ラーゲリに生まれて

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 一九九一年、私は当時ソ連で一番の名門とされるモスクワ国立大学の教授の任にあった。当時四十五歳かそのくらい。
 年末にソ連が名実ともに崩壊し、ロシアの経済は混乱に陥った。経済的苦境から大学に来られなくなる学生も見受けられた。
 共産主義の支配体制から抜けたことにより、西側の大学へと転職していく同僚がちらほらいた。私は別段その当時の待遇に嫌気が差していたわけでもなかったが、国内の学者が集まる研究会に顔を出した際、西側諸国の大学の求人の一覧を覗く機会があった。
 東京大学。その文字が目に入ってきた時、幼少期から情報統制されてあまり知ることができなかった日本という私のもう一つのルーツとなる国についての憧憬で頭がいっぱいになった。
 私はこの時、妻アリョーナと十三歳になる一人息子アルチョムと慎ましい三人家族を形成していた。アリョーナは大学時代の後輩だが、みなしごの私とよく結婚してくれたものだ。
 妻には私の父親がどうやら日本人らしい、という情報を伝えていたのみで、家庭内ではあまり「イポーニヤ(日本)」のЯの字も出したことがなかった。だが、このとき私は熱に浮かされたようになって、帰宅して開口一番、妻に次のように告げた。
「日本に引っ越すのは、どうかな」
 生粋のソ連女だったアリョーナはその言葉に、「はぁ?」と返しただけだった。どうせまた夫が思いつきで変なことを言い出したと思ったのだろう。私はずっと日本に関心を寄せてはいたが、語学があいにく得意ではなく、学生時代に少し日本語を習ったものの実践する機会もなかったのでろくに話すこともできなかった。
 そんな傍目から見て大して「日本通」とも思えない夫が突然日本行きを宣言――それも、国内最高峰の大学の正教授の座を投げ出してまで――するというのは、どうもこのとき、妻には戯言としか思えなかったようだった。
 私は個人的に知っていた日本の数学界でその当時最も有名だった学者に手紙を書き送った。私より年輩の、東洋人としてはじめてフィールズ賞を受賞した人だ。この当時インターネットはまだなく、メールという連絡手段がなかったのだ。
 この老教授はバークレー校に奉職し、退官した後亡くなるまでカリフォルニアに暮らしていた。当時の国際郵便の感覚としては、すぐに返事が来たと思う。彼は私の手紙を見てすぐに東大に掛け合ってくれたらしい。私が見た例のポストは別の数学者によってすでに埋められていたが、それとは別に私を招聘するために枠を作るのもやぶさかではないとのことだった。願ってもない幸運であった――私は三十三歳の頃に思いがけずフィールズ賞を受賞していたが、その威光がなければおそらく成立していない特別待遇だった、と思う。前体制が崩壊してボロボロのロシアから全く無名の数学者がアプライして来ても普通は門前払いだろう。
「東京に行こう」
「……あなたその話本当だったの?」
「トウキョウ?それって日本の首都だっけ」
「向こうが私を受け入れてくれるらしい。ほら封書が来た」
「まぁ、なんてこと」
「うわぁ、日本だって!」
 私の急な思いつきで引越しが決まった。妻と息子は文句を言わずついて来てくれたが、言葉も習俗も知らない東洋の島国にいきなり行くと言われて不安がなかったかと言われると、多分不安いっぱいだっただろう。
 一九九二年の夏、私は日本の土を、学会の開催とは関係ない完全な個人の意思に基づいて踏むことになった。顔も知らない、生きているかどうかも知らない、会えるかどうかもわからない父親の生誕の地。成田に着陸準備を始めることを伝えるアナウンスを聞きながら、私は四十年前にラーゲリを出た時にも似た、熱に浮かされたような不思議な高揚感が湧き上がってくるのを感じていた。
 冷戦中にも、東西の陣営を行き来するような学会も定期的に開かれていて、日本がその会場となったこともあった。若き日の私は数学の学究に邁進し、自分のアイデンティティのことを深く考えることもなかった。東京に数日間滞在する間、父親のことは頭の片隅に常にあったけれども、限られたスケジュールの中で彼を探そうと言う気にはならなかった。父も母もないが私には兄や姉がいたし、なにより学問があったので寂しくなかったのだろう。
