短いもの(~4,000文字)
君と僕とスターチスと。
灰色の病室に響く、嘔吐の声。
その景色にはあまりにも似つかわしくない派手なピンク色を、僕は不謹慎にも美しいと思ってしまう。
「ねぇ、私、苦しいよ」
呂律が怪しい声で、君は虚空に話しかける。
「辛い、寂しい、気が狂いそう」
そう言って、君はまた吐いた。
風が吹くだけで消えてしまいそうな君に、かけるべき言葉が見つからず、ただ背中をさする。
「ねぇ…」
幻覚でも見ているのだろうか、君は虚空に手を伸ばした。僕はそんな君を見ていられなくて、君の伸ばした手にそっと触れる。
すると、君はハッとしたように、手を伸ばすのを止め、触れていた僕の手を無視し、重力に従ってだらんと腕を垂らした。空虚を見つめる君の目は、何度見てもくすんでいて、その目が僕を見ることはないのだ、と改めて思い辛くなる。
__十年。
十年だ。彼女は、ある人を好きになったその日から十年間、かの有名な花吐き病を患っている。
吐く花は、ピンクのスターチス。花言葉は変わらぬ心、永久不変。彼女の変わらない恋心を意味している。
想いが強ければ強いほど美しい花を吐く花吐き病。彼女の吐き出す花は、どんな花より美しかった。
加えて彼女は、生まれつき徐々に身体の自由が無くなり、意識も無くなって、やがて植物のようになってしまうという植物病も患っている。
植物病の進行は、もうかなり進んでいて、辛うじて起き上がることこそ可能だが、意識は常に朦朧としており、幻覚や幻聴の類も引き起こすようになっている。
医師によるともう、いつ死んでもおかしくない状態らしい。
『花吐き病さえなければ体力の消耗も格段に減り、当然、余命も伸びます。難しいことは重々承知ですが、どうか君の力で、彼女の気持ちを変えてあげてはくれませんか』と、まだ植物病がここまで進行していなかった頃、担当の医師に言われた。
当たり前だ。医師に言われなくても、僕はそうするつもりだった。
僕は、医師に協力する旨を伝えて、その日、君に「誰に恋をしてるの?」と聞いたことがある。
すると君は恥ずかしそうに、長い綺麗な髪をいじりながら「んー、秘密」と言った。
差し込んだ陽の光が、優しく彼女を照らす。
「そ、っか…」
陽の光のせいか、やけに君が眩しく見えて、俯く。
僕は、覚悟を決めてきてたはずだった。君が誰のことを好きでも、僕はそれを受け入れて、そのうえで、その恋を諦めるよう説得できるはずだった。
でも僕は、恥ずかしそうにしている君のその表情の中に確実に、存在する『好き』を感じ、君がどこか遠くに行ってしまうように思えて、「ねぇ、諦めようよ」といつの間にか縋るように、君にそんな事を言った。
少しの沈黙。
言ってから気づいた、僕に何が分かるんだ、と。
それと同時に、君は自分の恋心を軽んじる発言をした僕に対して、幻滅するかもしれない。こんな僕と同じ空間に居ることに嫌悪感さえ抱いてしまうかもしれない、という可能性を想像して、途端に怖くなった。
逃げ出したい衝動を抑えつつ、君の顔を見る。
すると君は笑顔を浮かべ、ただ穏やかに首を振った。
その笑顔が、君が変わらないことの証明で、何より、君が僕の手の届かない場所にいることを示していた。
今となっては、忘れたいのに、忘れられない笑顔。
だってそうだろう? 幼馴染みの僕でさえ、今まで何度望んでも見られなかった、君の幸福を噛み締める笑顔。僕がずっと、ずっと見たかった笑顔なんだ。忘れられるわけがない。
僕は、そんな笑顔を浮かべる君を、どうやって変えればいい…?
君の嘔吐する声で、意識が現実に引き戻される。
辛そうな君に僕はまた何も言えず、ただ背中をさする。何年も繰り返した行為。
君の両親は、君の背中をさすった事があるのだろうか。仕事で帰ってこない母親、離婚して金だけを送り続ける父親。
君は孤独だ。そんな孤独な君を、君の好きな人は知ってるのだろうか。
知っているわけない。知っていたら見舞いにでも来るはずだ。僕以外の人が病室に通ってないことは、看護師さんとの世間話のついでに耳に入れていたから、来ていないのは間違いない。
君が想っても、そいつは振り向いてなんてくれないんだろう…?
