蒼の吸血鬼
その城は、深い霧に覆われて、死者のような沈黙に包まれた山野の只中に、不意に姿を見せる。
分厚い霧を通してかすかに月の光が落ちている。
しんとした針葉樹の匂い、苔の瑞々しい香り、それらがうっすら光る霧の中に閉じ込められている。
輪郭も霧に溶け込んだ月に抱かれた巨大な城は、いささか奇妙なシルエット。
天守閣を備えた日本式の城のように見えるが、どうやら石造りで、さながら中世ヨーロッパの城塞のような分厚い外壁に覆われている。
奇妙な和洋折衷というべき構造ではあるが、それ自体がどうも見慣れぬだけでなく、墓標に似た不気味さ、不吉さを醸し出しているように思える。
じっと見ていると、そこにいてはいけない、ここから少しでも遠くへ逃げ、二度とここへ戻ってきてはいけない、そんなことを思い込まずにいられぬ、異様な雰囲気。
だが、そもそも、ここはどこなのか。
分厚い、あまり人の手が入っていなさそうな森林、水の匂いがするのも、霧が出ているからだけではあるまい。
どこかで水の流れる音がし、何かが水面を割る重い響き。
いくら待っても、月は中天を動かず、永遠に静まり返る森は、時に夜の鳥のかそけき鳴き声ばかり。
◇ ◆ ◇
「彼」は、その豪奢な城の、最も高く、最も奥まった一室に陣取っている。
外部の者には、存在すらはっきりとは窺えぬだろう。
普通の日本式の城に直せば、いわば天守閣の最上部ということになるが、堅固な石造りで一つの階をぶち抜いているその部屋は、外壁を彩る奇妙な石の彫刻や、きらびやかな天守の屋根から垂れ下がった様々な金属を編んで連ねた装飾品などのお陰で、外から、まして、下から見上げても、全く内部の様子どころか、そこに何かあることさえ判別できぬ。
しかし、実際に内部を覗いてみるならば、そこは、光溢れる豪奢な空間だ。
ここも和洋折衷と言うべきだろうか。
ソファセットはあるが、縁取りの細工は、欄間彫刻風の飾りを施した精緻なもの。
漆喰の壁の下半分は、凝り倒した和風のパターン壁紙で飾られている。
今の時期には暖炉の火は落ちているが、それも凝った龍の浮彫のマントルピースが渋い金色を跳ね返すばかり。
壁の際に甲冑かけが鎮座し、大鎧の面頬が不吉な声なき哄笑を放つ。
部屋の半ばに目を転ずれば、足乗せ台に、脚甲に覆われた長い脚を乗せて、くつろぐ若武者が一人。
いや、それは「若武者」であろうか。
到底、21世紀の日本とは思えぬ、堅牢な甲冑を身にまとった、確かに風貌自体は若く見える男である。
ただ、異様に蒼白な肌と、褪せた紅色の唇の端から、時折覗く、鋭い犬歯に、誰もが何かを感じるだろう。
身にまとった甲冑は、攻撃的な造形の当世具足。
数千人の死骸を呑み込んだ北の海のように、青黒く、外面に薄い光を、底に闇を宿している。
見慣れぬ造りではあるが、明らかに実戦向きの本格的なもので、俳優がまとうような、撮影用のレプリカとは思えない。
目元を上品な眼鏡で覆ったその顔立ちは、それなりの家に人となった高貴さと自然と人を従わせる威風を湛えながら、凛然とした美形と言える。
ただ、面と向かっていると、妙にそわそわするような、生命ある存在ならば何故か逃げ出したくなるような忌避感を漂わす。
彼の目は、前方壁際に設置された、大画面テレビに注がれている。
どこの局なのか、何やら街頭カメラで中継された映像を流しているようだ。
画面の中の街並みは真昼間であり、煌々とまばゆい陽光が降り注いでいる。
しかし、どうした訳だか、街に動くものが見えない。
