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天使と悪魔と契約した男


――おお、この世はなんと美しく残酷な事か!

この世界の歌手は、大きく二種類に分けられる。
一つは「歌が上手い者」、そしてもう一つは……「天使の歌声を持つ者」である。
前者は多数この世に生まれ落ちるが、後者となればそれは数年に一人……いや、数十年に一人のレベルである。
つまり、後者の人間は実に得難き存在なのである。
「――私でも、それは今まで一人しか、それにその一度しか直接聞いたことがないよ」
松永久秀は、捜査一課第三係の刑事・片倉小十郎に語りかけた。
「……だったら、こんな風に色々なオペラの公演に足を運ぶ必要なんかなくて、そいつが出てる公演にだけ行けばいいじゃねえか。それに、急に同行人が行けなくなったからってわざわざ俺を呼び出しやがって」
「芸術のインスピレーションを得ることは、刑事の君にも悪いことではないと思うがね」
久秀は、わざとらしく肩をすくめた。
「……ったく、俺がもし非番じゃなかったら誰を誘ってたんだ」
小十郎は乱雑に髪を掻き揚げた。
「……?君以外に、私に友達がいると思っているのかね?」
「……俺は!お前の!友達じゃねえ!」
と、小十郎が久秀に掴みかかろうとすると同時に、開演間際のブザーが鳴った。
「……!!」
「――さて、せっかく来たんだ。楽しまないと損だよ。『アイーダ』……さすがに君も知っているだろう?」
「……ミュージカル版なら、昔政宗様と見に行ったことはあるがな」
「――結構」
久秀が悠々と歩いていくのを見た小十郎は、一つため息をついてから劇場の入り口をくぐった。
「相変わらず高尚な趣味をしてやがる」
国立国際オペラホール。
源流は戦前の帝国歌劇場にあって、戦後「日本のオペラ文化の発信地」という目標を掲げて再スタートしたこの劇場は、今や世界にも知られている名劇場である。
そして今日は世界的に有名な日本人のオペラ歌手日比野明美が主役を演じる「アイーダ」の上演日とあって、劇場は満員御礼で多くの人が訪れていた。
――さすがと言ったところか、警備の配置も目立たねぇが完璧だ。
小十郎は刑事の職業の習慣もあってホールの内部を見回し、警備の態勢を見てから安心して席に着く。
しばらくすると、場内が暗くなって上演が始まる。
オペラ「アイーダ」はジュゼッペ=ヴェルディが作曲し、一八七一年に初演された全四幕から成るオペラである。
ファラオ時代のエジプトとエチオピア、ニつの国に引き裂かれた男女の悲恋を描き、現代でも世界で最も人気の高いオペラの一つと言われている。
また、第二幕第二場の「凱旋行進曲」はテレビ中継のサッカーの試合の時に流れる曲、と日本人はその曲を聞いたらすぐに思うだろう。
あらすじは大体こうである。
エジプトの誇り高い王女アムネリスは将校ラダメスを愛しているが、ラダメスは女奴隷のアイーダと愛し合っている。
そんな中エジプト王はエチオピアを迎え撃つ指揮官にラダメスを任命する。
実はエチオピアの王女であるアイーダは、父と恋人の間に立ち、苦しんでいる。
戦いは、エジプトの勝利に終わる。
敗れたエチオピア王アモナズロは、娘アイーダを使って復讐することを思いつく。
アイーダは父アモナズロの言いつけで、ラダメスからエジプト軍の動向を聞き出す。
ところが、その現場を目撃したアムネリスは、ラダメスを捕らえる。
アイーダとアモナズロは辛くも逃げ出す。
アムネリスは、捕らえたラダメスに、自分と結婚するならば命を助けると掛け合うが、ラダメスは受け入れない。
その結果、ラダメスは地下牢に生き埋めにされることになる。
ラダメスが向かった地下牢には、先回りしたアイーダが待っていた。
天国で結ばれることを祈りながら、ラダメスとアイーダは息絶える。
アムネリスは、神殿でラダメスの冥福を静かに祈る。
