ほんの一厘のスキ
今年(二〇一六年)は日本に来て丸四年が過ぎた。やっと私は父さんが着ていたのと同じ制服に袖を通した。港区麻布のロシア人学校から転校して、父さんが通ったところに行くことになった。十歳になった私は、当時の記憶そのままに、あの頃の粗野なモノローグのまま、当時を思い出そうと思う。
――五年前の春。
俺のもとからママは去っていった。代わりに、「伯母さん」をママと呼べと言われた。おんなじ顔をしている俺のママと、この「偽物のママ」。「偽物」に出会ってまもない頃こそ俺にも区別できなかったけど、すぐに二人のちがいはわかるようになった。
俺の本当のママは強いけど、伯母さんはどこか弱々しい。それは、多分大して苦労もせずに育った温室育ちの「お嬢さん」だから。ねぇ、こう言ったらなんてこと言うんだって怒られるだろうから言わないけど、おんなじ顔してるのに中身が全然違ってて、気持ち悪いんだよね。どうせ伯母さんは、ママと同じような目に遭ったら死んじゃうよ。弱い人だもんね。
俺は、伯母さんのことを「母さん」と呼ぶことにした。だって、「ママ」は俺にとって、ひとりだけだから。
――もう朝なんだ。カーテン閉めて眠ったけど、隙間から光が差し込んでる。俺は、まだ眠っていたい。ずっと寝ていたら、ママが起こしてくれるんだ……いまでもそういう夢を見る。
俺は小さい頃、ママに抱っこされて眠っていて、でもママは早起きだったから朝になると先に起きてたんだ。俺がベッドの上で起きているのに気がつくと、ママは駆け寄ってきて、すぐに抱きしめてくれた。俺は安心して二度寝しちゃった。そのまま、お昼まで眠ってた――ママがその間何をしてるか、何にも知らないで、能天気に「ねんね」をしていた。
部屋が控えめにノックされた。だれだ――わかってる。多分、「母さん」が俺を起こしに来た。最近は、毎朝そうなんだ。
「ジャンミ」
「……」
「……ヴァニューシャ。起きているんでしょう」
「ん」
ジャンミってだれなんだろ。俺の「新しい名前」だって言われた。よく知らないんだけど、俺は「母さん」の旦那で日本人の「伯父さん」に養子縁組されるために、ロシア人であることをやめさせられた。いま、俺はフランス人で日本人になった。
「まだ、ジャン=ミシェルはいやかしら」
「へん」
「まぁ……そうよね。ごめんなさい」
変だよ、奇妙なこととしか言いようがない。「ジャン=ミシェル伊織」なんていう珍妙な名前をこれから名乗れって――俺が五歳の誕生日を迎えた日、「母さん」が嬉しそうに俺の「新しい名前」を書いた紙をちらつかせてきた。食べていた誕生日ケーキが途端にまずくなった。
もう、あのときから俺はイヴァン・ミロノヴィチ・シチェルバートフではない。
俺が生まれた時の名前は、ママと結婚してたひどい夫――俺の背中になかなか消えない傷をつけたひどいやつ――の名字だったので、イヴァン・ボグダノヴィチ・エリセーエフといった。でもすぐにその名前は名乗らなくていいと言われて、ママの結婚前の苗字シチェルバートフをもらって、父称(注: ロシアでは父親の名前を真ん中につける。父親の名前がミハイルの場合、その子が男子であればミハイロヴィチ、女子であればミハイロヴナとなる――これは、それぞれミハイルの息子、ミハイルの娘という意味)はママと養子縁組していたママの叔父であるミローシャおじさんの名前を借りていた。でもよくわからないのだけど、それはあくまで名乗りであって、ロシアの戸籍には「イヴァン・ボグダノヴィチ・エリセーエフ」と、国籍を放棄するときまでずっと記されていたらしい。
とにかく、俺はイヴァンじゃなくなった。母さんは頑なに、俺をジャン=ミシェルと呼びたがる――何度も説明されたよ。ジャンはロシア語にしたらイヴァンだ。ミカエルの記念日に生まれたあなたは、フランスに生まれていたらジャン=ミシェルという名前になったはずなのだと。
「まだ眠たいかしら?カーテンを開けましょう」
「ねむいよ」
でも、一番嫌なのは最後にくっついた奇妙な――本当にへんな、日本語の名前だ!なんだよ、「いおり」って。俺は、これをちゃんといまだに発音できない。
おっと、まぶしいな……今日はすごく、晴れているみたいだ。
「今日はね、ジャン――ごめんなさい。ヴァニューシャ。あなたの弟の三歳のお誕生日なのよ」
「……イヴォン、誕生日今日?今日、何日?」
「そう。だから、お天気でよかった。今日はね、三月二十五日。ガブリエルの受胎告知の記念日なの――ね、あなたはミカエルの日。あの子はガブリエルの日。覚えやすいでしょう。あなたのパパとママは天使にめぐまれているの」
「……ちがう。パパはいないし、あなたは伯母さんだもん」
「――ごめんなさい。でも、パパは本当のあなたのパパなのよ」
「もういいよ」
「……」
伯母さんのその困った顔、きらい。ママは絶対にそんな顔しない。いかにもあわれんで欲しそうな、甘ったるい表情。
「――母さん。もうあっち行って。あとでちゃんと、イヴォンにおめでとうって言うから」
「そう……ヴァニューシャ、ちゃんと朝ごはん、食べてね。十時までに来ないと、ジョルジュが来るわよ」
「わかってるよ」
「母さん」はとぼとぼと出ていって、部屋の扉が閉まった。
イヴォンの誕生日が済んだら、俺は日本に行かないといけない。もう、イヴォンの誕生日なんだ……日本に?あの伯父さんの家で暮らすって?俺は絶対いやだ――ここがいい。ママのお父さんとお母さんが住んでいるこの家がいい。
でも、ママは俺が五歳になって少し経ったころ、俺を置いて、日本人の「大好きな人」を追っかけて日本に行っちゃった――伯母さんをママと思い、伯父さんをパパと思えと言い残して。
もしかしたら、日本に行ったらママに会えるかもしれない。
でも、俺はここがいい。ここにいて、ママと暮らすのが一番いいのに。大人たちは勝手に、俺をロシア人じゃなくして、名前をまったくちがうふうに変えて、ママを奪って、見知らぬ国に行けって言う。
なんて勝手な奴らなんだろう!
