二心同体


「いらないのなら、頂戴!」

 その人は私の手を取り、言った。
 頭2つ分、低いところから見上げられた真っ直ぐな視線が、私に突き刺さる。
 真っ直ぐな眼差しを避けるように泳いだ私の目線は、自分があえて揃えて脱ぎ捨てたパンプスを映した。

 ああ、そうだ。わたしは——死のうとしていたんだ。


 その後のことはよく覚えていない。
 わかることは、わたしは「生きた」まま意識を手放すことを許されたこと、「私」は 彼女のものになったこと、彼女は「私」になっていること。
 わたしはほとんど眠りに付きながら、時折ほんの少し目を開けるだけで「私」を覗くことができる。

 彼女はとても、とても上手に人間をやってくれている。
 彼女は決して私ではないのに、とてもうまく私をやってくれている。わたしはわたしじゃない私を、とても落ち着いた気持ちで見つめている。
 平穏で生温く、暗闇で見て得るものは「私」しかない。
 以前と何も変わらないけど、わたしは「私」を生きなくていい。それだけのことに、とても救われている。

 それでもわたしは、時折脳裏に浮かぶ一つの恐怖に震えて怯えることがある。
 彼女が「私」を手放そうとしたら。突然、またわたしが「私」になることになったら……―――。

 どうかどうか、彼女が「私」を全うしてくれますように。
 わたしは今日も、祈るように目を閉じた。


 病に犯され、いつ訪れるとも知れない死に怯えていた時、私は彼女に出会った。
 私が恐れて止まないものを求め、欲して止まないものを捨てようとしていた彼女に。
 私は一目散に彼女に近づいて、その手を取った。
 行動も、その時に口をついて出た言葉も、衝動としか言いようがない。
 私は求めたままに彼女のそれを受け取り、自分の物にした。
 その方法を詳しく説明することはできない。企業秘密だ。
 私は、病魔に蝕まれた肉体を捨て、健康な体を手に入れた。「それまでの私」と引き換えに。
 手に入れた「私」の肉体は、望んでいた以上の物だった。
 彼女のことは、本人が語らないのでわからない。
 周りから得る情報だけがすべてだったけれど、我ながらうまく成り変われたと思う。
 私たちは、生まれ変わった。

 あの、白い壁と窓の外を眺めていた日々。思うように動かない体。自分の物以上に私を運んでくれる車だけが全てだった世界から。
 何の訓練をしなくとも、不自由なく動く手足は夢のようだ。

 だからこそ私は、——私の中に潜む彼女の存在に怯えている。
 彼女がいつ、『今』を取り戻そうと思うのか。
 もしも、彼女が目覚めることを望んだら。
 その時私はどうなるのだろう、と考えずにはいられない。

 私の声は聞こえているのだろうか。それさえもわからないまま、私は身の内に向かって祈るしかない。
 ——どうか彼女が、目を覚ましませんように。

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