センちゃん、あのね
6
なんか、緊張する。
僕はスマホを手に握って、じぃっと画面を睨んでいた。かつて、この最後のひと押し「発信」のボタンを押すのに、これだけ緊張したことがあるだろうか――いや、ない(これが確か反語、でしょ)。
センちゃん――って書いてある。多分「安積千理」って登録すると嫌がるだろうっていう、僕のほんのささやかな気遣い。
なんだか電話しないといけない気がして。
ええい!いけ、航!
――押してしまった。呼び出し音が鳴ると、しばらく呆然としていた。なんでこんなに、緊張してるんだろうね?
そして奴は出ない。スマホあんまり持ち歩かないんだった。そのうえ家がだだっ広いから、どこかで鳴動していても気が付かないのかな――っと!
『ん。根本、どうした?』
こりゃあ「おかけになった電話は――」のアナウンス間近と思った時、不意打ちで出るんだからこいつは憎い。
「憎いっ!」
『――は?』
「うー、なんでもない。出るタイミングが良すぎるよ。そういうところが、君は憎いんだよ、センちゃん」
『んー……よく、わからない。いつぶりだ』
「正月に年賀状送った。それっきり……電話は、去年の……秋かな。そんなもんだと思う。今日は大事な話をしたいんだ」
『ちょっと待ってくれ――縁側に移動するから』
長い廊下を歩いている。僕は、センちゃんの家に何度か邪魔したね。まぁ目を見張るような立派な日本家屋の大邸宅だった。塀が張り巡らされ、広い庭園があって――それも、手入れの届いた美しいのが。大きな池に、色とりどりの鯉が泳いでいて。
池の傍にある大きな岩に座って、鯉に餌をやるのが君は好きだった。僕も一緒に餌を撒いた。
君の執事は僕のことを、「根本の坊ちゃん」と呼んだ。貧乏育ちの僕が坊ちゃんなんて呼ばれたのは、後にも先にもあの人にだけだ。
全部懐かしいな――どうだろう、センちゃんは、あの日々のこと覚えているのかな。「根本だけいればじゅうぶん」と言っていたセンちゃんは、もういない。そして多分その横でケラケラ笑ってた僕もいないのかもしれない。
「大人になるのって悲しい」
『何か言ったか』
「大人になるのって悲しいと僕は思うんだ」
『ああ、わかる。悲しい。私は今も、鯉に餌をやる時に振りかぶって投げるやつをやってる。お前が私に教えた、あの変なフォームでやってる』
「!」
『で?大事な話をするんだろう』
「――ああ、そうだった」
なんだ、あの「ちょっとお下品な」餌のやり方を、センちゃんはまだやっているっていうの!三十七にもなって、無邪気にやってるの?
もう、あの日々に戻りたくて、僕は感無量さ。
「センちゃん。君はきっと僕に大きな隠し事をしていると思う。怒らないからいまここで、白状しないかい」
『隠し事?……隠し事だらけだよ』
「だらけ!そりゃあ、ひどい!」
僕はなんでも君にあけすけにしてきたというのに――でもそりゃ、そうなのか。庶民と、上流の生き方の違いがそこにあるだけなのかもしれない。僕はこれ以上追求することをやめた。
『なんだ、今日は私も話さないといけないのか。いつも楽なんだが……お前は、私に聞かせるばかりで、口を挟むいとまも与えない』
「それ、ダメなの?」
『何度も言った。私にはいくらでも話していい。でも他の奴には限度がある』
「うん、そうだね」
『私は話すことが特にない。ただ根本、お前が話したいだけ話したらいい。私はお前の話を聞くのが嫌じゃない』
優しいな君は。冷たいようでいて優しいんだよ――そりゃ、女がほっとかない!そう、女がほっとかないで、僕の知らない間に若い時分に結婚して、子どもが産まれていたんじゃないのか!僕が言いたいことはこれ、これさ。
「ジャン」
『?』
「ミシェル」
『……待て。待て待て待て。何を言おうとしているんだ。いきなりフランス人の名前を羅列するな』
次に伊織と言おうと思ったんだけど、もし万が一違ったら――億が一、くらいの気がするけど――生徒の個人情報を流出させている僕は教師失格。話題を変えて攻めるよ。
「昨日、入学式があった。僕たちの母校で」
『ああ、そんな時期だな。あれ、お前まだ魁星に?』
「当たり前だよ。私立学校の教員って異動とかないし。そうだったでしょ?」
『ああー……そう、か。大学だと若い教員は職場を移ることがあるから勘違いしていた。そういえば、そうか。お前は定年まで、魁聖の教員か』
「そうだよ。まったく、センちゃんは抜けてるなぁ……僕、魁星に勤務し出したって……あれ、もう十年以上前だけど、言ったじゃん」
『すまない。私はこういうところがダメなんだ……それで?何か見たの?』
あ、これは。多分あの子、本当に息子なんだろうな。
「ヴァイオリンがすごく上手な子が新入生にいてね。ジャンとかミシェルとかいう名前なんだ。みんなびっくりして聴き入って。音楽の先生が、握手しに行った――」
『ああ、うちの子だ』
「ほらやっぱり!」
『私の長男。伊織。ヴァイオリンは習わせている。義父が音楽家だから――そういうのをやらせると喜ばれるし、あいつも好きなようだからやらせている……それで?』
「いつ結婚したの?まだ学生の時じゃないか、逆算したら二十四?そりゃひどい、僕は結婚式に呼ばれていない――」
しばらく沈黙があった。僕が言いたいのは、幼稚なことだ。僕がやったことを、なんで君はしてくれなかった――そんなの、なんだか中学生くらいの子どものようだ。
『いろいろ複雑だった。私が結婚したのは二十六の時だから、あれは非嫡出の子だ――それに、お前を呼ばなかったのも、まぁ、事情があって……婚配を挙げたのもそんなに、いい時でもなかった。私にとっても妻にとっても、完全に幸せな時じゃなかった。私の友人は結局根本、お前だけだ。新郎の友人はなし。誰かを呼んで、お前を呼ばなかったのではない――これでいい?』
「――うん、わかった。ちょっと見たかったけど」
僕は君が結婚式に来てくれて嬉しかった。御祝儀袋の分厚さはギョッとしたけど、それは関係なくて。大学時代の研究室の人たちも呼んだけれど、君が来たことが本当に嬉しかった。偽名を使ってでも、変な眼鏡をかけてでも、僕を祝いに出てきたのが嬉しかったよ。
結婚式の時は、幸せな時じゃなかった――いまは幸せなんだろうか。
「いまってさ」
『うん』
「幸せ、なの?」
『――ああ、そうだな……どうだろう。分からないが、若い頃の絶望感は、もうずいぶん和らいだ』
「絶望感?」
なにそれ。聞いたことないよ。君って、そんなに悩んでた?
