第4話「気をつけろよ」

「もしかしてアンタ、織田さん?すか?」
汗だくになって走っていた高野は、久し振りの、だけど微妙な日本語に思わず振り返る。
そこには虎と見まごうような、迫力ある人相の男が立っていた。

高野政宗は高校生の頃、2つ年下の後輩、小野寺律と恋に堕ちた。
そこから今までのことを考えると、その波乱万丈な道のりにため息が出てしまう。
本当に色々なことがあったのだ。
ささいな誤解から10年間も消息がわからず、再会した後も、律はなかなか素直にならず。
ようやく想いを通じ合わせて、恋人同士になった後は、律の両親に激しく反対され、引き裂かれた。
律は父親が社長を務める会社に、半ば強制的に籍を移されてしまう。
そして拉致監禁と変わらないような状態で親の監視下に置かれ、連絡も取れなくなった。

その後、律は子供の頃から決められていた許嫁と結婚させられそうになった。
その婚約披露パーティに乗り込んだ高野は、そこから律を攫い、2人で逃げたのだ。
そしてついでに日本を脱出し、アメリカで会社を興した。
何しろ日本では、それなりに財界に権力を持つ律の父親に潰されてしまうだろうから。
だからとにかく今は会社を軌道に乗せて、律と安定した生活ができるようになるのが目標だった。

この日、高野は引っ越してきて初めて、マンションに併設されているトレーニングジムに来た。
家で翻訳の仕事をしている律は、ほぼ毎日来ているようだ。
だが高野は会社が忙しくて、ジムどころか寝に帰るような生活だった。
デスクワークばかりで、運動不足になってしまうというだけではない。
30歳を過ぎれば、身体も衰えてくる。
夜の生活で恋人を飽きさせないためにも、身体づくりは大切だ。
だからこうして筋トレでヘトヘトになった後、ひたすらランニングマシンで走っていた。

「もしかしてアンタ、織田さん?すか?」
汗だくになって走っていた高野は、久し振りの、だけど微妙な日本語に思わず振り返る。
そこには、虎と見まごうような迫力ある人相の男が立っていた。
おそらく身長は軽く190センチ超、日本ではまぁまぁ長身と言える高野を軽く見下ろしている。
日本にいた頃「暴れグマ」の異名を持つ友人がいたが、比べものにならない迫力だ。
高野はランニングマシンを止めると、改めて男と向かい合った。

「織田じゃないけど、織田の同居人。そちらはもしかして黒子君の同居人さん?」
高野はその男にそう問い返した。
すると男は「そうだ、です」とまたも取ってつけたような丁寧語で答える。
おそらく人種的には日本人のようだが、アメリカ暮らしの方が長いのだろう。
見た目は怖いけれど、悪い人間ではなさそうだ。

この青年が、黒子の同居人と気付いた根拠は簡単だ。
律がこのマンションに暮らす黒子という青年と仲良くなったと言っていた。
黒子は高校時代のクラスメイトと同居しているとも。
ここは日本人がほとんどいないマンションの住人だけが使えるジム。
高野に「織田さん?」と聞いたのなら、律のことは知っているが顔までは知らない人間。
つまり黒子のルームメイトということになる。

「黒子君と同居している人は、単なるルームメイトじゃなくて恋人だと思う。」
律は芸能人のゴシップに喜ぶミーハー女子の如く、目を輝かせてそう言った。
どうやら部屋に上げてもらった時に、室内の雰囲気でそう思ったらしい。
その観察眼はどこまで当てになるのか、今のところ高野には判断がつかなかった。

だがとにかくこの大きな男とは初対面だし、今後も顔を合わせることは増えるだろう。
まずは名乗るべきと口を開いた途端、ジムの中に叫び声が響いた。
男とも女ともつかない声で、何と言ったか聞き取れないが、明らかに悲鳴だ。
そしてジムの外は何だかひどく慌ただしい雰囲気だ。
どうやらジムの外で、何やら騒ぎが起きている。

まさか。
高野は話しかけて来た青年を無視して、走り出した。
全てを捨てて日本を飛び出した高野と律だが、律の実家が諦めたとは限らない。
もしかしたら律が、小野寺の家の追手に。
そんな悪い想像が働いたからだ。

だがジムの外に出た高野が見たのは、アメリカ人の夫婦の喧嘩だった。
しかも両方が掴み合い、殴り合うというかなりワイルドなものだ。
他の住人が止めに入っているし、高野の出番はないだろう。

高野は取り越し苦労に苦笑しながら、ジムに戻った。
だが先程のあの青年は、すでにいなくなっていた。
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