アネモネの約束


 その出会いは、鮮烈に私の脳裏に焼き付いている。


 休学明けの初登校日。
 久方ぶりの学校に、緊張から早く目覚めた私は人気のない通学路を一人歩く。
 春の日差しが心地よく、春の香りの漂う朝。
 そんなうららかな日差しを浴びながら、少し離れた視界の隅で人影がすくっと立ち上がった。
 突然の人の気配に驚いて、目をやる。
 その人は、手にした紫色の花弁にそっと口付けを落とした。
 ただそれだけの動きが、あまりにも流れるように優雅で、ひどく様になっていたものだから、私はそれを映画のワンシーンを見たような気持ちのままに立ち尽くしてしまう。
 一呼吸おいて立ち尽くす私に気付いたその人は、ちらりとこちらに視線を寄越した後、悪戯を見られた時のような表情を作って、唇に薄い笑みを乗せた。
 見つかってしまったバツの悪さに固まり、その妖艶な笑みに見惚れてる間に人影は立ち去って、その場には私一人が残される。
 長い髪をひとまとめに肩に流したその人は、遠目の横顔だけでも端正な顔立ちをしているのがわかった。
 ゆっくりと歩を進め、今見た幻のような光景の場所で立ち止まる。
 広くて綺麗な一軒家の生垣に囲まれた門。その脇に添えるように存在する小さな花壇があった。
 綺麗に咲いた色とりどりの花。
 その一角に咲き誇る紫色の一軍。
 見覚えのあるその花の形に、一抹のなつかしさを憶えながら私は学校に向かった。

 小中高と一貫の女子校。
 それが私の在籍する学校だった。
 朝のHRで復学の挨拶を終えた私は、久しぶりに顔を合わせた友人達がかけてくれる声に安堵の息を吐く。
 あてがわれた席について授業を受けた休み時間。
 小学生の頃から病気で入退院を繰り返し、休みがちだった学校。
 エスカレーター式という学校形態と、幸いにしてダブることにはならなかったこともあり、復学して学年が変わっていても大抵は顔見知りだ。
 声をかけてくれ、挨拶を交わす程度には友人もいる。
 そんな中、朝の挨拶の時から気になっていた人物に目線を向ける。
 これまでの学校生活で見たことのない女子生徒だった。
 窓際の前から二番目。艶やかなロングストレートヘアーの目を引く美少女。
 やけに目を惹くのは、教壇で挨拶をした時ですらちらりとも向けられなかった視線のせいだろうか。それとも、妙に大人びたその眼差しのせいなのか。
 人形のように綺麗な顔の視線は、窓の外にずっと釘付けだ。
 教室の真ん中の一番後ろの席を宛がわれた私はこれ幸いと彼女に視線を送り続けていた。
「よかったね、卒業前に戻って来れて。受験しちゃう子もいるし」
 突然隣から声をかけられて慌てて振り向く。
 その瞬間、
「——黒沢さんが気になるの?」
 突然小さく耳打ちされ、がたん、と机が大きな音を立てた。
「えっ!?」
「驚き過ぎだよ」
 隣の席の女生徒は呆れ、その前に座っていた女生徒も振り返って笑う。
「あ、そっかー。白山さん居なかったっけ。黒沢風香さん。去年の終わりに転校してきた子なんだよ」
「学校来る途中にある大きな家に住んでるんだって。多分だれも、ほとんどまともに会話したことないんだけどね」
「ちょっと取っつきにくくて、ね」
 前後二人で口々にそう会話するのを、唖然と聞き入っていると授業開始のチャイムが鳴る。
 なぜ目を惹いたのか、その疑問のヒントを手繰り寄せながら、彼女に視線を送り続けた。