『私には三人の息子があって』
「三人もいるの」
『ああ――ひとり、真ん中の子がパリにいるが。私は、あの子達にずいぶん救われていると思う。それぞれ、伊織、和泉、伊吹といって――西洋人の顔をしているから顔には似合っていないが、私がつけたんだ』
「奥さんは?フランス人なの?」
『ああ……妻はロシア系フランス人、いや――ユダヤ系フランス人?まぁフランス人、でいいか』
「どこで出会ったの?」
『――もういいだろう。お前、何か私に話したいことがあるんじゃなかったのか。久しぶりに会うか』
「えっ、どういう風の吹き回しで?引きこもりの君が?」
『たまには、私でも外に出るんだよ――いま和光市に住んでいるんだろう。こっちならいい場所がある。いつがいい』
今ほど、君が頼もしく思われることもなかったかもしれないよ――いや、どうなんだろう。いつも僕は、君の学校にいる時のお守り役のようであり、逆に君が僕をお守りしてくれているような不思議な関係だった。
「土曜は早く終わるけど学校だろ。日曜の夜にすると次の日月曜日だから困るんだよねぇ」
『じゃあ土曜の夜』
「ああ、うん。それがいい――けど。いま、妻が妊娠八ヶ月目でさ」
『――ああ、そう?』
さらっと今僕は告白したけれど、実はこれ、結構重大事項なんだって気がついた。言いながら、僕の心臓がドキッとしたから。
「一人になっちゃうんだ。だから彼女に行ってもいいか、確認してくるよー」
『根本お前も、父さんになるのか』
「うん、そうらしい。どうしようセンちゃん、なぜか不安でさぁ。君ってばもう十二年も前にお父ちゃんになったなんて、思い切りいいなぁ。僕はやっと、この歳でなるっていうのに不安で仕方がないんだ」
この不安の正体、聡明な君なら言語化してくれるんじゃないか。僕は、そのあたりちょっと愚鈍なのか全然クリアにならない。
もやもや、もやもや。喜ばしいことのはずなのに、伝えたら、みんながおめでとうって言ってくれるのに!お腹の中に抱えて、痛い思いして出さないといけない有香ちゃんの方が不安だろうに。
僕は、なんて情けない男だろう。
『――おめでとう』
「!」
『って……言ってほしいか?』
「わぁ、びっくりした」
『?なにが』
「君が、おめでとうって言うのは初めて聞いたような気がして」
結婚式の時も、「そろそろ帰る」と言ってきただけ。ご祝儀袋の中に一筆箋で一言「無二の知己たる君の今後に幸多からんことを願う」とだけ書かれていた――お母さんのと似ていない、彼が直筆したのだとわかるどこか不器用な字で。センちゃんらしいと思った。
『あまり言わない。息子の誕生日にすら言わないくらい……好きな言葉じゃないんだろう――そうだな。恙無しやの方が、私は好き』
「つつがなしや?」
『――続きは土曜の夜にでも話そう。そろそろ小さいのを風呂に入れるから』
「へぇ、君が入れてるの」
『誰でもいいんだけどな。小さいのは、今日は私がいいと言うから――じゃあ、切るぞ。細君に宜しく』
ぷちっ。つー、つー、つー。
「へぇ……お父ちゃんじゃん!想像できない……お父ちゃんだ」
通話画面が終わったスマホをほっぽり出したまま、僕はソファの背もたれにだらしなく体を預けた。
センちゃんが、お父ちゃん、ねぇ。
フランス人の奥さんがいて、三人の息子がいて、真ん中は――多分奥さんの故郷に預けてあって?いま上の子と、下の子と住んでいて。今日は今から、下の子をお風呂に入れる。
「――お父ちゃん!」
「どうしたの、航さん。お父ちゃん?お義父さんが何かあったの?」
あっ。有香ちゃんに聞かれてた。リビングに知らないうちに入ってきたんだ。何か書き始めてる――ああ、明日の検診の問診票を書いているんだ。
「ううん、違うんだ。何でもない――こっちの話」
「誰かとお電話してたの」
「そうそう、センちゃんとね……」
「センちゃん?それ、だれ?」
しまった。安藤君って呼んでいたんだった。いまさら隠したってもう意味もないことのような気がするね。
「あ、安藤君のことだよ。彼にはそういうニックネームがあるんだ。さっき電話していたの、安藤君とね……土曜の夜、帰り遅くなってもいいかな」
壁に掛かるカレンダーを見た。土曜日は――十三日。
「安藤さんからお誘いがあったの?珍しくない?」
「超珍しい。十年ぶり――どころじゃないかもしれない……けど。いい?」
気になるのはお腹のこと――と言うより、君の体調全部なんだけど。有香ちゃんはあっけらかんと微笑んで、快諾してくれた。
「そんなに珍しいことなら、行ってきてよ。私はいつも家に帰ったらいるんだから」
「うん、ありがとう。遅くはならないから」
7
入学式が月曜日にあって、土曜日――今日で、新入生たちは一週間を魁星で過ごしたことになる。
「小学校の時は土曜もお休みだった人も多いんじゃないかと思うけど、この学校は週六日制です。土曜は今日のように昼過ぎには全部終わって放課。だけど、ちょっと疲れるなと思うだろう。だから、日曜はゆっくり休んで、月曜にまた元気な顔を見せください。それじゃ、終わり。解散」
この学校に入って最初の洗礼と言うべきかもしれない。国語、数学、英語の実力テストを終えた生徒たち。緊張から解放されたごとく、教室がざわつき出した。一週間経てば、少しずつ人見知りも解けてきて、なんとなくグループができはじめている。
入学式の翌日、僕に構って欲しそうにまとわりついて来た笠井岳は、早くもムードメーカーになりつつあり、担任教師よりやっぱり、同世代のお友達がいいんだ。
三人ほど引き連れて、どこに行くのかな。
「せんせ。じゃーね」
ひらひらと手を振って――悪戯っぽい笑顔で過ぎ去ってゆく。小悪魔――いや、天使かも。母子家庭だというが、あんなに可愛い一人息子、お母さんは放って置けないだろうな。僕はそんな思いで、綺麗に整えられた見事なおかっぱ頭の少年が、「子分」を従えるようにして廊下に出ていく後ろ姿を見送った。
職員室に戻る。各学年の生徒が解いた「実力テスト」の束がどっさり、僕の机の上に置いてある。これから我が校在籍の八名の数学教師で手分けして採点しなきゃならない。僕の取り分は、この紙の束。中一生から高三生まで、中学生ひと学年三百名、高校生は四百名、しめて二千百名。だいたい綺麗に八で割っているので、ざっと二六〇人分くらい。うーん、ちょっと気が遠くなるけど、セメスターごとにあることなのでもう慣れてしまった。
机に座って、いくらか片付けよう。まず、割と簡単な中二生から始めるかな。
さて。僕は夕刻、彼との約束の場所に出向かなければならない。いつもは家のある北西目指して帰るのだけど、今日は千代田線に乗って南へと向かうんだ。
職員室には、早速採点作業にかかり出した教員たちが赤ペンを走らせる音が、こだましていた。
湯島駅五番出口。ここで、五時半に待ち合わせということになっている。階段を上がると若干息が上がる――やっぱり、僕って運動不足。もう少し、運動しないとなぁ……と。階段を上り切ったらすぐに出口近くに乗り付けている黒い車がある。もしかしてこれ、タクシーかと思ったけどセンちゃんの家の車?
