短いもの(~4,000文字)
ピアノ
聴き慣れたピアノの優しい音色で目を覚ます。
「よっこいしょ」
痛む腰を抑えながら立ち上がって、のんびりとリビングの方へと向かう。
そう言えば起きて寒さに凍えることも無くなった。この前、散歩に出かけた時に桜の木に蕾がついていたのを見たし、いよいよ春が訪れたのだろうか。よし、桜が咲いたら彼女とお花見にでも行こう。
彼女は外に出るのが好きだから、きっと喜んでくれるだろうなと考えていると、思わず頬が弛んだ。
歩くにつれて、ピアノの音がよく聴こえるようになったことから、彼女がきらきら星を弾いていることが分かった。
リビングに着くと、消音にされたテレビの時計は十二時を知らせていて、温かみを帯びた太陽の光がリビングを全体を優しく包み込んでいた。
その空間でピアノを弾く彼女に、見蕩れてしまう。
僕は腰の痛みを忘れて、そのまま吸い込まれるように彼女の元へと歩を進めた。
「あら、おはよう。今日は随分と遅起きなんですね」
僕の気配に気づいた彼女はピアノを弾く手を止めて、笑顔で僕に話しかけた。
「ああ、おはよう。久しぶりに君と出会った時の夢を見たから、起きるのが遅くなったのかもしれないな」
その言葉を聞いた彼女は、少しだけ驚いた顔をして、
「まあ。懐かしいですね」
と、目を細めて言った。
「本当に、懐かしかったよ」
二人して遠くを眺めながら昔の思い出に浸っていると、思い出したように「あ、お茶でも淹れましょうか」と彼女は言って、立ち上がろうとする。
「いいよ」
そんな彼女を制して、彼女の隣に腰かける。
「お茶よりも、一緒にピアノでも弾こう」
僕の言葉に彼女は顔を綻ばせて、「いいですよ」と快く承諾してくれた。
実は、この流れは何十年も交わしたやり取りなのだ。
それでも、何百回も繰り返したこの提案を嫌がることなく、嬉しそうな顔をして頷いてくれる彼女と、それを提案し続ける僕は、きっとどうしようもないくらいのピアノばかなのだろう。
「何を弾きますか?」
そう言って、彼女はしわくちゃな手をピアノに添えた。
「何を弾こうか」
言いながら僕も同じように、しわくちゃな手をピアノに添える。
何を弾くか決めるこの時間も好きだ。二人して今からする演奏の雰囲気を考え、その雰囲気にするためにはどんな曲がいいのか想像して心を弾ませる、この時間が。
「ああ、そうだ」
曲を思いつき、声を出す。
「あの曲を弾こう。僕が初めて君のピアノを知った、あの曲を」
僕がそう言うと、彼女は少し笑って「分かりました」と返事した。
いつものように目を合わせる。すると、目尻に皺が出来た彼女の目の中に、幸せそうに微笑む僕の姿が見えた。
気恥ずかしくなって目を逸らし、「せーのっ」と合図を出す。
ジャジャジャジャーン。原曲の重厚感の欠片もないような、あの優しい音がリビングに響く。
交響曲第五番ハ短調__運命。
高校生の頃、僕はこの曲に心惹かれていた。僕の運命の音もきっとこんなに激しく、衝撃的な音なのだろうと信じてやまなかったし、何度もそのフレーズを自分なりに弾いてみたこともあった。
だが、僕の運命の音は違った。
ピアノコンクールに訪れたある日、燃え上がるような赤いドレスを身にまとった少女の演奏した運命。
それこそが、僕の探していた“運命の音”だったのだ。
まるで我が子をあやす母のような、優しい音色。テンポも遅く、曲を成立させるためか楽譜もところどころ変わっている。そんな、コンクールではありえない演奏。
それから僕は彼女に声を掛け、交友を深めていき、今に至る。彼女は、僕の運命の音を奏でただけではなく、運命の人でもあったのだ。
「随分と、ゆっくりになりましたよね」
彼女が話しかけてくる。僕らの奏でる曲は、歳を重ねる度にテンポがゆっくりになっていた。
「そうだね。でも、これもいい」
「ふふ、そうですね」
数分ピアノを弾いていると、ふと彼女が「なんだか眠いです」と言った。きっと、陽の光が気持ちいいからだろう。
うとうとしていて本当に眠そうだったので、片手を鍵盤から離して彼女の頭を一度撫でる。それから、「ピアノはやめにして、寝るか?」と聞くと、彼女は意外にも首を横に振った。
「折角ですから、さいごまで貴方とピアノを弾いていたいんです」
「……そうか」
本当にこのピアノばかは……と溜め息を吐くが、正直、僕も彼女とピアノを弾いていたかった。
だからそれ以上は何も言わず、彼女の弾き続けたい気持ちを尊重することにした。
「幸せです」
「僕も、幸せだよ」
それからまた数分間、二人で幸せを噛み締めるように優しい音を奏で続けた。
アレンジで遠回りをして、ようやく弾き終わったと同時に、僕の肩に愛おしい重みが寄りかかる。
