短いもの(~4,000文字)
【彼視点】
この世で一番美しいものは、愛だ。出来合いの家族愛や、都合の良さだけで成り立つ友愛なんかではなくて、恋愛の方。あ、いや……恋愛という言葉では語弊があるか。僕の言う愛は恋から発生するそれとは本質が違う。自分のことを受け入れてくれるから惚れ込むわけではないし、自分の弱さを埋めるためのそれとも違う。本能的に自分の全てを駆使して相手の力になりたいと思えるような愛。性欲、支配欲、服従欲求……その程度のものは自分の置かれた環境次第でどんな相手にも発生するが、自己犠牲や忠誠は特定の人間に対してのみ抱けるもの。醜い欲望とはかけ離れた、美しい感情だ。
そんな感情を向けたいと思えるような相手と同じ時を過ごす。これほどの幸せ、他にはない。彼女にも何度も話して感謝を伝えた。
ライターの音が聞こえ、反射的に彼女を見る。彼女は窓を開けて煙を吐いていた。そのあまりにも美しい光景を見て、僕は思わず息を吞む。背を向けて煙草を吸っているだけ。何か特別なことをしているわけではない。たったそれだけの動作でこんなに魅力的で蠱惑的になれる人間が、この世に存在していいのだろうか……そう思わずにはいられない。
僕は今、幸せの絶頂にいる。ずっと落ちこぼれの人生を歩んでいくのだと思っていたが、有難いことに僕はこれからも幸せで居続けるだろう。日本にいる限りは彼女の代わりに命を差し出さなければならないなんて状況はないだろうし、この関係は進展することはあれど、後退することはないから。
「別れよう」
背を向けたまま彼女が言った。
彼女が、言った。
待て。
待ってくれ。
今、彼女は何を言ったんだ……?
視界が揺れる。落ち着け。僕の気のせいに決まっている。だって、普通、人と話す時はこっちを見るだろ。それに、現在進行形で僕は人生最大の幸福を堪能していたんだぞ。それが突然なくなるなんて、あり得ない。僕の自信のなさが引き起こした幻聴だ。
「聞いてる?」
彼女が振り返った。何を言ったのだろうか。……幻聴と被って聞こえなかったようだ。
「ごめん、もう一回言ってもらってもいいかな」
「別れようって言ってんの」
頭を殴られたような衝撃が、全身を貫いた。
いや、落ち着くんだ。まずは彼女の狙いを見極めなければ。何かを試しているのか。それとも、一時的な倦怠期か。運命に導かれたような関係に倦怠期なんてものがあるのか疑問ではあるが、人間関係である以上は避けられないのかもしれない。この場合、何を言えばいいのだろうか。自分の非を探そうにも、心当たりがあり過ぎて分からない。彼女とは違って僕は駄目な人間だ。どこを指摘されてもおかしくはない。
「もしかして、僕が何かした? だとしたらごめん、謝るよ。きちんと改善もするから。だから――」
捨てないでくれよ。
思わず女々しい台詞を吐きそうになり、口を閉じる。
「改善するとかそういう問題じゃないんだよね。もっと根本的な……端的に言えば価値観の違いってやつ」
「そんな言い方じゃ、納得できないよ」
反抗的だと思われてしまっただろうか。だが、言わずにはいられなかった。僕と彼女は先程まで愛し合っていたのだから。こんな理不尽なこと、あってはならない。
彼女は煙草を灰皿に置いて口を開いた。真面目な話をする時、彼女は決まってそうする。
「私のこと愛してないでしょ」
「な、愛してるに決まってるじゃないか……!」
思いもよらない発言に目を見開く。どうして,、いつの間にそんな誤解をさせてしまったんだ。
「僕は紛れもなく君を愛している。自分を犠牲にしたっていいくらいに」
そう言うと、彼女は溜息を吐いた。
「私はね、自己肯定感の低さからくる自己犠牲心を愛とは呼ばないの」
違う。
確かに、その気持ちは自己肯定感の低さから発生する場合もある。だが、僕のこの気持ちは自己肯定感とは関係ない。正真正銘、純粋な愛から発生したものだ。
「自分を一方的に満たして楽しいの? これ以上、私を利用しないでよ」
なんだ、それ。
「僕の愛情表現が足りなかったっていうのか? あんなにも伝えてきたのに」
自分がどれだけ傲慢な言葉を口にしているのかは分かっているつもりだ。でも、そのくらい愛していたんだ。忠誠を誓えるほど、本当に、心から。
「そんなに愛してるならさ、ご自慢の自己犠牲とやらで私のために私の人生から消えてくれないかな。簡単でしょ?」
「それは……」
状況が、違うじゃないか。
「欲塗れね」
欲塗れ? 僕のことを言っているのか?
