ラーゲリに生まれて

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 一九四六年、五月六日。
 私はこの日に生まれたのだが、私を十月十日懐胎していた母の顔を知ることはついになかった。母は私を産んだすぐ後、出血多量で命を落としたのだそうだ。正教会の敬虔な信徒だった母の遺言に基づいて、私の名は正教会のカレンダーから「ゲオルギー」になった。
 父親も知らない。ただ、キリルという名前だったらしく、私は公の場ではずっとゲオルギー・キリロヴィチと呼ばれてきた。
 私はラーゲリで生まれた。こう話すと、日本人の若い学生らには「ラーゲリとは何ですか」と必ず訊き返される――九十年代に、生まれ育った大陸を出て日本に渡ることを決意した私は、モスクワ国立大から東大に職場を替えた。「ラーゲリ」と言うと上の世代から少し下くらいの同僚諸氏にはすぐにソ連の強制収容所のことだと理解してもらえるのだが、九十年代以降に学生だった若い世代は、その言葉を知らなかった。
 私が相手にしていたのが数学科の学生だったのもあるのかもしれない。社会科学や人文学の学生なら立ち所に理解してくれたのだろうか。
 もう時代遅れのその言葉。それでも私は、いまでも自己紹介の時には「ラーゲリで生まれた」と言ってしまう。強制収容所と発音しようとすると、ロシア語を母語とする私には少し難しい。それに、そもそもソ連に強制収容所があったことの意味が最近の日本人にはわからないらしい。ソ連が崩壊してもう三十年を経たし、それも仕方のないことなのかも知れない。私の齢もロシア人男性の平均寿命をとっくに超えてしまった。
「大陸は、やっぱり寒いね」
 ブルブル震えている。在日三十年近くになる私は日本の気温に慣れてしまって、少し薄着だった。ハバロフスクの地を、私は久々に踏んだのだ。羽田から北京で乗り継いで合計十四時間。老体には堪えるフライト時間だ。
 空港のタクシー乗り場には、律儀にタクシーが並んでいる。資本主義が根付いた証だ。
「タクシー」
「はい、どこまで」
「市立養老院にお願いします」
 車は走り出す。私は、水運豊かな美しいこの街が好きだ。幼い頃は苦しいことも多かったが、なにより私の自由が幕を開けた場所だからだ。
 私はこれから、兄さんに会いに行く。十二歳離れた、私のお父さん代わりだった人。もう九十になろうとする兄さんは、ほとんど体を動かすことができず、養老院に入っている。もういよいよ生命の維持が難しいという情報がもたらされたので、私もこうして重い腰を上げて長いフライトに耐え、遠路はるばるこの極東シベリアの水運豊かな地方都市にやってきたわけだ。
 一九五六年。十歳になった私の手を引き、若き日の兄さんは――この時二十二歳――ラーゲリを出た。あの頃、中央政府の方で書記長が入れ替わり、大きな方針の転換があった。前書記長が投獄した政治犯たちの名誉回復が行われ、私もその一人となった――驚くべきことに、私は生まれながらの政治犯だったのだ!大戦末期にハルビンで日本に協力した「毒婦」として捕まった母親の腹から、私はラーゲリの粗野なベッドの上で、産褥の血に塗れながら生まれたのである。母の血が犯罪者の血なら、息子もまたそうである。家族が連座して逮捕されることは珍しくなく、ラーゲリには幼い子どもたちの姿もあった。
 私は十歳まで、外の世界のことを何も知らなかった。ただ、小さな子どもとして看守に徹底的な共産党教育を受けていた。そんな薄気味悪い生活を十年も続ければ、頭がおかしくなりそうだった。きょうだいがいなければ、私は精神破綻者になっていたに違いない。
 私には姉オリガと、兄ニコライがいた。私はさながら若い三人家族のように、三人でラーゲリを出て、「自由」の身となった。ラーゲリはハバロフスクの郊外にあったので、私たちは縁もゆかりもなかったまだ開発途中の街ハバロフスクに居を定めることにした。姉はラーゲリで出会った若者との縁で、一年後には結婚した。遥か遠く西方のロストフ・ナ・ドヌーで生活していた姉さんは十年前に亡くなった。
 ニコライ兄さんと私は二人、ハバロフスクで極貧の生活を送った。姉さんのところも相当貧しかったようだが、幸い義兄さんが一生懸命働く人だったので生活が軌道に乗った。しかし、私と兄さんの生活は悲惨だった。