「最期に僕と奏でてくれて、ありがとう」
聴き慣れたピアノの優しい音色で目を覚ます。
「よっこいしょ」
痛む腰を抑えながら立ち上がって、のんびりとリビングの方へと向かう。
そう言えば起きて寒さに凍えることも無くなった。この前、散歩に出かけた時に桜の木に蕾がついていたのを見たし、いよいよ春が訪れたのだろうか。よし、桜が咲いたら彼女とお花見にでも行こう。
彼女は外に出るのが好きだから、きっと喜んでくれるだろうなと考えていると、思わず頬が弛んだ。
歩くにつれて、ピアノの音がよく聴こえるようになったことから、彼女がきらきら星を弾いていることが分かった。
リビングに着くと、消音にされたテレビの時計は十二時を知らせていて、温かみを帯びた太陽の光がリビングを全体を優しく包み込んでいた。
その空間でピアノを弾く彼女に、見蕩れてしまう。
僕は腰の痛みを忘れて、そのまま吸い込まれるように彼女の元へと歩を進めた。
「あら、おはよう。今日は随分と遅起きなんですね」
僕の気配に気づいた彼女はピアノを弾く手を止めて、笑顔で僕に話しかけた。
「ああ、おはよう。久しぶりに君と出会った時の夢を見たから、起きるのが遅くなったのかもしれないな」
その言葉を聞いた彼女は、少しだけ驚いた顔をして、
「まあ。懐かしいですね」
と、目を細めて言った。
「本当に、懐かしかったよ」
二人して遠くを眺めながら昔の思い出に浸っていると、思い出したように「あ、お茶でも淹れましょうか」と彼女は言って、立ち上がろうとする。
「いいよ」
そんな彼女を制して、彼女の隣に腰かける。
「お茶よりも、一緒にピアノでも弾こう」
僕の言葉に彼女は顔を綻ばせて、「いいですよ」と快く承諾してくれた。
実は、この流れは何十年も交わしたやり取りなのだ。
それでも、何百回も繰り返したこの提案を嫌がることなく、嬉しそうな顔をして頷いてくれる彼女と、それを提案し続ける僕は、きっとどうしようもないくらいのピアノばかなのだろう。
「何を弾きますか?」
そう言って、彼女はしわくちゃな手をピアノに添えた。
「何を弾こうか」
言いながら僕も同じように、しわくちゃな手をピアノに添える。
何を弾くか決めるこの時間も好きだ。二人して今からする演奏の雰囲気を考え、その雰囲気にするためにはどんな曲がいいのか想像して心を弾ませる、この時間が。
「ああ、そうだ」
曲を思いつき、声を出す。
「あの曲を弾こう。僕が初めて君のピアノを知った、あの曲を」
僕がそう言うと、彼女は少し笑って「分かりました」と返事した。
いつものように目を合わせる。すると、目尻に皺が出来た彼女の目の中に、幸せそうに微笑む僕の姿が見えた。
気恥ずかしくなって目を逸らし、「せーのっ」と合図を出す。
ジャジャジャジャーン。原曲の重厚感の欠片もないような、あの優しい音がリビングに響く。
交響曲第五番ハ短調__運命。
高校生の頃、僕はこの曲に心惹かれていた。僕の運命の音もきっとこんなに激しく、衝撃的な音なのだろうと信じてやまなかったし、何度もそのフレーズを自分なりに弾いてみたこともあった。
だが、僕の運命の音は違った。
ピアノコンクールに訪れたある日、燃え上がるような赤いドレスを身にまとった少女の演奏した運命。
それこそが、僕の探していた“運命の音”だったのだ。
まるで我が子をあやす母のような、優しい音色。テンポも遅く、曲を成立させるためか楽譜もところどころ変わっている。そんな、コンクールではありえない演奏。
それから僕は彼女に声を掛け、交友を深めていき、今に至る。彼女は、僕の運命の音を奏でただけではなく、運命の人でもあったのだ。
「随分と、ゆっくりになりましたよね」
彼女が話しかけてくる。僕らの奏でる曲は、歳を重ねる度にテンポがゆっくりになっていた。
「そうだね。でも、これもいい」
「ふふ、そうですね」
数分ピアノを弾いていると、ふと彼女が「なんだか眠いです」と言った。きっと、陽の光が気持ちいいからだろう。
うとうとしていて本当に眠そうだったので、片手を鍵盤から離して彼女の頭を一度撫でる。それから、「ピアノはやめにして、寝るか?」と聞くと、彼女は意外にも首を横に振った。
「折角ですから、さいごまで貴方とピアノを弾いていたいんです」
「……そうか」
本当にこのピアノばかは……と溜め息を吐くが、正直、僕も彼女とピアノを弾いていたかった。
だからそれ以上は何も言わず、彼女の弾き続けたい気持ちを尊重することにした。
「幸せです」
「僕も、幸せだよ」
それからまた数分間、二人で幸せを噛み締めるように優しい音を奏で続けた。
アレンジで遠回りをして、ようやく弾き終わったと同時に、僕の肩に愛おしい重みが寄りかかる。
「最期に僕と奏でてくれて、ありがとう」