睦月某日の憂鬱

 先天性の疾患でもなければ必ず襲いくるであろう運命を、少女は確かに自覚していた。それは、鮮烈なる赤――ではなく、思ったより薄い桃色から始まった。
「――うそ、だ」
 一度目を逸らし、二度目にそこに目を遣る。やはり、桃色のシミが下着に付着しているのは歴然たる事実。
 安積睦希は、たった一滴のそれを見ただけで、下腹部のじんじんする鈍重な痛みを忘れ去った。自分の下着に赤色に類する色の液体が付着する日がやってくることを恐れていた――予感は、少し前からあったのだ。だが目を逸らし続けていた。自分はまだ、「未分化の存在だ」と。
「どうしよう……」
 疾患のない限り、思春期の女の子にやってくる初めての月経――それを初潮と言うが、なんで潮だなんて漢字を使うんだろうな。潮――といえば、満ち引き。潮の満ち引きと言ったら――ああ、月の運行。睦希は現実逃避を始めた。しかし、小学六年生とは思えぬほど聡明な彼女はすぐに結論に至り、そのたぐいまれな洞察力のために現実に引き戻されることとなった。
「そうか……月のお客さん、ってそういう意味……っ痛」
 とにかく用を足して、何事もなかったかのように服を整え、トイレを出た。そしてよろよろと自室に戻る――その途中、家に子どもしかいない時は基本的に常駐している家政婦の明美とすれ違った。
「お嬢さま」
「……え?どうしたの、明美ちゃん」
 母親より優に年上の女性を「ちゃん」付けで呼ぶ。だが睦希にはそれが一番気が楽だった。本当は、「お嬢さま」などと呼んでほしくはない――しかし、だったらなんて呼んで欲しいんだろう。
「顔色が、お悪いので心配になりまして」
 優しい顔立ちの明美は、さらに気遣ったような表情を見せ、その慈悲深さが却って睦希を窮地に追いやった。こんなに心配されれば、何が起きたか言わなければならない。
「――あ、あのさ」
「ええ」
「明美ちゃんって、子どもの時……しょ、小中学生のとき。生理っていつ来た?」
 これを言っただけで合点が行ったように、「ああ」という口元を作られる。睦希は直球で言う勇気がなかったので遠回しにその話題に持っていくつもりが、結局即座にバレてしまうのではこの企てには意味がなかったと思った。
「お嬢さま、もしかして今」
「いいからさ。いつ、はじまった?」
「――私、ですか。中学一年生の夏でしたわね。ちょうど夏休みで、宿題をしているときにお腹が痛いと思って、トイレに行って……それで気がつきました――どうされましたか?」
「う、うん。た、たぶんね。同じようなことが、いま私に起こったんだ……」
「あら。おめでとうございます」
「え」
 目をぱちくりと瞬かせる。明美は当然のように祝福の言葉を述べたが、それが睦希には意外に思われた。なぜなら、彼女にとってそれは「世界で一番来てほしくないもの」だった。「初潮」、それは男も含めて全ての人間が逃れられぬ「死」と比較しても同じくらいの恐ろしさを持っていた。少なくとも、睦希にとってはそうだった。
「それはお嬢さまが、順調に成長なさっている証ですよ。どうしましょうか……お母さまに、ご連絡されました?」
「え……お母さんに?」
「お仕事お忙しいと思いますけれど、大切なことですから。学校で、生理用品の付け方は習われましたよね。本当は、いまお母さまやお姉さまがいらしたら、こういうことは私なんかが言わなくてもいいのに。ごめんなさいね」
「い、いやいいんだ。明美ちゃん……うん、やり方なら習った……四年生の時だけど。まだ冊子取ってあるから、見てやるよ……」
 たしか、机の引き出しの奥深くに「女の子のからだについて」というタイトルの小冊子が仕舞われている。もらった時は、初等科四年生の女子だけが集められて、保健室の先生が一通り説明して、さらには都内の婦人科医まで呼んで講演してもらった――大人の女性の体へと変化していくことについて。
 睦希はこの時、神妙な顔でその話をじっと聴いていた。まるで自分の身に今後起こることではないことのように他人事だった。
「えっと……ああ、あった。これだ。うわ、ちょっと曲がってるや」
