short story


 ──その財布と出会ったのは、運命だったのかもしれない。

 長年使っていた財布が、スポーツドリンクの海に浸かってしまった。ドリンクの蓋がしっかりと閉まっていなかったらしく、鞄の中で横たわった瞬間に溢れてしまったようだ。共に入れて居た財布とエコバッグが被害に遭い、甘い匂いがついてしまっている。エコバッグは洗えるからいいとして、財布はどうしたものか。中までは浸っていないようだが、表面の布地はびちゃびちゃだ。洗っても乾くまでに時間がかかりそうである。

「代わりの財布を買わなくちゃ」

 そんな言葉が自然と口からこぼれ出て、コインケースに手持ちのお札と入る分だけの小銭を詰め込み、バタバタと家を出た。今月はなにかと出費が多いのにとか言っていられない。
 とにかく安く手に入る場所へと向かったのは、家から一番近い場所にある古物商店。財布が並ぶ棚に早足で向かい、使い勝手が良さそうな物を探す。代わりの財布だから見た目はどうでもいいかと、目についた財布を取り上げた時、頭に低く響く声が届いた。

《ならぬ》

 伸ばした手を止めて、辺りをきょろきょろと見る。この場にいるのは自分だけだ。気のせいかと思ってもう一度手を出すと、再び同じ声が届いた。
 しばし手を出すのをやめて、棚に並ぶ財布の群れに視線を落とす。紫色の長財布が目についた。取り上げてみれば、しっとりと手に吸いつくような生地。開け口はがま口タイプで金色の金具が鮮やかであった。なんだかハシビロコウに似ている気がする。
「この子だ」と一目で気に入って、レジへと持っていく。
 店員さんが「こんな財布あったかな?」とぼやきながらもレジを通し、紫のがま口くんは自分の物になった。
 生活が一変したのは、紫のがま口くんにお札や小銭を移した時であった。

 地面に額を擦り付ける勢いで、頭を下げていた。正座した足が自分の体重で床に押し付けれて痛いが、そうも言ってられない状況だ。

「なにとぞ……!」

 必死に懇願する先に、人間の姿はない。人間の姿も無ければ、犬猫等の獣の姿もない。あるのは、固く口を閉ざした紫色の財布があるだけだ。
 あの日、紫のがま口くんを迎えた日。お金を入れた途端、息を吹き返したかのように饒舌に喋り、そして、口を閉ざした。口を閉ざした為、入れ忘れていたポイントカードを入れる事も出来ないし、中にしまっていたカードもお金も出せず途方に暮れたが、見た目を誉め倒してその日は切り抜けた。
 がま口君曰く「我は付喪神である。そなたのお金を管理するものなり」「今月、使いすぎである」「当面の間、我が出し入れする」などと言い、今日まで実行している。おかげで無駄遣いは減り、貯金も僅かばかりだが増えている。が、お金が必要な時に財布が開けないという事態が頻発していた。

「なにとぞ、その口を開けてください……! 手持ちがピンチなんです……! 水道代と電気代もまだ引き出せて無いんですよ……!」

 銀行のカードを財布に入れたままにしていた。クレジットカードもだ。その財布が固く閉ざしてしまったことで、ATMからお金が引き出せないし、カードで買い物もできない。番号とセキュリティーコードを覚えている人間などこの世に存在するのだろうか。
 どれほど懇願しても、財布はぴくりとも動かない。しんと静まり返ったままだ。

「お願いします! どうかその口を開けてください! 今晩のおかずが無いんです! 買いに行きたいんです!」

 そこまで伝えたところで、財布がようやく反応を見せた。

〈お主、昨日買い物をしているな。米に味噌にきゅうりに冷凍野菜も多数〉

 なぜ知っている。

〈レシートが札の間にある〉

 またやってしまった。

〈見たところ、カップ麺も買っているようだな〉

 おう……っ!

〈……ならぬ〉

 財布はまた口を閉ざした。

「ならぬではない! ならぬではないんですーーーー!」

「今日はお弁当の気分なんです!」と叫んでも、財布は口を閉ざしたままだった。
 わたしの財布は口が固いが、お金の使い方に困らなくなったのは確かだ。

 ◆  ◆  ◆

「付喪神が居ない?」

 部下であるシマエナガが持ってきた報告に、五道転輪王の書記官で獄卒課の課長でもある鬼は、形の良い眉をつり上げた。眉の下にある赤紫色の瞳を持つ目がギラリと光る。
 他の部下(ごくそつ)であれば、その場から逃げ出しているだろうが、獄卒でありながら、飼い鳥みたいな扱いを受けているシマエナガはそんな素振りを見せず、課長の肩に止まったままだ。ばさりと羽根を広げ、ジェスチャーを交えながら言葉を続ける。

「なんかねえ、宝物庫のお掃除をしていた子達が、【お財布がひとつ無い!】って大騒ぎしてたよー!」

「お財布……」と呟きながら、課長は指を顎にそえて、頭を傾ける。
 この冥府には、かつて神が使っていた神器や小道具、付喪神に変異した道具や呪詛に使われた道具が宝物庫に保管されている。現世に残してある物もあるが、現世の書物にも残らない細かで強力な道具や、人間の生活に影響を与えそうな代物は、人の子の手に渡らないよう大切にしまわれていた。特に、自力移動が得意な付喪神は、毎日細かく点検という名の点呼をしている。楽器等音が出るモノは音を出して答えてくれるが、そうで無いモノは目視による確認だ。お財布などがそうだ。

「お財布の付喪神……もしかしてあの子ですかね? 紫色の長財布」

「課長知ってるの?」

「ええ。私も管理者の一人ですし。宝物庫から飛んで行きそうなのは、あの財布くらいでしょうから。ハシビロコウみたいな見た目をしているのですよ。人に害は与えないでしょうけどひとまず……」

 課長は指を組み、ぱきりと骨を鳴らす。

「逃がした獄卒はどなたです? 一発食らわす」

「みぞおちに? それとも、肩に?」

 可愛らしく身体を傾けたシマエナガに、課長は淡々とした口調で答えた。

「頬っぺたです」
11/11ページ
スキ