short story
──開けてはいけないよ。
ぼくがその村に引っ越してきたのは、梅雨の蒸し暑さが残る夏休みのことだった。
その村は、お母さんのお祖母さんが住んでいた場所で、お母さんは子どもの頃以来。僕は初めて足を踏み入れた。
村と言っても、山奥の奥にあるわけではない。土地は平たく、南に進んでいけば海水浴とサーフィンができる海があり、広くはないけど人がよく来る道の駅もある。名物は産地直送の野菜と海産物。暑くなりやすいけど、冬はそこそこ暖かい。「昔は何もなかった」と母は笑っていたが、今は別荘地として栄え、そこそこに人の気配を感じ取れるし、小学校も中学校もある。それが、ぼくが引っ越してきた村だ。
お母さんの車は、お家が密集している場所を抜けて、ぼくが秋から通う小学校を通りすぎて、バイクに乗った若いお兄ちゃんたちの集団とすれ違いつつ、お地蔵さまがある十字路を真っ直ぐ進み、見えていた海からもどんどんはなれていく。
新しいお家は、ちょっとだけ寂しい場所にあるそうだ。「怖い場所?」と聞いたら、母はけらけらと笑った。近くには公園もあるし、お家もあるし、昔ながらの個人商店もあるから、ぽつんと一軒家でも怖い場所でも無いそうだ。
ぼくは「なんだあ」とわざとらしく残念な素振りをして、窓の外に視線を向ける。
母の車は、右手側に田んぼが広がる道を走っている。どこまでも田んぼ。その田んぼの中に、こんもりと盛り上がるように生い茂った林のようなものが見えた。
「あれはなんだろう?」と眺めていると、林の麓に白い影がちらりと見えた。地平線に近い場所にそのこんもりとした林はあるのに、白い影ははっきりとぼくを見据えている。ぼくは息を詰めて、窓から顔を離した。
「どうしたの?」と母が聞く。
「なんでもない」と返してから、ぼくはもう一度林を見た。
遠いし車は走っているしで、顔の作りはよく見えなかったけど、白い服を着た髪の長い女の人が確かにこっちを見ていたのだ。でも今は何も居ない。
「気のせい……?」とひとりごちたぼくは、座席に放り投げていたゲーム機に手を伸ばした。
夏休み中盤。お引っ越しを終えて、村の土地にもなれて来たぼくは、自転車を走らせていた。自由研究で村の地図を作ろうと思ったのだ。学校や道の駅がある場所は直ぐに覚えて、地図に真っ先に書いた。次はどの場所を記入しようかと思ったところで、あのこんもりと生い茂った林を思い出し、夏の暑い空気をたっぷりと吸いながら、自転車を夢中で漕ぐ。
あの林はお家からもそんなに遠くなく、お母さんの車で走った大きな道路を通って、お地蔵さまがある十字路を林の方へ曲がってまた直進。
こんもりとした林に着いて、ぼくは自転車に乗ったまま身震いする。
見た目以上に、なんだか暗い雰囲気。まだ午前中で、太陽は昇ったばかりなのに、影が濃い気がする。生い茂った葉っぱたちのせいか、それとも陰鬱な空気に包まれたお堂か社のせいか。林の奥にあるそれは、人を受け入れる気がないように見える。
自転車を邪魔にならない場所に置いて、林の中へゆっくりと足を進めた。
誰か出入りしているのか。林の入り口から奥までの道は、地面がむき出しになっているけどぺたんこである。道には車輪が走った痕跡や潰されたタバコの吸い殻。ビニール袋もあちこちに放置されてた。
お堂みたいな社に近づくにつれて、ぼくの呼吸は浅くなり、首筋や背中に冷たい汗がじわりとじわりと滲み出て伝う。
そして、獣が唸るようなくぐもった声が耳に響いて来た。音はお堂みたいな社から聞こえる。
「誰かいるの……?」
言葉は返ってこない。
遠くから見ても暗い建物だったが、近くで見ても暗くじめっとしている。全体的に古びていて、階段も土埃まみれだし、格子作りのガラス戸はガラスが埃で曇っていた。そのせいで、中の様子は見えない。
うーうーぐるぐると唸る声は、絶えずぼくの耳を震わせる。
扉に手を差しのべたところで、内側からどんっと音が鳴った。
ぼくは短い悲鳴を上げて尻餅をつく。信じられない思いで、ガラス戸を見た。白い手が突き出すようにガラスに触れていた。埃にまみれていても、それが手だとはっきりわかった。白くて細い指が埃をかきむしっている。
ぼくが、声も出せずに震えていると、背後から大きな手のひらがぼくの目を覆って、唸り声を消すように柔らかくも力強い男の声がした。
「──開けてはいけないよ」
耳の側で声がしているのに、頭の中に直接入って来るような声音だ。
男の声は、ふっと息吐く笑みを挟んでまだ続く。
「私的には、好奇心というものは大事にしてもらいたいけどね、中には開けてはいけない、封じたままでいた方が良い物もあるんだよ」
ちゃらんと、金属と金属が触れ合う音がしてから男の手が顔からはなれて、ようやく視界が元に戻った。
首を回して、男の姿を認める。
若い男だった。着ている服は、お葬式で見るお坊さんと同じもの。お坊様と違うのは、ふわふわと毛先が跳ねた、真昼の太陽と同じ明るい色の髪と瞳。右手には錫杖が握られていて、小さなわっかが六つ、てっぺんにあるわっかに着いている。ちゃらちゃらと音がしたのはそのわっかだと、男が動いた時に気づいた。
男の手がぼくの肩に回されて「戻ろう」と促す。
自転車まで戻る道の中で、男は言った。
「いいかい。真っ直ぐ前を向いて帰りなさい。お地蔵様がある十字路を抜けるまで、絶対に振り返ってはいけないよ」
「わかったね?」と、強く念を押される。
男の目は優しい眼差しを向けているけど、言葉はとても強く、ぼくはただただ「うん」とうなずく事しか出来なかった。
その日から何日も過ぎて。ぼくはお母さんとスーパーに行くために、再びこんもりとした林が見える大きな道路を車で走っていた。
林が見えて、なんとなく視線を向けると、パトカーや消防車がたくさん林を囲むようにして停まっている。
ぼくが「どうしたの?」とお母さんに聞くとお母さんも首を傾げていた。
「さあねえ。誰か火遊びでもしたんじゃないの? あそこは人気もないし、昔からヤンキーの溜まり場になるのよねえ」
「〝お化けが出る〟って有名なのに、よく集まるわよねえ」と、お母さんは呆れる。
お母さんの口から出た〝お化け〟という言葉に反応して、ぼくの頭にあのガラス越しの白い手と、白い服を着た女の人が過ぎていった。
夏休みが終わってから、あのこんもりとした林の中で男の人が死んでいるのが見つかったと、クラスの子から聞いた。夏休み明けの教室は、転入生のぼくか、お化けが出る林の話題でもちきりだった。
──開けてはいけないよ。
殺された男の人は、開けてしまったのかな。
好奇心という、扉を。