 鈍痛がする腹を抑えて部屋に戻り、気怠げな動きで机の中を漁った。「月経について」、「ナプキンの使い方」。ナプキンのサンプルまでご丁寧についており、「そのまま使えるよ」とか書かれている。とりあえずそれを毟り取り、替えの下着をクロゼットから適当に引っ張り出した。そうして、もう一度トイレの中に引き篭もった。
 冊子に書いてあった通りに取り付けて、そのまま引き上げ、涼しい顔を作ってトイレから出た。それから部屋にまた戻り、勉強机に座った。本当は今から、塾で宿題として出されているテキストをやろうと思っていたので取り出して開いた。ぼんやりと問題文を眺める――なになに中学校出題と書かれている。多分、いつもの睦希ならすぐに解けるはずのレベルの問題だったが、頭の中に現れたもやもやした何かのせいで、手をつけることができなかった。
 次に取った行動は、母にメールを送ること――ではない。送り先には、父の方を選んだ。母親の瑠美は検察庁所属の検察官で、睦希を比較的早い段階で出産した後はキャリアを邁進している。そんな彼女に連絡しても、すぐに返事がくる可能性は低い。
 他方、父知匡の方が手隙の時間がある。衆院議員で、現在年始の常会が始まったところだが、瑠美よりはまだ早く返信が来ることが期待できる気がした。
「……なんでお父さんにしたんだろ」
 生理来たかも。どうしよう――それだけ送った。普通、父親には隠したくなるのだと思うのに、自分はなぜか父の方に送信したのだ――送信ボタンをタップした後、はじめて自分のした行為を不思議に思った。
「お母さんに言うのが嫌っていうわけじゃない……」
 母のことは決して嫌いではない。だがこの家には父親が二人いるようなものだ――母の実家の波多野家に行くと、大抵祖父母には、申し訳なさそうにそう言われる。だから、父親に言おうが母親に言おうが、どちらにせよ父親に報告するようなもので――。
「なんでだろね」
 睦希は少し問題を解きかけたが、すぐにやる気を失った。ベッドに移動して突っ伏し、腹の痛みに耐えていたが、そのうち眠気が頭をもたげてきてそれは鈍痛に勝ち、じきにまどろみ始めた。


 どのくらい眠っていたか。部屋はすっかり暗くなっていた。母親の声で、睦希は目が覚めた。
「睦希、夕飯食べないの」
「んー……」
 気怠い。股の辺りがなぜか気持ち悪い――ああ、思い出した。母は自分の身に起きたことをすでに知っているのだろうか――どうせ父と共有したんだろう。
「もう八時だけど。お母さんさっき帰ってきたの。一緒に食べない?」
「……ゆずは?お父さんは。明美ちゃんは……」
 同居するいつも帰ったら遊んでいる再従妹ゆずにも、おかえりの挨拶をして、お腹が痛いと言っただけでその後は何も声をかけず眠ったのだった。
 水臭かったかもしれないなと思う。
「明美さんはトモくんと入れ違いで帰っちゃった。あとはもうみんないる――ゆずちゃんとトモくんは先に食べた」
「ああ、そう……」
「あと。ナプキンあなたの分もたくさん買ってきたからね。替えたほうがいいんじゃない」
「あ。うん……たぶん、替えたほうがいいだろうね」
 ナプキンは、こまめに替えましょう。蒸れて痒みの原因になります――そういった事が、冊子にも書かれていたはず。
 だがもうトイレに行きたくない。パンツを下ろしたらどうなっているのか見るのが怖い。
「ゆずちゃん心配してたけど」
「うん……」
「お腹痛いから寝てるのかなって思ってるみたいだけど。お母さんもお父さんも、まだ彼女には何も話していません」
「そう」
「暗いから電気、つけるわよ。いい?」
「うん」
 電気がついた。母はこちらに歩いてきて、睦希の机に座った。出したままになっているテキストを数秒間眺めた後、こちらを向いた。
「初潮の時は、ショック受けるのが割と普通」
「……そうかな?」
「お母さんも嫌だったし。気持ち悪いじゃない?お腹も痛いし、気分も悪いわ。なんで女だけこんな目に遭うんだろうって思ったし……ね」
「うん、いやだ」
 しかし次の一言は、睦希には同意しかねた。
「でもお母さんはそのおかげであなたに出会う事ができた」