あ、やっぱりそうなんだ。窓が開き、控えめに顔を出したのはまさに彼だった。後部座席が自動で開いたぞ。タクシーじゃないのに、自動で後ろが開くとはさすが、安積家のお車だ。
「あっ……お久しぶりです、中路さん」
「こちらこそ、お会いできて嬉しゅうございます。根本の坊ちゃん――って、もう失礼ですよね。根本さん」
懐かしい!根本の坊ちゃん!中路さん、さすがに歳を取った――けど、僕が中学の頃、まだ二十代のほやほや執事だったから、いまもまだ……いくつ?五十前くらい、かな。
「根本の坊ちゃんって呼んでほしいですねぇ……なんて、ね……センちゃん、乗せてもらっていいの?」
「恙無いか。根本」
助手席から落ち着いた声が飛んでくる。落ち着いてる、っていうか平板な調子の。でも多分、これって気遣っている声。
「つつがないって、どういう意味だっけ?」
「お変わりございませんか、というような意味ですね――坊ちゃん」
「……」
「失礼しました。千理さま」
「ん」
坊ちゃんと呼ばれるのが嫌みたいだね。そうか、中路さんからしたらセンちゃんっていつまでも「坊ちゃん」なんだね。僕はいつまでも「根本の坊ちゃん」って呼ばれたいのに、君は違うんだ。
「変わりないよ、センちゃん。それで?お店って遠いの?」
「じきに着く」
「目と鼻の先です、三分もかかりません」
まぁ、そうだよね。地下鉄が張り巡らされた二十三区内でそんなに駅から離れたところって、あんまり考えられないし。中路さんが言う通り小路に入ってすぐに車は何か綺麗な料亭の前に停車した。
「ええと。懐石、湯島てん……はな?」
「てんげ、だ。入るぞ」
なるほど、懐石料理で、「湯島 天華」という名前のお店。ちょっと待って。予算とか聞いてないからこれ、絶対ヤバいやつじゃない?店の中とか、綺麗な家具?みたいなのが高そうだし、中から出て来た上品そうな仲居さんもすごい恭しげなんだけど。
「安積さま、お待ちしておりました」
いやいや膝ついて礼してるし。完全に最高のおもてなしをするつもりだよこの仲居さんは。僕、めっちゃ普通のスーツで来たよ。ドレスコードとかあるならちゃんと言ってよ!大丈夫?このくたびれサラリーマン風の服装。
えー、靴脱ぐの?そうだよね、ああ普通脱ぐわ、だってここはお座敷だよ。それにしても、僕の作法間違ってない?靴入れていいの?この綺麗な靴箱に?えー、汚れそう。
「ご案内いたします」
「根本」
「へ」
「適当でいい。今は他に客はないから」
一番奥の個室に通された。なんじゃこの屏風は。掛け軸とかかかってるし……個室、って普通の居酒屋の個室とか想像してたけど、立派な和室なんですか。
僕にはもう、わけがわからないよ。
「根本はそっち。今日は私がこっち」
座る席まで指定らしい。よくわからないけど、昔聞いたことによると――出入り口からより遠い僕の方が、この席においては偉いってことかい?
一応言われた通りに座布団に座ったけども。
「えー……もっと普通のところでいいよ、普通の居酒屋がよかった」
「普通の居酒屋?ここは居酒屋ではない?」
いや、ここは高級懐石料理店とか、そういう類のやつで――だめだ、説明する気にもならないね。おっと仲居さん。
なんか早速料理を持ってこられたぞ。なにこれ、いわゆる「お通し」かな?立派すぎるけど。
「なにを飲む、多分言えば大体何でも揃っているはず」
飲み物のメニュー表ですかぁ。分厚い、分厚いって……おすすめは?絶対僕選出のセンスが悪いから、センちゃんと同じやつでいいや。
食べ過ぎだ。これでは、胃もたれ不可避――センちゃんって意外に大喰らいなんだよね。食べ出したら淡々と食べ続け、全部入る。そういう男だった。
「まだ出てくる?」
お品書き――ああまだ全部終わってないや。
「センちゃんってば若いね、胃もたれしないの」
「胃もたれ、か……分からない。出されると出されただけ入ってしまって、あとは……やめておく。ここで言うべきことじゃ、ないな」
「なになに、トイレで出るの?」
「――言わないと言ったのに、お前は……」
「いいじゃん、人間なんだし当然、当然……そうでしょ」
「ああ、そうだけど――ああ、空いてしまった。根本は……まだ終わってないな」
センちゃんは徳利をまた空にした。何杯目だそれ。僕はどっちかというと下戸の方で、君のペースと同じように飲んだら急性アル中であの世行きだよ。
「次、月弓。それから、料理を出すペースを落としてほしい」
「かしこまりました」
仲居さんが来ると毎回緊張するよ。僕が変な粗相をして、坊ちゃんの友人に変なのがいると思われそうで。
坊ちゃん、か――まぁお互い、歳を取ったけど。君ってば、相変わらず黙ってれば絵になるけどねぇ。
「……ん、どうした」
ああそのなに考えてるのか分からない黒い瞳は、誰からもミステリアスだと評された。僕たちの高校一年の頃の担任、覚えてる?松原先生がさ――君のことを、「黙っていれば絵になるけど、話すとポンコツな男」って言ったんだ。本当に、笑った。
「君はあんまり変わらない」
「そうかな」
「僕は変わってしまったかもしれないよ。無邪気な航クンはいなくなってしまったんだ――」
「邪気はないだろう、今も」
「うん、そうかなぁ。そうだと、いいんだけどね……」
「なにを悩んでいる。私がそんなによく気がつく奴じゃないことぐらい知っているだろ。言わないと分からない――聞いて欲しかったら、言うんだな」
「僕にもよくわかんないんだけど」
「……ああ」
「君は、僕が知らない間にお父ちゃんになってたね」
「――うん、そうらしい。もう十二年くらいそうらしい」
「息子は君にとったらやっぱり可愛い?ジャン=ミシェル君は僕も見た。職員室では噂になってるよ、毎日のように。すごい綺麗なのが来たって、特に女の先生が」
「伊織は、母親に似た。私の妻は綺麗だから」
「フランス人の?」
「ああ、綺麗、綺麗――私には勿体無い、美女と野獣……」
また、この人はひどい謙遜をしている。センちゃんは、飲むと少しよく喋る。僕は、自分がなににモヤモヤしているのか言語化できないから、まずは君からいろいろ聞き出したいよ。
「ジャン=ミシェル君は君に似ていると思うけどな」
「……そうか?」
「君と言うか……君のお父ちゃんに似ているのかな。顔を見た時、君のことを思い出したよ。名前見た段階では、君の子にしては大きすぎるかと思ったんだけどさ。顔を見た時、ああこりゃセンちゃんの息子だって判ったよ」
「――似ている、か。そうか」
「うん……なにどうしたの。嬉しいの?」
口元に手を当てている。僕は知ってるよ、ちょっと笑いそうになってる時に、君はいつもそうしていた。
「い、いやそんなことはない。人が見ると違うように見えるのだなと思った――ああ、そうか。顔でバレたのか。ふふふ、はは」
「いやめちゃくちゃ嬉しそうだけど」
「ああ、可愛いよ。あいつは可愛い。私にはずーっと反抗期だ、それなのに時々、少し私に優しい。あれは、根っから優しいのに、冷たいふりをしている。父さんと同じで演技がへたで」
反則だ!なんて言うんだ、それっていうのは――惚気攻撃!今の僕にはその攻撃の効果は抜群だ。
ああなんかぷるぷるしちゃうぞ。どの辺が?僕の胸の辺り?ああもう喋る!喋るぞ!