「君はどうして、そんな相手に、何年も…」
どうして諦められないんだよ、と言いたかった。そのまま、ほとんどここに意識のない君に、言ってしまいたかった。
でも、言えなかった。…………僕だって、諦められてないんだ。
僕だって痛いくらい分かってるんだよ、諦めることが簡単ならこんなに苦労しないって。
でも、君が少しでも生きるためには、その恋を、その報われない片思いを、諦めるしかないんだ。
「頼むから…」
諦めてくれないか。そう願うことしかできない自分の無力さを痛感し、悔しさから手に力が入り、君の背中をぎゅっと掴んでしまう。
すると、背中への違和感にでも反応したのか、苦しそうに嘔吐していた君の背中が一瞬ピタリと止まり、落ち着こうと深呼吸を始めた。
戸惑いを隠せないで見ていると、少し落ち着いたのか僕の方を振り返った。あの日から随分顔色が悪くなっているはずなのに、変わらずあの時のままの、幸せそうな笑顔を浮かべて。
__あぁ。
君は、諦められないんだね。君のその笑顔を見てると、どうしようもないくらい、胸が、苦しいよ。
『人は残念な生き物なんです。人は感情や考え方、仕草、そのどれもが変わろうと努力したところで本質的には変われない。成長していくのは表面のみ。これ以上残念なことは無いんです。でもそれが、人間なんですよねぇ。』
ふと、病院に来る前見たテレビ番組で、何かを分かったように話すコメンテーターの言葉を思い出す。
ぼやける視界の中、僕は力なく笑い、君の頬に手を添える。
「君も、僕も、本当に残念な生き物だね」
【リメイク】
灰色の病室に響く、嘔吐の声。
その景色にはあまりにも似つかわしくない派手なピンク色を、僕は不謹慎にも美しいと思ってしまう。
「ねぇ、私、苦しいよ」
呂律が怪しい声で、君は虚空に救いを求める。
「辛い、寂しい、気が狂いそう」
そう言ったかと思えば、君はまた吐いた。
風が吹くだけで消えてしまいそうな君にかけるべき言葉が見つからず、僕はただ心配そうに背中をさする。
「ねぇ……」
幻覚でも見ているのだろうか。君は弱々しい声を出しながら虚空に手を伸ばした。
「っ__」
僕はそんな君の様子を見ていられなくて、君の伸ばした手にそっと触れる。
すると、君はハッとしたように手を伸ばすのを止め、触れていた僕の手を無視して、重力に逆らうことなく、だらんと腕を垂らした。
虚空を見つめる君の目は何度見てもくすんでいて、その目が僕を見ることはないのだと、その度に痛感させられる。
__彼女は、ある人を好きになったその日から今までの十年間、かの有名な花吐き病を患っている。
花吐き病は一人一人花の種類や色が違っていて、彼女の吐く花は、ピンクのスターチスだ。
ピンクのスターチスの花言葉は、変わらぬ心、永久不変。彼女の変わらない恋心を意味している。
想いが強ければ強いほど美しい花を吐く花吐き病。彼女の吐き出す花は、どんな花より美しかった。
加えて、彼女は生まれつき徐々に身体の自由が無くなり、意識も無くなって、やがて植物のようになってしまうという植物病も患っている。
また、植物病は花吐き病とは違って、先天的にごく少数の人がなるものなので、世間的にその認知度はかなり低い。
植物病の進行はもうかなり進んでいる。辛うじて起き上がることこそ可能だが、意識は常に朦朧としており、幻覚や幻聴の類も引き起こすようになっていた。
医師によるともう、いつ死んでもおかしくない状態らしい。
『花吐き病さえなければ体力の消耗も格段に減り、当然のことながら余命も伸びます。難しいことは重々承知ですが、どうか君の力で、彼女の気持ちを変えてあげてはくれませんか』と、まだ植物病がここまで進行していなかった頃、担当の医師に言われたことがある。
当たり前だと思った。医師に言われなくても僕はそうするつもりだった。
僕は医師に協力する旨を伝えて、その日のうちに、君に「誰に恋をしてるの?」と聞いたことがある。