 鞄をベッド脇に落として、制服のままダイヴする。
 柔らかいマットレスに羽毛布団。ふかふかの枕。
 目を閉じて顔を埋め、胸を膨らませて息を吸い込むと、馴染みのある違和感にいっぱいになる。それが、妙に落ち着くのだ。
 ゆっくりと何度も呼吸を繰り返して息をついた。
 慣れない時間の使い方と、出された課題に苦心しながら夕飯の時間を迎え、食後にはシャワーを浴びる。
 ずっと何かが記憶の片隅に引っ掛かっているような心地で、頭から今朝の出来事と、彼女の後ろ姿が離れない。
 心地のいいお湯を頭から浴びながら、繋がらないパズルのピースを探す。
 曇った鏡面を濡れ手で撫でると、自分の体に残った手術痕が目に入る。
 普段なら、あまり見たくはないそれを、直に眺め、指でなぞった。
 その瞬間、今朝、花壇の花を見た時に感じた懐かしさが込み上げる。

 慌ててシャワーを終えて、ベッドサイドに置いた一冊の本を掴んで表紙を開く。
 
 幼い頃から幾度となく続いた病院生活。
 同じ年頃で、同じ病気の『仲間』が存在した。
 出会いは病院の庭で、きっかけは花壇の花だった。
『――花、好きなの?』
 ただ退屈して花壇を眺めていただけの私に、その子が声をかけてくれたことを、本に挟んだ栞を見つめて思い出す。
 突然声をかけられて戸惑う私をよそに、その子は隣に腰を下ろして花壇に咲いた花の一つ一つを指差し、名前を呟く。
『……おはな、すきなの?』
 自分にかけられた質問にも答えず、私はその子に、同じ言葉を投げかけた。
 私の言葉に、大きな目を更に丸くする。
 そして小さくうなずくと、ゆっくりと目を細め、
『……好き』
 にっこりと微笑んだ。
 その笑顔が言葉にできないほど素敵で、私はその子のことが大好きになった。
 覚えているのは「ふうちゃん」という呼び名と、一つ年上だということ。
 最後に会ったのは彼女の転院の日。
 海外に行くのだと言って、二輪持った白い花の一輪を差し出してくれた。
  
『また会おうね』
 
 看護師さんに頼んで押し花にしたその栞に目を落とす。
 ぼんやりとしたまま過ごした一日に反して、後悔と焦燥感に胸を締め付けられる。
 栞を手にしたまま、落ち着くはずの布団の中で眠れぬ夜を過ごした。
 空が明るみ始めた頃になり、うとうととし始めた耳に鳥の声が覚醒を呼ぶ。
 しきりに朝ごはんを勧める母と、体調を心配する父親を宥めながら、家を飛び出した。
 胸が痛くなり、足がもつれそうになりながら小走りで駆け、昨日足を止めた道で息を整える。 
 だが、そこに人の姿は見当たらない。
 ゆっくりと足を進め、「黒沢」の表札を目の前にして家を見上げて立つ。
 しばし道端で思い悩み、うろついてみたりもした後、諦めて学校への道をとぼとぼと歩き出した。
 チャイムを押す勇気は持てなかったのだ。
 教室に着いて、一番後ろの扉を開く。
 電気もついていない室内で、窓際に立つ人の姿があった。
 開かれた窓から吹く風が、彼女の髪をサラサラと揺らす。
 待ち望んだはずのチャンスを前にして、私は立ち尽くした。
 喉から、声が出なかったからだ。
 自分が手にして開いた扉は大きく音を立てていた。
 彼女はちらりともこちらを見ない。
 私は口を意味もなくぱくぱくとさせては、その扉を閉めて机に向かう。
 ――今しかないのに。
 そう唇を噛んだ時、私の机に置かれた紫色が目を惹いた。
 花弁に手を伸ばし、指先で触れる。
 胸のポケットに入れた栞を手にして、祈るように自分に言い聞かせる。
 私たちふたりを繋ぎ止めたもの。
 だから、もう後悔はしない。
 子供の頃とも、昨日の私でもないから——今度こそ。
「ふう……ちゃん、だよね?」
 背中に向かって言葉を投げかける。
 なびいたカーテンの隙間から、紫色の花びらと昨日と同じ微笑みが、私に向けられ覗いた。

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