その先でいつか交わる


 懐かしい名前を目にして、招待状の葉書に宛名を綴っていた手を止める。
 アドレス帳に記載されていたその名前が、忘れかけていた記憶の扉を開く。
 ゆっくりと思い起こされていくその記憶に、私はペンを置いた。



「何で、言ってくれなかったんだ」
 高校時代から付き合っていた彼は、会って開口一番、重く吐露する。
 彼は体育大、私は製菓専門に通う学生だった。そして、その日は久しぶりのデートになるはずだった。
 私は驚いて、スティックシュガーを入れたカップの匙を回していた手を止める。
「え?」
 なんのこと? と問おうと口を開きかけ、ふと心当たりに思い到る。その心が咎んで、唇を噛んだ。
「聞いた。留学のこと」
 ――ああ、やはり。
 嫌な予感は当たってしまう。
 呆れた様子の彼の声に、罪悪感が一気に押し寄せる。頭から冷や水を浴びせられたような心地がした。
「ちゃんと決まったら、言おうと思ってたの……」
 思わずカップに両手を添えるが、掌に伝うぬくもりは心まで届かない。
「……どうしたいと、思ってるんだ」
 真っ直ぐに見据えられた視線が、痛かった。
 けれど逃げるわけにもいかないと、そう思った。彼は私の意思を訊ねてくれたのだから。
「……行きたいと、思ってる」
 意を決して告げると彼は少し間を置いて、深く息をついた。
「そうか……」
 目を伏せた後、伝票を取って立ち上がる。
「悪いけど今日は帰らせて。――また、連絡する」
 そう言った彼を茫然と見上げた。引き止める間もくれず、彼は席を離れていく。咄嗟に立ち上がることも、腕を伸ばすこともできず。ドアの向こうに消えていく彼の背中を、思考の停止した頭で見送る。

 茫然と席に残されて、しばし飴色の液体を見つめる。
 どうしたものか考えあぐねて、ぎこちのない動きで楽しみにしていたはずのケーキをひとくち、口に運んでみる。
 舌がばかになったみたいに味がしない。頬を伝う液体に顔は濡れ、息が詰まって喉を通らなかった。


 ――懐かしい。と笑うには、苦い思い出だ。

 正式に留学が決まったのは、それからすぐのことだった。
 だから結局、彼からの連絡を待つよりも早く、私の方から連絡を入れた。
 なんと送ったのかはきちんと思い出せない。ただ、彼からの返事はたった一言の「わかった」だけだったのをはっきりと覚えている。
 終わりだと、思ったのを。
 辛いとか、寂しいとか、好きだとか。そんな弱音を漏らす権利は、もう無い気がした。

 準備に追われている間に、日本を離れる日は訪れた。
 本当に、あっという間の時間だった。
 飛び立つ日の朝、空港に向かう車を待っていると、玄関のチャイムが鳴った。
 開いたドアの先で見たのは運転手ではなく、彼の姿だった。
「今日、発つって聞いた。見送り、……空港まで一緒に行ってもいいか?」
 驚きのあまり声も出せずに曖昧に頷いて、到着した車に二人で乗り込む。
 空港に向かう車内ではお互い一言も言葉を交わさず、握られた掌だけが熱かった。
 搭乗手続きを終えた後も、沈黙は続いた。
 車の中よりも騒がしい空港内の空気に紛れて、気まずさよりも別れの瞬間の方が惜しく想えていた。
「ごめんな」
 刻一刻と、近付いて来るそのときに、名残惜しさが芽生えかけた時だった。彼がそう呟いたのは。
 弾かれたように顔を上げる。哀愁の滲んだ表情と目が合って、彼が微かに笑みを作る。
「ちゃんと応援してやれなくて」
 途切れ途切れにゆっくりと言葉を選ぶ彼の声を、聞き逃さないように耳を澄ます。
 かすれかけた声は、そうしないと喧騒に紛れて溶けてしまいそうだった。
「ずっと、夢だって言ってたの……ちゃんと知ってたのに」
 じわりと視界が滲んでいく。
 私は首を、横に何度も振った。
「……ちゃんと、もっと、はやくに言うべきだった。謝るのは、私のほう」
 何度も鼻を啜り、そのたびに言葉を途切れさせながら私は彼の両腕を掴んだ。
「どっちも大切だったから、ギリギリまで、ちゃんと選べなかった……ごめんなさい」
 言い終えると同時に嗚咽が止まらなくなった。彼は服が汚れるのも構わず私の頭を引き寄せ、私は彼の胸で泣き崩れた。
 ようやく落ち着いた頃、搭乗のアナウンスが流れた。
「元気でな。俺も頑張るから、お前も夢が叶ったら教えろよ」
 そう言って別れた彼が、何年か前にスポーツ新聞の一面を飾ったのは記憶に新しい。
 もう私のことなど、とうに忘れてしまっているだろう。そう思いながらも、招待の葉書は出してしまった。

 初めて持つ店の開店日。
 あの朝のように扉の前に立った彼が、手にした花束より晴れやかに微笑んだ。
「おめでとう」
 と、そう言って。
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