そんな勝手な奴らの言うこと、聞いてやるもんか――二度寝してやる。
☆
「おにいたま!」
――うるさい。甲高い声で、寝ている俺の周りをちょろちょろ跳ね回っている「ねずみ」みたいなチビがいる。
「おにーたま、ジャンミおにーたま!」
「……うるさい、ガキ」
「ふぇ」
「ジャンミ坊ちゃん。おはようございます。イヴォン坊ちゃん……大人しくなさい。お誕生日だからって、羽目を外しすぎないように……」
ジョルジュが俺を起こしに来たんだ。もう、そんな時間か……それでイヴォンはそれにくっついてきたって?いつもはついてこないくせに。
調子に乗ってるな、誕生日だからって。
「……おにいたま。おこってますか」
「べつに」
そんなうるうるした目でこっちを見るな。
俺は、お前の可愛くて綺麗な顔が憎たらしいよ。
俺にちょっと似てるけどもっと女っぽくて、それで、母さんと伯父さんに半分ずつくらい似てるんだ。俺でもわかる、多分お前と俺は、同じ親の血を引いているんだろうな。
それで、お前と比べたら、俺の方がまだ少し伯父さんに似てるよ!ってことは、俺はやっぱりあの人の息子ってことになる――あの、いつもへんな服を着た伯父さんの?冗談じゃない。
「パパとママが、おにいたまをまってます」
「……やだって言っといて。俺、行かない……あ。そうだ。イヴォン。お前、今日で三歳になったって?」
ぴょん!
うわ、なんだこいつ。飛び跳ねたぞ。かわいい――けど、あざといぞ!
「そうなんです。おにいたまも、はやくしたにおりて、イヴォンのおいわいをしてください」
「だから、行かねぇ」
「……ひどいですぅ!ジョルジュぅ、おにいたま、ひどいです」
ジョルジュは俺の可哀想な立場を知ってんだよ。だから俺に怒ったことないじゃん……お前にはよく怒ってるみたいだけど。
「ジャンミ坊ちゃん……」
「ふぇ……うええぇん!うぁぁぁん」
「うるさいから連れてってやって。こいつの大好きなパパのとこに」
「早く降りてきてくださいよ。私はもう一回戻ってきますからね――ほら、イヴ坊ちゃん。いらっしゃい」
「うわぁん!」
イヴォンは執事に抱っこされて強引に連れて行かれた。俺は、もう一回ベッドに転がる――まったく、能天気なガキめ。
あれは俺のこと、同じ父さんと母さんから生まれた兄貴だと思ってる。あいつは、俺が途中からできた兄貴だということを覚えていないみたいだ――俺も、二歳より前の記憶はほぼないからそれも仕方がない。俺がここに来たのは一年半前だったから、あいつはたかが一歳半くらいだった。
従弟だと思ってた。女かと思ったけど聞いたら「男の子」だっていうからびっくりしたけど、あいつも俺のこと最初「ねぇね」って呼んだからお互い様だ。
「バカじゃねーの……」
ぼやっと天井を眺めてたら、また眠くなってきた。でもどうせ、すぐにまたジョルジュが来るんだろうな。俺を連れ出しに。
――ちょっと可哀想なことしたかな。でも行きたくねぇな。
だってお前は、伯母さんと伯父さんの本当の息子だもんな。俺のこと、普通の兄ちゃんだと思ってるもんな……そしたら、なんで自分の誕生日に嫌そうな顔するんだって思うよな。
「チッ」
三度寝する前にベッドから起きてやる。これで、一つ貸しだ。ジョルジュが来るより先に、洗面所で顔洗って、口濯いで、部屋を出た。階段降りながら、どんな顔してようか考えないといけない。
「ん……」
「あら坊ちゃん」
マルーシャが掃除してる!階段の踊り場に一人メイドがいた。マルーシャだ――ママが前の夫の家にいた時からくっついているメイド。いまは、ママの実家に雇われた。まだフランス語がろくに出来ないけど、この家はばあちゃんがロシア人なので割とロシア語が通じる――フランス語ができないのは、俺もだけど。
「起きたんですね、イヴ坊ちゃん喜ばれますわ」
「……あいつ嬉しそう。俺、あんまり行きたくない」
「可愛らしいですのよ、朝からお元気に走り回っておられるんです。何度も転ばれてますけど……」
「ふぅん。あほだね」
「ヴァニューシャ坊ちゃん、あなたにはかわいい弟さんがいらっしゃいますわ。あの子は、サーニャさまのお腹から生まれたわけではありませんが……」
「うん。当たり前じゃないか」
だってママが俺を産んだの、知ってるんだろ。俺は伯母さんの双子の妹の子だよ。
「少し難しい話をすると、サーニャさまとクレールさまは一卵性の双子でいらっしゃいます。遺伝子は同じです。あなたと、イヴ坊ちゃんのお父さまは同じです。そうすると、遺伝的にはあなたとイヴ坊ちゃんは、普通の同じお父さまとお母さまから生まれた兄弟と、なんら変わりませんのよ」
「……それ、何回か聞いたよ」
「あらそうでした?」
「伯母さん――あ。違った……母さんが、何回も言ってる」
「そうでしたか。ですが、ほら。私が見ても、あなたたちはそっくりのお兄ちゃまと弟さんです」
「……うん」
知ってる。なんにも知らない人たちは、これまでに俺たちが並んでるのを見てそっくりだと何度も言ったから。
「坊ちゃん」
「ん」
「……何かありましたら、マルーシャのところにいらっしゃい」
「うん」
マルーシャに会えてよかった。階段の続きを降りることにした――降りたらどうせ、小サロンの方で誕生会でもやってるに違いない。俺が降りてくるまで始まらないのか、もう始めてるのか知らないけど。
俺は、九月二十九日に、あの能天気な伯母さんに誕生会をやられそうになった――あの日はまだママがいたから、ママにくっついてりゃよかった。でも今日は、どうしようか……じいちゃんにでもくっついてるか?
そうしよ。
あー、行きたくねぇ。わっ、ジョルジュが歩いてくる。目があったぞ……。
「おや。ジャンミ坊ちゃん――ご自分からいらっしゃいましたか。感心、感心。優しいお兄ちゃまですね」
なでなで――んな、頭撫でられても困る。どんな顔したらいい?
「えらい?」
「そうですね……偉いです」
「イヴォンとどっちがえらいかな……」
「――さぁ、どうでしょう。それは、次に教会に行かれた時に神さまに訊いてください。私はそんな大それた比較をやりません。あなたが行くと、イヴ坊ちゃんは喜びます」
「うん」
「それと。もしかすると余計なことですが……あなたのお父さまとお母さまも、喜びます」
「……それは、よけいだな」
「失敬しました――さぁ、お行きなさい」
背中を押された。あーあ。話し込んで時間を稼ごうと思ったのに……小サロンまでにまだ誰かいないかな。
もうすぐだよ――長い廊下だったけどもう着いちゃう。
「げっ」
扉開いた。だれだよ……うわ。最悪だ!
「……伊織。来てくれたの」
伯父さんだ。今日もキモノとかいう変な服着てやがる。誰も見なかったことにしよう。イオリって誰だよ。俺、知らない。無視してサロンの中に入ってやったけど、何にもお咎めなし。あれが父さんだって?冗談じゃない――あの不気味な男が?
