睦月某日の憂鬱



 主は、私が初潮を迎えたことを受け入れられないで今日の聖体礼儀を休んだことを、お赦しになるだろうか?主が、私を女に産まれるように仕向けなさったのだから、私がこの身体を受け入れられぬということは、罪ではないのか?
 そんなことがぐるぐると頭をよぎる。睦希は日曜日の午前中、聖堂に礼拝に行くことを休んだことを少しずつ後悔し始めていた。だが今更行くと言っても、もう遅い。
 途中から入っても、もう司祭に痛悔を聞いてもらう時間も終わっているし。それに、いまもし痛悔することがあるとしたら、生理が来たことが嫌すぎる――こんなことを、男である聴罪司祭に言うのも気が引ける。ましてやそれが、父親の従弟だったらますます言いにくい。睦希の父親の従弟・安積桐弥はニコライ堂の司祭の一人で、時折気を回して遅れてきた人の痛悔を聞いてくれる。
「……ああ、ぼーっとしてるや。やばい、よね」
 これは「仮病」みたいなものだから、休んでいるわけにもいかない。睦希は勉強机に座って、あまり集中できないながら塾で持たされた直前期用のテキストを眺めていた。
 そのとき、部屋のドアがノックされた。返事をすると父の知匡が顔を出した。彼は娘が家にいると言うので、今日の礼拝に行かずに家で仕事をすることにした――国会会期中。与党代議士と雖も、何かとやることがあるらしい。
「睦希。お昼はどうする?」
「なんでもいい」
「……気持ち悪いとかない?肉とか食べられそう?」
「んー……肉だったら鳥がいい」
「チキンカレーでも作ろうか」
「お父さんが?」
「うん、今日は誰もいないし。まさか、大垣(注: 知匡家の護衛を兼ねた執事の名)に作らせるわけにもいかないでしょ。僕が作るよ」
 日曜の午前から昼にかけてはいつも聖堂に行くので、家政婦が来ないのだ。今日、睦希は休むことにしたのだが、母はゆずを連れて聖堂へ行ってしまった。残ったのは父の方。したがって、料理の作り手がいない。
「坊ちゃん育ちが、包丁持ったことあるの?不安だ」
「……じゃあ一緒にやる?」
 父がキッチンに立つ姿を、睦希はせいぜいお茶を飲むからとお湯を沸かす時くらいしか見たことがない。生家は女中を何人も抱えて炊事洗濯の類はやったことがないはずだし、結婚して独立してからも家に家政婦を雇い、ほぼ家事をやらない――というか、仕事ばかりで夫婦ともどもやる暇がない。
「……やれやれだ。行くよ」
「休んでればいいのに」
「作業療法みたいなもん」
「んー、そうなの?」
 キッチンに移動し、必要なものを全て確認した。その間、父親は入念にタブレットで「チキンカレーの作り方」とやらを見ている。炊事に自信がないらしく、カレーという小学生の調理実習でもやるようなレベルのものですら、いちいち工程を確認しなければならないのだ。
「お父さん」
「ん……?」
 人参の切り方があまりにぎこちない。睦希も調理の腕前に関してはあまり人のことは言える立場にないが、家政婦の明美がなにか作っているときによく手伝ってきたので、その心許なさは分かった。指を切りそうな危なっかしい手つき。
「こりゃ家庭科の時、ぼーっと見てたでしょ」
「何十年前のことだ……それに、女子たちが作ってくれるんだもんね。知匡さまはそこで見ててーって言われてさ。それで僕は食べるだけの係」
「はー、ダメダメだ。それで僕がやりますとか言わずにはいはいって言って座ってたわけ?その口でよくジェンダー格差の解消どうのこうの言うよね」