 だが、歳を重ねるとそれまで気にしていなかったことが気にかかるようになるということがあるらしい。
 冷戦が「デタント」を迎え、東西の歩み寄りが顕著となってきた頃には私も齢四十を超えた。息子のアルチョムも大きくなり、「生粋のロシア人にはどうも見えない父親のルーツ」への素朴な疑問を口にするようになった。東西冷戦の事実上の終結は、西側の国の一角を占めた日本を急速に近しい存在と認識させるようになり、私をして父の故郷への興味を一気に引き立てた。
 私が足を踏み入れた東京の空は、綺麗に晴れ渡っていた――それは梅雨の時期で、珍しく覗いた晴れ間だったらしい。その空を見上げて、十字を三度、ちょうど姉さんがやったように綺麗に切ったことを覚えている。神が、私をこの地に導いた。ここに来なければならないという天啓を賜ったのだと思った。
 そのように信じられるほど、あの日の私はなにかにやられていたのだろう。
「今日のお父さんはへんだ、なにか酒に酔っているようだ」と息子に言われたのだった。彼はロシア外務省が運営するロシア人学校に転入することが決まっていた。新しい生活への不安があったろうに、アルチョムはその日、ずっと浮き足だった父の様子を揶揄って戯けていた。
 私は面倒な役所の手続きを済ませ、何度か大学に通ってロシアから送った蔵書を整え、妻は新居を整え、息子の学用品を揃え、そんなことをしながらひと月ほど慌ただしく過ごした。
 神田駿河台に正教会の大聖堂があるのをずっと知っていたのだが、そこに初めて足を運ぶことができたのは来日してから一ヶ月経ったころ――忘れもしない、聖公ウラジーミルの記念日とされる七月十四日。
 いまから三十年以上前なので、あの頃私を歓迎してくれた日本正教会東京教区の信徒たちのうち、天国に旅立った人はもう何人いるだろうな。私はいままでにあそこで何度パニヒダ(注: 正教会における死者のための奉神礼。要するに葬儀)に参加しただろう。
 ともかくあれは、一九九二年七月十四日のことだ。
 初めて東京の聖堂に足を踏み入れたその日、美しい聖歌が歌われる中、やはりロシアのものとは少し異なる礼拝の進行に少し戸惑いながら私たち家族は壁際に立っていた。
 私たちはロシア語しか解さなかったので、私が初めて来たんだとわかったロシア人の信徒が親切にいろいろと教えてくれた。礼拝が終わった後、執事(注: 日本正教会では教会役員。教会の運営などについて取り決める会議に出たりするいわば世話役である)だという老人に信徒の集会所でみなに挨拶するように頼まれた。
 こういう時、私はまだ話し上手な妻に頼みたいのだが、日本はまだ家父長制の影響が強いらしく一家の長である――そのように見做される――父であり夫である私が代表して挨拶しなければならない雰囲気であった。
「しかし、私は日本語が話せません」
「通訳をつけましょう」
 通訳をつけてまで自己紹介せねばならないとは大事業に思われて、あがり屋の私は冷や汗を垂らしながら投げやりな返事を返した。
「はぁ、通訳?」
「ソ連大使をされていたお方ですから間違いありません――ええと、キリルさん、キリルさん……」
 ニコライ堂には案外信徒が多くて私たちは驚いていた。在日ロシア人だけでなく、頭髪の黒い人がたくさんいて、日本人の信徒もかなり多いのだと知った。共産党時代は弾圧を受けていた教会に通いにくかったせいで、ロシアの教会は人もまばらでいつもどこか暗かった。東京の聖堂の盛況ぶりは目を見張るものがあり――だからこのとき、執事は「キリル大使」を探すのに結構時間を要した。
「いました、いました――キリルさん、彼がメルツァロフさんで、こちらが奥さんで、息子さんです」
 たどたどしいロシア語を話してくれた日本人の執事は、同じく日本人のいくらか若い男を連れてきた。彼が「キリル大使」。顔をじっくり見るまでもなく、手を差し出された――もっとも私は、恥ずかしがりなので相手の目をまっすぐに見られないのだ。
