っ白なノートを閉じることもせず、私は立ち上がって彼の元へと向かう。
「どうした?」
 彼の隣に立つと、彼はただそう言った。
「ノート貸してくんない?」
「また寝てたんだろ」
 私の問いに対して、返事がわりに言ってノートを差し出してくれる。
「ありがと」
「ん。明日の昼までに返せよ」
「なんで?」
 私が尋ねると、彼は思いっきり顔をしかめた。
 彼のひとさし指がすっと伸び、私の顔を指す。
 首を傾げた私を冷めた目で見やりながら、その指を黒板の隣へと動かした。
 そこには一週間の時間割が貼られている。
「今日って、何曜日?」
「…………火曜だ」
 なるほど。火曜の三限、数学。――今終わったのはこれだ。
 そして隣の欄、水曜の五限はまた数学だった。
「わかった。明日返すね」
「頼む」
「ウイーッス」
 気のない返事で片手を上げ、軽く振って自分の席へと戻る。
 面倒だなと髪をかき上げながら、借りたばかりのノートを捲る。
 几帳面に、綺麗な字で細かくまとめられている。
 これだけ綺麗なノートが書けるなら、勉強も楽しいのかもしれない。
 なんてことを勝手に思いながら、ペンを取り、白紙のノートに移していく。
 彼の書いたノートを真似るように、なぞるように。
 その文字が、視界が、次第に歪んで……――――


 反転。

 次に目を開くと、だだっ広い野原に横たわっていた。
 そこが野原だとわかるのは、むき出しの素肌に感じる湿った草の感触のせいだ。
 ――私はそれを、知っている。
 真っ暗な視界。重たい身体。
 その重さと、身体中の痛みが、現実を訴えている。
 目の前には、見たこともなかったような、満天の星。
 夢の中の私は、こんな空を知らない。
 かつての記憶を頼りに、うろ覚えの星座を探してみようとして、失敗。
 線と線が、繋がらない。
 すぐ傍で、草を踏むような音がする。
 同時に、重い音を立てて新たに転がる人だったものの残骸。
 飛んで来た飛沫は、私の頬を汚す。
「終わった。――帰るぞ」
 声が降って来て、目を向ける。
 血に濡れた剣を振って、鞘に納めた。そして、冷たい視線が降ってくる。
 その視線に、私は心臓を掴むように胸に手を当てる。
 夢の中の彼は、心までをも凍らせて、ここにいる。
 だから、私も。

 懐かしさに溶けてはならない。
 彼に、貴方に、付き従うと決めた時から。
 忠誠は、力で示すために、もっと強く。 
 彼に後始末など、二度とさせないために。

 だからもう、夢の続きは見ない。
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