「うん、見てた。それは仕事だからさ……なに、どこか間違ってた?」
「添えてる手が危ない。こう。猫の手みたいにして切る」
「あ、そうか」
 サクッ、サクッとゆっくりしたペースで人参が切られる音を聞きながら、睦希は他のものを用意しにかかった。炊飯器にご飯はちゃんと入っている。昨日の夜に炊かれたのが残っているのだ。次に冷蔵庫の野菜室を覗いた。
「レタスとトマトか……パプリカは……あるじゃん」
 これだけあればサラダが作れる。カレーだけだと心許ないしサラダでも作るか――そう思った瞬間。
「ぎゃっ!」
「ええ――……」
 父の叫び声。そちらの方を見遣ると手を切ったらしい。ポタポタと鮮血が指先から垂れ落ちている。
「うーん。やっちまった」
「うわぁ……絆創膏持ってくる?」
「いや、自分で取りに行く。ごめん、睦希。何もしなくていいから座って待ってて。親のだとしても血は触ったらいけない」
「はいはい」
 派手に切ったのか。どれだけ不器用なんだ――玉ねぎを切ろうとしていたらしい。横に置いたタブレットに「たまねぎのみじんぎりの方法」。
「いや普通に切ったらよかったのに……なんでわざわざ難しいことに挑戦しようとする?」
 玉ねぎの白い身が紅に染まっている。洗い流してしまいたくなったが、触るなと言われているからそのままにして、椅子に腰掛けた。
「こりゃ、私が作った方がマシだわ……」
 従兄が自分の父親の不甲斐なさをよく嘆き、同じ両親から生まれた知匡と自分の父を比較しては「叔父さまはまだちゃんとしている」と言うのだが、全くそんなことはない。一緒に生活していないから実態が把握できていないだけである。
「よく似てるよ、伯父さんとお父さんは……」
 女がいないとどうしようもないんだ――それが母だろうが姉だろうが妻だろうが、家政婦だろうが。
「女、男。女……男」
 さっき取り出したレタスが机の上に置かれているのをぼーっと眺めていた。そのうち、スリッパの音が聞こえて父が戻ってきた。
「大丈夫?」
「あ、うん。でっかい絆創膏あったから――あのさ。さっき廊下で笙子さんに会ったんだけど、僕に呆れて代わりに作ってくれるって」
「笙子さんが?作る元気いまあるって?大丈夫?」
「多分?顔色良さそうだったし……」
「はぁ」
 笙子――うつ病で休養中のゆずの母親。そして、瑠美の従姉――睦希から見たら母親の従姉、続柄でいうと従伯母。訳ありでいま、母子ともどもこの家に居候している。
「ってわけで、睦希は休んでなよ。僕、笙子さんが作ってくれるの見てるから」
「――ほんとに、大丈夫?」
 知匡は笙子にとって、亡夫の後輩。従姉の夫。濃い縁があるといえばそうだが、この二人の関係はいまだよそよそしい――互いに遠慮があるように見える。
「大人のことに気を回さないでいい。睦希はまだ、子どもでいなさい……できたら呼ぶ。寝ててもいいよ」
「子ども、ねぇ――」
 ふりふり――椅子に座して頬杖をつき、もう片方の、さっき怪我して大きな絆創膏をつけた手を振るさまは、まるで少年のようで頼りなげ。あれが福島の民衆に信任されて代議士を務めているのだから世の中はおかしいと思う――民衆というか、元藩主の家から出る世襲議員だからもはや有権者というより領民。この実態を知ってもらって落選して、普通の弁護士に戻った方がまだいいのではないか?
