short story

その重き愛~カピバラが泣いた日~

 国の象徴でもある王室がある国家で、皇太子であるアーサーは色々と限界を迎えた。
 古の魔法を使ってカピバラに変化した彼は、王宮にある自室に引きこもった。
 元々、人と接するのが苦手だったアーサーは、人と関わる公務の多さにストレスを抱えつつ、それでも皇太子だからという正義感で公務を続けて来た……その結果がこれである。
 ストレスはあったけれど、公務は順調であった。
 貴重な魔法生物や動物保護を中心に活動しているこの国での公務は、自然と動物関係の公務が集まる。
 動物は良い。もふもふしていて、時につるつるとしていて、同じ種類でも色々な姿や形があって面白い。魔法生物の研究も時に危ない物もあったが、動物学者を目指していたアーサーにとっては天職とも言える仕事であった。
 その天職を蝕むほど人間の接待や行事が重荷であり、我慢していたものが限界突破してしまった。
 アーサーは、お気に入りの動物であるカピバラとなって、国民の前から姿を消した。
 皇太子がカピバラとなって引きこもった等と知れたら、世界各国から笑われかねない。
 そこで、王室はアーサーを重病で療養しているという事にして、外交を含む主な公務は弟に任せる事にした。
 この策はいい案だと皆が両手を打った。公務は滞りなく進められて、諸外国からも見舞いの言葉が送られてくるのみで、深く追究する国は現れない。
 なんとか乗りきれると確信した王室は、何事も変わりないように振る舞い、アーサー無しでの公務は続いた。
 それがいけなかったのかもしれない。
 自分無しでも国が回る事に気づいてしまった彼は、部屋の扉をさらに強固な物にした。
 頑なに部屋から出てこようとしない彼に、家族も官僚も頭を抱える。ある者は「こちらがもう限界だ」と、匙を投げた。
 急速に失われていく、アーサーへの信頼。希望。待望。
 廊下に張り付いてアーサーを説得する人もいなくなり、静けさが廊下と室内を満たす。
 床に放置されたふかふかとしたクッションの上で、カピバラとなった皇太子は、藍色の帳に浮かぶ望月をガラス越しに見上げた。
 みんなにとって、【アーサー皇太子】とはどういう存在だったのだろう。
 自分とは、どういう者なのだろう。
 何を期待され、何を望まれていたのか。……何も思われていなかったのか。
 みんなが見ていたのは【アーサー皇太子】であって、「アーサー」という人間の存在は、おまけでしかなかったのか。

「そんな人たちの為に、僕は今まで我慢してきて……やってる意味があったのか……」

 どんなに苦手なことでも、少しでも国の人たちの声に耳を傾けられたらと、頑張ってきたのに。こうもあっさりと諦められて、長いこと無駄な事をしていた気分になってきた。
 否。先に距離を取って引きこもったのは「アーサー」だ。国民(みんな)は悪くない。
 悪くないけど、少しでもいいから【アーサー皇太子】だけでなく「アーサー」に目を向けて欲しかった。
 ぽたぽたと、小さな目から水が零れ落ちる。
 望月の光に触れたそれは、きらきらと輝きながら毛並みに沿って伝い落ちて、ふかふかのクッションを濡らした。
 どんなに寂しくても、どんなに寒くても、朝は来るし、昼は雲が流れ、夜は星が瞬く。
 そんな静かな変化を、カピバラはずっと眺めていた。
 もう何度、季節が移り変わったかわからない。
 今日も日当たりが良い場所にクッションを置き、春の日差しを受けながらうとうとと舟を濃いでいると、珍しく廊下から慌ただしい音が響いてきた。
 カツカツと、踵が廊下の床を叩く音が耳に届く。
 来客か……!
 びくりと身体を震わせたアーサーは、身を隠す時の定番になっているベッドの下へと潜り込んだ。
 同時に、部屋の扉が開かれる。

「アーサー様! アーサー様、どこへ行かれたのですか!?」

 女の声だ。でも、女中たちや母のものとも違う。が、どこかで聞いたことがある声であった。
 女が部屋に足を踏み入れた気配がする。扉が閉じる音も聞こえた。
 突然現れた女と二人っきりという状況に、カピバラはさらに気配を消した。
 息を殺して、ベッドの下から女が部屋のあちこちを移動する様子を見つめる。
 お前も【アーサー皇太子】目的だろう。ここにアーサー皇太子はいない。いるのは「アーサー」だ。さっさと出ていけ。
 ぎゅっと目を閉じて嵐が去るのを待つ。

「あ! やっと見つけた! 探しましたよ、アーサー!」

 アーサーが反応するよりも早く、前足を掴まれベッド下から引きずり出される。

「何をするんだ!? 動物愛護法違反だぞ!」

「誰が動物ですか!? あなたは人間でしょう。ほら、良い歳した大人が暴れないのっ!」

 早口で捲し立てた女は、カピバラを慣れた手つきで腕の中に抱え込む。
 成人したカピバラ……しかもじたばたともがいているそれを難なく抱き上げるとは、この女一体何者だ。
 アーサーは逃げ出すのをやめて、女に視線を移した。
 ゆるやかな波をうつ茶色の髪と、カピバラに真っ直ぐな視線を送る茶色の瞳が視界に入る。