すると、君は恥ずかしそうに長い綺麗な髪をいじりながら「んー、秘密」と、はにかんで言った。
差し込んだ陽の光が、優しく彼女を照らす。
「そ、っか…」
陽の光のせいか、やけに君が眩しく見えて、思わず俯く。
僕は、覚悟を決めてきてたはずだった。君が誰のことを好きでも、僕はそれを受け入れて……そのうえで、その恋を諦めるよう説得できるはずだった。
でも僕は、恥ずかしそうにしている君のその表情の中に確実に存在する『誰かへの心からの好意』を感じ、君がどこか遠くに行ってしまうように思えて、「ねぇ、諦めようよ」といつの間にか縋るように、君にそんな事を言っていた。
少しの沈黙。
言ってから気づいた。僕に何が分かるんだ、と。
それと同時に、君は自分の恋心を軽んじる発言をした僕に対して、幻滅するかもしれない。こんな僕と同じ空間に居ることに嫌悪感さえ抱いてしまうかもしれない、という可能性を想像して、途端に怖くなった。
逃げ出したい衝動を抑えつつ、君の顔を見る。
すると君は優しい笑顔を浮かべ、ただ、穏やかに首を振った。
その笑顔は、君が変わらないことの証明で、何より、君が僕の手の届かない場所にいることを示してた。
今となっては忘れたいのに、忘れられない笑顔。
だってそうだろう?
幼馴染みの僕でさえ、今まで何度望んでも見られなかった、君の幸福を噛み締めたような笑顔。僕がずっと、ずっと見たかった笑顔なんだ。
忘れられるわけがない。
僕は、そんな笑顔を浮かべる君を、どうやって変えればいい…?
◇
君の嘔吐する声で意識が現実に引き戻される。
辛そうな君にやっぱり僕は何も言えず、また背中をさする。
十年、毎日のように繰り返した行為。
君の両親は、君の背中をさすった事があるのだろうか。
仕事で帰ってこない母親、離婚して入院費用だけを送り続ける父親。
君はどうしようもないくらいに孤独だ。
そんな孤独な君を、君の好きな人は知ってるのだろうか。
知っているわけない。知っていたら見舞いにでも来るはずだ。僕以外の人が病室に通ってないことは、看護師さんから世間話のついでに耳に入っていた。
なぁ、そいつは、君がどれだけ強く想い続けても、振り向いてなんてくれないんだろう…?
「君はどうして、そんな相手に、何年も……」
どうして諦められないんだよ。と、言いたかった。この苦しさに身を任せて、ほとんどここに意識のない君に、言ってしまいたかった。
でも、言えなかった。
…………僕だって、諦められていないんだ。
僕だって、分かってるんだ。痛いくらい分かってるんだよ。諦めることが簡単なら、こんなに苦労してないって。
でも、君が少しでも生きるためには、その恋を、その報われない片思いを、諦めるしかないんだ。
「頼むから……」
諦めてくれないか。
願うことしかできない自分の無力さを痛感し、悔しさから手に力が入り、君の背中をぎゅっと掴んでしまう。
すると、背中への違和感に反応したのか、苦しそうに嘔吐していた君の背中が一瞬ピタリと止まって、突然、落ち着こうと深呼吸を始めた。
戸惑いを隠せないで見ていると、少し落ち着いたのか、君は僕の方を振り返った。
あの日から随分顔色が悪くなっているはずなのに、変わらずあの時のままの、幸せそうな笑顔を浮かべて。
__あぁ。君は、諦められないんだね。
君のその笑顔を見てると、どうしようもないくらい、胸が、苦しいよ。
『人は残念な生き物なんです。人間は感情や考え方、仕草、そのどれもが変わろうと努力したところで本質的には変われない。成長していくのは表面的な部分のみ。これ以上残念なことは無いんです。でもそれが、人間なんですよねぇ』
ふと、病院に来る前に見たテレビ番組で、何かを分かったように話すコメンテーターの言葉を思い出した。
ぼやける視界の中、僕は力なく笑い、そっと君の頬に手を添える。
「君も、僕も……本当に、残念な生き物だね」
灰色の病室に響く、嘔吐の声。
その景色にはあまりにも似つかわしくない派手なピンク色を、僕は不謹慎にも美しいと思ってしまう。