 睦希はやれやれと思いながら、言われるがまま自室に戻ることにした。
「はぁ」
 部屋に戻りベッドをなんとはなしに見遣る。真っ白なシーツにシワがたくさんついている。せめて伸ばそうと、掛け布団を整えようとしたそのとき。
 赤いものが目に入った。
「――え」
 二度見する。
 どう見ても、それはあって――紅い染み。血に染まった白いシーツ。
「うそ?」
 粗相をした?まさか自分が――しかし寝ている間のことだから、意識がなかったわけで。部屋の隅に置かれた洗濯物を入れる籠の中に無造作に入れた寝巻きを確認して――そこに赤いのがついているのを認識すると、フラフラとベッドに腰をかけた。
「まじか」
 今日はやたらと血に縁がある。
「ってことは下着もじゃん」
 心なしか気持ち悪いような気はしたが、トイレに入ったらそれを見たくなくて、適当に済ませていたのが悪かったか――もう何もかもなかったことにして、もう一回眠りについてしまいたい。が、後ろを振り返れば、忌まわしい紅い染みが頑として存在しているわけで。
「ちくしょう」
 言い捨てて部屋を出て、またしてもトイレに入らなければならなかった。
「ちくしょう……この赤いやつっ」
 こういう言葉遣いをすると大抵母や祖母あたりに嗜められるのだが、同じ言葉をもし男の子が言ったら?多分許されるんではないかと思ってしまう。そういう言葉遣いをする少年を漫画だの小説などで見かけるたびに羨ましく思われる。
 トイレから出るとその足でコソコソと風呂場に行き、血で染まった下着を手洗いすることにした。
「――いやだ!」
 ビチャビチャと水が出てきて、血のついたパンツをそれが通過すると水は赤く染め上げられて落ちていった。水に一滴でも血が入ったら、それはもう不純――しかも、この血は自分の中から出てきたのだ。
 そう思うと、なんだか途端に下腹部が気持ち悪く思われてくる。
 他の女の人たちは、この運命を甘受しているのだ。自分もそのようになれるのだろうか?これまで、自分が「未分化の子ども」から「女性」へと変化をしていくのだと自覚させられるたびに、不適応感を募らせていく一方だった。
 ――もう、自分は女性として生きていくのは不可能なのではないか。それを、いい加減に内外に認めさせるべきなのではないか。すなわち、自分の性別違和感を自ら認め、カミングアウトしていくべきなのではないか。
「――あ。もう水、赤くないか」
 ずっと無心で下着を洗い続けていた。睦希は蛇口を閉め、次に渾身の力でその哀れな下着に染み込んだ水を搾り出した。
「っ――と、明るすぎない?」
 繊維から水が勢いよく音を立てて落ちる、この段階で違和感に――明らかに異常な事態が自らの周囲で起こっていることに気がついた。
 冬の正午過ぎ。太陽は南中を迎えんとするが、それでもここまで強い光が、風呂場の曇りガラスから差し込んでくることはあり得るだろうか――いや、それはない。睦希が見ていた下着や、自分の年齢や性別の割に大きくなった手すらも明度の高い光によって他の個物との弁別が難しくなっている。
「なに……」
 こういう時、後ろを振り返ると異形の怪物なんかがいたりしないか。そういうことを直感するので、睦希は硬直して首を動かせずにいた。
「ザドちゃん、あなた」
「ヒッ」
 知らない者の声だ。歳は若い。だが男にしては高く女にしては低い――しかし、一つだけ言えるのはどこか艶のある声質であること。悪い者の声のようには聞こえない。
「いいえ。ザドちゃんなんて呼んだら、多分びっくりするわよね……もしもし、お嬢さん。あなたのお名前は」
 意を決して振り返ることにした。この、おそらく善なる美しい声の持ち主の姿を見て、なにか罰があるとは思われない。
「お久しぶりね」
「……え」
 これはこの世の者ではない。絹でできたような光沢すらある滑らかな白い衣を纏い、大きな翼を背から生やした性別不明の美しい天使が、空中にまるで座るような姿勢で浮いている。
 ブリュネットの豊かな髪は長く、女性美も男性美も超越した均整のとれた顔立ち――その形の良い唇と少し釣り上がった青色の眼は明確に歓びの輝きに満ち、この天使が愛情に横溢していることを示しているように思われる。
