short story

あの空じゃない

 ──描きたいのは、あの空じゃない。

 夏休み中に、母方のお祖母さんが住んでいた村に引っ越して来たぼくを、クラスメイトと先生方は盛大に迎え入れてくれた。一学年一クラスしかない、校舎も二階建てまでの小さな小学校。校舎は海の近くにあって、雑木林が海と学校を隔てている。天気次第では、波の音が聞こえた。
 ぼくは三年生。教室は二階、少人数教室で使う空き教室の隣。クラスの子達はぼくの相手をしつつ、田んぼの中にあるこんもりと生い茂った林の中で見つかった男の変死体の話でもちきりだった。その林の中には古びた小さな社があって、クラスの子達は「お化けが殺した」だとか「神様が殺した」とか熱く楽しげに語り合っていた。ぼくのお母さんは「ヤンキーが火遊びでもしたんでしょう」と言っていた。こんもりとした林は、不良たちの溜まり場で有名だったのだ。地元民はみんな知っている。小学校では「お化けの出る林」で有名だと、クラスの子が教えてくれてた。
 でも、ぼくはどの説も「違う」と思っている。思うだけで口には出さない。だって、絶対「可笑しい」と笑われるから。なにより、ぼくが思い出したくなかったから。
 薄暗い林の中にある古くて小さなお社。うーうーぐるぐると聞こえる唸り声。埃で汚れた窓の向こう側に現れた、白い手。白くて細い指が、開けてくれと窓をかく様を、ぼくは震えながら見ていることしかできなかった。
 お社の戸を開けていたらどうなっていたのだろう。
 動けなかったぼくを助けてくれたのは、若い顔立ちのお坊さんみたいな人だった。お坊さんと似たような格好をしていたけど、真昼の太陽と同じ色のふわふわとした髪と、瞳が印象的な若い男性。

 ──開けてはいけないよ。

 思い出しては怖がって震える夜も、その人の声を思い出すと不思議なことにゆっくりと落ち着きを取り戻せる。まるで仏様みたい。
 二学期が始まってから一週間ほどかけて、クラスの子たちは村のこと、学校のことを詳しく教えてくれた。
 道の駅は十七時で閉まる。よく集まって遊ぶ場所は小学校の隣にある公民館の駐車場。公民館が開くのは金曜日だけ。中には図書室があって本も借りられる。駄菓子屋さんは学校の裏にある。行き着けの公園は海沿いの公園。公園にある展望台は、お化け展望台と呼ばれている。

「なんで?」

「お化けが住んでるんだって、うちの兄貴が言ってた」

 だから、子どもだけで行ってはいけない。お化けと会ってしまうから。
「そんなもの居るわけないじゃんね」と、一番最初に友達になってくれた男の子が笑う。坊主頭で、いつもサッカーのレプリカユニフォームを着て登校している男の子だ。
 坊主頭は「よいせ」と絵の具と画板を持ち直して、ぼくの一歩先を歩く。今は図工の時間で、子ども展覧会に出す絵を書く為に、三年生と四年生は海沿いの公園に来ていた。公園には石畳で出来た大きな広場とあひるボードがある池。土日祝日だけ稼働する小さなジェットコースターと観覧車、ゴーカート場、フードコートもある。
 一際目立つのは、波消ブロックを大きくした形の展望台だ。三年生はこの展望台を題材にして絵を描くと先生が言っていた。遠くから見ると白く見えるけど、近づいてみると雨水が流れたあとがしつこく残っている。屋上に行ける階段をちらりと覗いてみたら、こちらも綺麗とは言いがたかった。建てられた年は、ぼくたちが生まれるうんと前らしい。展望台の足元には小さな祠があって、中にはお地蔵さまがぽつんと佇んでいた。

「こんなところにもお地蔵さまがあるんだなあ」

 ぼくは、とりあえず坊主頭や他の男の子たちについて行って、展望台が描きやすい位置を探し回って、結局先生がオススメした広場に落ち着いた。今日の天気はぴかぴかな晴れ。太陽のせいで画用紙が眩しい。
 展望台をじっと睨み、画用紙に描き写していく。始めた頃は波消ブロックに見えていた展望台も、だんだんタコの姿に見えてきた。三本の足で身体を支えるタコ。空に向かってにゅっと伸びた箇所は頭の部分。
 展望台の背景は真っ青な絵の具で塗ろう。黒ずんでるけど白い展望台によく似合うと思ったし、そもそも今日は晴れだから、展望台の向こう側には青い空ともこもこした雲が見えている。
 集中力が切れてきたぼくは、ついつい空の模様に視線がいってしまう。
 あっちの雲は恐竜の背中みたい。あそこにある雲は、わたあめみたい。あの雲は。