「わぁ、おにーたま!」
「ぎゃっ」
「ぴゃ!」
びっくりした。
小さいのが突進してきた――イヴォンお前か。お前、小さいって言ってもちょっとは手加減をしろ。俺はよろめいて、押し倒されてしまった。
お尻痛いんだけど。
「まぁ、イヴォン。お兄ちゃまを倒しちゃダメじゃない」
伯母さんがやってきて、俺の上に乗ったままのイヴォンを抱っこしたので解放された。あー、重かった。
「ママぁ。いたいです」
「イヴォン、そういうのはね。自業自得(Tu l’as bien cherché)っていうのよ……」
「Tu l’as bien cherché?」
「自分でやったことが、自分に返って来るっていうこと……ジャンミ。お尻、いたくない?」
「べつに」
ほんとは痛いけど。どうせあんたは、イヴォンの方がかわいいんだ。抱っこの仕方ひとつ見たらわかるもんな。俺のことはろくに抱っこしないくせに――されても、やだけど。
俺って、もう大きいし。
「おにいたまのおせきは、ここです!」
なんだよめんどくせー。席順が決まってるのか――って、なんだよその場所は。絶対やだよ!なんで俺が、伯父さんと伯母さんの間に入るんだ!じいちゃんとばあちゃんがニコニコとこっちを見てる。なんだよ、あんたらの間に入れてくれよ!
「その席はお前のだろ。大好きなパパとママの間なんだから……俺は、じいちゃんとばあちゃんの間がいいっ」
「おにいたま、ちがいますぅ。きょうは、イヴはおたんじょうびせきなのです」
得意げに座ったその席は、確かに。テーブルの四つの辺のうち、短い方の辺にちょっと豪華な一人がけのソファが!
「ジャンミ、いらっしゃい」
「やだ」
「もう……ヴァニューシャちゃん。お願い。こっちにきて?」
俺は、「母さん」に手を引かれて、最悪の席に座ることになった。
ケーキの味が、まじでまっずい。多分美味いけど、なんでこの人たちの隣なんだろう――いや、伯母さんはまだいいよ。だって、ママの姉さんだもん。同じ顔、同じ声――でもたしかに違う。違うけど、それは仕方のないことだ。違う人間なんだ。
問題は、反対隣――右側にいる男の方!
「ちっ」
「伊織、私何かした?」
「腕、邪魔」
「ああぶつかったね。ごめん」
「あと、イオリはいやだ」
「――うん、そうか。ごめんな。私は、この名前が好きだったから」
「おにいたま、パパをいじめないでください」
――うるさいガキめ!
睨んでやったら、イヴォンは怖がって俯いてしまった。両親がロシア語で会話してるもんだから、話すのは少ししかできないみたいだけど、こいつロシア語もちゃんと聞き分けやがる。
俺はロシア人なの。フランス人でも日本人でもないから、ロシア語だけ喋って生きてく。お前はいいな、パパと日本語で嬉しそうにつまんねぇ会話して、ママとフランス語で甘ったるい話でもしてるんだろ、馬鹿みたいだ。
「パパ、ママ。なんでおにいたまはロシア語ばかり話しますか?」
「まぁ」
「それは――伊織、なんで?」
「困ったからって俺に答えさせようとするな、卑怯者」
「まぁ。ジャンミ、パパにそんなふうに言ったらだめよ」
「ふえぇ……おにいたま、パパにやさしくしてください……ひどいです、ひどい!うわあぁぁん」
泣きやがった。
お誕生日席に座ってあんなに得意げにしてた奴が、俺が大好きなパパに冷たいからって、そんなに泣かなくても――なんだよ。俺が悪い奴みたいじゃん。
お、「いずみのパパ」が席を立ったぞ――そうだ、こいつは日本語名をいずみっていうんだ。
「和泉、ごめん。泣くな、私のせいなんだよ」
「パパぁ」
今度はパパに抱っこされて、窓の外の景色を見せてもらってる。ふーん、伯父さんはあれだね。「いずみ」ちゃんにはベタベタに優しい。
俺には二人が話している日本語がひとっつもわからねぇけど。
「あのくるま、かわいいです」
「ピンク色だったな」
「いずみものりたいです、いつもいずみがのるのは、くろいです」
「そうだな。でもパパもいつも、黒いのだよ」
「……………」
「………」
うーわ。気まずい。残されたテーブルでお茶してたみんな、黙ってるよ。わ、ばあちゃんがこっち見てる。怒ってるかな……俺、怒られるようなことしたかな?
「ヴァニューシャちゃん」
「はい」
スヴェータばあちゃん、今日はジャンミじゃないんだ――イヴァンの方で呼んでくれたばあちゃんの俺を見つめる青い目は、別に怖くない。
「いらっしゃい?エントランスでおばあちゃまとお話をしましょ」
「……うん」
ばあちゃんのロシア語は、ちょっと英語訛りっていうのかな。イギリス人だけどロシア人なんだ、よくわかんないけど。でも綺麗に話すよ、だから俺は、ばあちゃんのロシア語が好き。ついて行ったら、エントランスホールのソファに座るように言われた。俺は言うことを聞いて、ばあちゃんの横に座った。
「ヴァニューシャちゃんはパパが嫌い?」
「……あれはパパじゃないもん」
俺にパパはいないんだ。
「じゃあイヴォンちゃんはどう?」
「え?」
「イヴォンちゃんはあなたの弟よね」
「……どうだろう?」
俺は、あれを最初「いとこ」だって言われたんだ。それなのに、少ししたら「弟」ってことになった――伯父さんが「パパ」ってことになったのと同じくらいの時に。
そっちは別に、嫌じゃない――気がする。俺、いとこってよくわからない。だからいとこでも弟でも、どっちでもいいやって思える。
「今日は、あなたの弟のイヴォンちゃんのお誕生日なの。三歳になったんですって」
「うん」
イヴォンは、俺のことを「おにいたま」だと信じて疑わないんだ。俺があれにはじめて会った時はまだ数歩歩いては転んでたし、おむつも替えてもらってた。多分俺が途中から来たことを覚えていないんだよ。最初からいた兄ちゃんだと思っているんだ。
「かわいそーなやつ」
「可哀想なの?」
「うん、だって俺のこと本当の兄ちゃんだと思ってるよ。おにいたまだって」
思い出したら笑えてきた。あいつ、ちゃんと発音できないんだぜ。
「おにいたまー」
「うわっ、来た!」
ぺたぺたと足音が聞こえてきたと思ったらこっちに来た。もう泣き止んだのか。嬉しそうな顔しやがって、さっきまで泣いていたのにアホなのかな。
なんか皿に入れて持ってる。
「おにいたま、ママが作ったエクレアは、おいしいです」
「ふーん、持ってきたのか」
「これは、おにいたまのぶんです――あっ!」
ちょっ、お前!
