神様SS集



【神様がいない夏】


 高く青い空に向かって、蝉がわめいている。
 ミンミン、ジージーの大合唱が毎日のように行われている、夏。
 真っ青な空に、もくもくと天上に昇る白い雲が映える季節だ。気温も高く、蒸しっとしている。
 地球という大きな蒸し器の中に放り込まれたみたい。
 そんな事を思いながら制服姿の中学生女子、真行寺千夏(しんぎょうじ ちか)は、町中から少し外れた場所にある護国神社に足を伸ばしていた。
 小さな社の参道に置かれたベンチに座って、近くの駄菓子屋さんで買ったアイスキャンディーを食べるのが、彼女の日課になりつつあった。
 ベンチに腰を下ろし、肩より少し長いくらいの真っ黒な髪をつむじの辺りで縛って、首筋の風通しを良くする。
 社に来るのは、夏休みの補習授業の終わりだったり、宿題を進める合間だったりとまちまちだ。なので、着ている服もまちまちである。
 今日は午前中の補習が終わってから直接来たので、白いセーラー服と紺色のプリーツスカートだ。
 夏用の制服とはいえど、生地がしっかりとした作りなので、風通しは良いものとは感じない。
 たらりと一粒、首筋から汗が伝う。
 社の参道には楠木が並んでいて、枝と葉っぱで出来たトンネルを作り出し、太陽の光を遮ってくれている。
 それでも、暑いものは暑いのだ。
 その暑いなかでアイスを食べるのが、千夏は好きだし幸せだった。
 家の中で、扇風機の風に当たりながら食べるのも趣があって好きだが、外で食べる解放感もまた格別である。
 問答無用で暑くしてくる蒸し器に逆らっているところが。
 髪を縛ってからようやく一息ついたところで、アイスの封を開いた。
 今日はソーダ味のアイスキャンディーだ。粗く砕いたかき氷を、水色のしっとりとしたアイスキャンディーの膜で包んで出来ている。
 がりっと一口、口に含ませると、ソーダ味の甘く爽やかな香りが鼻を抜け、荒削りの氷が舌を冷やした。
 しゃりしゃりとした氷の食感を楽しみつつ、食べ進めていく。
 下部の方へたどり着くと、既に溶け出していて今にも棒から離れそうだ。そのまま食べると、下手したら落ちてしまいそう。
 今にも溶け落ちそうな氷の塊を指で摘まみ取り、口へと運んだ。
 しゃくしゃくと、氷を咀嚼する。
 若い男の声がしたのは、そんな時であった。
「毎日、毎日…………氷菓子なんか食べて、よく腹を壊さないなあ」
 口を動かしたまま、いつの間にか隣に座っていた男を見上げる。
 精悍な顔立ちに短く刈られた坊主頭が視界に入った。
 視線を下に向けて下ろしていけば、穴が空いたり縫い糸がほつれたりとボロボロでよれよれの軍服と、泥がべったりと付着した鉄板入りの黒い靴が目に入る。
「あなたも、毎日毎日姿を見せて、他に行く場所ないんですか?」
 音もなく、気配もなく現れた男は、いつの頃からか千夏がアイスキャンディーを食している時に現れるようになった。
 千夏の問いに、男は自嘲を見せてから口を開く。
「他に行く場所がねぇから、ここにいるんだよ」
「護国神社は、他の場所にもありますよ」
「そうだな。でも、なんだかんだでここが一番落ち着くんだよ。地元だし、静かだし、政治家もメディアも来ねーし」
 足をだらしなく伸ばして、ベンチの背もたれに背中を預ける。両の手は、後頭部の後ろで組まれた。
 ミンミン、ジリジリと、二人の頭上で蝉がわめいている。
 食べ終わったアイスの棒を、入っていた袋に戻しながら、千夏はこの男と初めて会った日の事を思い出した。


 ◇  ◇  ◇


 夏休みが始まって直ぐの頃。
 蝉が大きく鳴いている日だった。
 補習授業でがっつりと精神を削られ、連日の猛暑で体力もすり減らされた中、静かな場所でアイスでも食べようと思って、この神社に足を伸ばしたのだ。
 小さい時。近所の子どもたちと集まっては、この社で遊んでいた。
 鬼ごっこをしたり。かくれんぼをしたり。境内の隅にある戦没者の名前が刻まれた慰霊碑を眺めたり。
 その慰霊碑に刻まれた名前の中から、自分と同じ名字を探すという遊びをよくしていた。
 この日も、石に刻まれていた名前を眺めたのだ。
 同じ名字が、十行並んでいた。
 あの頃はこの慰霊碑と、書いてある名前の関係がわかっていなかった。
 けれど、学校で歴史を学び、過去の教育を受けてから理解してしまった。
 本来ならここに、名前が刻まれてはいけないのだ。
 ここにある名字が、全て身内とは限らない。でも、身内以外の人であるとも限らない。
 石に彫られた名前を、指先でなぞる。
 刻まれた自分と同じ名字を見ては、この名前の人たちはどういう人で、どこにいた人で、誰の家族なんだろうと思いを馳せる。
 千夏の家族は、この中にいるのだろうか。
 ベンチに腰を下ろし、アイス片手に頭上の青葉のトンネルを見上げる。
 男の声が耳に入ってきたのは、そんな時であった。
『今日もくそ暑いなあ』
 びくりと肩を上げて、隣を見る。
 この時代にそぐわない、教科書で見た事のあるボロボロの軍服。
 軍帽を乗せていない頭は短い丸刈りで、体格のしっかりとした精悍な顔立ちの兵士が、だらけた姿で隣に座っていた。
 座っていても、千夏が見上げるように首を動かさないと、男の顔が視界に入らない。立ち上がったら、千夏の頭を二つほど繋げないと目線が合わないだろう。そのくらい、男の身体はしっかりとしていた。
 男の姿を観察した千夏は、その場でようやく硬直する。
 男はその様子を呆れた顔をして見ていたのだ。


