short story

【箱入りの、ネコ】


 ◇  ◇  ◇


 例えば。
 いつも歩く道の端に、黒い毛玉の四足歩行の獣が捨てられていたとする。
 素通りする者もいれば、写真だけ撮ってそのままにしていく者もいるだろう。連れて帰る者もいるかもしれない。
 ここでは、その毛玉を連れて帰ったとする。
 毛玉だ。四足歩行の、黒い毛玉。毛玉の頭には三角の耳が一対乗っかっていて、口の中には生え揃ったばかりの歯がある。
 毛玉の為にと、水やご飯を用意していたとしよう。
 お皿を持って毛玉の所に戻ったとき、見覚えのない少女がそこにいたら、あなたはどうしますか。


 ◇  ◇  ◇


 本日の夜は、月も星も見えない空模様だった。
 深い色の黒で、頭上は覆われている。
 日中であれば、灰色の雲が重たく広がっている様子が目に入っただろう。
 明かり一つ無い空を見上げては、物足りなく思う。
 何も見えないなあっと吐き出した息が、白く色づいた。
 冬の始まりではあるが、この季節としてみても冷えきっている。その事に気づいて、ぶるりと身体を震わせた。
 自宅への道も半分を過ぎたところで、いよいよ雨が降り出した。
 ぽつぽつと路面を濡らしていく。
 普段よりも気温が下がっていく夜道を、若い男は一人寂しく歩き進める。
 突然の雨から逃れるように、上着にある帽子で頭を覆った。
 就職戦争に負け続けたまま大学を卒業し、清掃業者でバイトを始めたのが春先。働きはじめてから半年は過ぎている。
 このままでいいとは思わないが、現状に甘えたままでもいいだろうと囁く悪魔が、度々鎌首をもたげる。
 この生活を変えるのは面倒だ。
 今も甘えたな悪魔が首を出して来たところで、冷たい風が吹き抜けた。
 思わず巻いていたマフラーの中へ顎を埋める。

「冬だな……」

 白い霧に似た息と共に、言葉が漏れる。
 懐も寂しく、心を癒してくれる女性(ひと)もいない。
 友人たちは社会人生活真っ盛りで、独り身の男を気にするどころではない。
 幼稚園や小学校、中学校時代は友人に囲まれているのが当たり前だったのに、いつの間にか一人で過ごすのが当たり前になっていた。
 湿った吐息を、空気が冷やす。
 早く帰って、熱い風呂に浸かって寝よう。
 この冬の空気に浸っていたら、重たい心がさらに重くなってしまう。
 歩幅を広げ、歩みを少しだけ速める。
 自宅から一番近い十字路に差し掛かったところで、一際強く冷たい風が道を駆け抜ける。

「さっみぃ……!」

 情けない声音が口から溢れた時だった。

「ミィー」

 今、小さな声が、自分の言葉を真似した気がする。
 足を止めて周囲を見渡す。
 視界に入るのは、濡れ始めた路面とそれを照らす電灯の灯りだ。
 気のせいかと首を傾げて、止めていた足を一歩踏み出す。

「ミィー」

 今度は確実に、男の鼓膜を震わせる。
 気のせいではない。
 誰かが、鳴いているのだ。
 視線を落とし、道の片隅に向ける。
 片腕で抱えられる大きさのダンボールが一つ、ぽつんと置かれている。
 朝にはなかった物だった。
 雨で湿り始めたダンボールの中から、黒い毛玉が顔を覗かせている。
 水色の眼光が、ギラギラと輝いていた。