落とした!
ガシャーン!
「ふぇ……ふぇえぇえぇえん!」
皿の破片が散らばって、俺の足に引っかかった。まだ三月なのにやたらあったかくて、半ズボン履いてたのが最悪だ――血の赤を見た時、初めて「切れた」って気がついた。ちょっとずつ痛くなった。
「おにいたま、おにいたまごめんなしゃ」
俺は血を見た時、ウラジオストクのマフィアのアジトで見たゴロツキたちの乱闘の惨事を思い出して、真っ青になった。
「ヴァニューシャちゃん……あらあら、まぁ」
ばあちゃんの声と、おばかのイヴォンの泣き声がだんだん遠くなっていく。俺は自分の血を見て、嫌な記憶を思い出して気分が悪くなった。
その後のことは、あまり覚えていない。
⭐︎
俺は気がついた。
どのくらいの時間が経ったのかはわからない。規則正しいドキドキという音が耳元に鳴っていた。ママの胸に抱かれた時を思い出したけど、それより硬い。ママの心臓よりゆっくりだ。不思議に安心する。これは誰だろう――でも俺は眠くて、起きて誰か確かめる元気がなかった。
部屋は暗い。俺の体にはシーツがかかっている。多分ここはベッドの上で、俺は横たわった誰かの上に乗せられて、寝ていたんだ。これは、誰だろう。俺はママではない人に乗っかって寝るのは初めてだった。
「……Кто(だれ)?」
俺の後頭部に手が乗せられた。大きい手だった。これは男じゃないか?
「Дядя(伯父さん)?」
そうだったら嫌だ。身をよじって、横に転がったら体から落ちて、しまいにベッドからも落ちた。真っ逆さまに落ちて、体全体を打ったんだ。
「――!」
いたい!
「ああ、伊織。せっかく静かに寝ていたのに――ごめん」
俺はあんまり痛くて泣いてしまった。やっぱりあんただった――最悪だ!
「えぐっ、ひぐっ、やだ、いたい、うわあぁぁ……」
ママに会いたいよ!伯父さんはやだよ!伯母さんもいやだ、ママを連れてきて!
――俺はそう叫んでいたと思う。伯父さんはごめん、ごめんとしか言わないで、暴れる俺の体を抱きしめていた。俺の足には、怪我をしたので大袈裟な包帯が巻かれてあった。
グーで殴っても伯父さんは俺を離さないで、じっと俺の誹りに耐えていた。
時を現在に戻す。
私は日本語を話せるようになった。教えてくれたのは伯父さん――違った――父さんで、そのおかげで悔しいことに、口調が似てしまった。綺麗な言葉を話すようになった。
やっと三年ほど前に、私はロシア語を話すのを少しずつやめて日本語を素直に習うようになった。それまでは父さんに教えられるのを嫌がって勉強もろくにやらなかったので、日本語の学校に行ける状況ではなかった。
「にいちゃん」
「はい?」
居間でぼんやりしていた私のところに、弟が来た――もう一人の。チビのこいつは、もう一人のチビが「おにいたま」と私を呼んでいた頃と同じ自分の年齢になった。
私がこの国で小学生になる前の冬に、母さんが父さんとの間に産んだ二人目の子ども。父さんの三人目の子ども。ロシア系フランス人の母親とロシア系日本人の父親から生まれた子ども――それは私も同じだが。ママと全く似たような色の、日本人にはまずあり得ない綺麗な金髪をしているクリーマは無邪気に私を見上げ、問うてくる。
「ははのひって知ってる?」
「母の日?ああ、そんなのありましたね――」
カレンダーを見た――今月じゃない。一枚捲ったら、五月八日のところに「母の日」と印字してある。
「イヴォンにいちゃんが、ははのひになにするかかんがえてるの」
「へぇ?」
お前たちの本当のママに?でも、私も今は、あの人を母さんと呼んでいる。同母兄の顔をして、私は微笑んでやった。
「なにがいいかな?」
お前は去年二歳だったから、あまり覚えていないのだ。でも今年は、イヴォンと一緒に何をやるか画策するまでになった。
「去年は私たちが買った花を父さんにけしかけてプレゼントさせました」
「?なんでパパが?」
「父さんがあげると一番あの人が喜ぶからですよ。よくわかりませんが、私たちの母さんは気持ち悪いくらい父さんのことが好きなので」
理解できないが。
「ふぅん……?どんなお花?」
「青いお花詰め合わせ」
「なんであお?」
「イヴォンが好きな色だからです」
「ふぅん?じゃあことしは、きいろがいいなぁ!」
「お前が好きな色だからですね」
「うん」
持たされる学用品の色はだいたい決まっているんです。私は赤、イヴォンは青、お前は残り物の黄色。でも、まんまと洗脳されて、お前は黄色い服ばっかり選ぶ。
今年もあの馬鹿みたいなセレモニーをやることになりそう。私たちの父さんは、花なんて絶対に女にプレゼントしない男なのにわざとらしい。
「へんな姉妹ですね」
「なにー?」
「いいえなんでもないです」
私の「本物の」ママは――あの人はなんで、あの父さんとの間に私を産もうと思ったのだろう。私はあの人がいまだに何を考えているやら分からない。そんなよくわからない男と不倫して私を産んだせいで婚家でやっていけなくなり、結果的に母子もろとも酷い目に遭った。
ママはどうやら、私を連れてメイドのマルーシャと共に極東に逃げたようだ。か弱げな女と子ども――そこで運悪く、私たちはマフィアに生け捕りにされた。
マフィアのアジトに監禁されていた私たちを、あの人(注: 現在はヴァニューシャの「ママ」の夫である勲のこと)が救ってくれた。なんとか実家に帰ってきたあと、無理して産んだ私をママは結局実の父親の元に放逐した。
パリに私を置いて、ママは「好きな人」を追いかけて東京に行った――その人のことは私も好きだった。私にとってあの人はいまでもヒーローなのだ。クリーマが生まれたのと同じ頃にママはその人との間に息子を産んだが、その子が一つにもならぬうちに彼は人を殺して逮捕された。その子が一歳になる前に、ママは一昨年にパリに帰ってしまった。
あの子は私の異母弟だが、残念ながら私を「従兄」だと思って成長するんだろう。イヴォンが「従兄」を「兄」と読み替えたのとちょうど逆になる。
生母と育ての母の間で、私はどんな顔をして生きていく?