 外交官の作法なのか、彼はまずもって笑顔で私に握手を求めてきた。アリョーナ、アルチョムも順番に握手を済ませた。まるで欧米人のようにその様子は自然だったのは、外交官だからなのか。
「私は安積和臣といいます。聖名はキリルです――ここでは専らキリルと呼ばれています。ようこそメルツァロフさん。ファースト・ネームを教えていただいてよろしいですか」
「あ……ええ、ゲオルギー・キリロヴィチです」
「奥さまは」
「アリョーナ」
「息子さんは」
「アルチョム」
「覚えます。お引越しされてきたとか――東大の教職に就かれると聞きました。もうずいぶん前ですが私もあそこの法学部に通いました――ゲオルギー・キリロヴィチ。私の妻はロシア人で、息子が三人、娘が二人いるのですが、末息子がゲオルギーというロシア名を持っていて、向こうではあなたと全く同様に呼ばれます。ゲオルギー・キリロヴィチ――もうアルチョム君より、随分大きいですが――いや、あれはもう大人、か……」
 六十を回ったくらいの年頃だろうか。多分、顔の陰影の感じからしてそうだと思う。日本人の顔は年齢を予測しづらいと言われるが、キリルの顔はどことなくロシアで育った私にも馴染みのある骨格をしていた。つまり東洋人の中では白人的な特徴のある顔立ちだった。背は東洋人としては、またこの年齢としては高く、髪はまだ黒々としていて若々しい人だ。
「あなたはロシア語がお上手ですね」
「ロシア人を隣人として育ちました。小さい頃から話していますので――もう聖堂も閉まるようですから、集会所の方に移動しましょう」
 そう、キリルのロシア語はどこにも外国人のつっかえがなかった。
「おいくつくらいの人かしら?」
「六十くらいじゃないか」
「素敵な紳士だこと。日本人には珍しいわね」
「お前は、私の半分が日本人だったことを忘れたかな」
「あまり実感がないんだもの。タタール人と言われればそうも見えるし……」
 妻は生粋のロシア人で、東洋系の男にあまり魅力を感じないらしい。東洋人の血が明らかに混じっていると最初からわかっていて、なぜ私と結婚しようと思ったのかわからない。他愛のないことを話しつつ私たちはキリルに連れられて集会所へ移動し、彼とその家族と同じ机に座るように言われた。
 妻と三人の息子、二人の娘があると言われたが、そこにいたのはキリルの美しい奥さんと、息子のうち一人――多分これが、私と同じファーストネームの「ゲオルギー」だろう。
「あらま綺麗な子」
 妻は美青年がたしかに好きだ。実を言えば私も昔はそうだった――ああだからこんな数学馬鹿と結婚してくれたのか。
 彼は私と目が遭うと、人懐っこそうな笑顔を浮かべて、次に年少のアルチョムを見つけるとひらひらと手を振って愛想をしてくれた。若い頃にさぞ美しかっただろう、そして現在の年齢を考えても十二分に綺麗なロシア人の母親に似た、美女と間違えそうな美青年だった。私には彼が十八歳かそこらに見えた。
「パパ、知り合い?」
「さっき紹介された。ロシアから来た数学の先生だって――東大の」
「へぇ、でも僕には縁がないや。文学部だもの」
「お前はそろそろ、卒業しないとダメだな――ゲオルギー・キリロヴィチ。これが先ほど話したうちのゲオルギー・キリロヴィチです」
「あらキリューシャ、こちらの方、ゲオルギーさんで、お父さまのお名前がキリルなの」
「そう、偶然ね――そっちが奥さんのアリョーナ。そっちは息子のアルチョム――チョーマ、君はいまいくつ」
 この家族は父親が日本人にも関わらず、自然とロシア語を使って互いに会話するようだ。わからない日本語から見事にロシア語に切り替えてくれたので私は胸を撫で下ろした。
「ええと。おじさん、僕は十三歳です」
「ああ、それならうちの子より随分下だ。孫の方に近いかな――今日は来てるんだけど離れたところに座ってる。私の長男はもういい歳で、たぶんゲオルギー・キリロヴィチ、あなたと少ししか変わらない。あとで孫に会わせてあげよう、ええと……タートカ、マーシャたちはいくつだった?」
