恋枯らし

 
 景色が流れていく。
 がたん、ごとん、時折大きく縦に揺られながら、窓の外を眺める。
 遠くに見える、紅く色づいた山の木々。
「いつか、一緒に」
 薄明りの中、指と指を絡ませて約束した場所。
 彼方まで続く線路を見つめながら、目を閉じる。心地いい揺れに身を任せた。
 そう。ちょうど、——あの人と出逢った頃と同じように。


「牡丹、本当に店辞めるの?」
 最後の客がママを伴って去っていくのを見送って、同僚が言う。
 その言葉に、牡丹はセットした髪を解いて頷いた。
 そして、笑う。
「それ、何度目」
「だって、本当に勿体ないんだもん。稼ぎ頭じゃない。ママも残念がってるんだから」
 肩を落として引き留めてくれる気持ちを有難く受け止めながら、牡丹は微笑んで手を振る。
「いつでも戻っておいでね!」
 長く世話になった職場だった。
 本当なら、最後の日はお得意様を招いてお別れ会をし、従業員みんなで打ち上げをするところだけれど、「戻って来づらくなるから」と打ち上げを断ったのは牡丹だった。
 普段は滅多にしない同伴をママがあえてしたのも、別れを惜しみたくないからだと、知っている。
 だから殊更、普段通りを装って店を出た。
 肌寒い空気が、酔って火照った頬を冷ましてくれる気がして、マンションまでの家路を歩く。
 部屋の扉を開けると、玄関先には荷造りを終え、ダンボールが二つ詰まれている。そのダンボールの横に高いヒールを脱ぎ捨て、鞄のポーチから仕事用の口紅を手探りで掴み、そのまま放り投げた。口紅は綺麗な弧を描いて、ゴミ袋へと収まる。
 身を包んでいたドレスも同じところに丸めて放り込む。
 あらかじめ用意しておいたラフな服装に着替えて、スニーカーを履いた。
 ヒールもゴミ袋に入れて手に持ち、部屋の鍵を封筒に入れて部屋を出る。そのまま、大家の部屋の郵便受けに放り込んだ。ゴミ捨て場に寄って、袋を投げ入れて、マンションを飛び出す。
 外から見上げた自分の部屋の窓。そこにはちょうど寝室があった。
 真っ暗な窓をしばらく見つめて、牡丹は踵を返す。
 歩き出して見上げた空は薄く白み始めていた。
 駅まで歩き、ちょうど到着した始発に飛び乗る。

 
「二人で住む家には、この花を植えよう」
 懐かしい言葉に、目を開く。
 いくつかの電車を乗り継ぎ、乗っていた電車が目的の終着駅に着いたところだった。
 アナウンスに押し出されるようにして、ほとんど人のいないホームへと降り立つ。
 雲のない青空の中、車窓から眺めた時よりも近くなった大自然をぼんやりと見つめた。
 駅を出て、なだらかな傾斜を上り下りしながら、あてもなく道なりに山道を進む。
 小川に沿って続く道を、景色を眺めながら歩く。
 昼間に出かけることも、自然の空気を吸うということも、随分と懐かしく思いながら。
 上がる息。痛む足。滴る汗。
 時折立ち止まり、大きく息を吐きながら、ただ歩く。
 目的地は、どこにもなかった。
「秋になったら紅葉を見に行こうね」
 そう、彼が言ったから。
 こんな風な、些細で小さな約束を、いくつもした。
 叶うことがないことを知りながら、身体を重ねた夜にはうっとりと語り合った。
 バカみたいに。

 汗を拭って、鏡を見る。
 紅く染まった唇が視界に入って、慌ててそれも拭う。
 全部捨てるつもりだった。
 ――捨てられなかったから、ここまで来てしまった。

 羽織ったうわぎのポケットから、約束の証を取り出す。
 木々と落ち葉の絨毯の山道と、川へと降りる草木の少ない道とを見比べて、川を選ぶ。
 ほとんど砂利に近い、湿った地面をスニーカーでこすって穴を掘る。
 湿って柔らかい土に投げ入れるようにして、小さな粒を放り込んで、足で埋める。
 二度と逢うことのない、居なくなった彼の残した言葉とその約束は、再び咲くことも芽吹くこともない。
 植えた種の、花のように。
 踏みつけた字面には目もくれず、小川を紅く染め、流れていくそれを眺める。
 目を閉じてせせらぎと風の音に耳を澄ました。
 そっと頬を撫でる感触があって、見上げた木には青いままのもみじが揺れている。
 染まることのないその葉を、牡丹は羨む。そして、ずっと、ただ見つめていた———。


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