「母の日……ですか」
「にいちゃん、ママが好き?」
「――好きですよ」
クリーマ、お前のママと私のママは、同じ顔をしているけど違うんですよ。こんな面倒なことは一生教えてあげませんけど、その方が幸せでしょう。
私の「好き」のうち九割は、ママにあげます。九厘を、母さんにあげます。一厘は仕方がないので、不肖の父さんにくれてやりましょう。
――五年前の春。
俺のもとからママは去っていった。代わりに、「伯母さん」をママと呼べと言われた。おんなじ顔をしている俺のママと、この「偽物のママ」。「偽物」に出会ってまもない頃こそ俺にも区別できなかったけど、すぐに二人のちがいはわかるようになった。
俺の本当のママは強いけど、伯母さんはどこか弱々しい。それは、多分大して苦労もせずに育った温室育ちの「お嬢さん」だから。ねぇ、こう言ったらなんてこと言うんだって怒られるだろうから言わないけど、おんなじ顔してるのに中身が全然違ってて、気持ち悪いんだよね。どうせ伯母さんは、ママと同じような目に遭ったら死んじゃうよ。弱い人だもんね。
俺は、伯母さんのことを「母さん」と呼ぶことにした。だって、「ママ」は俺にとって、ひとりだけだから。
――もう朝なんだ。カーテン閉めて眠ったけど、隙間から光が差し込んでる。俺は、まだ眠っていたい。ずっと寝ていたら、ママが起こしてくれるんだ……いまでもそういう夢を見る。
俺は小さい頃、ママに抱っこされて眠っていて、でもママは早起きだったから朝になると先に起きてたんだ。俺がベッドの上で起きているのに気がつくと、ママは駆け寄ってきて、すぐに抱きしめてくれた。俺は安心して二度寝しちゃった。そのまま、お昼まで眠ってた――ママがその間何をしてるか、何にも知らないで、能天気に「ねんね」をしていた。
部屋が控えめにノックされた。だれだ――わかってる。多分、「母さん」が俺を起こしに来た。最近は、毎朝そうなんだ。
「ジャンミ」
「……」
「……ヴァニューシャ。起きているんでしょう」
「ん」
ジャンミってだれなんだろ。俺の「新しい名前」だって言われた。よく知らないんだけど、俺は「母さん」の旦那で日本人の「伯父さん」に養子縁組されるために、ロシア人であることをやめさせられた。いま、俺はフランス人で日本人になった。
「まだ、ジャン=ミシェルはいやかしら」
「へん」
「まぁ……そうよね。ごめんなさい」
変だよ、奇妙なこととしか言いようがない。「ジャン=ミシェル伊織」なんていう珍妙な名前をこれから名乗れって――俺が五歳の誕生日を迎えた日、「母さん」が嬉しそうに俺の「新しい名前」を書いた紙をちらつかせてきた。食べていた誕生日ケーキが途端にまずくなった。
もう、あのときから俺はイヴァン・ミロノヴィチ・シチェルバートフではない。
俺が生まれた時の名前は、ママと結婚してたひどい夫――俺の背中になかなか消えない傷をつけたひどいやつ――の名字だったので、イヴァン・ボグダノヴィチ・エリセーエフといった。でもすぐにその名前は名乗らなくていいと言われて、ママの結婚前の苗字シチェルバートフをもらって、父称(注: ロシアでは父親の名前を真ん中につける。父親の名前がミハイルの場合、その子が男子であればミハイロヴィチ、女子であればミハイロヴナとなる――これは、それぞれミハイルの息子、ミハイルの娘という意味)はママと養子縁組していたママの叔父であるミローシャおじさんの名前を借りていた。でもよくわからないのだけど、それはあくまで名乗りであって、ロシアの戸籍には「イヴァン・ボグダノヴィチ・エリセーエフ」と、国籍を放棄するときまでずっと記されていたらしい。
とにかく、俺はイヴァンじゃなくなった。母さんは頑なに、俺をジャン=ミシェルと呼びたがる――何度も説明されたよ。ジャンはロシア語にしたらイヴァンだ。ミカエルの記念日に生まれたあなたは、フランスに生まれていたらジャン=ミシェルという名前になったはずなのだと。
「まだ眠たいかしら?カーテンを開けましょう」
「ねむいよ」
でも、一番嫌なのは最後にくっついた奇妙な――本当にへんな、日本語の名前だ!なんだよ、「いおり」って。俺は、これをちゃんといまだに発音できない。
おっと、まぶしいな……今日はすごく、晴れているみたいだ。
「今日はね、ジャン――ごめんなさい。ヴァニューシャ。あなたの弟の三歳のお誕生日なのよ」
「……イヴォン、誕生日今日?今日、何日?」
「そう。だから、お天気でよかった。今日はね、三月二十五日。ガブリエルの受胎告知の記念日なの――ね、あなたはミカエルの日。あの子はガブリエルの日。覚えやすいでしょう。あなたのパパとママは天使にめぐまれているの」
「……ちがう。パパはいないし、あなたは伯母さんだもん」
「――ごめんなさい。でも、パパは本当のあなたのパパなのよ」
「もういいよ」
「……」
伯母さんのその困った顔、きらい。ママは絶対にそんな顔しない。いかにもあわれんで欲しそうな、甘ったるい表情。
「――母さん。もうあっち行って。あとでちゃんと、イヴォンにおめでとうって言うから」
「そう……ヴァニューシャ、ちゃんと朝ごはん、食べてね。十時までに来ないと、ジョルジュが来るわよ」
「わかってるよ」
「母さん」はとぼとぼと出ていって、部屋の扉が閉まった。
イヴォンの誕生日が済んだら、俺は日本に行かないといけない。もう、イヴォンの誕生日なんだ……日本に?あの伯父さんの家で暮らすって?俺は絶対いやだ――ここがいい。ママのお父さんとお母さんが住んでいるこの家がいい。
でも、ママは俺が五歳になって少し経ったころ、俺を置いて、日本人の「大好きな人」を追っかけて日本に行っちゃった――伯母さんをママと思い、伯父さんをパパと思えと言い残して。
もしかしたら、日本に行ったらママに会えるかもしれない。
でも、俺はここがいい。ここにいて、ママと暮らすのが一番いいのに。大人たちは勝手に、俺をロシア人じゃなくして、名前をまったくちがうふうに変えて、ママを奪って、見知らぬ国に行けって言う。
なんて勝手な奴らなんだろう!