「あ……」

 こいつ、知ってる。
 アーサーの脳裏に、もう随分前の出来事が浮かんでは過ぎていく。
 中庭ある植物園。それを囲むように建つ校舎と厩舎。
 昼特有の微睡みに襲われながら開かれた、研究課題の提案と論文の発表。
 講壇に立つのは、背筋をしっかりと伸ばして論文を読み上げる女学生。
 そんな彼女を、アーサーは渡されていた論文のコピー片手に眺めている。
 室内にいるというのに、彼女はアーサーの目には眩しい存在であった。
 言葉をなくしたままのアーサーに、突然現れたその女学生『だった』女は、ぱっと表情を明るくさせて挨拶をした。

「お久しぶりです! アーサー! こうしてお会いするのは、国立大学以来でしょうか? 私が誰だかわかります? 同じ学科だった」

「ジェシカ」

「正解です!」

 彼女の言葉を遮って答えたアーサーに、女もといジェシカは気を良くしたそうで、太陽よりも眩しい笑みをアーサーに見せる。
 逃げる事を諦めたアーサーは、彼女に身を任せることにした。

「……どうして君がここに? 魔法生物の研究をすると言って、郊外にあるその筋の研究所に入所していただろう」

「矢が立ったんですよ。白羽の矢が……」

 さすがに疲れたのか、カピバラを抱えたままベッドへと腰を下ろす。
 カピバラは彼女の膝の上で寝そべる姿をとることになった。

「嫁ぎに来ました」

「弟に?」

「違います。あなたのところに、嫁ぎに来たんですよ」

「僕のところに……? ごめん待って、聞いてない。誰が決めたの? 母上? それとも弟?」

「そうですね……とりあえず言えるのは、色々な人です」

 眩しい笑顔を見せたままの彼女は、細い指でカピバラの背中を撫でる。
 ちくしょう。悔しいことに、彼女の膝が暖かくて、撫でる手が気持ちよくて、もっと撫でろと思ってしまう。
 カピバラがされるがままなのを良いことに、彼女は遠慮なく手を動かした。

「ちょっとは落ち着きましたか? アーサー」

「君、ちょいちょい呼び捨てにするよね」

 アーサーが指摘すると、彼女は慌てた様子で口を手で隠す。

「ごめんなさい。ついつい昔の癖で……。でもあなた、様付けとか皇太子呼びされるの嫌いでしょう?」

 ジェシカの問いに、今度はアーサーが驚く。
「何で知ってる……?」

 彼女はアーサーの言葉にすぐには答えず、カピバラの眉間を指先でつんと弾く。

「何でって、あなた学校で敬称つけて呼ばれるとき、いつもムッとしながら答えてたじゃありませんか」

「眉間にしわが寄ってましたよ。すぐ消してたけど」と笑いながら、カピバラの眉間をつんつんと何度も突っつく。
 確かに、敬称をつけて呼ばれるのは嫌だったけど、表情(かお)には極力出さないようにしていたつもりだ。
 見透かされていた事実を知り、カピバラは押し黙る。

「だからね、私は学校にいるあなたを呼ぶときは、呼び捨てにするように心掛けていたんです」

 気を使われていた。でも、アーサーが嫌がる事を知っていてくれた。
 皇太子のアーサーではなく、ただのアーサーを知っていてくれた存在がいた事を知り、急に恥ずかしくなってそっぽを向く。
 照れた表情(かお)など、見せてやるものか。
 背中を向けたカピバラのそれを、彼女はいつまでも撫で続けている。

「研究所の人たちが、あなたが来なくなってからずっと心配していますよ」

 カピバラは答えない。
 でも、耳はジェシカに向けられている。

「あなたは確かに人間が苦手で、カピバラになって逃げ出しちゃうような人だけど。でも私、知ってますよ。あなたはとても、動物が好きな人で、それと同じくらい研究も好きな人だって。大学にいた頃。あなたが書いた論文を読むの……私、楽しみにしてたんです。真摯に向き合って書いた物だって伝わって来るから」

 カピバラは身じろぎをして、さらに顔を隠した。

「ゆっくりでいいから、一緒に戻りましょう。あなたが居たい世界に」

 研究者は、一人でも多い方が良いですから。

「また一緒に、色々な動物を研究しましょう」

 彼女の言葉に、カピバラはやはり答えない。
 目から流れ落ちる雫が鬱陶しくて、口を開くどころではなかった。




 その夜。カピバラは若いジェシカを伴って、浴室へと足を踏み入れた。

「さあ、アーサー。ゆっくりとジャボンしますよー」

 明るい声音の女の声が、タイル貼りの壁に反響して、楕円形の小さな耳にも響く。
 人間の膝よりもやや少なめに湯が張られた、沐浴用のバスタブ。
 人肌程度に温められた湯からは、白い湯気がゆっくりと立ち、浴室を包み込んでいた。
 沐浴用のバスタブに、人間よりも毛深い身体が沈んでいく。
 うむ。今日もいい湯加減だ。
 などと思う余裕はなく、ぷるぷると震えながら湯に身を任せる。

「アーサー、お背中流しますね。……失礼します」

「どうしてこうなるんだ……!」

 手桶から流れる水の中、ばしゃんと頭を上げて吼えたカピバラに、若い女性が「暴れたらだめですよ」と、背中をわしゃわしゃと洗いながら太ももの間にカピバラを挟む。
 カピバラはさらにぷるぷると震わせる。
 誰か、この状況を説明してほしい。この肌に触れてる柔らかいものは何だ!?
 太もも!? 女の太ももってこんなに柔いものだったか!?
 湯を流してもらっているにも関わらず、カピバラは冷や汗が止まらなかった。
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