飛行機に気をつけろ


「朝ご飯できてるわよ~」

 カーテンの隙間から覗く光を感じた瞼が、開くのを拒む。
 お母さんの声が幾度となく名前を呼ぶので、頭からかぶった布団を仕方なく引っぺがして起き上がる。
 目は殆ど閉じたまま、昨夜用意しておいた制服に袖を通し、鞄を持ってリビングに向かう。
「おはよう」
 あくび交じりに声をかけた背中からは同じ挨拶が帰ってくる。
 制服の上着と鞄を隣の椅子に置いて、洗面所に向かう。
 顔を洗い、コンタクトを入れてからリビングへと戻り、いつもの席に腰を下ろした。
 目の前の食卓には湯気の上る珈琲。お母さんが趣味で買ったこじゃれたデザートグラスが置かれている。
 中身は白い。ヨーグルトだと思われた。
「シンプルな朝食だね」
 呆れたように呟く。
 トースト一枚が乗ったお皿を私の前に置きながら、お母さんは聞き咎めたように言った。
「あなた、朝はあんまり食べないじゃない」
「……そうだけど」
「朝は果物がいいんですって。だから桃入りよ」
 どこか弾んだ口調で言って、お母さんはニュースのついたテレビの前へと戻っていく。
 お母さんは桃が好きだ。
 シンプルな朝食を食べ終えた私は、鞄を持って、マスクを装着する。
「飛行機には気をつけなさいね」
 いつも通りの朝の口上句。
「行ってきます」
 返事代わりの挨拶には、お決まりの、
「いってらっしゃい」


 家を出て空を見上げる。
 太陽は出ているのに、淀んだ空気で曇り空のようだ。
 いつもと変わらぬ日になりそうだと頷いて、学校へと向かって歩き出した。
 学校までの道の途中、大きな交差点に差し掛かる。
 人通りも多く、長い横断歩道と大きな車道があり、信号待ちも長いのだ。
 近くまで来ると、鳥の鳴き声を模したような大きな音が聞こえる。
 通りが見えて来たと思われた時だった。
 その音で、信号が青から赤へ点滅するのがわかる。だが、走って間に合う距離でもないこともまた、わかった。
 無駄に走って疲れるのは御免だ。そんな元気もない。
 ただ、嫌な予感だけがした。
 信号に引っ掛かるというのは、それだけで運が悪い。
 ぼんやりと信号を待ちながら、足元に下りた自分の影を眺めていた。
 違和感を感じたのはその時だった。
 思わず空を見上げる。
 目に入ってしまった存在に、肩を落として呟く。
「最悪の日だ」
 薄い雲の向こう。町の上空を巡回する飛行機の影だった。


