すべてが昏い




 夕焼けで橙を帯びながら波打つ水面に、私は舟浮かべて漕ぎ出す。
 流れに逆らわず、けど、岸に追いやられないように、うまく流れに乗りたかった。
 緩やかな流れに乗って、舟が進み始めたのでオールからは手を離す。もう必要がなかった。 腕の痛みから解放されて、私は身体を板張りの舟底に預ける。
 寝心地は最悪だった。
 硬くて。でこぼこしている。
 やはりゴムボートにすべきだった。と後悔する。
 どちらでもよかった。ただほんの少しの安全性を考慮してしまった。
 それも、後悔の一部だ。
 仕方がないので、寒くなったらかぶろうと思っていた毛布を敷くことにする。
 その上に横になると、おおむね満足がいった。
 やりたいことはやった。という、本望というには足りない程度の。

 やがて一隻の舟は広い場所に出る。
 その頃にはもう、夕暮れは遠く、赤い光は水平線よりも遙か向こうのように思われた。
 灯りがないというのは心許ないものなのだなぁ。と私はぼんやりと思った。
 橙がいなくなり、水面は紺色から漆黒へ。
 空は青みを帯びた白から灰を纏い、闇へと包まれていく。包み込まれなかったものだけが、うっすらと途切れ途切れにもやのように空に浮かんでいる。
 私は身体を起こす。辺りを見渡すが、何もない。
 今日は新月だから、月明かりもない。あえて、この日を選んだ。
 星は綺麗に瞬いているが、私にはよく見えない。
 何か鳥のような奇妙な鳴き声が、ギャアと空に響いた。
 凪いだ漆黒の水面に顔を映すように、身を乗り出してそれを見つめる。
 池か湖か、あるいは沼か。それすらわからない場所で、私は舟を浮かべている。
 とても、奇妙で愉快で、笑い出したい気分だった。
 けれども、私の口から漏れたのは笑い声に似た嗚咽で、こぼしたものは涙だった。
 じっと水の中を覗き込むように見つめながら、瞬きをするたびに小さな波紋をつくる。
 アメンボが泳ぐときのような。あるいはもっと微かな。
 何も見えはしない水の中を、じっと見つめ続ける。
 深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている。なんて言葉を思い出す。
 この下には何があるだろう。何が、いるだろう。
 私を飲み込むほど大きなものがいるだろうか。
 そしてそれは今こうしている私を認識し、私を見ているだろうか。
 ――もしそうだとしたなら、其れを見ているのは私だけであり、私を見ているのも其れだけということになる。
 そう仮定して、私は優越感に似た高揚を覚えることに成功した。
 深淵だけが私を見てくれているならば、私もそれに応えたいとすら、願う。
 そう思えば眼前に広がる闇の中に、何かが居るようにも思えてますます目が離せない。
 やがて、静かだった水面がさざめくように揺れて小さな波を作る。
 漆黒が口を開けたかのようだった。
 それは大きな口のようでもあり、まごうことなき深淵だった。
 深淵の奥深くに、うごめく何かが見えた気がする。それは手のように思えた。
 私は迷うことなくその深淵に向かって手を伸ばし、身を乗り出す。
 暗闇は私を狙ったかのように水面から飛び出す。それは私を迎え入れてくれるのだ。
 ばくん、と視界の景色が暗転する直前に、大きな鳥の羽音を聞いた気がした。
 
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