 キリルには孫がある。私には彼らがずいぶん幸せな家族を作っているように思われた。
「マーシャは同じ、十三歳ね。フェージャが十一歳。ティーマは九歳。お話し相手にはちょうどいいんじゃないかしら」
「あらチョーマ。よかったわね、お友達を作っておきなさい」
「うん、そうする……お兄さんは?お兄さんはいま何歳?」
「えー僕?いくつに見える?」
 アルチョムはゲオルギー青年に――私じゃない方のゲオルギー・キリロヴィチに関心があるようだった。一人っ子のアルチョムは、歳が少しでも自分と近い人と接したいのだろう。
「んー……二十歳くらい?」
「そうかぁ、まぁ子どもっぽく見えるよね。正解は二十四歳でした――そんなに大外しは、してないか。僕ね、まだ学生なの。留年、わかる?留年……ああゲオルギー・キリロヴィチ、僕は東大の学生ですが、文学部ですから数学をやりません」
「留年?それって、お兄さんは落第したの?」
「そうそう、落第落第!僕ってダメなやつでね。あはは」
 ゲオルギーはからからと笑っている。つけていた眼鏡はどうやら伊達メガネのようで、フレーム部分に指を突っ込んでぶんぶん回して戯けていた。
 恥ずかしげに肩を竦めた夫人は、末息子の不出来の理由を私たちに説明してくれた。
「この子は、演劇の同好会で精力的に活動しているんです。それで、授業をサボったりしますので、こうなってしまいました。でも、この子の兄がなんとしても今年は卒業させると意気込んでいます――ああ、さっきの三人の子の父親のことですわ」
「ゲオルギー・キリロヴィチ、君にはいい兄さんがいるんだね」
「そう、とってもいい兄さん――もう四十歳になるんだ。ゲオルギー・キリロヴィチ。僕はね、ユーラチカって呼ばれてる」
 キリルの長男は四十歳になる。たしかに、私と比べて五歳ほどしか変わらない。彼の正確な年齢がわからなくなってきた。キリルは人気があるらしく、次々に老若男女が席を立ち彼のところに集ってきた――やはり一国の大使までやった人物というのは、みなの知恵袋なのか。机には律儀にパンと紅茶が用意されていたが、私は手をつけることができなかった。いったいいつ、自己紹介をしろと声がかかるかわからなくて気が気ではなかったのだ。
 キリル――日本語名、安積和臣。見た目からは六十歳と少しくらいかと思ったが、長男はすでに四十。だが二十かそこらで親になる人もあるので、それはおかしなことではない。私は正直にいうと、キリルというこの、老人というには若く壮年というには少し歳を取った紳士に惹かれるところがあった。
 ユーラチカ――彼の末息子は席を立ち、しばらくして一人の少年を連れて戻ってきた。アルチョムより僅かに幼く見える、髪を綺麗に切り揃えたおとなしそうな少年は、知らないロシア人一家のすぐ近くに連れてこられたので戸惑っている様子である。
「フェージャ、この子はチョーマ。アルチョム・ゲオルギエヴィチ。君より一つくらい年上。ロシア語しかできないって。挨拶してごらん」 
「えっ」
「ああ、チョーマ。この子がさっき話していた、僕のパパの孫だよ。僕の兄さんの息子だ――甥ともいう。でもこの通り酷い恥ずかしがり屋で――おっと何か始まる?」
 ここまでユーラチカが話してくれたところで、もう一人の恥ずかしがり屋――すなわち私が、自己紹介しなければいけない局面になったらしい。仕切り役の司祭がなにか日本語で話し始め、私に挨拶をするように促した。みなの視線が一気に私に集中して――私の体は、まるで小さな子どもが学校でそうなるように、熱くなってしまった。
 モノローグはちゃんとしているだろう、だが私は、吃りがあって、極度に上がってしまうから変な話し方になってしまう。だがロシア語だから、ここに参集する多くの日本人信徒にそのたどたどしさは伝わらない。
 私は同胞たちの視線こそが怖かった。
 だいたい次のように自己紹介したと思う。
 まず名前。秋学期から東大に奉職することになった。専門は数学で、主にトポロジーを専門としている。
 ええと――。