「ねぇ、私、苦しいよ」
呂律が怪しい声で、君は虚空に話しかける。
「辛い、寂しい、気が狂いそう」
そう言って、君はまた吐いた。
風が吹くだけで消えてしまいそうな君に、かけるべき言葉が見つからず、ただ背中をさする。
「ねぇ…」
幻覚でも見ているのだろうか、君は虚空に手を伸ばした。僕はそんな君を見ていられなくて、君の伸ばした手にそっと触れる。
すると、君はハッとしたように、手を伸ばすのを止め、触れていた僕の手を無視し、重力に従ってだらんと腕を垂らした。空虚を見つめる君の目は、何度見てもくすんでいて、その目が僕を見ることはないのだ、と改めて思い辛くなる。
__十年。
十年だ。彼女は、ある人を好きになったその日から十年間、かの有名な花吐き病を患っている。
吐く花は、ピンクのスターチス。花言葉は変わらぬ心、永久不変。彼女の変わらない恋心を意味している。
想いが強ければ強いほど美しい花を吐く花吐き病。彼女の吐き出す花は、どんな花より美しかった。
加えて彼女は、生まれつき徐々に身体の自由が無くなり、意識も無くなって、やがて植物のようになってしまうという植物病も患っている。
植物病の進行は、もうかなり進んでいて、辛うじて起き上がることこそ可能だが、意識は常に朦朧としており、幻覚や幻聴の類も引き起こすようになっている。
医師によるともう、いつ死んでもおかしくない状態らしい。
『花吐き病さえなければ体力の消耗も格段に減り、当然、余命も伸びます。難しいことは重々承知ですが、どうか君の力で、彼女の気持ちを変えてあげてはくれませんか』と、まだ植物病がここまで進行していなかった頃、担当の医師に言われた。
当たり前だ。医師に言われなくても、僕はそうするつもりだった。
僕は、医師に協力する旨を伝えて、その日、君に「誰に恋をしてるの?」と聞いたことがある。
すると君は恥ずかしそうに、長い綺麗な髪をいじりながら「んー、秘密」と言った。
差し込んだ陽の光が、優しく彼女を照らす。
「そ、っか…」
陽の光のせいか、やけに君が眩しく見えて、俯く。
僕は、覚悟を決めてきてたはずだった。君が誰のことを好きでも、僕はそれを受け入れて、そのうえで、その恋を諦めるよう説得できるはずだった。
でも僕は、恥ずかしそうにしている君のその表情の中に確実に、存在する『好き』を感じ、君がどこか遠くに行ってしまうように思えて、「ねぇ、諦めようよ」といつの間にか縋るように、君にそんな事を言った。
少しの沈黙。
言ってから気づいた、僕に何が分かるんだ、と。
それと同時に、君は自分の恋心を軽んじる発言をした僕に対して、幻滅するかもしれない。こんな僕と同じ空間に居ることに嫌悪感さえ抱いてしまうかもしれない、という可能性を想像して、途端に怖くなった。
逃げ出したい衝動を抑えつつ、君の顔を見る。
すると君は笑顔を浮かべ、ただ穏やかに首を振った。
その笑顔が、君が変わらないことの証明で、何より、君が僕の手の届かない場所にいることを示していた。
今となっては、忘れたいのに、忘れられない笑顔。
だってそうだろう? 幼馴染みの僕でさえ、今まで何度望んでも見られなかった、君の幸福を噛み締める笑顔。僕がずっと、ずっと見たかった笑顔なんだ。忘れられるわけがない。
僕は、そんな笑顔を浮かべる君を、どうやって変えればいい…?
君の嘔吐する声で、意識が現実に引き戻される。
辛そうな君に僕はまた何も言えず、ただ背中をさする。何年も繰り返した行為。
君の両親は、君の背中をさすった事があるのだろうか。仕事で帰ってこない母親、離婚して金だけを送り続ける父親。
君は孤独だ。そんな孤独な君を、君の好きな人は知ってるのだろうか。
知っているわけない。知っていたら見舞いにでも来るはずだ。僕以外の人が病室に通ってないことは、看護師さんとの世間話のついでに耳に入れていたから、来ていないのは間違いない。
君が想っても、そいつは振り向いてなんてくれないんだろう…?