侮辱しているのかと思ったが、彼女には欲の汚さについてよく話している。きっと、僕に嫌われようとして言ったのだろう。その程度のことで嫌いになれるはずがないのに。
荷物をまとめだした彼女は、僕を見ようともしない。本当にこのまま出ていくつもりなのだろうか。まだ、まだやり残したことが沢山あるのに。
このまま話をしていても埒が明かない。一先ずは部屋に閉じ込めて、そのあと僕が正しかったのだとゆっくり理解してもらえばいい。口で言っても分からないのであれば少し痛めつければ――
いや、それじゃ駄目だ。
たとえそれだけが解決策だったとしても、愛する彼女に暴力を振るうなんて僕にはできない。なにより、暴力が介入する関係なんて愛ではない。
気づけば涙が溢れていた。拭うことは出来ない。今泣いていると知られてしまえば、彼女の同情を狙っているのだと思われるだろうから。
別れたくない。
だけど、気持ちだけが先走ってどうすればこの状況を打開できるのか分からない。なあ、僕は何をすればいい? 何を差し出せば許してもらえるんだ? 本当に、君のためならなんだって出来るんだ。
そんな言葉を飲み込む時間だけが過ぎた。
物音がしなくなった。
きっと、荷物をまとめ終えたんだ。相変わらず視界がぼやけているから憶測になるが、物音がしないのはタクシーを呼ぼうとしているからだろう。これまでの送迎は僕がしていたから、タクシー会社の電話番号を知らないんだ。聞いてくれれば言うのに。僕と口を利きかないようにするために、わざわざ調べているんだ。僕が送ると伝えたいが、声が震えそうだ。
「本気で、愛してたんだよ」
煙草を灰皿に押し付ける音が聞こえた。
【彼女視点】蛇足
「どちらまで?」
「ここから一番近いセブンまでお願いします」
「分かりました」
運転手はそれ以上何かを言うことはなかった。何かを察したのか、元々の性格が無口だったのか……理由は分からないけど、今は有難かった。
今夜で終わりにしようと決めていた。
ずっと、苦しかった。彼にとっての愛は独善的と表現せざるを得ないほどに一方的で、自分の自信の無さを埋めるための手段だった。私から認められることを望んではいるけど、私からの愛は求めてくれない。たくさん尽くしてくれて嬉しいはずなのに、寂しくて、虚しくて。恋人なのに、そんなことを言わせてもらえるような関係ですらなくて。
嫌われるのが怖くてずっと黙っていたけど、彼にとって私は汚い欲望の塊でしかない。なんの変哲もない普通の恋愛をしていたのだから当たり前だ。そもそも、彼の言うような愛は存在しない。彼が自分の環境に耐えるために夢見た幻想だ。
最初は、彼が変わるまで待てばいいと思った。変わると言っても、彼の恋心だって欲望の一つでしかないのだと認めるだけの簡単な認識行為だ。多少苦痛ではあると思うけど、きっかけさえあれば受け入れることが出来るだろう……って。
それじゃ駄目なんだと気づいたのはすぐだった。見守ることを選択してしまえば対等でいられなくなるし、私が彼に変化を期待するということは、私の理想を一方的に押し付けていることにもなるから。そもそも、なんだかんだでプライドの高い彼のことだ。自分の価値観を修正するなんて屈辱的で耐えられないはずだ。私の前ではなんでもすると豪語する彼だが、実際には出来ないことの方が多い。不器用だし。
彼が私のために作ってくれたクッキー、本当に不味かったな。丸焦げで形も歪だし、褒めるところ探すのに苦労したな。そんなところも愛おしかった。……できることなら、ずっと見ていたかった。
私が我慢すればいいのかなって思った時もあったけど、それじゃ幸せになれない。将来、お前と一緒にいたから私が不幸になったんだと彼を責めたくない。彼に迷惑を掛けないためにも、私は自分の幸せを第一に考えなくちゃいけない。
最後、彼はどんな顔をしていたのだろう。
部屋を出る前に確認しようと思ったけれど、涙が溢れて出来なかった。かなりきつい言葉を浴びせたから、傷つけてしまっただろうか。何も言わないようにしようと決めていたのに、私の理想を押し付けてしまった。少しでも彼が変わるきっかけになれば……って思って。このままだと、彼が孤独な人生を歩むことになる気がしたんだ。
「いつか、幸せになれるといいね。お互いに」
私が煙草を吸っていた理由を、君は知っているのかな。
煙草を吸う私の姿に見惚れてくれてたからだよ。