「……ふーん、そっか」
「明美さんが、気にしてたのよ。おめでとうって言った時、あなたが辛そうな顔をしたような気がしたんですって。でも、おめでとうというのはね――」
「将来赤ちゃんを産むのに必要だからなんでしょ」
 睦希は心の中でそっと付け足した。「自分が赤ちゃんを産むことは地球がひっくり返ってもありえないだろう」。
「そうだけど……だから、おめでとうって言うのよ。まぁ、いまどき絶対子どもを持たないといけないってわけじゃないけどね……あなたは、多分私に似て、仕事を頑張るタイプになるような気がするし。でもお母さんは、睦希が生まれてくれて嬉しかった」
「うん、それはありがとう」
「ええ……とにかく、ちゃんと食べないと貧血になるから。血が出るんだから――ちゃんと、食べなさいね。どうする?お腹痛くてダイニングに行くのは難しい?ここに持ってきたほうがいい?」
「ううん、行く。トイレ行ってから行くよ」
「あらそう?ナプキントイレの棚の中に入れておいたから。なにかわからないことがあったら訊きなさいね」
「うん……」
「先に行って、あっためて待ってるから」
 バタン――扉が閉められた。睦希はずるずると起き上がると、机の上に開いたままになったテキストを一度閉じ、その上に筆入れを置いた。二、三回深呼吸をすると、意を決して部屋を後にした。


 明美が作っておいてくれた夕飯を食べ終わったら、父が冷蔵庫を開けて、真っ白い箱を取り出した。
「げっ、なにそれ」
「ケーキ買ってきた」
「な、何のために?まだ誕生日じゃないでしょ?お父さん、政務官とやらの仕事で病んでボケたの?」
「そんなバカな。ちょっと最近、寝不足だけど……違うって……瑠美、ゆずちゃん呼んできて」
「はいはい。この時間だから紅茶はデカフェのにしなさいよね」
「ああそうだった……デカフェあったっけ……明美さん買ってきてくれてるかな――お、あった。さすが」
 睦希は自分の皿を食洗機に放り込み、デカフェのティーパックを上機嫌に取り出す父親を白けた目で見た。
 あの悪しき噂・初潮の時のお赤飯を回避できたかと、今日の夕飯を見てホッとしたのに。このケーキは、赤飯の代わりだろう。
「お父さん」
「え?」
「それは誰の差金」
「……さ、差金って?ケーキを買ったこと?」
「そう」
 ポットにお茶が入っていることを確認していた父は、ぎくりとした様子でこちらを振り返った。態とらしく頬を掻く真似をして白状される。
「んー……今時赤飯とかないだろ?姉さんに、稜子ちゃんのときどうしたか訊いた」
「余計なことを……シスコンか」
「う、うーん……ごめん」
 稜子とは、睦希の七歳上の従姉で、今は大学生になっている。京都の寺院に嫁いだ知匡の姉充子の娘。年齢的に、彼女もまた同じ通過儀礼を七年ほど前に済ませたに違いない――母親と父親が程よく混ざった淑やかそうに見える眼鏡をかけた美人なのに、ちょっとミーハーなところがある。そうか、稜子姉さんも同じことがあったんだ、と思ったけれど考えてみれば当たり前だ。
 父との間に気まずい空気が流れていたところ、パタパタとちょっと大きいスリッパで歩く可愛い足音――ゆずがやってきたのだ。
「睦希ちゃん、大丈夫?」
「あー、ゆず。うん。大したことないんだ……」
 いつも二つに結えた髪を、家だからと後ろで一つだけに括ったゆるいスタイル。家庭の事情で家で一時的に引き取ったのだが、最初の頃に比べてずいぶん寛いでくれるようになった。愛らしい丸い目が、心配そうに睦希を捉えてぱちくり動く。ゆずは一つ下だから、多分まだこの通過儀礼に遭遇していないんだろう。
「あれ、おじさまケーキあるんですか」
「うん、ちょっとね……気まぐれで」
 睦希が鋭い目で睨むので、父はビクビクしながらぎこちない微笑みを作り、ゆずに笑いかけた。
「トモくんなに買ってきたのよ。あらなにこのピンクのは。かわいいじゃない」
 最後に瑠美が現れて、まず夫が皿の上に並べた綺麗なケーキを見て褒め、次に紅茶をせっせと人数分淹れ始めた。
「いちごだって思うでしょ。フランボワーズだって……可愛いからそれにした」