滞りなく舞台が進む中、小十郎は休憩をはさんだ後の第三幕が終わったぐらいから眠気が襲ってきた。
「……片倉君」
さすがに、全く分からない言語の歌曲を長々と聞き続けるのは連日の疲れが残っている小十郎の体にはきつかったか、と久秀は小さく声をかけて小十郎が眠っていることを確認して再び舞台に集中した。
舞台は第四幕第二場、いよいよクライマックスである。
日比野明美が演じるアイーダは藤堂潤太郎演じるラダメスと抱き合い、死後の幸福を祈りながら息絶える。
館林凛子演じるアムネリスは、神殿でラダメスの安息を静かに祈る。
「『安息を……』」
アムネリスがそっと目を伏せると共に、ゆっくりと舞台は暗転した。
一瞬の沈黙の後、会場は割れんばかりの歓声に包まれた。
「……!!」
小十郎は、その歓声でようやく目を覚ます。
「おはよう、片倉君」
「……寝てたのか、俺は」
久秀は拍手をしながら言葉を発する。
「ふむ、まあ仕方ないことをしてしまった」
その内、フィナーレで出演者が出て来ると、場内はスタンディングオベーションの状態になった。
小十郎は、「さすがに立たないと申し訳ない」と思って席から立ち上がる。
……が、久秀は立とうとしない。
「おい、立たねぇのか」
「――膝が痛くてね」
そのまま久秀は、拍手だけしている。
――こいつの趣味には当てはまらなかった、ということか。
小十郎は、それを察してこれ以上追及することをやめた。
三度のカーテンコールが行われた後ようやく終演し、久秀と小十郎はロビーに出る。
「お師匠様、来ていたのですね」
その時、二人の背後から何者かの声がかかる。
「――利休、君も来ていたのか」
久秀は、声だけで何者かを判断して振り返る。
「――はい、館林さんは僕の茶道のお弟子さんでもあるので」
利休は小十郎の方に向けて礼をした。
「私は千利休と申します。茶道の師範をしています」
「俺は片倉小十郎。ここで出すのはあれだが……刑事だ」
小十郎は素早い動きで警察手帳を出し入れする。
「それはそれは……わざわざありがとうございます」
利休は丁寧に頭を下げ、
「お師匠様、今日の『アイーダ』はどうでしたか?」
と、にこやかに久秀に話題を振った。
「よくもなく、悪くもなく……だな」
「あはは、お師匠様は辛辣な方だ。そうだ、今から……」
利休が苦笑して、何かを言いかけた瞬間。
ものすごい勢いで救急車とパトカーが劇場の入り口に止まった。
「……?」
「……舞台裏で何かあったか……!」
小十郎はとっさに長年の経験で舞台裏へ向かっていた。
「捜査一課の片倉だ!通してもらいたい!」
「ああ!!刑事さん!!」
楽屋への入り口を守っていた守衛は、小十郎の警察手帳を見ると慌てて小十郎を案内する。
「ここです……!!日比野さんが……日比野さんが……!!」
小十郎が楽屋の一室に案内されると、そこには先程アイーダを演じていた日比野明美が倒れていた。
「……!!」
小十郎は彼女に駆け寄る。
しかし、もう息はしていなかった。
「……何者かに首を絞められたか。……それにしても相当な力で絞められたみたいだな、抵抗してる暇もなく殺された……」
「――片倉巡査部長、えらく早い御着きですね」
「上杉係長……」
小十郎は、自身の上司である上杉謙信捜査一課第三係係長の方を向いて敬礼をした。
「事件の起きたこのオペラ公演に居合わせたのは偶然でしょうが、僥倖でしょう。何事も初動が大事です」
謙信は手を合わせてから日比野明美の傍に近付く。
「……これは……」
「相当な憎悪があった人間の犯行でしょう」
「……特別捜査本部の設置を要請しましょう」
謙信は鑑識を呼んで現場検証を始めさせた。
一方……。
「やれやれ……これは置いて帰った方がいいな」
久秀は騒然とした劇場を後にする。
華麗なオペラが演じられた一夜は、瞬く間に恐怖の一夜となってしまったのである。
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