「僕はね、お父ちゃんになれる自信がないよ。センちゃん、なんでだろうね。僕は無責任なやつだと思うよ。腹なんて一つも痛まない。有香ちゃんが妊娠する前となにも変わらない。ただ、職場に行って帰るだけ。それを繰り返しているうちに、有香ちゃんはどんどん変わっていって――不安になって来た、僕はお父ちゃんになるんだ。でもなれるとも思えない」
「……ふむ」
「家を買ったよ、和光市にわざわざ引っ越して。頭金を義両親に出してもらって。僕はまだ、実家に仕送りをしてる。それはいい、だって世話になったんだから――僕が母校で教師をしている、それは自分だけの力でなったのでは到底、ないんだ……」
「頭金……」
ああ。坊ちゃんには頭金ということが分からない。僕が説明すると、センちゃんは懐から何かメモ帳を出して熱心に書き始めた。
「頭金、か。なるほど、わかった――そういうものがある。それから、お前には、ローンの返済がある。これは、多くの人が家を買う時に、必然的に拵える借金のようなもの……」
頭を抱え、一度ため息をついた後、また涼しい顔に戻ったセンちゃんは、懐にメモを仕舞ってお猪口からさっき注文した「月弓」とかいう酒をぐいっと一飲みした。
「根本。私が記憶しているところによると、お前の父上は――ああそうだ、父上も母上も恙無いか」
「うん、つつがないよ一応……父さんは血圧、ずいぶん高いみたいだけど」
「お前の父上は、確か難治性のうつ病か何かで、仕事を休み休みこなしていた」
「うん、あってる」
「――私は、それは並大抵のことではないと思う。親である者にとって、子に対して情けないと思うことは辛いことだ。私はそれを身をもって知る」
「君は立派なお父ちゃんだよ」
「それは、お前が私を買い被っているんだ。私も不安で仕方がなかった。私は父が私たちにしてくれただけのことを、あの子らにやってあげられるような気がしない。ボーッと生きてきた私は、未だに坊ちゃんと呼ばれ、外に行けば立派だと言われることができる。私は恥ずかしい――何もできない男なのに、私は、なぜかレールに乗せられて、外では立派な紳士だと思われるのが歯がゆい。伊織は偉いんだ。父親が本当は碌でなしなことを知っていて、私を侮る。私は、下の二人が私を慕うときに切ない」
「……う、うん」
センちゃんの喉から滔々と漏れ出る言葉たち。僕はこんな饒舌な君を、初めて見た。
「私はそれでも、伊織からダメ親父と謗られ、和泉や伊吹から盲目的に慕われたいと思う。どうかそれが彼らの本心であってほしい。本心を捻じ曲げて生きることはつらいからだ」
僕が珍しく黙っている。「話すとポンコツ」と言われた彼の言葉は、若い頃、僕にはよく理解できなかった。それはポンコツだからなんかじゃなく、多分彼が深く考えすぎるからなんだろうな。彼の心の深淵を理解できないので、みんなポンコツなんていう結論に達してしまうんだろう。
わ、見られた。なに考えてるかわかんないけど、真っ黒の目が確かに僕を射抜いている。
「……なんだ、お前が話さないと調子が狂うじゃないか?」
「センちゃんが珍しくたくさん話してくれるなって思って見てたよ」
「ふん……酔ってるんだろう。私は家で、酒を飲むなと言われている。一度始めると際限なく飲んでるから、体を壊すと」
「センちゃんが強すぎるんだって」
「自分でも酔ってるのか酔ってないのか分からない……多分酔ってるな、お前が私の話を聞いているなんて異常だ……それで。どうしたらいい、お前の煩悶に付き合ったらいいの?お前は、父親になる自信がないんだな」
「う、うん多分。自信ないっていうか……僕は想像力が欠けてたよ。普通、子どもが生まれるって嬉しいイベントなんでしょ?僕も最初は嬉しいと思ったんだ、これからどんなことがあるんだろうとか想像してさ……でもお腹大きくなるたびに楽しみより、不安が大きくなって来た。有香ちゃんにこんなふうになってること知られたら、幻滅されるんだろうなぁ」
僕はなんとなく有香ちゃんの細い腕なんかを頭に思い浮かべている。僕がこういう頼りない奴だって、バレたくないなぁ。
「変かなぁ。他の人ってこんなふうに思わないのかな?ほら、普通はさ、子どもが生まれるとか嬉しいってなるでしょ。ドラマとかで見るし……なんだろ。僕あんまり真似上手くないよ?でもさ……こうさ」
人がいないと思って、僕は身振り手振りを少し大袈裟に、ドラマにありそうな、奥さんに「妊娠した」ことを告げられた時の夫の反応をやってみた。
まずびっくりした顔からやらないとね!
「――ほんとか?ほんと?まじで!わぁ……嬉しい、嬉しいなぁ……男かな?女かな?君は?君はどっちがいい?俺。俺は……女の子かなぁ!やっぱ娘とか、可愛いだろ!でも男もいいかな!キャッチボールとかしt……痛あっ!」
キャッチボールをする真似をしようとして振った手を下ろすとき、テーブルの縁に思い切り指先をぶつけた!演技が下手、最後の「痛あっ」てところだけ迫真で、そりゃ当たり前――マジで痛かった!
「ぷっ」
痛くて悶絶。無事な方の手で患部を摩り出したら、センちゃんの吹き出す声がした。
「はははははっ、ははは……お前、下手だなぁ!はははっ」
「……わぁめちゃくちゃ笑うじゃん!センちゃん酷っ!めちゃくちゃ笑うじゃん……あははは、あはは……」
センちゃんはツボったみたいで、腹を抱えて襲ってくる腹筋の痛さに耐えているらしい。僕も酔いが回っているせいもあって、センちゃんが笑っているのを見ながら、笑いが込み上げて来て仕方がなかった。笑おうと思って笑ったんじゃない、まるで何か、誰か外からのものに無理やり笑うように仕向けられているような変な感覚。
おっと仲居さん!
「あの……安積さま。次のお料理そろそろ、お持ちしても」
「ふうっ……うん、もって来て」
仲居さんは戻っていきながら肩を震わせて、くすくすと笑っていた。目に皺ができてて、あれは多分――うーん、五十代半ばってところかな。なんて、僕ってば女性の年齢推し量るなんて失礼かもね。センちゃんは突然の仲居さんの登場に我に返ったんだね。涼しい顔でまたお猪口に注いでるや。
「その、へたな演技」
「?」
「私も、似たようなのやったことある。妻の腹が出て来た頃かな……夜に妻が寝た後、眠れなくてな。一人で、コソコソ縁側に行って。お前と同じように下手な猿芝居して……なんでだろ、って月を見上げた」
「なんでだろ、って?」
「なんで生まれたらおめでとうなんだ?誰に対しておめでとうって言ってる?とか……考えてたな」
「あー。確かに。誰に対してなんだろ?」
「親にだろうな……赤子には言ったってわからん。まず、産婦が無事でよかった。次に、その夫が妻を失わないでよかった。その後どんな人間になるか自分でもわからん赤子からしたら、ひどい無責任な祝福だな――傍迷惑な話だよ」
ああセンちゃんの喉にまた酒が落ちていったぞ。また空にした?あーそんな感じみたい。まだ飲むのかい?