「キノコみたい」

〈──違う!〉

 空をぼんやりと眺めながら呟いた時、鋭くてひやりとした低い声音が耳に届いた。怒っている時の男の声だった。
 ぼくの肩がびくりと跳ねる。聞こえたのは背中の方からだった。
 振り向いて確かめたい。どんな男が、そんな声を出したのか。
 首を動かそうとした時、あの夏休みにあったお坊さんみたいな男の言葉を思い出す。
 開けてはいけない。振り向いてはいけない。

〈違う! 違う! この空じゃない! あの雲じゃない!〉

 ぼくが見ないようにしている間も、男の怒った声が耳に届く。とてもうるさくて、こわい。
 ずっと聞いていると苦しくて、耳を塞いでぎゅっと目を閉じる。
 早くどこかに行って。早く消えて。

「どうしたあー?」

「わあっ!」

 横から頬っぺたを突っつかれ、ぼくの喉から変な声が出る。閉じていた目もぱっと開いてしまった。
 突っついてきたのは、坊主頭だ。きょとんと首を傾げている姿が目に飛び込む。そして、視界の端っこに、黒いものも入った。
「しまった」と思った時にはもう遅くて、ぼくの目は黒いものをはっきりと見てしまう。
 ボロボロの黒い服と、ぼさぼさに伸びた黒い髪。左の脇の下に厚めの板を挟んでいて、右手はひたすら顔をかきむしっている。髪の毛と指の僅かな隙間から、男の顔が赤く腫れているのが見えた。

〈ああ……! 描きたいのはあの空じゃない…………!〉

 がりがりと顔をかきながら、男はよたよたと歩き出す。その方向には展望台があった。
 声音は怖いのに、よたよたと歩いていく背中は弱々しい。
 ぼくは「おーい」と呼ぶ坊主頭の声に「ちょっとトイレ」とだけ返して、男を追いかけた。とても怖くて恐ろしいのに、どうしても目が離せないのだ。展望台の下にトイレがあるから、都合が良い。
 男はお地蔵さまの前を通り、展望台の中へと入って階段を上っていく。ぼくが追いかけてることには気づいてないらしく、ずっと「あの空じゃない」「この空じゃない」と繰り返していた。
 小さくなっていく男の声を聞きながら、階段の様子を確認する。
 屋上へと続く階段はひっそりとしていて、ぼくと男以外は誰もいない。
 ぼくは、周囲に先生やクラスの子達が居ないことを確かめてから、階段の一段目に足をかける。続いて二段目と足をあげたとき、ちゃりんという金属が触れ合う音が聞こえた。はっと息を呑んで、気づいた時には細くて長い金属製の柄が、ぼくの行く手を阻んでいる。
 ぼくが驚いたまま動けずにいると、夏休みに聞いた声が耳の奥を震わせた。

「──行ってはいけない」

 あの柔らかで落ち着いた声音が忠告する。
 ゆっくりと、柄を辿って視線を滑らせる。見えた顔は、夏休みに見たものと同じ。あの古びた社の前で会った時と何一つ変わらない姿で、お坊さんに似た雰囲気の男が、ぼくのすぐ傍らに居た。
 男は微笑みを一つ見せた後、ぼくの肩に手を置いて外に出るよう促す。
 ほんのちょっとの時間だったのに、外の世界が大変眩しく感じられた。
 お地蔵さまの前まで移動したところで、お坊さんみたいな男は足を止めて、ぼくと向かい合う。

「だめだよ、知らない人について行ったら」

 困ったような表情をしているけど、しっかりと芯のある叱り声だった。
「ごめんなさい」と素直に返してから、ぼくは好奇心に負けた気まずさと恥ずかしさから逃げたくなって、展望台の屋上に視線を投げた。
 あの黒い男の人は、まだあそこに居るのだろうか。

「あの人は何なの? お化け?」

 人間の姿をしているけど、人間ではない気がした。だって、クラスの子たちも先生も気づいてない様子だった。あんなに怖くて、冷たい声で怒っているのに、誰も反応していなかった。ぼくだけだ、気づいたのは。そして、このお坊さんみたいな男の人も気づいている。
 ぼくの問いに、お坊さんみたいな男の人が首を傾ける気配を感じた。やっぱり、あの黒い男の正体を知っているんだ。

「うーん、お化けとは少し違うかなあ」

「お化けじゃないなら、なんなの?」

「あれはねえ……」

 お坊さんみたいな男の人は、言葉を区切ってからゆっくりと口を開いた。

「心残りみたいなもの、かな? あの男の人が持っていた、想いの欠片だ」

「想い……?」

 男の人が言う単語がいまいちピンと来なくて、今度はぼくが首を傾けた。
 ぼくの反応を見て、男の人が言葉を続ける。

「人の子はね、心残りがあると、現世に置いたままあの世に行ってしまうんだ。あの人は少し前に亡くなって、私があの世に送り届けたのだけど、残された想いだけがこの場に残ってしまった」