 ◆  ◆  ◆


「何飲むかな。水か?」

 ダンボールは玄関に置き、中身の毛玉だけを取り出す。
 三角の耳に、アーモンドの形に似た瞳。
 猫と呼び慕われている生き物だ。直に触れるのはいつ以来だろう。
 寒空の下に置いておくのも可哀想だし、猫好きだしという事で、箱ごと連れ帰った。後で里親を探さなければ。
 ダンボールの中に入っていた毛玉は毛づやが良く、飼われている子だったのかなと思考を巡らせる。
 猫はリビングの床に下ろし、自身は台所に向かった。
 猫が飲みやすいように平らな皿を用意して、水を入れる。
 零さないように慎重に持ってリビングに行くと、ネコの身体が徐々に大きくなっていく姿が目に入った。
 四つ足から二本足に。前足は腕に変わり、するすると伸びていく。後ろ足は人間の足に変化して、伸びた身体を支えている。黒い毛皮が、体が隠れるくらいのローブになると、三角の耳はつばの大きな黒い三角帽子に変化した。帽子から覗く髪はキラキラと輝く金色で、二つに分けて三つ編みにしている。目は大きくなっただけで、水色の瞳はネコの時と変わらない。
 黒い毛玉は瞬く間に、小学校高学年生くらいの女の子へと姿を変えた。
 その様子を、ただただ呆然としながら見つめていると、手から力が抜けて持っていた皿が滑り落ちた。
 しまったと思った時にはもう遅い。
 皿は真っ直ぐ、床に引き寄せられている。
 後片付けを覚悟した刹那。
 猫が身の丈ほどの杖を取り出し「止まれ!」と声高々に唱えた。
 床に触れる寸前で、落ちた物が空中で止まる。
 皿から溢れた水も、空中で停止していた。
 男はますますわけが分からず、頭に疑問符が浮かぶばかりだ。
 拾った猫が人間なったかと思えば、今度は魔法みたいな事が目前で繰り広げられて、状況の理解が追い付かない。
 その間に猫は「動け!」と唱え、止まっていた皿と水が、テーブルの上に移動した。
 男は呆然とした顔を、幼い女の子へと向ける。
 水色の瞳が男を捕らえた。
 かかとをつけ、爪先を拳ひとつ分開き、左手は身体につけたたまま、指先を揃えた右手をこめかみにつける。敬礼の姿勢だ。
 彼女の小さな唇が動き出す。

「こんばんは、ご主人様!」

 鼓膜を振動させるどころか、突き破るくらいの大きく甲高い声に思わず耳をふさいだ。

「お寒い中、わたくしめを拾っていただき、感謝致します!」

「どうも……! あの……! ちょっと声の音量落として貰っていいかな……!」

「はい!」

 雷みたいな音に耐えかねて伝えてみるも、大して変わってない音量に顔をしかめる。
 少女は体勢を崩さぬまま、言葉を続けた。

「申し遅れました! わたくし、ネコといいます! イルギール国使い魔専門魔法魔術学校六年生です!」

 聞き覚えのない国名に、首を捻る。
 はて。そんな国名あっただろうかと、脳内に眠る国名を掘り出す。
 それでも彼女の言う国名は見つからない。
 似た国名と聞き間違えたか。

「……イギリス?」

「イルギール国! 使い魔専門魔法魔術学校六年生、ネコです!」

 目を三角の形に変えて少女は訂正し、再度自身の紹介をする。
 いちいち、声の大きな女の子だという思いが口から出そうになるのを必死で耐えた。
「うん……わかった」と適当に相槌をし、休めの姿勢をとらせる。
 女の子は素直に敬礼を解き、足を肩幅分だけ開いて両手を後ろ腰に回した。
 ぱっちりとした目が、男を射抜くように見る。

「失礼ながらご主人様。お名前はなんと申すのでしょうか!」

 そういえば、こちらはまだ彼女に名乗っていなかった。
 名乗っていない人間を「ご主人様」と定めていいのかと思いつつ、頭の後ろを掻きながら口を開く。

「亮太……。三咲亮太(みさきりょうた)だけど……」

「では、亮太さんとお呼びしてよろしいでしょうか!」

「うん。どうぞ」

 元気な彼女に比べて、どんどん力が抜けていく。
 まるで、彼女に気力と体力を吸い取られているようだ。
 ふらふらとしながら傍らにあったソファーに腰をおろす。
 座りなれた場所に来たからか、ざわついてきた心も落ち着いてきた。
 息を一つ吐き出して、「ネコ」と名乗る彼女を見やる。
 猫の姿から、突然人間の姿に変わった女の子。
 聞きたい事が幾つか思い浮かんだ。まずはそれから質問してみよう。