 私は戦争が終わってすぐに生まれました。戦争と言ったらソ連では対独戦の大祖国戦争のことを言うが、日本の戦争はもう少しあとまで続いたと聞いている。私が言うのは、日本の戦争が終わった後です。私の母はロシア革命でハルビンに逃げ、そこで青春を送った人でした。ハルビンを満州に入れて占領していた日本とはこの点で私も縁があります。でも私が生まれたのは、母が赤軍に捕まった後、ハバロフスク郊外のラーゲリでした。母は赤軍にハルビンで逮捕された時に妊娠していて、私は生まれながらの政治犯罪者として牢獄の中にいたのです。
 父を知らず、母も出産で命を落としたので、私は孤児でした。歳の離れた姉と兄に助けられて厳しい囚人生活をどうにか生き残りました。こうしていま生きていられ、日本の兄弟姉妹(注: 正教会では信徒仲間のことは兄弟姉妹と言う――これは他のキリスト教派でも大抵そうだろう)に出会うことができたのは、主のおかげだと思います。
 ――またラーゲリを言ってしまった。
 私がつっかえながら話すことごとを、キリルは多分日本語でずいぶん流暢に通訳してくれていた。とりわけラーゲリのくだりは、年輩者たちからウケがよかったらしくざわついた。
 やはり「ラーゲリで生まれた」は私にとって自己紹介の鉄板なのだ。
 あとは、妻と息子を紹介し、これから日本に少なくとも何年かは根を張って生きていくだろうことを伝えた。終わったら小さな日本人たちの手から意外なほどに大きな拍手をしてもらい、私はすごすごと椅子に座った。滝のような汗が流れていた。
 私はだいたい、小学生の頃から発表の場は本当に苦手で、数学に関すること以外ではいつも冷や汗をかいていたことを思い出していた。
 項垂れた私の上腕を、アリョーナが愉快そうに肘で突いて来た。
「ふぅ……本当に、自己紹介は勘弁なんだ」
「あれね、やっぱり私が話した方がよかったくらいね。講演のときと全然違うじゃないの」
「仕方がないよ、そういう性分なんだから」
 私は二人いるのだ。縮こまってビクビクしている小心者だが、専門のことになると水を得た魚のようにハキハキと話し出す。二重人格を疑われるほどその落差は激しい。自分のことが今一つ好きになれないのは、小さい頃から笑われてきたからだ。加えて若い頃はロシア人の子どもから人種偏見でよくタタールと呼ばれた。たしかにそういう外見をしている。
 自己紹介を終えた後、静まり返っていた集会所内はまたガヤガヤし出した。
 六十に足を突っ込んだかどうか、そのくらいのキリルの奥さんは――私はなかなか名前が覚えられない――、非常に上品な仕草で紅茶にジャムを入れた。その優雅さは、その直後に不意に問いかけられ驚いたほどだ。
「ご両親を亡くされていたなら、ゲオルギーさんは随分と苦学されたんですか」
「――あ。いえ、ソ連は学費が掛かりませんでしたから」
「そうなんですか。ごめんなさいね、私日本育ちだから知らなくて」
「もう一人のゲオルギー・キリロヴィチ。ママは日本生まれ日本育ちで、日本語の方がちょっと得意だよ――でも家ではロシア語を話してる、そういう決まりなの。おかげでこの子もロシア語を話すんだ」
「この子――ああ」
 さっき連れてこられた少年は、借りてきた猫のようにおとなしくゲオルギー青年の隣に座らされていた。真っ黒い髪、真っ黒い目。しかしどことなくほかの日本人の子どもとは違う――彼の雰囲気は、祖母のロシア人の血ともなにか異なっていた。私には彼がトルキスタンの少年に見える。
 チョーマを見て、アリョーナを見て、最後に私を見たが――その泳いだ視線は最後、まるで縋るようにゲオルギー青年を見上げた。
「聖名はフョードルです。世俗名は千理。でも、言いにくいでしょ。ね、チョーマ。センリって言ってみなよ」
「С――Сенр……и」
「ほら言いにくい」
 歳の近い叔父に勝手に自己紹介をされて、フョードル少年は、頬を赤らめて俯いた。恥ずかしがり屋だ、私と同じ。でも私は大人なので、それなりに場を切り抜ける方法をいくらか知っている――たとえば、にっこりと戯けて見せることもできるんだ。
「だからフョードル、フェージャ、フェドゥーリャって呼んであげてください」