仲居さんが料理を運んできた。また何か日本酒注文したよこの人は――僕ももう一杯だけ付き合うことにした。
8
お勘定しないで出て行くから何事かと思ったら、「ツケ」なんだって。僕の飲食分に一体いくら掛かったのか分からないんだけど――恐ろしい、これが上流階級の食事か。
僕の懐から出るお金など要らないということらしい――大学生の時いつも奢られていたのを思い出しちゃう。僕ってば、どれだけセンちゃんの世話になってんだろ。
「あの、中路さん。ほんと、お世話になります」
「お安い御用です」
結構遠いから大丈夫だと言ったのだけど、首都高に乗れば三十分で和光市に行けるから乗れと。僕はついついそのお言葉に甘え、センちゃんを迎えにきた中路さんの車に乗ることになった。
来た時は助手席にいたセンちゃんは後部座席に、僕の右に乗った。
「懐かしいね、昔はこうやって乗ってたよ。僕がこっちで、君がそっちだ。遊んだ帰りによく乗せてもらった」
僕の小平市の実家は、玉川上水が流れる近辺にあり、「首都圏のプチ田舎」と称される市内でもなかなか田舎っぽい場所にある。学生時代にはセンちゃんと遊んで帰る時とか、よく車に乗せてもらった。
あの頃はまだ少年時代だったから、こんなに暗い時間ではなかったけど――ああそうだ、この感じ。懐かしい。もう二十年以上経って変わっただろうに、車窓から見る景色すら、あの頃もこうだったような気がしてきた。でも、今から向かうのは小平じゃなくて、埼玉の和光市なんだな。
ずいぶん時間が経ったのだね。その間に、僕らは大人になったのか。なれているか?
「センちゃん」
「うん」
「僕たちって大人になったかな?」
「――どう思う?」
暗くて君がどんな表情をしているのだか分からないけど、窓の外を見て正反対の方向を見ていた僕らは、顔を見合わせた。
「君は大人だよ。僕はまだ、レベルの低いところで止まってる」
「そうか。多分、私たちは思っているよりずっと近くだ」
「……」
「いや、違うな――近くに居させてくれ。私には、お前くらいしか学生時代の友人がない」
「……なんでだろ?」
「?」
「君は多分、もっと友達できたでしょ。近寄るなオーラっていうの?あれさえ解いていたら、君の周りには人が集まっただろうに、なんで僕みたいなのとばっかり連んだのかなぁ」
「……さぁ」
「僕らって似てないのにね」
「――いや、お前と私は、多分似てる」
「……畏れ多いなぁ!ははは」
君が放課後に教室にいつも残って何かを書いているので、僕は何をしているのか気になって、勇気を出して話しかけた――そしたら隠されて。見ちゃダメなものを見ようとしたことを、僕は謝った。僕は空気が読めなくて、マシンガントーク野郎で、めんどくさい奴だから友達がなかなかできないんだ。
このときも失敗したと思ったけど、君は謝り返した。恥ずかしそうに、何か思うことがあって、物語を書いて悩みを昇華しようとしていると教えてくれた。
次の日からお昼を一緒に食べるようになった。君のはいつも重箱にたくさん綺麗な食べ物が入っていて、淡々とその大きなのを平らげていた。そのうち、僕の家が貧しいのを知ったからか、分けてくれるようになり、半年が過ぎた頃には僕はお弁当を持って行かなくなった。
君の家のお女中さんたちに大きくしてもらったようなもんだね……と言っても、背は低いままだ。センちゃんは見上げるように背が高くなった。何から何まで負けている、それなのに嬉しいんだ。「根本だけいたらじゅうぶん」と言ってくれていたからかな。
僕は君の、飼い犬みたいなもんだったのかも。
飼い犬は、素敵なお嬢さんと結婚して、お父ちゃんになることになった。君はそれを「恙無しや」と気にしてくれるんだろう。おめでとうではなく、無事か、と訊いてくれるんだ。
……………
「――ちゃん。根本の坊ちゃん」
「えっ」
わ、寝てた。ここ、どこ……ああ、家のすぐ近くの公園か。そういや、町名までは事前に言っておいたんだ。
「この近辺ですよね。どちらです?」
「えっと……少し行って、右です」
センちゃんは――あ、寝てる。
なんだ、僕らは中路さんの車に揺られて、寝ていたのか。
「次、突き当たりを左です」
中学の時と何にも変わらないや。小平は遠くって、一時間くらいかかるもんだから、僕もセンちゃんも寝落ちして。センちゃんなんて、眠りが深くって僕が降りる時にも起きないでいたこともあった。
「もうすぐです、ていうか、マンション見えてます」
「この高層階の?」
「そうですそうです、もうここでいいです」
車が止まった。相変わらず優しい運転をするなぁ。あっ――料金払わないでいいのかな。どうしよう、訊いたら却って変な感じ?
「あの、ガソリン代とか」
「要らん」
「あ――起きたの、センちゃん」
「ああ起きた。訊きたいことがある」
「なに?」
「こういう時は、いろいろと入り用だ。何か欲しいものはあるか……用意しておく、誕生祝い」
「え、別にそんな」
これ以上世話になるとか、できないよなぁ。
「私は生まれてくる赤子にはおめでとうとは言えないが、恙無く生まれた時にはお前にはおめでとうを言う」
あ、そういえば、ベビーベッド用意してないや。あれって高いのかな?ちゃんとしたのだと高い?有香ちゃんが昨日見てたベビー用品カタログ、僕もしっかり見とくんだったな。
ちょ、いますれ違った車のライトで見えたけど、眼光が強いよ。何か頼んでくれと言う圧がすごいけど?
「べ、ベビーベッドまだ用意してないね」
「ふっ……私は、人生で最初の寝具のおじさんか。悪くない……用意しておく」
わぁ頼んじゃったよ。大丈夫かなぁ、結婚式のご祝儀袋の時みたいに、予想外なもの届けて来そう。でもまぁいいか。そういうちょっとズレているところがあるのが君だ。
君はズレた男だから、ズレた僕と一緒にいてくれたんだ。
「細君に宜しく」
「うん」
「伊織を宜しく」
「――ああ、うん」
「おやすみ」
胸がいっぱいになった。ああ、こんど学校で君の息子を見たら、僕は変な顔をしてしまいそうだよ。手を振って黒い車が闇の向こうに消えて行くのを見届けながら、反対の手を胸に当てた。
僕の中にあったモヤモヤは、確かに小さくなったように思われた。
なんか、緊張する。
僕はスマホを手に握って、じぃっと画面を睨んでいた。かつて、この最後のひと押し「発信」のボタンを押すのに、これだけ緊張したことがあるだろうか――いや、ない(これが確か反語、でしょ)。
センちゃん――って書いてある。多分「安積千理」って登録すると嫌がるだろうっていう、僕のほんのささやかな気遣い。
なんだか電話しないといけない気がして。
ええい!いけ、航!
――押してしまった。呼び出し音が鳴ると、しばらく呆然としていた。なんでこんなに、緊張してるんだろうね?