 睦希はこの不思議な存在者に呆気にとられ、釘付けになって瞬きすら忘れた。あまりに長いこと沈黙し続けていたので、彼女の――睦希は性別を超越したものに対する三人称を思いつかなかったので、女性性が強く思われるこの天使をそう呼ぶことにした――悦びに満ちた表情はついに崩れ、少し心配そうに首を傾げた。
「あなたの今のお名前は?」
「……天使?」
「あなたがそう思うなら私は天使です。そうでなければ、怪しい性別不明の天使のコスプレをした外国人です」
「天使、みたい――へ?」
 手がこちらに差し出される。その手の肌は滑らかであったが、歳の割に大きな睦希の手よりもさらに大きくしっかりとしているように見えた。しかし、触れることができない。
「う、うわ?」
 握手を求められたと思って応じようとしたのに、睦希の手は虚空を掴んだ。この人は実体がない。霊なのだ。
「触れない」
「ザドちゃん――人間として日本に生まれたあなたは、霊を信じているかしら。そしてそれは、怖いものだと思ってる?」
「ざ、ザドちゃんってなに?」
「いいわ、もう一度訊きましょう。あなたの今の名前を」
「睦希」
「そう、ムツキ。それは一年のうちで一番最初の月を意味する――あなたは一月に生まれた。ロシア語で言えばインバーリ(январь)」
「うん、知ってる」
「いまいくつ」
「もうすぐ十二歳」
「あら、それじゃ日本人としたら、大人っぽい十一歳ね?ふぅん、そうなの……それで?お風呂場で何をしていたかというと」
「う……」
 無防備にも見えるような角度で持っていた下着を、とっさに後ろ手にして隠した。睦希は、天使には性別がない――あるいは全員男性、と聞いた事があったので、この天使にはこのような生理現象はないと思って恥じ入ったのだ。
「あなたは女の子として生まれたのね」
「……天使さん。名前、なんて呼んだらいい?なんか名前、ある?」
「そうね。イェグディエル」
「イェグディエル?初めて聞く名前だけど――まぁいいや、イェグディエル。天使なら、主がどうお考えになるか知っている?」
「さぁ、たとえばどんなことかしら」
 この人には性別がない――睦希はその羨ましい存在の目をじっと見つめた。その眼は濁りの全くない群青色で、その光に照らされると、自分の罪は全て見通されるような気がした。思わず後ろで両手に掴んでいた下着を強く握りしめると、まだ湿っていて雫が垂れ落ちた。
「……たとえば私が女で生まれたことを、いやだと思っていたら?それは、罪なのかな」
「あなた、逆の存在には出会った事がある?」
「どういうこと?」
「男として生まれて、第二次性徴して男になるのが嫌で仕方がなくて、悩んだ末に天使になっちゃった人のこと……」
「な、なにそれ?」
「わかりにくかったわね。忘れてちょうだい――ムツキ、あなたの悩みは癒されます。主のお考えは深遠なので、私たち天使にも推しはかることしかできないし、それは間違っているかもしれないから確証のあることは言えないの――でも、一つ憶えておいてほしい事がある」
「うん?」
 ふわり。
 翼をはためかせ、天使の体が宙を舞った。
 イェグディエルの放った光はこの風呂場を、異次元の空間に変貌させていた。赤坂という一等地にしては広い面積を持った家の風呂だが、せいぜい核家族が暮らすために建てられた家の風呂場。さして広くもないが、睦希はいま、ここが風呂場だったことを失念していた。
 空間には光が満ち溢れて、壁の存在がなかったかのように全てが真っ白に光り輝いているのだ。イェグディエルはその空間を最大限に使って、睦希の体の周りを一周してみせた。そしてまた目の前に舞い戻ってくると、あの綺麗な碧眼はまっすぐに睦希の茶色の目を見据えた。
「今のあなたは、それだけで善です」
「善……?」
「たとえば性別のことで、その血を落とすあなたの臓器の一つを、厭になるかもしれない。だんだん丸くなっていく体つきを、削げ落ちればいいのにと呪いたくなるのかもしれない。男で言えば――不随意に動く股間にある魔物を切り落としたくなります。四角くなる、直線的になる体に柔らかな肉をつけたくなる」
「……う、うん」
 対比して言われると、妙な生々しさがある。しかしこれが、雌雄の別を有する被造物のさだめだ。