 慌てて目を逸らし、歩道の信号が変わるよりも数秒早く、猛ダッシュで走りだしたい気持ちを抑えて速足で横断歩道を抜け、学校へと一目散。
 額に汗を滲ませて、校舎に飛び込んだ。 
 下駄箱に手をついて、上がる息をゆっくりと整える。
 心臓がバクバクと音を立てていた。
 胸元を手で押さえながら、何度も何度も深呼吸を繰り返す。
「おはよー」
「どうした?」
 背後から複数人の覚えのある声が聞こえて、慌てて顔を上げる。
「あはは、おはよー!」
 笑顔で誤魔化しながら挨拶を返そうと、振り向いた。
「実はちょっと忘れ物に気付いちゃっ……て……」
 声をかけてきたクラスメイト達の顔を目にして、私は声を詰まらせる。
 思わず片足が半歩下がって、思いっきり下駄箱に背中をぶつける。大きな音がした。
 振り返った同級生たちの顔が赤や黄色の見てはっきりとわかるほど、異様な色に染まっていたからだ。
「? どうしたの?」
 よく見れば見知った友人だとわかる顔立ちの、朝のヒーロー番組のマスクのように赤い顔に覗きこまれて、頭ものけ反ってしまう。
 下駄箱にまたぶつかったが、痛みどころではなかった。
「あ………あ………」
 声にならない声が漏れる。悲鳴を上げなかっただけでも、褒められていい。
 この異常事態を、理解している。原因は一つしかないのだから。
 けれど、声をあげるわけにはいかないのだ。
 私が『見てしまった』ということがバレてはまずい。
 だけど、これはウイルスのせいだ。
 あのどこの国ともわからない謎の飛行機が、我が国を滑空し始めてから起こった異常現象の一つだ。
 ――バイオテロ。
 あの謎の飛行機は、ウイルスを散布するためだけに我が国の空を飛び続けている。
 だが、その存在を視認してはいけないのだと言われている。
 見たことを周囲に知られるのもいけないのだ。
 私は困惑する脳で迫り来る友人たちに、「あなたたちがウイルスに感染している」と伝えるべきかどうか必死に考える。
 どうやら、自覚症状はないようだった。
「………ごめん、なんか気分悪くなってきたから帰る……ね? 先生に伝えておいてもらえるかな」
 私は悩んだ末、後ずさりしながら、友人たちに向かって告げる。
 友人たちはしきりに顔を見合わせ、首を傾げた。だが戸惑いながらも、頷いて、
「わ、わかった」
「お大事に、……ね?」
 と、軽く手を振ってくれた。
 私は飛び込んだばかりの校舎から、逃げるように飛び出す。
 ――どうしてこんなことに!
 あんな顔色になりながらも変わらず優しい友人たちの姿に涙が零れた。
 袖で涙を拭いながら、一つの決心を固める。
 あの飛行機を探すしかない。
 昨夜テレビから流れていた映画の台詞が脳裏に浮かぶ。
『君にしか解けない魔法だ』
 主人公にかけられた言葉だった。
 こんな国を揺るがす大事件が、私にしか解けないなんてことは有りはしないけれど。
 今できることは、飛行機を探すことだけだった。

「おかえりー」
 学校を飛び出してから1時間後。
 登校するために家を出てから1時間半と少しぐらいだろうか。
 私はお母さんからの電話で帰宅を命じられて玄関に居た。
 どうやら、友人から話を聞いた担任が、家に連絡を入れたらしい。
 私を迎えた母の顔を、私は見れなかった。
 学校を飛び出し、交差点へと戻った私は周辺を探し回ったが、成果は得られなかったのだ。
「お母さん……」
 小さく呟いた私に、お母さんは言った。
「お風呂に入って、コンタクトを外していらっしゃい」
 勝手に学校を休んだことやいなくなったことを咎められ、怒られるかと思ったのに、お母さんの声はいつも通りで、拍子抜けするほどだった。
 だけど、予想外の言葉に私は思わず顔を上げてしまう。
 見たことのない朝とは違う――でも学校の友人たちよりは心無しか薄い――色に変わった母の顔があった。
「だから言ったでしょう」
 泣きそうになった私に、お母さんは言う。
 訳が分からないと頭を振る私の手を引いて、お母さんは浴室へと向かわせて背を押した。
 言われたまま、コンタクトを外して洗浄液で洗い、シャワーを浴びる。
 シャワーを浴びながら、溢れてくる涙が止まらなかった。
 脱衣所に脱いで置いた制服は回収され、真新しい服と洗濯されたバスタオルが用意されていて、更に涙が零れた。
 泣きながら、お母さんや友人をこのままにしておくわけにはいかない。と、そう強く思う。
 タオルで髪の毛を拭きながら、リビングへの扉を開ける。
「お母さん、私やっぱり――」
 探しに行かなきゃ。と言いかけて、振り返ったいつもの母の顔に固まる。
 母親は昨日の映画の録画を流し、お煎餅を齧って言った。
「魔法じゃなくてウイルスにかかったのはあなたよ」
 ――だから、言ったじゃない。飛行機に気をつけなさいって。



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