そして奴は出ない。スマホあんまり持ち歩かないんだった。そのうえ家がだだっ広いから、どこかで鳴動していても気が付かないのかな――っと!
『ん。根本、どうした?』
こりゃあ「おかけになった電話は――」のアナウンス間近と思った時、不意打ちで出るんだからこいつは憎い。
「憎いっ!」
『――は?』
「うー、なんでもない。出るタイミングが良すぎるよ。そういうところが、君は憎いんだよ、センちゃん」
『んー……よく、わからない。いつぶりだ』
「正月に年賀状送った。それっきり……電話は、去年の……秋かな。そんなもんだと思う。今日は大事な話をしたいんだ」
『ちょっと待ってくれ――縁側に移動するから』
長い廊下を歩いている。僕は、センちゃんの家に何度か邪魔したね。まぁ目を見張るような立派な日本家屋の大邸宅だった。塀が張り巡らされ、広い庭園があって――それも、手入れの届いた美しいのが。大きな池に、色とりどりの鯉が泳いでいて。
池の傍にある大きな岩に座って、鯉に餌をやるのが君は好きだった。僕も一緒に餌を撒いた。
君の執事は僕のことを、「根本の坊ちゃん」と呼んだ。貧乏育ちの僕が坊ちゃんなんて呼ばれたのは、後にも先にもあの人にだけだ。
全部懐かしいな――どうだろう、センちゃんは、あの日々のこと覚えているのかな。「根本だけいればじゅうぶん」と言っていたセンちゃんは、もういない。そして多分その横でケラケラ笑ってた僕もいないのかもしれない。
「大人になるのって悲しい」
『何か言ったか』
「大人になるのって悲しいと僕は思うんだ」
『ああ、わかる。悲しい。私は今も、鯉に餌をやる時に振りかぶって投げるやつをやってる。お前が私に教えた、あの変なフォームでやってる』
「!」
『で?大事な話をするんだろう』
「――ああ、そうだった」
なんだ、あの「ちょっとお下品な」餌のやり方を、センちゃんはまだやっているっていうの!三十七にもなって、無邪気にやってるの?
もう、あの日々に戻りたくて、僕は感無量さ。
「センちゃん。君はきっと僕に大きな隠し事をしていると思う。怒らないからいまここで、白状しないかい」
『隠し事?……隠し事だらけだよ』
「だらけ!そりゃあ、ひどい!」
僕はなんでも君にあけすけにしてきたというのに――でもそりゃ、そうなのか。庶民と、上流の生き方の違いがそこにあるだけなのかもしれない。僕はこれ以上追求することをやめた。
『なんだ、今日は私も話さないといけないのか。いつも楽なんだが……お前は、私に聞かせるばかりで、口を挟むいとまも与えない』
「それ、ダメなの?」
『何度も言った。私にはいくらでも話していい。でも他の奴には限度がある』
「うん、そうだね」
『私は話すことが特にない。ただ根本、お前が話したいだけ話したらいい。私はお前の話を聞くのが嫌じゃない』
優しいな君は。冷たいようでいて優しいんだよ――そりゃ、女がほっとかない!そう、女がほっとかないで、僕の知らない間に若い時分に結婚して、子どもが産まれていたんじゃないのか!僕が言いたいことはこれ、これさ。
「ジャン」
『?』
「ミシェル」
『……待て。待て待て待て。何を言おうとしているんだ。いきなりフランス人の名前を羅列するな』
次に伊織と言おうと思ったんだけど、もし万が一違ったら――億が一、くらいの気がするけど――生徒の個人情報を流出させている僕は教師失格。話題を変えて攻めるよ。
「昨日、入学式があった。僕たちの母校で」
『ああ、そんな時期だな。あれ、お前まだ魁星に?』
「当たり前だよ。私立学校の教員って異動とかないし。そうだったでしょ?」
『ああー……そう、か。大学だと若い教員は職場を移ることがあるから勘違いしていた。そういえば、そうか。お前は定年まで、魁聖の教員か』
「そうだよ。まったく、センちゃんは抜けてるなぁ……僕、魁星に勤務し出したって……あれ、もう十年以上前だけど、言ったじゃん」
『すまない。私はこういうところがダメなんだ……それで?何か見たの?』
あ、これは。多分あの子、本当に息子なんだろうな。
「ヴァイオリンがすごく上手な子が新入生にいてね。ジャンとかミシェルとかいう名前なんだ。みんなびっくりして聴き入って。音楽の先生が、握手しに行った――」
『ああ、うちの子だ』
「ほらやっぱり!」
『私の長男。伊織。ヴァイオリンは習わせている。義父が音楽家だから――そういうのをやらせると喜ばれるし、あいつも好きなようだからやらせている……それで?』
「いつ結婚したの?まだ学生の時じゃないか、逆算したら二十四?そりゃひどい、僕は結婚式に呼ばれていない――」
しばらく沈黙があった。僕が言いたいのは、幼稚なことだ。僕がやったことを、なんで君はしてくれなかった――そんなの、なんだか中学生くらいの子どものようだ。
『いろいろ複雑だった。私が結婚したのは二十六の時だから、あれは非嫡出の子だ――それに、お前を呼ばなかったのも、まぁ、事情があって……婚配を挙げたのもそんなに、いい時でもなかった。私にとっても妻にとっても、完全に幸せな時じゃなかった。私の友人は結局根本、お前だけだ。新郎の友人はなし。誰かを呼んで、お前を呼ばなかったのではない――これでいい?』
「――うん、わかった。ちょっと見たかったけど」
僕は君が結婚式に来てくれて嬉しかった。御祝儀袋の分厚さはギョッとしたけど、それは関係なくて。大学時代の研究室の人たちも呼んだけれど、君が来たことが本当に嬉しかった。偽名を使ってでも、変な眼鏡をかけてでも、僕を祝いに出てきたのが嬉しかったよ。
結婚式の時は、幸せな時じゃなかった――いまは幸せなんだろうか。
「いまってさ」
『うん』
「幸せ、なの?」
『――ああ、そうだな……どうだろう。分からないが、若い頃の絶望感は、もうずいぶん和らいだ』
「絶望感?」
なにそれ。聞いたことないよ。君って、そんなに悩んでた?