この世で一番美しいものは、愛だ。出来合いの家族愛や、都合の良さだけで成り立つ友愛なんかではなくて、恋愛の方。あ、いや……恋愛という言葉では語弊があるか。僕の言う愛は恋から発生するそれとは本質が違う。自分のことを受け入れてくれるから惚れ込むわけではないし、自分の弱さを埋めるためのそれとも違う。本能的に自分の全てを駆使して相手の力になりたいと思えるような愛。性欲、支配欲、服従欲求……その程度のものは自分の置かれた環境次第でどんな相手にも発生するが、自己犠牲や忠誠は特定の人間に対してのみ抱けるもの。醜い欲望とはかけ離れた、美しい感情だ。
そんな感情を向けたいと思えるような相手と同じ時を過ごす。これほどの幸せ、他にはない。彼女にも何度も話して感謝を伝えた。
ライターの音が聞こえ、反射的に彼女を見る。彼女は窓を開けて煙を吐いていた。そのあまりにも美しい光景を見て、僕は思わず息を吞む。背を向けて煙草を吸っているだけ。何か特別なことをしているわけではない。たったそれだけの動作でこんなに魅力的で蠱惑的になれる人間が、この世に存在していいのだろうか……そう思わずにはいられない。
僕は今、幸せの絶頂にいる。ずっと落ちこぼれの人生を歩んでいくのだと思っていたが、有難いことに僕はこれからも幸せで居続けるだろう。日本にいる限りは彼女の代わりに命を差し出さなければならないなんて状況はないだろうし、この関係は進展することはあれど、後退することはないから。
「別れよう」
背を向けたまま彼女が言った。
彼女が、言った。
待て。
待ってくれ。
今、彼女は何を言ったんだ……?
視界が揺れる。落ち着け。僕の気のせいに決まっている。だって、普通、人と話す時はこっちを見るだろ。それに、現在進行形で僕は人生最大の幸福を堪能していたんだぞ。それが突然なくなるなんて、あり得ない。僕の自信のなさが引き起こした幻聴だ。
「聞いてる?」
彼女が振り返った。何を言ったのだろうか。……幻聴と被って聞こえなかったようだ。
「ごめん、もう一回言ってもらってもいいかな」
「別れようって言ってんの」
頭を殴られたような衝撃が、全身を貫いた。
いや、落ち着くんだ。まずは彼女の狙いを見極めなければ。何かを試しているのか。それとも、一時的な倦怠期か。運命に導かれたような関係に倦怠期なんてものがあるのか疑問ではあるが、人間関係である以上は避けられないのかもしれない。この場合、何を言えばいいのだろうか。自分の非を探そうにも、心当たりがあり過ぎて分からない。彼女とは違って僕は駄目な人間だ。どこを指摘されてもおかしくはない。
「もしかして、僕が何かした? だとしたらごめん、謝るよ。きちんと改善もするから。だから――」
捨てないでくれよ。
思わず女々しい台詞を吐きそうになり、口を閉じる。
「改善するとかそういう問題じゃないんだよね。もっと根本的な……端的に言えば価値観の違いってやつ」
「そんな言い方じゃ、納得できないよ」
反抗的だと思われてしまっただろうか。だが、言わずにはいられなかった。僕と彼女は先程まで愛し合っていたのだから。こんな理不尽なこと、あってはならない。
彼女は煙草を灰皿に置いて口を開いた。真面目な話をする時、彼女は決まってそうする。
「私のこと愛してないでしょ」
「な、愛してるに決まってるじゃないか……!」
思いもよらない発言に目を見開く。どうして,、いつの間にそんな誤解をさせてしまったんだ。
「僕は紛れもなく君を愛している。自分を犠牲にしたっていいくらいに」
そう言うと、彼女は溜息を吐いた。
「私はね、自己肯定感の低さからくる自己犠牲心を愛とは呼ばないの」
違う。
確かに、その気持ちは自己肯定感の低さから発生する場合もある。だが、僕のこの気持ちは自己肯定感とは関係ない。正真正銘、純粋な愛から発生したものだ。
「自分を一方的に満たして楽しいの? これ以上、私を利用しないでよ」
なんだ、それ。
「僕の愛情表現が足りなかったっていうのか? あんなにも伝えてきたのに」
自分がどれだけ傲慢な言葉を口にしているのかは分かっているつもりだ。でも、そのくらい愛していたんだ。忠誠を誓えるほど、本当に、心から。
「そんなに愛してるならさ、ご自慢の自己犠牲とやらで私のために私の人生から消えてくれないかな。簡単でしょ?」
「それは……」
状況が、違うじゃないか。
「欲塗れね」
欲塗れ? 僕のことを言っているのか?