どこかの社用車、日本在住なら誰もが知っているであろう大手コンビニの配送トラック、通勤途中と思しき小型車。
どれも、まるでいきなり運転手が消失したようにピクリとも動かない。
いや。
そればかりではない。
恐らくどこかの駅前であろうその街頭カメラの視界の中に、奇怪な物体が幾つも見えるのだ。
明かに不自然に人気のないその街角の風景の中で、その禍々しい白さは、ぞくりと目に刺さる。
あばら骨が、まるで古い公園の回転遊具のような形と大きさに肥大した骨。
古代人の使っていた、骨の糸巻きのような形のそれが、人間の頭蓋骨だとは、その先に人間の骨格の首から下が、丸ごと転がっていない限り、判別がつかなかっただろう。
骨盤から下、及びあばら骨半ばから上が、まるで工事現場で敷設される鉄板のように、巨大で平坦な一枚の板のようになっているその白骨死体は、僅かに残った脊椎があの形でなかったら、一体何に見えたものか。
その白皙の美青年は、ふむ、と鼻を鳴らす。
手甲で覆われた手で、するりと形の良い顎を撫でて考え込む様子。
「やっぱり、見当たりませんか。逃げたのですかね」
誰もいない部屋の中、誰かに話しかけでもするように、自然にひとりごちる。
「まあ、機会は存分に。宣戦布告さえできれば、とりあえずはいいでしょうか。ま、この状況なら、まず日本から高跳びは不可能になったはずですからね」
この言葉からすると、この疫病による大量死は、この青年の仕業であろうか。
蒼白の肌、犬歯、不吉な甲冑姿。
そして、この不気味な城。
彼こそが、日本産吸血鬼であろう。
――なにゆえに、他の人外たちとのひとまずの和平条約を破棄してまで、このような所業に走ったのかは、外から見ただけでは窺い知れぬが。
「まっこと、良い時代……おや」
吸血鬼が、ふと目を見張る。
画面の端に、真紅の翼が降り立ったのだ。
分厚い霧を通してかすかに月の光が落ちている。
しんとした針葉樹の匂い、苔の瑞々しい香り、それらがうっすら光る霧の中に閉じ込められている。
輪郭も霧に溶け込んだ月に抱かれた巨大な城は、いささか奇妙なシルエット。
天守閣を備えた日本式の城のように見えるが、どうやら石造りで、さながら中世ヨーロッパの城塞のような分厚い外壁に覆われている。
奇妙な和洋折衷というべき構造ではあるが、それ自体がどうも見慣れぬだけでなく、墓標に似た不気味さ、不吉さを醸し出しているように思える。
じっと見ていると、そこにいてはいけない、ここから少しでも遠くへ逃げ、二度とここへ戻ってきてはいけない、そんなことを思い込まずにいられぬ、異様な雰囲気。
だが、そもそも、ここはどこなのか。
分厚い、あまり人の手が入っていなさそうな森林、水の匂いがするのも、霧が出ているからだけではあるまい。
どこかで水の流れる音がし、何かが水面を割る重い響き。
いくら待っても、月は中天を動かず、永遠に静まり返る森は、時に夜の鳥のかそけき鳴き声ばかり。
◇ ◆ ◇
「彼」は、その豪奢な城の、最も高く、最も奥まった一室に陣取っている。
外部の者には、存在すらはっきりとは窺えぬだろう。
普通の日本式の城に直せば、いわば天守閣の最上部ということになるが、堅固な石造りで一つの階をぶち抜いているその部屋は、外壁を彩る奇妙な石の彫刻や、きらびやかな天守の屋根から垂れ下がった様々な金属を編んで連ねた装飾品などのお陰で、外から、まして、下から見上げても、全く内部の様子どころか、そこに何かあることさえ判別できぬ。
しかし、実際に内部を覗いてみるならば、そこは、光溢れる豪奢な空間だ。