『私には三人の息子があって』
「三人もいるの」
『ああ――ひとり、真ん中の子がパリにいるが。私は、あの子達にずいぶん救われていると思う。それぞれ、伊織、和泉、伊吹といって――西洋人の顔をしているから顔には似合っていないが、私がつけたんだ』
「奥さんは?フランス人なの?」
『ああ……妻はロシア系フランス人、いや――ユダヤ系フランス人?まぁフランス人、でいいか』
「どこで出会ったの?」
『――もういいだろう。お前、何か私に話したいことがあるんじゃなかったのか。久しぶりに会うか』
「えっ、どういう風の吹き回しで?引きこもりの君が?」
『たまには、私でも外に出るんだよ――いま和光市に住んでいるんだろう。こっちならいい場所がある。いつがいい』
今ほど、君が頼もしく思われることもなかったかもしれないよ――いや、どうなんだろう。いつも僕は、君の学校にいる時のお守り役のようであり、逆に君が僕をお守りしてくれているような不思議な関係だった。
「土曜は早く終わるけど学校だろ。日曜の夜にすると次の日月曜日だから困るんだよねぇ」
『じゃあ土曜の夜』
「ああ、うん。それがいい――けど。いま、妻が妊娠八ヶ月目でさ」
『――ああ、そう?』
さらっと今僕は告白したけれど、実はこれ、結構重大事項なんだって気がついた。言いながら、僕の心臓がドキッとしたから。
「一人になっちゃうんだ。だから彼女に行ってもいいか、確認してくるよー」
『根本お前も、父さんになるのか』
「うん、そうらしい。どうしようセンちゃん、なぜか不安でさぁ。君ってばもう十二年も前にお父ちゃんになったなんて、思い切りいいなぁ。僕はやっと、この歳でなるっていうのに不安で仕方がないんだ」
この不安の正体、聡明な君なら言語化してくれるんじゃないか。僕は、そのあたりちょっと愚鈍なのか全然クリアにならない。
もやもや、もやもや。喜ばしいことのはずなのに、伝えたら、みんながおめでとうって言ってくれるのに!お腹の中に抱えて、痛い思いして出さないといけない有香ちゃんの方が不安だろうに。
僕は、なんて情けない男だろう。
『――おめでとう』
「!」
『って……言ってほしいか?』
「わぁ、びっくりした」
『?なにが』
「君が、おめでとうって言うのは初めて聞いたような気がして」
結婚式の時も、「そろそろ帰る」と言ってきただけ。ご祝儀袋の中に一筆箋で一言「無二の知己たる君の今後に幸多からんことを願う」とだけ書かれていた――お母さんのと似ていない、彼が直筆したのだとわかるどこか不器用な字で。センちゃんらしいと思った。
『あまり言わない。息子の誕生日にすら言わないくらい……好きな言葉じゃないんだろう――そうだな。恙無しやの方が、私は好き』
「つつがなしや?」
『――続きは土曜の夜にでも話そう。そろそろ小さいのを風呂に入れるから』
「へぇ、君が入れてるの」
『誰でもいいんだけどな。小さいのは、今日は私がいいと言うから――じゃあ、切るぞ。細君に宜しく』
ぷちっ。つー、つー、つー。
「へぇ……お父ちゃんじゃん!想像できない……お父ちゃんだ」
通話画面が終わったスマホをほっぽり出したまま、僕はソファの背もたれにだらしなく体を預けた。
センちゃんが、お父ちゃん、ねぇ。
フランス人の奥さんがいて、三人の息子がいて、真ん中は――多分奥さんの故郷に預けてあって?いま上の子と、下の子と住んでいて。今日は今から、下の子をお風呂に入れる。
「――お父ちゃん!」
「どうしたの、航さん。お父ちゃん?お義父さんが何かあったの?」
あっ。有香ちゃんに聞かれてた。リビングに知らないうちに入ってきたんだ。何か書き始めてる――ああ、明日の検診の問診票を書いているんだ。
「ううん、違うんだ。何でもない――こっちの話」
「誰かとお電話してたの」
「そうそう、センちゃんとね……」
「センちゃん?それ、だれ?」
しまった。安藤君って呼んでいたんだった。いまさら隠したってもう意味もないことのような気がするね。
「あ、安藤君のことだよ。彼にはそういうニックネームがあるんだ。さっき電話していたの、安藤君とね……土曜の夜、帰り遅くなってもいいかな」
壁に掛かるカレンダーを見た。土曜日は――十三日。
「安藤さんからお誘いがあったの?珍しくない?」
「超珍しい。十年ぶり――どころじゃないかもしれない……けど。いい?」
気になるのはお腹のこと――と言うより、君の体調全部なんだけど。有香ちゃんはあっけらかんと微笑んで、快諾してくれた。
「そんなに珍しいことなら、行ってきてよ。私はいつも家に帰ったらいるんだから」
「うん、ありがとう。遅くはならないから」
7
入学式が月曜日にあって、土曜日――今日で、新入生たちは一週間を魁星で過ごしたことになる。
「小学校の時は土曜もお休みだった人も多いんじゃないかと思うけど、この学校は週六日制です。土曜は今日のように昼過ぎには全部終わって放課。だけど、ちょっと疲れるなと思うだろう。だから、日曜はゆっくり休んで、月曜にまた元気な顔を見せください。それじゃ、終わり。解散」
この学校に入って最初の洗礼と言うべきかもしれない。国語、数学、英語の実力テストを終えた生徒たち。緊張から解放されたごとく、教室がざわつき出した。一週間経てば、少しずつ人見知りも解けてきて、なんとなくグループができはじめている。
入学式の翌日、僕に構って欲しそうにまとわりついて来た笠井岳は、早くもムードメーカーになりつつあり、担任教師よりやっぱり、同世代のお友達がいいんだ。
三人ほど引き連れて、どこに行くのかな。
「せんせ。じゃーね」
ひらひらと手を振って――悪戯っぽい笑顔で過ぎ去ってゆく。小悪魔――いや、天使かも。母子家庭だというが、あんなに可愛い一人息子、お母さんは放って置けないだろうな。僕はそんな思いで、綺麗に整えられた見事なおかっぱ頭の少年が、「子分」を従えるようにして廊下に出ていく後ろ姿を見送った。
職員室に戻る。各学年の生徒が解いた「実力テスト」の束がどっさり、僕の机の上に置いてある。これから我が校在籍の八名の数学教師で手分けして採点しなきゃならない。僕の取り分は、この紙の束。中一生から高三生まで、中学生ひと学年三百名、高校生は四百名、しめて二千百名。だいたい綺麗に八で割っているので、ざっと二六〇人分くらい。うーん、ちょっと気が遠くなるけど、セメスターごとにあることなのでもう慣れてしまった。
机に座って、いくらか片付けよう。まず、割と簡単な中二生から始めるかな。
さて。僕は夕刻、彼との約束の場所に出向かなければならない。いつもは家のある北西目指して帰るのだけど、今日は千代田線に乗って南へと向かうんだ。
職員室には、早速採点作業にかかり出した教員たちが赤ペンを走らせる音が、こだましていた。
湯島駅五番出口。ここで、五時半に待ち合わせということになっている。階段を上がると若干息が上がる――やっぱり、僕って運動不足。もう少し、運動しないとなぁ……と。階段を上り切ったらすぐに出口近くに乗り付けている黒い車がある。もしかしてこれ、タクシーかと思ったけどセンちゃんの家の車?