「あなたって結構、乙女なところあるわよね」
「弁護士時代から男女逆転夫婦って言われるからな……検察官と弁護士――まぁ今は、違うけど。ああ瑠美、紅茶入った?じゃ、食べるか……いやこんな時間に食べたら太るよね。まぁいっか明日土曜だし」
 自問自答しながら父は壁に掛かる時計を見た――時計の針はいよいよ、九時を指そうかとしていた。


 夜のお茶会を終えた。多分元気な時に食べたら幸せな気持ちになっただろうフランボワーズのケーキを、睦希はのろのろと、やっとのことで食べ終えた。
 部屋に引っ込もうという時、ゆずは睦希を呼び止めた。
「睦希ちゃん、今日はもう寝る?」
「ん?どうしたのゆず」
「うーんと。元気、ないのかなって……お腹まだ痛い?」
「いや、もう大したことない。ていうか、最初から大したことはないよ。うん」
「もしかして……女の子の、あれ?」
「――ひっ」
「えっ」
 まさか、お見通しだとは――柄にもなく、素っ頓狂な声を上げた自分自身に一番驚いた。そしてゆずも予想外の睦希の反応にびっくりして、高速で瞬きを繰り返している。
「ご、ごめんね。違ったかな……学校で、そう言う子がこないだいたから。生理がはじめてきて、気分悪くて保健室で休んでて。その時のその子と、今日の睦希ちゃんがちょっと似てる気がして!ごめんね」
 顔のすぐ下で両手を合わせて可愛らしく謝られた。全く謝る必要性はない――ゆずの洞察力に驚かされる――というか、十歳も超えたら女の子は、こんなものなのかもしれない。自分が、普通と違うだけで。
「いや、間違ってはないよ」
「――あっ、やっぱりそうなの……?」
「まぁ……部屋くる?まだもう少し寝ないよ――まだちょっと宿題終わってないし」
「――でも邪魔でしょ?宿題やるんでしょ」
「そんなこと、ないけど。話しながらでもできる気がする、あのくらいなら」
 今日はゆずが一緒にいてくれた方が、いつもの自分を取り戻せる気がした。本当は、「ながら」で勉強するなんて、自分のこれまでのやり方ではほとんどあり得ないことだったのに。
 この子の前でなら、弱い自分を隠していられる。しまいには、自分自身にすら、自分の弱さを隠してしまえる――そんな気がした。その前にもう一回トイレに行くと言って、ゆずを先に自室に入れて部屋を去った。
「はぁ……」
 思い出してしまうのは、やたらと濃い色の薔薇。次から薔薇を見るときに、血の色だと思ってしまうかもしれない。
 まだ薄桃だったときは――ちょうど、ソメイヨシノのうっすらとピンクに色づいたような色味で――何かの間違いかと思ったのだが、こうも鮮やかな真紅を見せられたらもう、その事実は揺るぎない。
 睦希に初潮がやってきた。
 ゆずの待つ部屋に戻ろうと立ち上がると、目の前が一瞬暗くなってよろめいた。
「う、ううん……貧血、かな」
 ぎゅっと目を閉じて深呼吸を数回すると、いつもの涼しい顔に戻ることができた気がする。部屋に入るとゆずが、いつものように睦希のベッドの端に遠慮がちな様子で座って待っていた。
「もっと真ん中のほうにおいでよ、そっち、ちょっと固いでしょ。私、椅子に座るからさ」
「うん……睦希ちゃん、ちょっと顔色悪いけど大丈夫?」
「いや、まぁ。ちょっと、血が抜けてるから貧血にでもなったんじゃない。大丈夫だよ、寝てれば治るようなやつでしょ」
「あー、クラスの子も、貧血で保健室に行ってたよ」
「ゆずは……」
「ん?」
 こんなこと訊いて、何になるのだろう。しかし、ゆずも同じ嫌な気分を味わうのだろうか――訊いてみたくて、この問いが口をついて出てきたのだった。
「ゆずは、私より一つ下だし、これまだ……来てない?」
「……え。あ、ああ。うん。私、まだだね……クラスだと、噂ではだけど……十六人女の子がいて、そのうち五人くらいは来てるみたいだけど。まえ、お母さんが言ってたんだ。最近の子は早くって、一番早い子だと三年生くらいからの子もいるって」
「三年生……ああ、そういう子もいるのか。じゃあ、私って案外遅い方かもね」