 ぼくはお坊さんみたいな男の人に、視線を戻す。
 男の人は、ぼくではなく展望台を見上げている。
 声音は朗らかなのに、その横顔はどこか寂しげで、切なさがあった。

「どうして、残されたの?」

 男の人の視線が、ぼくの方へ戻る。

「強い想いというのはね、本人も気づかないうちに残してしまうのもなのだよ。彼もそうだったんだろう。…………受け入れたつもりでも、どうしても納得できない部分があったんだ」

 刹那。
 ぶわりと背筋が粟立つ嫌な風が吹いた。続けて、重たいものが落ちる音が耳に届く。
 ぼくは、驚いたまま音の方を確かめに行くと、あの黒い男の人が地面に倒れていた。いや、よく見ると真っ黒な塊だ。
 塊はうごうごと伸び縮みしながら、天へ伸びていく。
 うごうごねちょねちょと、手足を伸ばし、頭を丸め、ボロボロな衣服と髪を作っていく。
 出来上がったのは、あの真っ黒な男の人だった。

〈──あの空じゃない。描きたいのはあの空じゃない〉

 真っ黒な男の人が、呻き声の中で言葉を発する。
 厚めの板を抱えて歩き出すと、ぼくとお坊さんみたいな男の脇を通って、また展望台へと向かっていった。

「なん…………なの?」

 あの男は、何なの?
 どうして展望台から落ちたの?
 どうしてまた展望台に行くの?
 口にしなくてもぼくの疑問が届いたのか、お坊さんみたいな男の人が口を開いた。

「ずっとこれを繰り返しているんだ。彼の心残りは、死よりも苦しいものだったんだろうね」

「止められないの?」

 このまま何度も地面に落ちるのはかわいいそうだと思った。
 ぼくの問いに、お坊さんみたいな男の人は「そうだね」と考えを巡らせるように答え、展望台の側にあるお地蔵さまに身体の正面を向けた。

「もしかしたら、お地蔵様が助けてくれるかもしれない。ただ、最近手を合わせてもらえなくて、助ける力が弱まってしまっているから……上手く助けられるかどうかはわからないな」

「じゃあ、ぼくが手を合わせるよ!」

 あの男の人が消えるまで、何回でも。
 手を合わせるくらいなら、子どものぼくでもできるから。
 ぼくが訴えると、お坊さんみたいな男の人が僅かに目を見開く。
 そして嬉しそうに微笑むと、ぼくの頭をわしゃりと一撫でした。

「頼もしいね。じゃあ、お願いしようかな。手を合わせたいと思った君に、特別な言葉を教えてあげる」



 道端で見つけた野花を花束にして、お地蔵様の側にあった花瓶に挿す。
 ぼくは、お地蔵様の周囲に変わりがないことを確認する。お地蔵様の胸に掛けられた赤いよだれ掛けが目に入る。色は褪せているが、まだ赤い部分が残っていた。
 あのお坊さんに似た男の話では、お地蔵様に願いが届くとよだれ掛けから色が消えるそうだ。まだ残っているということは、ぼくの願いがまだ届いていないということ。
 手を合わせ、男に教えられた特別な言葉を繰り返す。

「おん かかか びさんまえい そわか」

 ──おん かかか びさんまえい そわか。

 繰り返し、繰り返し、声音で、胸の内側で、言葉を紡ぐ。
 お地蔵様に手を合わせるようになってから、あの展望台に居た真っ黒な男はぼくの目に見えなくなった。
 でも、展望台に近づくとどんよりとした空気と奇妙な気配を感じるので、真っ黒な男はまだ居るのだろう。そして何度も展望台から落ちて、自分を殺しているのだ。
 写生会から幾日か経って、ぼくはあの男の正体を偶然知ることになった。
 母に連れられて行った村にある道の駅で、絵画の個展が開かれていたのだ。その絵画は、恐ろしい炎と燃える建物、炎から逃げ惑う人間や火に焼かれる人間、川に飛び込む人間が幾つも描かれていた。
 とても怖い絵ばかりだった。ただその中に一つだけ、真っ青な空と空と同じくらい青い海。たなびく白い雲と優しげに微笑む女性の絵が描かれたものがあった。
「誰がこの絵を?」と思って、作者の紹介欄を見てみると、あの真っ黒な男に似た男性の写真があった。プロフィールもあったけど、読めない漢字が多くて、お母さんに読むのを助けてもらった。
 お母さんに聞いてわかったのは、この男の人は何十年も前に、遠い場所からぼくが暮らす村へ引っ越してきたこと。引っ越す前に、遠い場所で恐ろしい爆弾を目撃したこと。その爆弾の下で家族を亡くしたこと。とても怖くて恐ろしいものなので、みんなが忘れないように絵に描いて残したこと。その活動が評価されて、全国で個展を開いたこと。

『受け入れたつもりでも、どうしても納得できない部分があったんだ』

 お坊さんに似た言葉を思い出す。
 写真の中では、柔らかな表情をしていた真っ黒な男の人。
 納得できない部分ってなんだったんだろう。
 子どものぼくも、いつか理解できる時が来るのかな。
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