「君はどうして、そんな相手に、何年も…」
どうして諦められないんだよ、と言いたかった。そのまま、ほとんどここに意識のない君に、言ってしまいたかった。
でも、言えなかった。…………僕だって、諦められてないんだ。
僕だって痛いくらい分かってるんだよ、諦めることが簡単ならこんなに苦労しないって。
でも、君が少しでも生きるためには、その恋を、その報われない片思いを、諦めるしかないんだ。
「頼むから…」
諦めてくれないか。そう願うことしかできない自分の無力さを痛感し、悔しさから手に力が入り、君の背中をぎゅっと掴んでしまう。
すると、背中への違和感にでも反応したのか、苦しそうに嘔吐していた君の背中が一瞬ピタリと止まり、落ち着こうと深呼吸を始めた。
戸惑いを隠せないで見ていると、少し落ち着いたのか僕の方を振り返った。あの日から随分顔色が悪くなっているはずなのに、変わらずあの時のままの、幸せそうな笑顔を浮かべて。
__あぁ。
君は、諦められないんだね。君のその笑顔を見てると、どうしようもないくらい、胸が、苦しいよ。
『人は残念な生き物なんです。人は感情や考え方、仕草、そのどれもが変わろうと努力したところで本質的には変われない。成長していくのは表面のみ。これ以上残念なことは無いんです。でもそれが、人間なんですよねぇ。』
ふと、病院に来る前見たテレビ番組で、何かを分かったように話すコメンテーターの言葉を思い出す。
ぼやける視界の中、僕は力なく笑い、君の頬に手を添える。
「君も、僕も、本当に残念な生き物だね」
【リメイク】
灰色の病室に響く、嘔吐の声。
その景色にはあまりにも似つかわしくない派手なピンク色を、僕は不謹慎にも美しいと思ってしまう。
「ねぇ、私、苦しいよ」
呂律が怪しい声で、君は虚空に救いを求める。
「辛い、寂しい、気が狂いそう」
そう言ったかと思えば、君はまた吐いた。
風が吹くだけで消えてしまいそうな君にかけるべき言葉が見つからず、僕はただ心配そうに背中をさする。
「ねぇ……」
幻覚でも見ているのだろうか。君は弱々しい声を出しながら虚空に手を伸ばした。
「っ__」
僕はそんな君の様子を見ていられなくて、君の伸ばした手にそっと触れる。
すると、君はハッとしたように手を伸ばすのを止め、触れていた僕の手を無視して、重力に逆らうことなく、だらんと腕を垂らした。
虚空を見つめる君の目は何度見てもくすんでいて、その目が僕を見ることはないのだと、その度に痛感させられる。
__彼女は、ある人を好きになったその日から今までの十年間、かの有名な花吐き病を患っている。
花吐き病は一人一人花の種類や色が違っていて、彼女の吐く花は、ピンクのスターチスだ。
ピンクのスターチスの花言葉は、変わらぬ心、永久不変。彼女の変わらない恋心を意味している。
想いが強ければ強いほど美しい花を吐く花吐き病。彼女の吐き出す花は、どんな花より美しかった。
加えて、彼女は生まれつき徐々に身体の自由が無くなり、意識も無くなって、やがて植物のようになってしまうという植物病も患っている。
また、植物病は花吐き病とは違って、先天的にごく少数の人がなるものなので、世間的にその認知度はかなり低い。
植物病の進行はもうかなり進んでいる。辛うじて起き上がることこそ可能だが、意識は常に朦朧としており、幻覚や幻聴の類も引き起こすようになっていた。
医師によるともう、いつ死んでもおかしくない状態らしい。
『花吐き病さえなければ体力の消耗も格段に減り、当然のことながら余命も伸びます。難しいことは重々承知ですが、どうか君の力で、彼女の気持ちを変えてあげてはくれませんか』と、まだ植物病がここまで進行していなかった頃、担当の医師に言われたことがある。
当たり前だと思った。医師に言われなくても僕はそうするつもりだった。
僕は医師に協力する旨を伝えて、その日のうちに、君に「誰に恋をしてるの?」と聞いたことがある。