 ◇  ◇  ◇


「あなたって結局誰なんですか? 神様? それともカミサマ? 幽霊?」
「神も幽霊も、他人が後から勝手に決めつけた称号みたいなものだろう。俺は俺だ。他の何でもない」
 間延びした口調で男は答える。
 千夏は、ベンチの傍らに置かれているごみ箱にアイスキャンディーのごみを投げ入れた。
「じゃあ……成仏し損ねた地縛霊という事で」
「こらこら、勝手に決めつけるな。せめて暇人なおにいさんにしろ」
 その言葉を聞いて、千夏の視線が湿っぽくなる。
「……暇人なんだ」
「そりゃあな……。云十年も人待ちをしてれば、暇人だと言われても仕方ないだろうさ」
 背中に凝りがたまったのだろう。
 軍服を着た男は、何でもない口調で告げたあと、荒々しい動作で伸びをした。
 対する千夏はというと、男の言葉に少し目を開いてから、瞼を伏せた。
 戦争で、家族を故郷に置いたまま旅立っていった者は多いと聞く。
 この男も、例に漏れずその類いなのだろう。
 残していった者を待つために、ここの社に留まっているのだ。
 と、千夏は考えたのだが、頭の中を読んだ男に否定された。
「さっきも言っただろう。居心地が良いからだって」
「でも……待ち人がいるって……」
「その待ち人なんだが、去年死んでもう再会してるんだわ」
「んな…………っ!」
 そういう大事なことは、もっと早めに教えて欲しい。
 一人で勝手に考えてしんみりとした湿っぽい気持ちになって、恥ずかしいではないか。
 顔を赤くして抗議する千夏に、男はにやにやと口を三日月の形にしながら、頭に手を伸ばした。
 わしゃわしゃと、太い骨で出来た大きな手のひらが頭を撫でる。
 泣いてる子どもを宥めるような手つきに、千夏の頬は熱さを増して、色も濃くなった。
「な、なにするんですか…………! セクハラで訴えますよ!」
 慌てて男の手を払いのけて言う。
 千夏の反応に気をよくしたのか、男はケラケラと声を上げて笑った。
「うんうん。元気でよろしい。子どもはこうでないとな。…………悩んでる表情は似合わない」
 乱された髪を撫で付けていた千夏は、きょとんと首を傾げた。
 悩んでる表情……? 誰が? 私が?
 頭に疑問符を浮かべる千夏に、男は心配を込めた声音で言葉を発した。
「今年受験生だろう。どうだ、進路の方は。順調に進められそうか」
「あ、ああ……進路ね……。うん、志望校は成績よりも少しハードル下げてるから、大丈夫だよ」
 大丈夫だと返したが、言った本人の心はどんよりとした曇り空だ。
 だって、入試に受かって進学出来ても、その先が決まっていない。見えてこないんだもの。
 それが表情にも出ていたのだろう。隣にいる男も怪訝な表情を見せている。
 少し考え込むように腕を組んでから、彼も黙ってしまった。
 先ほどまでの緩い空気は一転し、頭上にある晴天とは正反対の重たい空気がたれ込む。
 この空気にしてしまったのは千夏だ。
「えっと……あの……。あ、あなたは、夢とかありましたか…………?」
 少しでも淀んだ空気を入れ換えたくて、口を開く。
 開いてから、この話題は余計に空気を暗くすると気づいた。
 大切なものを置いていった人に投げる話題ではない。
 やってしまったと、頭を抱える。
 忘れてくれと言おうとした時、男が口を開いた。
「あったよ」
「…………!」
 答えてくれた事に驚いて、千夏は男を見つめる。
 男も千夏を見ると、口角をつり上げた。
「俺の家は農家だったが、俺自身は現在(いま)で言う郵便配達員になりたかったんだ」
「郵便屋さんに…………?」
「手紙には、人の想いが込められている。それを命をかけて届けるんだ。素晴らしい仕事じゃないか」
 ふぅっと、一つ息を吐き出すと、男は空に視線を向ける。
 見ている先にあるものは、青葉に遮られた夏の空ではなく、云十年も前に置いてきてしまった夢だと、千夏は悟った。
「俺の居た戦地(ばしょ)は、激化するまで本土から手紙が届いていたよ」
 手紙を届ける役割を持った人が居て、命をかけて送り先へ届ける。
 手紙だけではない。あの頃は、どんな物資も命がけで送っていた。
 今の時代では、物流を担うものたちを甘く見る人たちがいるが、物流が途絶えたらどうなるか。少し頭を働かせれば、わかるはずだ。
「毎度毎度、ちゃんと持ってきてすげーなーって思いながら、受け取ってたんだよ。敵と出会した時も、命からがらな状態で持ってきてたな」
 当時はざっと血の気の引く話だが、今となっては記憶に残る出来事の一つである。
 からからと笑って語る男を、千夏は呆けた表情を見せて聞いていた。
「さぁーてと、そろそろお前の帰る時間だな。あんまり遅くなると、おかーさんとばあちゃんに小言ぶつけられるぞ」
「あ!」
 言われて思い出す。
 そういえば、今年は曾祖母の新盆だから、帰って来たら飾り付けを手伝うように言われているのだ。
 あまり遅くなると、男の言うように小言を漏らされる。
 勉強と暑さですり減った精神に、悪い意味で小言はよく効く。
 ひったくるようにして、隣に置いていた鞄を掴み取り、鳥居の方に向けて駆け出した。
「千夏」
 男の声が、千夏を呼び止める。
 足を止めて振り返ると、男はにこやかに笑いながら手を軽く上げていた。
「気をつけて帰れよ」
「はーい」
 返事をして、再び駆け出す。
 鳥居を潜る寸前、二人で座っていたベンチに視線を向ける。
 ガタイの良い男の姿は、見当たらなかった。
 今日も、あの男の正体はわからず仕舞いだ。