「あなたは性を否定するあなたを否定しない。否定するあなたがたといそこにいたとしても、否定してしまうあなたを、主は抱きしめるでしょう――あなたを裁くのはあなたではない。主は、おそらく惑う人間を愛しています。愚かであればあるほど、慈悲を向けてくださる。自らが惑うて、愚かであることをあなたは否定しなくてもいい――ムツキ、あなたはそのように主によって造られたからです」
「……主によって、このように」
 睦希は、いつもうつ伏せ寝で眠って、膨らまないように願っている自分の胸に手を当てた。
「体が女のそれで、悩むところまで、主はそこまで予定してあなたを造られました。そうであれば、どうしてあなたはそれを否定する事があるかしら。私は、ないと思う。あなたや私の一番醜いところを、主は見通しておられます。主を恃みなさい。あなたはその悩みを通してこそ救いに達するように造られたのです」
「――うん」
「ムツキ、あなたはもうすぐ十二歳」
「そう」
「じゃあ、物分かりのいい十二歳ね。今日、あなたが礼拝に行くのを欠席したことを知られてよかった。私は今日、聖堂に行きました」
「ニコライ堂に?」
「ええ」
 天使も聖堂へ行くのだ。みんなは、彼女の姿を見たのだろうか。見えなかったとしても、たぐい稀なる祝福が、今日聖堂にもたらされたことは間違いなかろう――睦希は現実感がなくなって、この目の前の美しい人が本当に天の国から派遣された者だと何の疑いもなく信じ始めていた。
「あなたは、癒される。全て、今のあなたに生まれてよかったと思うようになります。それは主のお力によって」
「……うん、イェグディエル。ありがとう」
 イェグディエルは目を閉じて、祈りの姿勢を取った。彼女の口から言葉が紡がれるたびに睦希の心に言いようのない安堵感が訪れ、煩悶してもやもやしていた脳が清明になり、肩肘を張って凝り始めていた筋肉が解れたような感覚があった。
 青い目がゆっくり開かれ、イェグディエルは微笑みを浮かべた。その平安の表情は、世に生きる全ての者に癒しを与えるだろうと思われた。
「私は、弟と一緒に次に行くところがあるの。だから――ムツキ。いえ。ザドちゃん。また、いずれそう遠くないうちに、また会いましょう」
「ね、ねぇ?」
 ふわっと暖かい風が睦希の体を通り過ぎた。彼女は方向転換し、風呂場の曇りガラスをすり抜けるようにして外に出ようとするのだ。
 睦希が呼び止める声に、振り向いて一瞥を与えた。
「なに」
「ザドちゃんってなに?」
「いずれ分かる、あなたの本当の名前―― Скоро увидимся(またいずれすぐ会いましょう)」
「えっ――うわ」
 ブワッ――天使の大きな羽が小さな風呂場という空間に熱風の竜巻を巻き起こして、彼女の姿は光と共に去った。睦希はバランスを崩して膝をついてしまった。うずくまってジンジンと痛む膝を抱えながら、別れ際にイェグディエルが放った意味深な言葉を繰り返した。
「私の、本当の名前?Скоро увидимся――また、会う?」
 膝には多分打撲をしたが、心は軽やかになった。睦希は天使が消えていった曇りガラスをぼうっと眺めた。もう姿の見えない天使――彼女の姿は白昼夢であったのかもしれない。だが、信じることにした。きっと、自分の悩みを癒すために、主が気を回してくださったのではないだろうかと。
「来週は、聖堂に行こうか……」
 下着をもう一度絞って風呂場を出ると、ダイニング方面から父親がキョロキョロしながら歩いてくるのが見えた。
「ああ!睦希いた」
「――げっ」
「どうしたの、お風呂でなんかやってた?膝濡れてるけど、転んだの?」
「空気を読んでほしい」
「?う、うん。ごめん僕が悪かった――カレー、できてるから食べに来な」
「わかった。すぐ行くから」
 部屋に戻り、ここに引っ掛けておけばそのうち乾くだろうと思うところに下着を掛けた。
 胸に手を当てる。
「主が、私をこのようにお造りになった、か……」
 悩みはこれからも続くし、もしかしたらもっと深くなるのかもしれない。だが、悩む自分までを否定するのはやめることにしよう。それが、あの優しくて美しい天使の助言の要約。
「うん。ありがとう、天使……イェグディエル」
 睦希は机の上のメモに、「イェグディエル」と記し、大切なものを入れている小さな引き出しに仕舞った。
 そしていくぶんか晴れやかな気持ちで部屋を後にした。
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