 ゆずは小学五年生終盤で、クラスの三分の一がすでに初潮を迎えている――一月生まれという誕生月の関係もあるだろうが、睦希は六年生終盤だから、遅い方なのかもしれないと思われた。
「うん、睦希ちゃんは身長大きいし、てっきりもう来てたのかと思ってた」
「いや、今来たね……あのさ。ゆずはさ」
「うん」
 まだ初潮も迎えていない歳下の女の子に、なぜか縋るようにいろいろ訊いてしまう自分がおかしいなと思いつつ、ゆずの純粋な目に救いを求めてしまう。
「これが、早く来て欲しいと思う?」
「――えー。どうかなぁ。血って怖いし、あんまり来てほしくないけど……みんな来てるのに私だけまだとかだったら……ちょっと、焦るかな」
「そっか」
 そういうものか。想像の範囲内の返答にホッとした。しかし次の言葉では動揺させられることになった。
「それに、それが来ないと将来子ども産めないらしいし。だったら、来ないと困るよね……」
「――う、うん。そうかもね」
 少しまごついたあと、睦希は他人事のような返事をした。そうか、ゆずは自分の母親・瑠美のように、将来子どもを産むことを前提として、この生理現象の発来を当然のものとして受け入れているのだ。
 ゆずは自分とは全く「異なる種類の人間」なんだ――睦希はそう感じ、足を揃えていかにも女の子らしい様子で自分の寝台に腰掛けた少女をぼんやりと眺めた。
「睦希ちゃん、なんかやっぱり顔色悪いし、ぼーっとしてる?早く寝たほうがいいよ。宿題も、無理しないほうがいいんじゃ……」
「ん?ああ、いや……宿題をやる。そうだった、これをやるんだったよ……ゆず」
「ん?」
「私は、普通だよ。いつもと別に変わらない」
「そう?ならいいんだけど」
 目の前にあるのは関西方面の中堅私立中が出題した算数の問題だ。もう受験の直前期に入ってきたので、塾から与えられる問題集は睦希のレベルからして「基本的事項の確認」の範囲に属する、そう苦戦しない問題が並んでいる。
「……これならこの解法でいけるな……」
「睦希ちゃんはよくできるもんね。私はそれ、多分全く解けないんだろうな」
「いや、そんなに難しいやつ、いまやってないから。直前に難しいのやって自信無くすのはよくないって、塾の先生が言ってた」
「ああ――そうだ、入試もうすぐだもんね。えっと……もう二週間切ってる?」
「うん、二月一日だよ」
 壁に掛けたカレンダーはまだ一月のものになっているが、表中に入る分については二月の第一週目が薄い印字で記されている。本命の私立中の受験日――二月一日のところには赤いマジックでしっかりと丸が付けられていた。年始に自分で丸を入れたのだが、そのときは当月のうちにこの赤色を見て嫌な気持ちになることになろうとは思わなかった。
「――ああ、ほんとにもうすぐなんだ。じゃ、私邪魔したら悪いし、お部屋出るね?」
「そう?ああ、私が引き留めたんだったっけ。もう十時も近いし寝る準備しなよ。ごめんね、ありがと」
「うん……調子悪かったら、無理したらダメだよ。ちゃんとお母さんに言って」
「分かってるよ。おやすみ」
「うん、おやすみ」
 ドアは優しく閉められた。いつもは自分の方が年長者として――これを姉のように、と言えるだろうか?少し違う気がするが、兄のようにと言うわけにもいかない――振る舞っているのに、いまは逆にゆずに、まるでお姉さんのように諭された。
 閉まって微動だにしないドアを五秒くらい見つめただろうか。睦希はまた、塾のテキストに目を落とした。


 翌朝。
「睦希?まだ寝てるの」
「ん……いま、何時」
 母がこうして部屋に入り込んでくることは珍しい。よほど、遅くまで寝ていたんだろう。薄目を開けて目覚まし時計を見ると、アラームが鳴るはずの時刻をとっくに過ぎていた。果たして、かけ忘れたのか、それとも無意識のうちに消してしまって引き続き眠り込んだのか。
「塾どうする?あと三十分で出ないと間に合わない感じだけど。あなた熟睡してるから、体調が悪いのかなと思って……」
「ああ、うん……そっか」
 思わずぼんやりと天井を見つめてしまったほどだった。こんな失態を犯したことはこれまでに一度としてない。思った以上に自分の身に降りかかったこの当たり前の生理現象に参っているのだと思う。