侮辱しているのかと思ったが、彼女には欲の汚さについてよく話している。きっと、僕に嫌われようとして言ったのだろう。その程度のことで嫌いになれるはずがないのに。
荷物をまとめだした彼女は、僕を見ようともしない。本当にこのまま出ていくつもりなのだろうか。まだ、まだやり残したことが沢山あるのに。
このまま話をしていても埒が明かない。一先ずは部屋に閉じ込めて、そのあと僕が正しかったのだとゆっくり理解してもらえばいい。口で言っても分からないのであれば少し痛めつければ――
いや、それじゃ駄目だ。
たとえそれだけが解決策だったとしても、愛する彼女に暴力を振るうなんて僕にはできない。なにより、暴力が介入する関係なんて愛ではない。
気づけば涙が溢れていた。拭うことは出来ない。今泣いていると知られてしまえば、彼女の同情を狙っているのだと思われるだろうから。
別れたくない。
だけど、気持ちだけが先走ってどうすればこの状況を打開できるのか分からない。なあ、僕は何をすればいい? 何を差し出せば許してもらえるんだ? 本当に、君のためならなんだって出来るんだ。
そんな言葉を飲み込む時間だけが過ぎた。
物音がしなくなった。
きっと、荷物をまとめ終えたんだ。相変わらず視界がぼやけているから憶測になるが、物音がしないのはタクシーを呼ぼうとしているからだろう。これまでの送迎は僕がしていたから、タクシー会社の電話番号を知らないんだ。聞いてくれれば言うのに。僕と口を利きかないようにするために、わざわざ調べているんだ。僕が送ると伝えたいが、声が震えそうだ。
「本気で、愛してたんだよ」
煙草を灰皿に押し付ける音が聞こえた。
【彼女視点】蛇足
「どちらまで?」
「ここから一番近いセブンまでお願いします」
「分かりました」
運転手はそれ以上何かを言うことはなかった。何かを察したのか、元々の性格が無口だったのか……理由は分からないけど、今は有難かった。
今夜で終わりにしようと決めていた。
ずっと、苦しかった。彼にとっての愛は独善的と表現せざるを得ないほどに一方的で、自分の自信の無さを埋めるための手段だった。私から認められることを望んではいるけど、私からの愛は求めてくれない。たくさん尽くしてくれて嬉しいはずなのに、寂しくて、虚しくて。恋人なのに、そんなことを言わせてもらえるような関係ですらなくて。
嫌われるのが怖くてずっと黙っていたけど、彼にとって私は汚い欲望の塊でしかない。なんの変哲もない普通の恋愛をしていたのだから当たり前だ。そもそも、彼の言うような愛は存在しない。彼が自分の環境に耐えるために夢見た幻想だ。
最初は、彼が変わるまで待てばいいと思った。変わると言っても、彼の恋心だって欲望の一つでしかないのだと認めるだけの簡単な認識行為だ。多少苦痛ではあると思うけど、きっかけさえあれば受け入れることが出来るだろう……って。
それじゃ駄目なんだと気づいたのはすぐだった。見守ることを選択してしまえば対等でいられなくなるし、私が彼に変化を期待するということは、私の理想を一方的に押し付けていることにもなるから。そもそも、なんだかんだでプライドの高い彼のことだ。自分の価値観を修正するなんて屈辱的で耐えられないはずだ。私の前ではなんでもすると豪語する彼だが、実際には出来ないことの方が多い。不器用だし。
彼が私のために作ってくれたクッキー、本当に不味かったな。丸焦げで形も歪だし、褒めるところ探すのに苦労したな。そんなところも愛おしかった。……できることなら、ずっと見ていたかった。
私が我慢すればいいのかなって思った時もあったけど、それじゃ幸せになれない。将来、お前と一緒にいたから私が不幸になったんだと彼を責めたくない。彼に迷惑を掛けないためにも、私は自分の幸せを第一に考えなくちゃいけない。
最後、彼はどんな顔をしていたのだろう。
部屋を出る前に確認しようと思ったけれど、涙が溢れて出来なかった。かなりきつい言葉を浴びせたから、傷つけてしまっただろうか。何も言わないようにしようと決めていたのに、私の理想を押し付けてしまった。少しでも彼が変わるきっかけになれば……って思って。このままだと、彼が孤独な人生を歩むことになる気がしたんだ。
「いつか、幸せになれるといいね。お互いに」
私が煙草を吸っていた理由を、君は知っているのかな。
煙草を吸う私の姿に見惚れてくれてたからだよ。