すると、君は恥ずかしそうに長い綺麗な髪をいじりながら「んー、秘密」と、はにかんで言った。
差し込んだ陽の光が、優しく彼女を照らす。
「そ、っか…」
陽の光のせいか、やけに君が眩しく見えて、思わず俯く。
僕は、覚悟を決めてきてたはずだった。君が誰のことを好きでも、僕はそれを受け入れて……そのうえで、その恋を諦めるよう説得できるはずだった。
でも僕は、恥ずかしそうにしている君のその表情の中に確実に存在する『誰かへの心からの好意』を感じ、君がどこか遠くに行ってしまうように思えて、「ねぇ、諦めようよ」といつの間にか縋るように、君にそんな事を言っていた。
少しの沈黙。
言ってから気づいた。僕に何が分かるんだ、と。
それと同時に、君は自分の恋心を軽んじる発言をした僕に対して、幻滅するかもしれない。こんな僕と同じ空間に居ることに嫌悪感さえ抱いてしまうかもしれない、という可能性を想像して、途端に怖くなった。
逃げ出したい衝動を抑えつつ、君の顔を見る。
すると君は優しい笑顔を浮かべ、ただ、穏やかに首を振った。
その笑顔は、君が変わらないことの証明で、何より、君が僕の手の届かない場所にいることを示してた。
今となっては忘れたいのに、忘れられない笑顔。
だってそうだろう?
幼馴染みの僕でさえ、今まで何度望んでも見られなかった、君の幸福を噛み締めたような笑顔。僕がずっと、ずっと見たかった笑顔なんだ。
忘れられるわけがない。
僕は、そんな笑顔を浮かべる君を、どうやって変えればいい…?
◇
君の嘔吐する声で意識が現実に引き戻される。
辛そうな君にやっぱり僕は何も言えず、また背中をさする。
十年、毎日のように繰り返した行為。
君の両親は、君の背中をさすった事があるのだろうか。
仕事で帰ってこない母親、離婚して入院費用だけを送り続ける父親。
君はどうしようもないくらいに孤独だ。
そんな孤独な君を、君の好きな人は知ってるのだろうか。
知っているわけない。知っていたら見舞いにでも来るはずだ。僕以外の人が病室に通ってないことは、看護師さんから世間話のついでに耳に入っていた。
なぁ、そいつは、君がどれだけ強く想い続けても、振り向いてなんてくれないんだろう…?
「君はどうして、そんな相手に、何年も……」
どうして諦められないんだよ。と、言いたかった。この苦しさに身を任せて、ほとんどここに意識のない君に、言ってしまいたかった。
でも、言えなかった。
…………僕だって、諦められていないんだ。
僕だって、分かってるんだ。痛いくらい分かってるんだよ。諦めることが簡単なら、こんなに苦労してないって。
でも、君が少しでも生きるためには、その恋を、その報われない片思いを、諦めるしかないんだ。
「頼むから……」
諦めてくれないか。
願うことしかできない自分の無力さを痛感し、悔しさから手に力が入り、君の背中をぎゅっと掴んでしまう。
すると、背中への違和感に反応したのか、苦しそうに嘔吐していた君の背中が一瞬ピタリと止まって、突然、落ち着こうと深呼吸を始めた。
戸惑いを隠せないで見ていると、少し落ち着いたのか、君は僕の方を振り返った。
あの日から随分顔色が悪くなっているはずなのに、変わらずあの時のままの、幸せそうな笑顔を浮かべて。
__あぁ。君は、諦められないんだね。
君のその笑顔を見てると、どうしようもないくらい、胸が、苦しいよ。
『人は残念な生き物なんです。人間は感情や考え方、仕草、そのどれもが変わろうと努力したところで本質的には変われない。成長していくのは表面的な部分のみ。これ以上残念なことは無いんです。でもそれが、人間なんですよねぇ』
ふと、病院に来る前に見たテレビ番組で、何かを分かったように話すコメンテーターの言葉を思い出した。
ぼやける視界の中、僕は力なく笑い、そっと君の頬に手を添える。
「君も、僕も……本当に、残念な生き物だね」