「お母さん、寝坊してごめん」
「いいのよ。こういう時は、多少は動揺するものでしょ。思ったより、あなたの動揺は激しかったみたいだけど――今日は欠席の連絡しておく?受験の直前に無理することはないわ」
 無理をして当日もっとひどいコンディションになるよりはまし――瑠美は合理的に物を考える人だ。彼女は根性論を蛇蝎の如くに嫌う。冷え性の母の冷たい手が、額に当てられた。
「ごめん、冷たいでしょ――ん。でも、熱があるというわけではないみたいね。やっぱり生理の不調かしらね」
「誰にでも起こることなのに」
「でも、最初だし。気分が優れなかったり、フラフラするとか、お腹が痛いとか……いろいろ、あるものだから。女っていうのは」
 女というのは――睦希は母の落ち着いた声に引き続き、脳内でその言葉を繰り返した。何か心の中に、わずかに不快な気持ちが横切っていった気がする。
 しかしその正体は、はっきりとは掴めない。
「女って大変な生き物だから」
「――ねぇ、お母さん」
「なに?」
「変なこと訊いていい?」
 愚問だと自ら思う。でも、口からその問いかけが出かかるのを抑えることができなかった。
「私って、やっぱり女かな?」
「……どうしたの?」
「いや、別にそんな、深い意味はないけど」
 沈黙が続いたので、心配になって睦希は怠い上半身を起こした。母は睦希の勉強机に付属した椅子に腰掛けて、要領を得ないようなキョトンとした顔でこちらを見ていた。だがさすがに娘と目が遭うとなにか言わなければいけないような気がしたのか、躊躇いがちに口を開いた。
「女じゃなかったら……何かしら。男?それとも、それ以外の何か」
「わからない。女では、あるんじゃない?」
「そうでしょ?」
「う、うん」
 やっぱり、自分は普通とは違うのかもしれない。母はまさかそんなことはあるはずがないでしょうと言いたげに見えた――つまり、娘と思ってきたひとり子が、生まれ持ったその性別に不適応であるということを、彼女は受け入れ難い。
 普通の親なら、大概そういう反応を示すだろう。睦希は、陳腐な言い方で言えば「バリバリのキャリアウーマン」である自分の母親も、そういう凡庸な親としての反応を免れないのだと思った。
「と、とにかく今日は、休んでもいい?元気が出たら、また頑張る……」
「ええ、分かった。塾には連絡しておくわ。朝ごはんは?」
「うん……食べる。お腹は空いた」
「ゆずちゃんがまだダイニングにいるから、いま行ったら。食後にお茶飲んでる」
「うん、わかったよ」
 母が出ていった後、睦希はのそのそとベッドから出て寝巻きから部屋着に着替え始めた。ゆずが来る前には風邪を引いた時など、寝巻きのまま家の中をうろうろしていたが、今はそういうわけにもいかない。
「私は、なんなんだろうね……」
 違和感が大きくなったのは、四年生ごろからだったか。ちょうど、この忌まわしい生理現象がもうすぐあなたたちにはやってくる――そういう話を、女子だけ集められた集会室で聞いた頃。
 ズボンを替える時、重苦しい下腹部に嫌な予感がした。ああ、またトイレに行って、「アレ」を替えなきゃいけないじゃん――憂鬱な気分になる。
 そう、その違和感は、学校の他の女の子たちと自分の差異だった。同じ種類の差異は、昨日今日と、ゆずや自らの母親との間にも感じる。
 あの人たちは順調に「おんな」になってゆくのだ。それに対して、自分はどうも、そのようなものになれる気がしないのだ。
 胸が大きくなりませんように。生理がやってきませんように――そんなことを考えることが増えていた。クラスの女の子の誰かに生理が来たという話を聞くたびに。だれかとだれかが、小学生なのにもう男女として「お付き合い」を始めたという噂を耳にするたびに。
「あー、試験前にタイミング悪いね、私の体って。体はいうことを聞かない……こういうことを言うのかな」
 ひとりごちて、重い体をトイレに引き摺っていった。
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