 姉さんが嫁いだ人はソ連で生を享けた人だったから、戸籍や学歴が残っていたので、投獄されたとしてもその後生活を再開するのに不便は少なかったのだろう。
 一方、兄さんはそうは行かなかった。ハルビンで白系ロシア人の子どもとして生まれた私らには、そもそもソ連邦の戸籍自体がなく、まずは戸籍を作るところから始めなければならなかった。戸籍を作れば次は、兄さんは急いで仕事を探した。幸い労働者が重んじられるソ連にあって、仕事にありつくことは難しくなかった。兄さんは天然資源の採掘業をはじめ、私と自分の分の生活費を稼いだ。まだ幼い私は昼間に学校へ通った。
 養老院は案外立派な建物だった。運転手がここだと言って車を停めた。ソ連時代の建物に比べれば随分軽やかな意匠じゃないか?これから人生を終えていく人たちの入る建物なのに、穏やかな空色を基調とした壁には重苦しさは一切ない。
 ああ、共産主義を標榜することをやめてから、この国にはハリストスの加護が戻ってきたのかも知れない。私は、あまり天気が良くなくて淀んだ空を見上げ、主を思った。姉や兄がそうしていたから、私もそうするようになった。母の在りし日に倣い頻繁に十字を切る仕草をしていた若き日の姉さんは美しかった。
 私がニコライ・オリゴヴィチ・メルツァロフの弟だと証明すると、職員はすぐに私の兄の部屋の鍵を渡してくれた。
 兄さんに最後に会ったのは、二年前だ。もっと頻繁に来ればよかったと今は思う。もうほとんど話せないらしい――兄さんは奥さんに先立たれ、結婚が遅かったものだから子どもはない。いま兄さんのことを連絡してくれるのは、奥さんの姪っ子で――つまり、彼女は叔母の配偶者という実質的に他人の面倒を見ていることになる。近くに暮らしているとはいえ、ご苦労なことだ。
 兄さんが待つ部屋の扉。私はその前で立ち尽くし、まずノックをしてから鍵を開けた。兄さんはまるで死んだように寝転がっている――寝ているんだ。ベッドの横にあるソファに私は無遠慮に腰掛けた。
 兄さん、あなたは私のヒーローだった。いまもそうだ、先立つものの勇姿を、私に見せてくれるのだろう。見届けるよ。
 父親違いの私を、必死に養育してくれたあなたの最期を。私はあなたから、母を奪ったのに。私さえ産まれなければ、母は死ななかったのだから。どこの馬の骨とも分からない日本人の男が、未亡人の母と懇ろになりできたのが私なのだ。
 だが、兄さん。
 私の父さんは、すばらしい人だったよ。私はそれをいま、あなたに伝えたいのだ。
「……ん。おう……ゴーラお前か」
「起きたのかい。なんだ思ったより喋れるじゃないか」
 モゴモゴとはしている。声は、絞り出すようにゆっくりだが。兄さんとまだ話せることが嬉しかった。
「今日来ると、聞いたからな……嬉しくて、少し、元気だ」
「そうかい」
 七十七歳の男と、八十九歳の男。あんなに頼もしい兄と幼い弟だったのに、七十年も経過すりゃ、二人のおいぼれに過ぎない。時の流れは、私たちを同じ種類の存在とした。
 だが兄さん、私の方がまだ皺が少ない。少しだけ若いのだ――少し。
「医者の診断では、な……俺の命ゃ、あと数ヶ月ってところだと……心臓が、もうちゃんとポンプしてない」
 心臓弱れば、循環機構全体が弱っていくので当然肺に送られる血液も少なく、息も苦しくなる。兄さんは少しずつ、息継ぎをしながら話してくれた。
 苦しいから、黙っていてほしい。だがそれとは裏腹に私は、もっとコーリャ、あなたと話していたい。
「兄さん、黙ってな……私が話す、何かあったら口を挟んでくれ」
「ああ、そうしようか……」
 もう先立つ家族に、聞いておきたいこと。話しておきたいこと。私は、兄さんの命の灯火が消えかかる前に、伝えておきたいことをびっしりとノートにまとめたものを持ってきていた。


 私は、生まれた時に母を殺した。
 父もいなかった。いや――世界のどこかに生きている可能性はあって、だが多くの情報がわからないままだった。その男は、日本人で、戦争の終結を待たずして危険になったハルビンから逃げ、母を捨てて母国へ帰り去った。 
 ニコライ兄さんの父さんは、私の父さんとは別人だ。勇猛果敢なコサック白軍の将軍オレグ・ヴィタリエヴィチ・メルツァロフ。写真を見せてもらったことがある。軍人とは相容れない気質の私でも、立派な男だと直感できるような毅然とした偉丈夫だった。
