霧の社にて、比売は獣と戯れる



「藍色(あいいろ)」

 自分の名前を呼んだ少女の声が耳に入り、人間より一回りも二回りも大きな藍色の狼が、面倒くさそうに視線を移した。
 簀子(すのこ)で朝日を浴びてゆっくりと寝ていたのに、一体何の用だろうか。
 移した視線の先にある少女を視界に入れて、狼はため息を吐き出したい気持ちにかられる。
 少女は、干し肉をのせた皿を両手で持って、狼を食い入るように見ていた。
 腰まで伸ばされた桃色の髪は、起きたばかりなのか、毛先がくしゃくしゃとしている。
 藍色を愛してくれている比売(ひめ)とは大違いだ。
 比売の髪は、起きたばかりでもさらさらとしていて、少女のようにくしゃくしゃにはならない。
 寝間着の単衣に、桜色の袿を一枚羽織っただけの少女は、皿を狼の鼻先に置き「待てよ。待てだよ」と繰り返しながら、手のひらを藍色に向けた。
 じっとりとした視線を、藍色は少女に向ける。
 この少女は、自分をそこら辺で飼われている犬か何かと思ってないか。
 呆れる藍色に気づいていない少女は、鼻先で正座をし息を整える。
 そして、右の手を差し出すと同時に再び口を開いた。

「藍色、お手!」

 藍色の狼は、少女の顔と差し出された手を交互に見る。
 そして、視線をそらした。
 いわゆる、無視というやつだ。
 お手をされなかった事に少女は腹が立ったのか、今度は少々声を荒げるようにして「おかわり」と言う。
 藍色は少女を一瞥した後、伏せをして目を閉じた。
 世間で言う寝たふりだ。

「うぅーーーーっ!姉様(あねさま)!藍色、お手しないっ!」

 間髪入れずに、藍色は顔を上げる。
 少女の後方を見れば、藍色が愛してやまない女性が、苦笑しながら一人と一匹を見ていた。
 いつからそこにいたのだろう。
 嗅覚には人一倍自信があるのに、彼女の匂いに気付かなかった。
 慣れた匂いで鼻が反応しなかったのか。
 藍色は尻尾を忙しなく振りながら、目を泳がせる。
 彼女が静かな足取りで、藍色に歩み寄る。
 朝焼けを見てきたのか。
 彼女の体から、太陽の匂いと草の匂い。そして、土の匂いがした。
 比売の匂いをかいでいると、頭がくらくらとして、ふわふわと体が浮かびそうになる。
 この状態を安心していると、人間の世界ではいうのだそうだ。

「藍色」

 彼女に名を呼ばれ、藍色は尻尾を一つ振る。

「お手」

 差し出された手に、藍色は右足をぽふりと置く。
「おかわり」と言われれば、左足をぽふりと置く。
 一通りの躾をすまされたあと、比売が首回りに抱きついて、すりすりと頬摺りをして来た。

「よくできました!朝ご飯食べていいですよー!」

 自慢の毛並みを撫でられ、藍色は尻尾をぶんぶんと振って喉を鳴らす。
 日が昇り始めてから一刻も経っていない時間帯。
 わちゃわちゃと、いちゃつき始めた姉と獣を、少女は冷めた目をして眺めていた。

「干し肉より先に、姉様が食べられそう……」




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