霧の社にて、比売は獣と戯れる
西の空が茜色に染まる。
一日の大半を霧に包まれた丘の神社から忍び出た比売(ひめ)は、丘を下りて直ぐの場所にある田んぼのあぜ道から、その様子を眺めていた。
茜色の空は、自身の瞳と同じ色だ。
くるぶしよりも長く伸ばされた髪の色も、桃色に染まった夕暮れの空と同じ色をしている。
夕焼けを具現化させたような容姿であった。
だからだろうか。
比売は祀られた社からこっそりと忍び出て、夕焼けや朝焼けを眺めるのが好きであった。
自分の色を見るのが好きであった。
共に祀られている祭祀神や、侍女と巫女を兼任してくれている妹。それから、社を含めたこの辺りを護ってくれている四本足の獣には気づかれているだろうけど。
それでも、誰にも言付けず、気配を消してこっそりと社を抜け出して、こっそりと戻るという習慣を、比売は一日の楽しみにしていた。
草の生えた道に腰をおろし、白く透き通った両手を胸の前で合わせる。
瞼を閉じて、細い声音で祓詞を紡いだ。
今日も一日良き日であった。明日もまた、良き日でありますように。
首から下げた太陽と同じ色をした勾玉が、淡く光り出す。
比売の身を包む茜色の袿や白い裳裾から、蛍火に似た燐光が一つ二つと姿を現し、彼女の周囲を漂った。
夕方の冷たく静かな風が、比売の身体を撫でて行く。
彼女の祈りは、茜色の空が藍色の帳に包まれ出した頃に終わりを迎えた。
祈りが終わると、燐光は一つ二つと溶けるように姿を消す。
比売は瞼を上げ、柏手を二度打つ。
両の手を膝に置いてから、ようやく息を一つ吐いた。
日が沈んだ西の空を再び見つめる。
日中は、伯母神である天照大神の時間。
これからは、父なる神月読命の時間だ。
胸中で天照大神に一日の感謝を伝え、月読命に労いの言葉をかける。
月はまだ昇ってないようだが、愛娘が声をかければ時間など関係なく、ひょっこりと顔を出してくれそうだ。あの父はそういう神(ひと)なのだ。
そろそろ社に戻ろうかと比売が考えた時、獣の熱い吐息が首筋にかかった。
「ひゃあ!」
目を満月の形に見開いて、比売は後ろを振り返る。
比売の身体より、一回りも二回りも大きな体躯を持つ狼がそこにいた。
藍色の毛並み。目は通常白い部分が鋼色で、黒い瞳孔は縦に引き裂かれたような形をしている。
社とこの辺りを護る、四本足の獣だ。
右目は獣の爪に傷つけられた痕があり、瞼を開ける事が出来なくなっていた。
首から比売と同じ勾玉を下げた獣は、ぐるぐると喉を鳴らして、比売を見下ろしている。
眉と眉の間にシワが寄っている。
どうやら、不満があるようだ。
獣の表情を読み取った比売は、驚いた表情を消してふわりと和らいだ笑みを見せる。
「心配して迎えに来てくれたの?ありがとう、藍色」
比売は手を伸ばし、獣の顔を包むように抱き寄せる。
藍色(あいいろ)と呼ばれた獣は、二又に分かれた尾をゆらゆらと揺らした。
ぐるぐるとまた喉が鳴ったが、不満に染まったものではなく、嬉しそうな音であった。
鼻先を比売の胸に押しつけるようにして、すりすりと頬摺りをする。
甘えだした彼の、もさもさとした毛を撫でながら、比売は口を開いた。
「藍色の毛は手触りが良くて温かいわね。私、大好きよ」
ゆらゆらと揺れていた尾が、ぶんぶんと強い振りに変わる。
「朝晩の冷え込みも強くなってきたから、そろそろ添い寝でもしてもらおうかなあ」
任せろと言わんばかりに、二本の尾をぴしりと一つ、強めに振った。
彼の反応を一つ一つ堪能した比売はころころと笑い、藍色の毛を毛並みに沿ってゆるゆると撫でる。
「……そろそろ戻りましょうか。世話氏(せわし)とエラに怒られちゃう」
全くだと同意するように、獣はまた一つ尾を振る。
腰を上げた比売は、袿や裳に付着した草と泥を手で払って落とし、藍色の狼に寄り添う。
「行こうか?」
比売の問いに狼は直ぐ答えず、一つ間をあけてから足を折った。
狼の体高が低くなる。
比売は首を傾けた。
「どうしたの?」
狼は首を巡らし、自身の視線を背中へ向ける。
二本の尾は、左右にゆっくりと揺れていた。
「乗っていいの?」
狼の首が縦に動く。
彼の意図を察して、比売は首の辺りにある毛を撫でた。
「ありがとう」
言葉に甘えて、比売は狼の背に腰を下ろす。
背には跨がず、足を二本とも横腹に流した形だ。
比売が乗ったのを確認して、藍色はゆっくりと立ち上がり、のそりのそりと歩き出す。
普段よりも高い場所から見える田園を、比売は目を細めて見つめた。
丘の社から見える風景は同じなのに、藍色の背中から見える風景はまた一つ違う。
背中から見る方が好きかも知れない。
「明日も……」
良き日でありますように。
明日と言わず、明後日も。その次の日も。
比売の願いに、狼は一つ尾を振った。
了
1/3ページ