 そう、兄さんと私の父親は違う。同じ母体で育ち、同じ産道を潜り抜けてきた。それは、はらからと思うに十分な事実だった。だが、母も父も知らず育つ私には、目につくのは兄さんや姉さんと、私の似ていないところだった。髪の色素が薄い茶色を示している二人に比べて、私のは明らかに黒い。目の色素が青い兄さんや姉さんに比べ、私のは鳶色で、目の形もどこかしら東洋的だった。
 この違いは、母を同じくすることよりも、父を違えていることからやってきていることは明白だった。だから、私は自然と父親がどんな人だったのか――私を形作った、兄さんと姉さんと共有しない方のルーツに関心を持った。
 兄さんは幼い日の私に、私の父親だったかもしれない男について――その日本人の若い男について、知るところを全て教えてくれた。
 父親が亡くなって、未亡人となった母の屋敷に、関東軍の将校の紹介で下宿し始めた日本の青年がいた。大戦末期のこと。
 彼は優秀な大学生だった。日本の戦況が厳しくなったので、学生も徴兵しなければならなくなって、彼はハルビンに動員されてきた。日本語名はついぞ教えてくれなかったが、ロシア語でキリルと名乗っていた――そして奇妙なほどにロシア語が上手く話せた。彼は、「日本人にしてはうまい」というレベルを超えていて、話していると普通にロシア人を相手にして話しているような錯覚を持つほど完璧なロシア語話者だった。
 年少のオリガとニコライの姉弟を、年長者として優しく導くだけの余裕と成熟があった。それは多分、母が言うには、彼が日本では上流階級の貴族の一員だからだという。侍の末裔の伯爵と、皇族の一員の女性から生まれた毛並みのいい青年に、姉さんは惹かれていた。だがそれ以上に、どうやら母親の方が、その青年に夢中のようだった。
 覚えているのは、ロシア人学校で――これは、日本軍が統制していた時代のものだから、日本軍の軍事教練もあったらしい――わからなかった数学の問題を持ち帰ってきた時に、いともわかりやすくロシア語で鮮やかに解説してくれたときのこと。
 兄さんは、こんな人が自分のお兄さんだったらよかったと心底思ったそうだ。
 キリルがやってきたのは一九四四年の十二月。分厚い雪が降っていた日だった。そして、半年と少しが過ぎて、別れは突然にやってきた。しかし、今思えば必然的な別れだったのかもしれない。
 一九四五年八月八日。彼の上官秋山少将は、ソ連の参戦がすぐそこまで迫っているという情報を察知して、キリルをハルビンから本土に「逃す」決意をした。
 キリルが出奔した次の日からは、地獄の様相だった。ソ連兵が大挙してハルピンにやってきて、兄さんたちが育った街は、たちまち戦場となった。彼らは日本軍の残党と、白系ロシア人の残党を捕虜にし、あるいは殺し、自分たちの戴く国家体制の主が排除した前体制たる帝国が建設した「東洋のパリ」の美しい街並みを血に染めていった。
 この段階ですでにキリルとの間に私を宿していた母は、二人の子どもたちと共に捕虜となった。罪状は、「本来ソ連に帰属するべき存在でありながら、戦時中に対日協力をしたこと」だった。身重の母と彼女を気遣うオリガ姉さんとニコライ兄さんの三人は、身を寄せ合いながら強制収容所行きの囚人列車に乗せられて、ハバロフスク郊外のラーゲリへ送られていったのだ。
「ゲホッ、ゲホッ」
「ああ……兄さん大丈夫かい」
「んん……ゲフッ。よく、咽せてね……」
「いや、年寄りはよく咽せる。そんなもんだ――私もよく咽せて、孫にうるさがられているんだ」
「お前も、もうそんな、か……ゲホッ」
 作った笑みは咳でかき消されてしまう。痛々しく思われ、私の顔は自然と歪んだ。
「もう、話すのはやめておくんだ。咳にも体力が要る」
 頼もしかった兄さんはもういないのだ。さすがに二年前はもう少ししゃんとしていたな。
 ここ数年は、息子のモスクワ駐在のために孫のサーシャ――これが結構な問題児だ――の面倒を妻と共に見なければならなくなったのでなかなか日本を離れられなかった。その間に、こんなに衰えてしまった。若い時瞬く間に大人になっていく人間は、老いる時もその進みは驚くほど早いものだ。まるで、雪崩を打つように。
 私は引き続き、兄さんの知らない間に私が経験したことごとを聞かせてやった。もう話すこともままならない老人には、自分で言うのも何だが、愛する弟が話を聞かせてやった方がいくらか気持ちが安まると思う。
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