そんな勝手な奴らの言うこと、聞いてやるもんか――二度寝してやる。
☆
「おにいたま!」
――うるさい。甲高い声で、寝ている俺の周りをちょろちょろ跳ね回っている「ねずみ」みたいなチビがいる。
「おにーたま、ジャンミおにーたま!」
「……うるさい、ガキ」
「ふぇ」
「ジャンミ坊ちゃん。おはようございます。イヴォン坊ちゃん……大人しくなさい。お誕生日だからって、羽目を外しすぎないように……」
ジョルジュが俺を起こしに来たんだ。もう、そんな時間か……それでイヴォンはそれにくっついてきたって?いつもはついてこないくせに。
調子に乗ってるな、誕生日だからって。
「……おにいたま。おこってますか」
「べつに」
そんなうるうるした目でこっちを見るな。
俺は、お前の可愛くて綺麗な顔が憎たらしいよ。
俺にちょっと似てるけどもっと女っぽくて、それで、母さんと伯父さんに半分ずつくらい似てるんだ。俺でもわかる、多分お前と俺は、同じ親の血を引いているんだろうな。
それで、お前と比べたら、俺の方がまだ少し伯父さんに似てるよ!ってことは、俺はやっぱりあの人の息子ってことになる――あの、いつもへんな服を着た伯父さんの?冗談じゃない。
「パパとママが、おにいたまをまってます」
「……やだって言っといて。俺、行かない……あ。そうだ。イヴォン。お前、今日で三歳になったって?」
ぴょん!
うわ、なんだこいつ。飛び跳ねたぞ。かわいい――けど、あざといぞ!
「そうなんです。おにいたまも、はやくしたにおりて、イヴォンのおいわいをしてください」
「だから、行かねぇ」
「……ひどいですぅ!ジョルジュぅ、おにいたま、ひどいです」
ジョルジュは俺の可哀想な立場を知ってんだよ。だから俺に怒ったことないじゃん……お前にはよく怒ってるみたいだけど。
「ジャンミ坊ちゃん……」
「ふぇ……うええぇん!うぁぁぁん」
「うるさいから連れてってやって。こいつの大好きなパパのとこに」
「早く降りてきてくださいよ。私はもう一回戻ってきますからね――ほら、イヴ坊ちゃん。いらっしゃい」
「うわぁん!」
イヴォンは執事に抱っこされて強引に連れて行かれた。俺は、もう一回ベッドに転がる――まったく、能天気なガキめ。
あれは俺のこと、同じ父さんと母さんから生まれた兄貴だと思ってる。あいつは、俺が途中からできた兄貴だということを覚えていないみたいだ――俺も、二歳より前の記憶はほぼないからそれも仕方がない。俺がここに来たのは一年半前だったから、あいつはたかが一歳半くらいだった。
従弟だと思ってた。女かと思ったけど聞いたら「男の子」だっていうからびっくりしたけど、あいつも俺のこと最初「ねぇね」って呼んだからお互い様だ。
「バカじゃねーの……」
ぼやっと天井を眺めてたら、また眠くなってきた。でもどうせ、すぐにまたジョルジュが来るんだろうな。俺を連れ出しに。
――ちょっと可哀想なことしたかな。でも行きたくねぇな。
だってお前は、伯母さんと伯父さんの本当の息子だもんな。俺のこと、普通の兄ちゃんだと思ってるもんな……そしたら、なんで自分の誕生日に嫌そうな顔するんだって思うよな。
「チッ」
三度寝する前にベッドから起きてやる。これで、一つ貸しだ。ジョルジュが来るより先に、洗面所で顔洗って、口濯いで、部屋を出た。階段降りながら、どんな顔してようか考えないといけない。
「ん……」
「あら坊ちゃん」
マルーシャが掃除してる!階段の踊り場に一人メイドがいた。マルーシャだ――ママが前の夫の家にいた時からくっついているメイド。いまは、ママの実家に雇われた。まだフランス語がろくに出来ないけど、この家はばあちゃんがロシア人なので割とロシア語が通じる――フランス語ができないのは、俺もだけど。
「起きたんですね、イヴ坊ちゃん喜ばれますわ」
「……あいつ嬉しそう。俺、あんまり行きたくない」
「可愛らしいですのよ、朝からお元気に走り回っておられるんです。何度も転ばれてますけど……」
「ふぅん。あほだね」
「ヴァニューシャ坊ちゃん、あなたにはかわいい弟さんがいらっしゃいますわ。あの子は、サーニャさまのお腹から生まれたわけではありませんが……」
「うん。当たり前じゃないか」
だってママが俺を産んだの、知ってるんだろ。俺は伯母さんの双子の妹の子だよ。
「少し難しい話をすると、サーニャさまとクレールさまは一卵性の双子でいらっしゃいます。遺伝子は同じです。あなたと、イヴ坊ちゃんのお父さまは同じです。そうすると、遺伝的にはあなたとイヴ坊ちゃんは、普通の同じお父さまとお母さまから生まれた兄弟と、なんら変わりませんのよ」
「……それ、何回か聞いたよ」
「あらそうでした?」
「伯母さん――あ。違った……母さんが、何回も言ってる」
「そうでしたか。ですが、ほら。私が見ても、あなたたちはそっくりのお兄ちゃまと弟さんです」
「……うん」
知ってる。なんにも知らない人たちは、これまでに俺たちが並んでるのを見てそっくりだと何度も言ったから。
「坊ちゃん」
「ん」
「……何かありましたら、マルーシャのところにいらっしゃい」
「うん」
マルーシャに会えてよかった。階段の続きを降りることにした――降りたらどうせ、小サロンの方で誕生会でもやってるに違いない。俺が降りてくるまで始まらないのか、もう始めてるのか知らないけど。
俺は、九月二十九日に、あの能天気な伯母さんに誕生会をやられそうになった――あの日はまだママがいたから、ママにくっついてりゃよかった。でも今日は、どうしようか……じいちゃんにでもくっついてるか?
そうしよ。
あー、行きたくねぇ。わっ、ジョルジュが歩いてくる。目があったぞ……。
「おや。ジャンミ坊ちゃん――ご自分からいらっしゃいましたか。感心、感心。優しいお兄ちゃまですね」
なでなで――んな、頭撫でられても困る。どんな顔したらいい?
「えらい?」
「そうですね……偉いです」
「イヴォンとどっちがえらいかな……」
「――さぁ、どうでしょう。それは、次に教会に行かれた時に神さまに訊いてください。私はそんな大それた比較をやりません。あなたが行くと、イヴ坊ちゃんは喜びます」
「うん」
「それと。もしかすると余計なことですが……あなたのお父さまとお母さまも、喜びます」
「……それは、よけいだな」
「失敬しました――さぁ、お行きなさい」
背中を押された。あーあ。話し込んで時間を稼ごうと思ったのに……小サロンまでにまだ誰かいないかな。
もうすぐだよ――長い廊下だったけどもう着いちゃう。
「げっ」
扉開いた。だれだよ……うわ。最悪だ!
「……伊織。来てくれたの」
伯父さんだ。今日もキモノとかいう変な服着てやがる。誰も見なかったことにしよう。イオリって誰だよ。俺、知らない。無視してサロンの中に入ってやったけど、何にもお咎めなし。あれが父さんだって?冗談じゃない――あの不気味な男が?