「君はなぜこの国に? ここは魔法使いの住む国じゃないよ」

「卒業試験の為であります!」

「卒業試験……?」

 眉をひそめて問い返す。
 ネコは胸を張って、誇らしげに言葉を続けた。

「魔法使いのいない人間界で、『人間を一人幸せにしろ』というのがネコに課せられた卒業試験であります!」

「へえ」

 また随分と身勝手な試験だなあっと、苦い笑いが込み上げる。
 他人の幸せの指標を試験に使うなんて。それも、小さな女の子に判断されるなんて。
 不幸だと判断され、指摘されたら、腹の底がぐつぐつと変な動きをみせるだろう。少なくとも自分はそうだ。
 一見、小学校高学年とさして年齢が変わらなく見えるのに、試験を受けないといけないのかという同情も、少しではあるが胸のうちに生まれる。
 小学校は特に大きな試練もなく卒業して、中学受験も経験してない自分には未知の世界である。

「卒業試験に来たのはわかったけど……何で猫に化けてたの? 試験と関係してるのか?」

「ネコだからであります!」

 そう言って、ネコは猫の姿に一瞬で戻り、また少女の姿に戻る。

「ネコの本来の姿は猫! 捨てられた猫のふりをして人間たちを観察していたであります!」

「なるほど……」

 納得をして頷いたところで、ピタリと動きを止める。
 観察をしていたという事は、連れて来ない方がよかっただろうか。
 この状況は、試験の邪魔をしているのでは。
 丸い双眸がある彼女の顔を、じいっと凝視する。

「……どうしたでありますか?」

 見られた方は首を傾けた後、ふと思いついたかのように目を輝かせ、頬を桜色に染め上げた。

「あ! さては、ネコに惚れちゃいましたか! 照れるであります!」

「それはない」

「ひどい!」

「照れる照れる」と、気持ち悪く身体をくねらせるネコへ、間髪入れずに否定する。
 すると、ネコは床に膝をつき、さめざめと泣き出した。

「大体の人は、ネコの姿を見るとメロメロになるのに……!」

「メロメロって……。君の場合、ネコはネコでも『猫』の方で気に入られてるんだろう?」

「そうでありますが……! ……完全否定してきたのはご主人様が初めてであります……」

 よよよと、涙ぐむ彼女を尻目に、深い息を吐き出し本題に入る。

「試験の邪魔して悪かった。元の場所まで送ってあげるよ」

「え……?」
 ピタリと泣くのをやめて、ネコが男の顔を仰ぎ見る。
 今度はこちらが凝視される番となった。
 なんだろう。この……胸の内側をくすぐられるような視線は。
 彼女の視線を切るようにソファーから立ち上がり、廊下へ出る扉を開ける。

「卒業試験だかなんだか、まだ理解しきれてないけど、まあ頑張れよ」

「え……あ……いや、あの……」

 少女は、座り込んだままもじもじと身体を動かし、視線を泳がせる。

「なんだよ。トイレか?」

「そうではなくて……」

 歯切れの悪い言葉を、ネコは繰り返す。
 先ほどまでの、雷に似た勢いはどこへ行ったのか。

「卒業試験やらないと、卒業出来ないんだろう?」

「はい……」

「じゃあ、外に行かないと」

「そうでありますが……もう夜だし……暗いし……雨降ってるし……濡れちゃうし……段ボール箱の中は寒いし…………」

 捨て猫だった時の事を思い出して、怖くて震えてしまう。
 言葉を伝える声が、徐々に小さくなる。
 外の寒さを思い出したのか、ぶるりと身体を震わせる。
 上がっていた頭も、項垂れてしまった。
 亮太も、どうしたものかと後ろ頭を掻く。
 確かに、今の時間帯は暗いし寒い。
 が、家に帰れば解決する案件ではないだろうか。