「わかった、フェージャ――君は、小学生?」
 チョーマは社交の面では私より幾分かアリョーナに似ているので、フョードルに話しかけ始めた。しかしこのまだ第二次性徴も始まりそうにない幼い子は、うんうん、と頷いて声を発しない。
「日本では、小学校は何歳まで」
 イエスかノーで答えられないぞ。追い込まれたのかもしれない、やっと彼は自分の言葉で話し出した。
「んと――十二歳まで、六年間。ロシアは?」
「四年で終わり。中学校が五年間――僕は今、中学四年生」
「四年で終わりって、じゃあ僕は、もう終わってるんだ」
「いま何歳?」
「十一歳。六年生、来年はここでいうと、中学一年生」
「君は、ロシアでいうと中学二年生だ。それにしても、ロシア語が上手だね。おじいちゃんに習った?」
「――うん、あとお父さんにも……怖いんだ、僕のお父さんは顔が怖くて、ばあちゃんには似ていない……」
「ひどいや、兄さん怒るぞ……ははっ」
 ばあちゃん――キリルの奥さんは、いつのまにか他のご婦人と話に花を咲かせていた。フョードル少年の父親は怖いのだというが、その母親であるあの人は優しそうな奥さんだ。うちのアリョーナとは違う――横目で見ると、私の考えが見え透いていたらしく、ギロリと睨まれた。
 さすがに一回り以上年上の女性には、見惚れることもないさ――とはいえ、確かにあの人の若い頃はさぞかし美しかったのだろうな。ため息が出るくらいに。
 ふと視線をキリルに移すと、私はギョッとした。彼の目は私の顔を捉えていたのだ――ともすると、ずっと見られていたのではないかと思われるほどだった。彼はすぐ近くに座っていたが、動く気配すら感じられなかったから。
 彼の目尻にはさすがに年齢なりの皺があったが、眼光にはなにか特殊なものがあり、吸い込まれるような魔力を持っていた。東洋人としてはわずかに茶色いそのまなこを見ると、深淵を覗くような心持ちにさせられた。
 目が遭った直後に、柔和に彼の唇が微笑みの形を作った。だがその直前の目線の鋭さは、私には残像として残るほど鮮烈だった。
「ゲオルギー・キリロヴィチ・メルツァロフ――帝政ロシア末期の外交官と同じ姓だ。ラーゲリで生まれた……何年に?」
「一九四六年です」
「何月」
「五月――五月六日」
「……ああ、日付までわかってる。それでゲオルギーなんだな(注: 五月六日は聖人ゲオルギオスの記念日にあたる。一方でロシアには十二月にも同様の聖人を祝う祝日が存在し、もう一人のゲオルギー、すなわち裕ゲオルギーの誕生日は後者の方)、君は。ふん、お父さんの名前がキリル――どんなお父さんだった」
「会ったことはありません。私が聞くところによると、日本人だったそうです。兄さんに育てられましたが、いろいろ聞きました」
「――ああ。君は確かに、そういう顔だ――へぇ?父さんが日本人、か。兄さんは、いくつ離れてるの」
「十二です」
「――そうかい、君の兄さんは苦労しただろう。コースチャ――ああうちのユーラチカの長兄だよ。十五も離れているけどもね、あれにユーラチカが育てられたとは思えない。君の兄は立派な人だ」
 父親が日本人かもしれないということを、キリルはどんな思いで聞いたのだろう。打ち明けた直後、妙な間があいた。私はこの時、彼が一国を代表して大使まで務めた一流の外交官なので私の父方の出自に気を止めたのだと思い込んだ。
 脳裏に以下のことが一瞬よぎらなかったこともない。すなわち、名前の合致と年齢の頃合い、日本人という割にロシア語が不自然なほどにできることなどから、この人が私の父親なのではないか――だがそんな偶然は、どこにもないとすぐに思い直した。ゲオルギー・キリロヴィチという敬称が全く一致する二人がここに揃うというよりも、どんなにか確率の低いことだろう。ロシアという大陸に鎮座する大国に比べて狭いこの列島の人口密度は、シベリアの大地を見慣れた私からしたら想像を絶するほどだった。そんな中で容易く出逢えるとは思えないのであった。
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