「わぁ、おにーたま!」
「ぎゃっ」
「ぴゃ!」
びっくりした。
小さいのが突進してきた――イヴォンお前か。お前、小さいって言ってもちょっとは手加減をしろ。俺はよろめいて、押し倒されてしまった。
お尻痛いんだけど。
「まぁ、イヴォン。お兄ちゃまを倒しちゃダメじゃない」
伯母さんがやってきて、俺の上に乗ったままのイヴォンを抱っこしたので解放された。あー、重かった。
「ママぁ。いたいです」
「イヴォン、そういうのはね。自業自得(Tu l’as bien cherché)っていうのよ……」
「Tu l’as bien cherché?」
「自分でやったことが、自分に返って来るっていうこと……ジャンミ。お尻、いたくない?」
「べつに」
ほんとは痛いけど。どうせあんたは、イヴォンの方がかわいいんだ。抱っこの仕方ひとつ見たらわかるもんな。俺のことはろくに抱っこしないくせに――されても、やだけど。
俺って、もう大きいし。
「おにいたまのおせきは、ここです!」
なんだよめんどくせー。席順が決まってるのか――って、なんだよその場所は。絶対やだよ!なんで俺が、伯父さんと伯母さんの間に入るんだ!じいちゃんとばあちゃんがニコニコとこっちを見てる。なんだよ、あんたらの間に入れてくれよ!
「その席はお前のだろ。大好きなパパとママの間なんだから……俺は、じいちゃんとばあちゃんの間がいいっ」
「おにいたま、ちがいますぅ。きょうは、イヴはおたんじょうびせきなのです」
得意げに座ったその席は、確かに。テーブルの四つの辺のうち、短い方の辺にちょっと豪華な一人がけのソファが!
「ジャンミ、いらっしゃい」
「やだ」
「もう……ヴァニューシャちゃん。お願い。こっちにきて?」
俺は、「母さん」に手を引かれて、最悪の席に座ることになった。
ケーキの味が、まじでまっずい。多分美味いけど、なんでこの人たちの隣なんだろう――いや、伯母さんはまだいいよ。だって、ママの姉さんだもん。同じ顔、同じ声――でもたしかに違う。違うけど、それは仕方のないことだ。違う人間なんだ。
問題は、反対隣――右側にいる男の方!
「ちっ」
「伊織、私何かした?」
「腕、邪魔」
「ああぶつかったね。ごめん」
「あと、イオリはいやだ」
「――うん、そうか。ごめんな。私は、この名前が好きだったから」
「おにいたま、パパをいじめないでください」
――うるさいガキめ!
睨んでやったら、イヴォンは怖がって俯いてしまった。両親がロシア語で会話してるもんだから、話すのは少ししかできないみたいだけど、こいつロシア語もちゃんと聞き分けやがる。
俺はロシア人なの。フランス人でも日本人でもないから、ロシア語だけ喋って生きてく。お前はいいな、パパと日本語で嬉しそうにつまんねぇ会話して、ママとフランス語で甘ったるい話でもしてるんだろ、馬鹿みたいだ。
「パパ、ママ。なんでおにいたまはロシア語ばかり話しますか?」
「まぁ」
「それは――伊織、なんで?」
「困ったからって俺に答えさせようとするな、卑怯者」
「まぁ。ジャンミ、パパにそんなふうに言ったらだめよ」
「ふえぇ……おにいたま、パパにやさしくしてください……ひどいです、ひどい!うわあぁぁん」
泣きやがった。
お誕生日席に座ってあんなに得意げにしてた奴が、俺が大好きなパパに冷たいからって、そんなに泣かなくても――なんだよ。俺が悪い奴みたいじゃん。
お、「いずみのパパ」が席を立ったぞ――そうだ、こいつは日本語名をいずみっていうんだ。
「和泉、ごめん。泣くな、私のせいなんだよ」
「パパぁ」
今度はパパに抱っこされて、窓の外の景色を見せてもらってる。ふーん、伯父さんはあれだね。「いずみ」ちゃんにはベタベタに優しい。
俺には二人が話している日本語がひとっつもわからねぇけど。
「あのくるま、かわいいです」
「ピンク色だったな」
「いずみものりたいです、いつもいずみがのるのは、くろいです」
「そうだな。でもパパもいつも、黒いのだよ」
「……………」
「………」
うーわ。気まずい。残されたテーブルでお茶してたみんな、黙ってるよ。わ、ばあちゃんがこっち見てる。怒ってるかな……俺、怒られるようなことしたかな?
「ヴァニューシャちゃん」
「はい」
スヴェータばあちゃん、今日はジャンミじゃないんだ――イヴァンの方で呼んでくれたばあちゃんの俺を見つめる青い目は、別に怖くない。
「いらっしゃい?エントランスでおばあちゃまとお話をしましょ」
「……うん」
ばあちゃんのロシア語は、ちょっと英語訛りっていうのかな。イギリス人だけどロシア人なんだ、よくわかんないけど。でも綺麗に話すよ、だから俺は、ばあちゃんのロシア語が好き。ついて行ったら、エントランスホールのソファに座るように言われた。俺は言うことを聞いて、ばあちゃんの横に座った。
「ヴァニューシャちゃんはパパが嫌い?」
「……あれはパパじゃないもん」
俺にパパはいないんだ。
「じゃあイヴォンちゃんはどう?」
「え?」
「イヴォンちゃんはあなたの弟よね」
「……どうだろう?」
俺は、あれを最初「いとこ」だって言われたんだ。それなのに、少ししたら「弟」ってことになった――伯父さんが「パパ」ってことになったのと同じくらいの時に。
そっちは別に、嫌じゃない――気がする。俺、いとこってよくわからない。だからいとこでも弟でも、どっちでもいいやって思える。
「今日は、あなたの弟のイヴォンちゃんのお誕生日なの。三歳になったんですって」
「うん」
イヴォンは、俺のことを「おにいたま」だと信じて疑わないんだ。俺があれにはじめて会った時はまだ数歩歩いては転んでたし、おむつも替えてもらってた。多分俺が途中から来たことを覚えていないんだよ。最初からいた兄ちゃんだと思っているんだ。
「かわいそーなやつ」
「可哀想なの?」
「うん、だって俺のこと本当の兄ちゃんだと思ってるよ。おにいたまだって」
思い出したら笑えてきた。あいつ、ちゃんと発音できないんだぜ。
「おにいたまー」
「うわっ、来た!」
ぺたぺたと足音が聞こえてきたと思ったらこっちに来た。もう泣き止んだのか。嬉しそうな顔しやがって、さっきまで泣いていたのにアホなのかな。
なんか皿に入れて持ってる。
「おにいたま、ママが作ったエクレアは、おいしいです」
「ふーん、持ってきたのか」
「これは、おにいたまのぶんです――あっ!」
ちょっ、お前!