「あらあら、おばあちゃんったら、こんな物を遺してたのね」
 家に帰ると、お盆の祭壇を飾る和室の方から母と祖母の楽しげな声がした。
 お盆の準備は順調に進んでいるようだ。
 千夏が襖(ふすま)の隙間から中を確認していると、気づいた母に手招きされる。
「見て見て、千夏。ひいおばあちゃんが隠し持ってた写真と絵手紙」
「写真……?」
「ひいおじいちゃんの写真よ。一枚も見当たらないと思ったら、おばあちゃん宝箱の中に大事にしまっていたみたいなのよー」
 祖母と母の間に、木製の小ぶりな箱が置かれていて、蓋が開いている。
 お盆の季節を迎えて、祭壇を作るために、曾祖母が使っていた部屋を片付けていたら、偶然見つけたそうだ。
 母が持つ写真と絵手紙を受けとる。
 絵手紙は云十年も前のものだ。水に触れたのか、ふやけた痕跡がある。
 絵手紙をしばらく眺めた後で、写真に視線を移した。
 結婚式の写真と、出兵する直前の写真。
 教科書で見たことのある軍服は、穴もあいておらず、糸もほつれていない。新品で、生地にも張りがある。
 それを身に包んだ男は、しっかりとした体つきで、とても身長が高かった。
 写真を撮るのに緊張しているせいか、顔が強張っている。
 先ほどまで見ていた、柔らかな笑みとは程遠い。
「色男よねー」
「おばあちゃんがテレビの俳優を見るたびに、『お父さんの方が色男だった』って、言ってたものねえ」
 笑い合いながら、母と祖母は作業に戻る。
 もうすぐ、レンタル品の祭壇が運ばれてくるのだ。
 写真を見たまま黙ってしまっている千夏を、母が呼ぶ。
 一瞬間を空けてから、千夏はようやく気を取り戻した。




 お盆が明けて、予定されていた補習の授業が全て終わってからも、千夏は護国神社に足を伸ばしていた。
 蝉の声は変わらずうるさく喚いている。
 社の片隅に置かれている慰霊碑には、千夏と同じ名字が十行並んでいる。
 この中に、千夏の家族が見事にいた。
 体つきの良い、身長がとても高くて、曾祖母曰く『俳優よりも色男』な、曾祖父だ。
 慰霊碑に刻まれている曾祖父の名前を指でなぞってから、二人で座ったあのベンチに腰かけた。
 ここに来る前に買ったアイスキャンディーの封を開けて、口に含む。
 あの時と同じで、甘みの中にある爽やかな香りが鼻を抜ける。
 しゃくり。しゃくり。
 夏の空に似た水色のアイスキャンディーを食べ進める。
「また、食べているのか」と、嗜めるような、呆れたような声は降ってこない。
「気をつけて帰れよ」と言ったあの日から、男は姿を見せなくなった。
 名前を呼んでも、言葉一つ返って来なかった。
 姿を見せていた時の方がおかしいのだ。
 しゃくりと、最後の一口を咀嚼して飲み込む。
 今日のアイスキャンディーは、少しだけしょっぱく感じた。
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