「家に帰らないの?」

「今回の試験は、独り立ちをする訓練も含まれているのであります。だから、課題が終わるまで帰れないのです。でも……」

 男の問いに、ネコは勢いをつけて答え始めたが、肝心なところでしおしおと声音が萎んでしまう。
 瞬きを二つ三つ終えてから、男は思い当たった事実を突きつけた。

「もしかして……泊まる家がないのか?」

「さすがはご主人様! 察しがよろしい!」

 ガバッという効果音が聞こえるほどの勢いで、彼女は頭を上げる。
 水色の瞳がキラキラとして見えるのは、涙ぐんでいるからか。何かに期待しているからか。
 どちらかは判断しかねるが、男の胸の内には嫌な予感というものが広がっていた。

「実はこのネコ、住む家が見つからず困っていたのです……! 人間界の家賃はどこも高くて、ネコには払えません! 朝から人間観察ついでに、拾ってくださるご主人様も探していたのですが、みんなネコの事に気づいても拾ってくださらなかった……」

 道行く老若男女は、ネコの猫の姿を目に留めても、写真を撮っても、頭を撫でても、連れて帰ろうとする人は居なかった。
「今日は野宿かなぁ」っと、耳を垂らしてうずくまっていたところに、この男が通りかかったのだ。
 膝歩きをして間合いを詰めて来たネコが、ズボンの裾を掴んで男を見上げる。
 小さな口から出たのは、心の奥底から来る懇願であった。

「お願いであります、ご主人様! 課題が終わるまでどうかネコをこの家に置いてください! お手伝い出来ることがあればしますから! 終わったら、直ぐ出ていきますからーーーー!」




 庭にできた水溜まりに雀たちが集まり、くちばしで水面を突く。
 昨日の夜に雨が降っていたとは思えないほど、今朝の空は青く澄んでいた。
 そこに散らばる、ちぎった綿に似た雲も灰色ではない。
 真っ白な綿飴だ。

「おいしそう……」

 腰の辺りから、小さくも物騒な呟きがこぼれる。
 視線を下げて声の主を見やると、窓にべったりと顔を貼り付けて庭に集まる雀を眺めていた。
 寝る前はきれいに背中に流れていたはずの金髪は、寝癖で波うち、毛先があちこちに跳ねている。
 結局、昨夜の懇願に押し負けて、試験が終わるまでの間だが世話をする事になってしまった。
 拾ってきてしまった責任というものもある。
 人間を幸せにするのが課題なのに、課題をする本人がいきなり崖っぷちとは、学校の教師も本人も何を考えているのかと首を捻ってしまう。
 けれど、泣き顔のまま寒い外に放り出すのは良心に反した。
 じぃっと食い入るように雀を眺める少女に、ひとつ咳払いをしてから口を開いた。

「食べるなよ」

「はい!」

 返事は立派だが、視線は雀に向けられたままだ。
 今夜は鶏肉料理にでもするべきか。

「俺はバイトに行くけど、君は今日何をしてるんだ?」

「猫の姿で町に出て、人間観察であります!」

「……捕まるなよ」

「気をつけるであります!」

 自己紹介した時と同じ声量で、ネコは答える。
 彼女の顔にあるややつり上がり気味の青い瞳は、外に広がる青とよく似た輝きをしていた。
 冬の入り。
 使い魔ネコとの共同生活が始まった。


 ◇  ◇  ◇


 例えば。
 いつも歩く道の端に、黒い毛玉の四足歩行の獣が捨てられていたとする。
 素通りする者もいれば、写真だけ撮ってそのままにしていく者もいるだろう。連れて帰る者もいるかもしれない。
 ここでは、その毛玉を連れて帰ったとする。
 毛玉だ。四足歩行の、黒い毛玉。毛玉の頭には三角の耳が一対乗っかっていて、口の中には生え揃ったばかりの歯がある。
 毛玉の為にと、水やご飯を用意していたとしよう。
 お皿を持って毛玉の所に戻ったとき、見覚えのない少女がそこにいたら、あなたはどうしますか。 
 俺の場合は、『飼う』事にしました。


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