落とした!
ガシャーン!
「ふぇ……ふぇえぇえぇえん!」
皿の破片が散らばって、俺の足に引っかかった。まだ三月なのにやたらあったかくて、半ズボン履いてたのが最悪だ――血の赤を見た時、初めて「切れた」って気がついた。ちょっとずつ痛くなった。
「おにいたま、おにいたまごめんなしゃ」
俺は血を見た時、ウラジオストクのマフィアのアジトで見たゴロツキたちの乱闘の惨事を思い出して、真っ青になった。
「ヴァニューシャちゃん……あらあら、まぁ」
ばあちゃんの声と、おばかのイヴォンの泣き声がだんだん遠くなっていく。俺は自分の血を見て、嫌な記憶を思い出して気分が悪くなった。
その後のことは、あまり覚えていない。
⭐︎
俺は気がついた。
どのくらいの時間が経ったのかはわからない。規則正しいドキドキという音が耳元に鳴っていた。ママの胸に抱かれた時を思い出したけど、それより硬い。ママの心臓よりゆっくりだ。不思議に安心する。これは誰だろう――でも俺は眠くて、起きて誰か確かめる元気がなかった。
部屋は暗い。俺の体にはシーツがかかっている。多分ここはベッドの上で、俺は横たわった誰かの上に乗せられて、寝ていたんだ。これは、誰だろう。俺はママではない人に乗っかって寝るのは初めてだった。
「……Кто(だれ)?」
俺の後頭部に手が乗せられた。大きい手だった。これは男じゃないか?
「Дядя(伯父さん)?」
そうだったら嫌だ。身をよじって、横に転がったら体から落ちて、しまいにベッドからも落ちた。真っ逆さまに落ちて、体全体を打ったんだ。
「――!」
いたい!
「ああ、伊織。せっかく静かに寝ていたのに――ごめん」
俺はあんまり痛くて泣いてしまった。やっぱりあんただった――最悪だ!
「えぐっ、ひぐっ、やだ、いたい、うわあぁぁ……」
ママに会いたいよ!伯父さんはやだよ!伯母さんもいやだ、ママを連れてきて!
――俺はそう叫んでいたと思う。伯父さんはごめん、ごめんとしか言わないで、暴れる俺の体を抱きしめていた。俺の足には、怪我をしたので大袈裟な包帯が巻かれてあった。
グーで殴っても伯父さんは俺を離さないで、じっと俺の誹りに耐えていた。
時を現在に戻す。
私は日本語を話せるようになった。教えてくれたのは伯父さん――違った――父さんで、そのおかげで悔しいことに、口調が似てしまった。綺麗な言葉を話すようになった。
やっと三年ほど前に、私はロシア語を話すのを少しずつやめて日本語を素直に習うようになった。それまでは父さんに教えられるのを嫌がって勉強もろくにやらなかったので、日本語の学校に行ける状況ではなかった。
「にいちゃん」
「はい?」
居間でぼんやりしていた私のところに、弟が来た――もう一人の。チビのこいつは、もう一人のチビが「おにいたま」と私を呼んでいた頃と同じ自分の年齢になった。
私がこの国で小学生になる前の冬に、母さんが父さんとの間に産んだ二人目の子ども。父さんの三人目の子ども。ロシア系フランス人の母親とロシア系日本人の父親から生まれた子ども――それは私も同じだが。ママと全く似たような色の、日本人にはまずあり得ない綺麗な金髪をしているクリーマは無邪気に私を見上げ、問うてくる。
「ははのひって知ってる?」
「母の日?ああ、そんなのありましたね――」
カレンダーを見た――今月じゃない。一枚捲ったら、五月八日のところに「母の日」と印字してある。
「イヴォンにいちゃんが、ははのひになにするかかんがえてるの」
「へぇ?」
お前たちの本当のママに?でも、私も今は、あの人を母さんと呼んでいる。同母兄の顔をして、私は微笑んでやった。
「なにがいいかな?」
お前は去年二歳だったから、あまり覚えていないのだ。でも今年は、イヴォンと一緒に何をやるか画策するまでになった。
「去年は私たちが買った花を父さんにけしかけてプレゼントさせました」
「?なんでパパが?」
「父さんがあげると一番あの人が喜ぶからですよ。よくわかりませんが、私たちの母さんは気持ち悪いくらい父さんのことが好きなので」
理解できないが。
「ふぅん……?どんなお花?」
「青いお花詰め合わせ」
「なんであお?」
「イヴォンが好きな色だからです」
「ふぅん?じゃあことしは、きいろがいいなぁ!」
「お前が好きな色だからですね」
「うん」
持たされる学用品の色はだいたい決まっているんです。私は赤、イヴォンは青、お前は残り物の黄色。でも、まんまと洗脳されて、お前は黄色い服ばっかり選ぶ。
今年もあの馬鹿みたいなセレモニーをやることになりそう。私たちの父さんは、花なんて絶対に女にプレゼントしない男なのにわざとらしい。
「へんな姉妹ですね」
「なにー?」
「いいえなんでもないです」
私の「本物の」ママは――あの人はなんで、あの父さんとの間に私を産もうと思ったのだろう。私はあの人がいまだに何を考えているやら分からない。そんなよくわからない男と不倫して私を産んだせいで婚家でやっていけなくなり、結果的に母子もろとも酷い目に遭った。
ママはどうやら、私を連れてメイドのマルーシャと共に極東に逃げたようだ。か弱げな女と子ども――そこで運悪く、私たちはマフィアに生け捕りにされた。
マフィアのアジトに監禁されていた私たちを、あの人(注: 現在はヴァニューシャの「ママ」の夫である勲のこと)が救ってくれた。なんとか実家に帰ってきたあと、無理して産んだ私をママは結局実の父親の元に放逐した。
パリに私を置いて、ママは「好きな人」を追いかけて東京に行った――その人のことは私も好きだった。私にとってあの人はいまでもヒーローなのだ。クリーマが生まれたのと同じ頃にママはその人との間に息子を産んだが、その子が一つにもならぬうちに彼は人を殺して逮捕された。その子が一歳になる前に、ママは一昨年にパリに帰ってしまった。
あの子は私の異母弟だが、残念ながら私を「従兄」だと思って成長するんだろう。イヴォンが「従兄」を「兄」と読み替えたのとちょうど逆になる。
生母と育ての母の間で、私はどんな顔をして生きていく?
「母の日……ですか」
「にいちゃん、ママが好き?」
「――好きですよ」
クリーマ、お前のママと私のママは、同じ顔をしているけど違うんですよ。こんな面倒なことは一生教えてあげませんけど、その方が幸せでしょう。
私の「好き」のうち九割は、ママにあげます。九厘を、母さんにあげます。一厘は仕方がないので、不肖の父さんにくれてやりましょう。