ここも和洋折衷と言うべきだろうか。
ソファセットはあるが、縁取りの細工は、欄間彫刻風の飾りを施した精緻なもの。
漆喰の壁の下半分は、凝り倒した和風のパターン壁紙で飾られている。
今の時期には暖炉の火は落ちているが、それも凝った龍の浮彫のマントルピースが渋い金色を跳ね返すばかり。
壁の際に甲冑かけが鎮座し、大鎧の面頬が不吉な声なき哄笑を放つ。
部屋の半ばに目を転ずれば、足乗せ台に、脚甲に覆われた長い脚を乗せて、くつろぐ若武者が一人。
いや、それは「若武者」であろうか。
到底、21世紀の日本とは思えぬ、堅牢な甲冑を身にまとった、確かに風貌自体は若く見える男である。
ただ、異様に蒼白な肌と、褪せた紅色の唇の端から、時折覗く、鋭い犬歯に、誰もが何かを感じるだろう。
身にまとった甲冑は、攻撃的な造形の当世具足。
数千人の死骸を呑み込んだ北の海のように、青黒く、外面に薄い光を、底に闇を宿している。
見慣れぬ造りではあるが、明らかに実戦向きの本格的なもので、俳優がまとうような、撮影用のレプリカとは思えない。
目元を上品な眼鏡で覆ったその顔立ちは、それなりの家に人となった高貴さと自然と人を従わせる威風を湛えながら、凛然とした美形と言える。
ただ、面と向かっていると、妙にそわそわするような、生命ある存在ならば何故か逃げ出したくなるような忌避感を漂わす。
彼の目は、前方壁際に設置された、大画面テレビに注がれている。
どこの局なのか、何やら街頭カメラで中継された映像を流しているようだ。
画面の中の街並みは真昼間であり、煌々とまばゆい陽光が降り注いでいる。
しかし、どうした訳だか、街に動くものが見えない。
どこかの社用車、日本在住なら誰もが知っているであろう大手コンビニの配送トラック、通勤途中と思しき小型車。
どれも、まるでいきなり運転手が消失したようにピクリとも動かない。
いや。
そればかりではない。
恐らくどこかの駅前であろうその街頭カメラの視界の中に、奇怪な物体が幾つも見えるのだ。
明かに不自然に人気のないその街角の風景の中で、その禍々しい白さは、ぞくりと目に刺さる。
あばら骨が、まるで古い公園の回転遊具のような形と大きさに肥大した骨。
古代人の使っていた、骨の糸巻きのような形のそれが、人間の頭蓋骨だとは、その先に人間の骨格の首から下が、丸ごと転がっていない限り、判別がつかなかっただろう。
骨盤から下、及びあばら骨半ばから上が、まるで工事現場で敷設される鉄板のように、巨大で平坦な一枚の板のようになっているその白骨死体は、僅かに残った脊椎があの形でなかったら、一体何に見えたものか。
その白皙の美青年は、ふむ、と鼻を鳴らす。
手甲で覆われた手で、するりと形の良い顎を撫でて考え込む様子。
「やっぱり、見当たりませんか。逃げたのですかね」
誰もいない部屋の中、誰かに話しかけでもするように、自然にひとりごちる。
「まあ、機会は存分に。宣戦布告さえできれば、とりあえずはいいでしょうか。ま、この状況なら、まず日本から高跳びは不可能になったはずですからね」
この言葉からすると、この疫病による大量死は、この青年の仕業であろうか。
蒼白の肌、犬歯、不吉な甲冑姿。
そして、この不気味な城。
彼こそが、日本産吸血鬼であろう。
――なにゆえに、他の人外たちとのひとまずの和平条約を破棄してまで、このような所業に走ったのかは、外から見ただけでは窺い知れぬが。
「まっこと、良い時代……おや」
吸血鬼が、ふと目を見張る。
画面の端に、真紅の翼が降り立ったのだ。