あ、やっぱりそうなんだ。窓が開き、控えめに顔を出したのはまさに彼だった。後部座席が自動で開いたぞ。タクシーじゃないのに、自動で後ろが開くとはさすが、安積家のお車だ。
「あっ……お久しぶりです、中路さん」
「こちらこそ、お会いできて嬉しゅうございます。根本の坊ちゃん――って、もう失礼ですよね。根本さん」
懐かしい!根本の坊ちゃん!中路さん、さすがに歳を取った――けど、僕が中学の頃、まだ二十代のほやほや執事だったから、いまもまだ……いくつ?五十前くらい、かな。
「根本の坊ちゃんって呼んでほしいですねぇ……なんて、ね……センちゃん、乗せてもらっていいの?」
「恙無いか。根本」
助手席から落ち着いた声が飛んでくる。落ち着いてる、っていうか平板な調子の。でも多分、これって気遣っている声。
「つつがないって、どういう意味だっけ?」
「お変わりございませんか、というような意味ですね――坊ちゃん」
「……」
「失礼しました。千理さま」
「ん」
坊ちゃんと呼ばれるのが嫌みたいだね。そうか、中路さんからしたらセンちゃんっていつまでも「坊ちゃん」なんだね。僕はいつまでも「根本の坊ちゃん」って呼ばれたいのに、君は違うんだ。
「変わりないよ、センちゃん。それで?お店って遠いの?」
「じきに着く」
「目と鼻の先です、三分もかかりません」
まぁ、そうだよね。地下鉄が張り巡らされた二十三区内でそんなに駅から離れたところって、あんまり考えられないし。中路さんが言う通り小路に入ってすぐに車は何か綺麗な料亭の前に停車した。
「ええと。懐石、湯島てん……はな?」
「てんげ、だ。入るぞ」
なるほど、懐石料理で、「湯島 天華」という名前のお店。ちょっと待って。予算とか聞いてないからこれ、絶対ヤバいやつじゃない?店の中とか、綺麗な家具?みたいなのが高そうだし、中から出て来た上品そうな仲居さんもすごい恭しげなんだけど。
「安積さま、お待ちしておりました」
いやいや膝ついて礼してるし。完全に最高のおもてなしをするつもりだよこの仲居さんは。僕、めっちゃ普通のスーツで来たよ。ドレスコードとかあるならちゃんと言ってよ!大丈夫?このくたびれサラリーマン風の服装。
えー、靴脱ぐの?そうだよね、ああ普通脱ぐわ、だってここはお座敷だよ。それにしても、僕の作法間違ってない?靴入れていいの?この綺麗な靴箱に?えー、汚れそう。
「ご案内いたします」
「根本」
「へ」
「適当でいい。今は他に客はないから」
一番奥の個室に通された。なんじゃこの屏風は。掛け軸とかかかってるし……個室、って普通の居酒屋の個室とか想像してたけど、立派な和室なんですか。
僕にはもう、わけがわからないよ。
「根本はそっち。今日は私がこっち」
座る席まで指定らしい。よくわからないけど、昔聞いたことによると――出入り口からより遠い僕の方が、この席においては偉いってことかい?
一応言われた通りに座布団に座ったけども。
「えー……もっと普通のところでいいよ、普通の居酒屋がよかった」
「普通の居酒屋?ここは居酒屋ではない?」
いや、ここは高級懐石料理店とか、そういう類のやつで――だめだ、説明する気にもならないね。おっと仲居さん。
なんか早速料理を持ってこられたぞ。なにこれ、いわゆる「お通し」かな?立派すぎるけど。
「なにを飲む、多分言えば大体何でも揃っているはず」
飲み物のメニュー表ですかぁ。分厚い、分厚いって……おすすめは?絶対僕選出のセンスが悪いから、センちゃんと同じやつでいいや。
食べ過ぎだ。これでは、胃もたれ不可避――センちゃんって意外に大喰らいなんだよね。食べ出したら淡々と食べ続け、全部入る。そういう男だった。
「まだ出てくる?」
お品書き――ああまだ全部終わってないや。
「センちゃんってば若いね、胃もたれしないの」
「胃もたれ、か……分からない。出されると出されただけ入ってしまって、あとは……やめておく。ここで言うべきことじゃ、ないな」
「なになに、トイレで出るの?」
「――言わないと言ったのに、お前は……」
「いいじゃん、人間なんだし当然、当然……そうでしょ」
「ああ、そうだけど――ああ、空いてしまった。根本は……まだ終わってないな」
センちゃんは徳利をまた空にした。何杯目だそれ。僕はどっちかというと下戸の方で、君のペースと同じように飲んだら急性アル中であの世行きだよ。
「次、月弓。それから、料理を出すペースを落としてほしい」
「かしこまりました」
仲居さんが来ると毎回緊張するよ。僕が変な粗相をして、坊ちゃんの友人に変なのがいると思われそうで。
坊ちゃん、か――まぁお互い、歳を取ったけど。君ってば、相変わらず黙ってれば絵になるけどねぇ。
「……ん、どうした」
ああそのなに考えてるのか分からない黒い瞳は、誰からもミステリアスだと評された。僕たちの高校一年の頃の担任、覚えてる?松原先生がさ――君のことを、「黙っていれば絵になるけど、話すとポンコツな男」って言ったんだ。本当に、笑った。
「君はあんまり変わらない」
「そうかな」
「僕は変わってしまったかもしれないよ。無邪気な航クンはいなくなってしまったんだ――」
「邪気はないだろう、今も」
「うん、そうかなぁ。そうだと、いいんだけどね……」
「なにを悩んでいる。私がそんなによく気がつく奴じゃないことぐらい知っているだろ。言わないと分からない――聞いて欲しかったら、言うんだな」
「僕にもよくわかんないんだけど」
「……ああ」
「君は、僕が知らない間にお父ちゃんになってたね」
「――うん、そうらしい。もう十二年くらいそうらしい」
「息子は君にとったらやっぱり可愛い?ジャン=ミシェル君は僕も見た。職員室では噂になってるよ、毎日のように。すごい綺麗なのが来たって、特に女の先生が」
「伊織は、母親に似た。私の妻は綺麗だから」
「フランス人の?」
「ああ、綺麗、綺麗――私には勿体無い、美女と野獣……」
また、この人はひどい謙遜をしている。センちゃんは、飲むと少しよく喋る。僕は、自分がなににモヤモヤしているのか言語化できないから、まずは君からいろいろ聞き出したいよ。
「ジャン=ミシェル君は君に似ていると思うけどな」
「……そうか?」
「君と言うか……君のお父ちゃんに似ているのかな。顔を見た時、君のことを思い出したよ。名前見た段階では、君の子にしては大きすぎるかと思ったんだけどさ。顔を見た時、ああこりゃセンちゃんの息子だって判ったよ」
「――似ている、か。そうか」
「うん……なにどうしたの。嬉しいの?」
口元に手を当てている。僕は知ってるよ、ちょっと笑いそうになってる時に、君はいつもそうしていた。
「い、いやそんなことはない。人が見ると違うように見えるのだなと思った――ああ、そうか。顔でバレたのか。ふふふ、はは」
「いやめちゃくちゃ嬉しそうだけど」
「ああ、可愛いよ。あいつは可愛い。私にはずーっと反抗期だ、それなのに時々、少し私に優しい。あれは、根っから優しいのに、冷たいふりをしている。父さんと同じで演技がへたで」
反則だ!なんて言うんだ、それっていうのは――惚気攻撃!今の僕にはその攻撃の効果は抜群だ。
ああなんかぷるぷるしちゃうぞ。どの辺が?僕の胸の辺り?ああもう喋る!喋るぞ!
「僕はね、お父ちゃんになれる自信がないよ。センちゃん、なんでだろうね。僕は無責任なやつだと思うよ。腹なんて一つも痛まない。有香ちゃんが妊娠する前となにも変わらない。ただ、職場に行って帰るだけ。それを繰り返しているうちに、有香ちゃんはどんどん変わっていって――不安になって来た、僕はお父ちゃんになるんだ。でもなれるとも思えない」
「……ふむ」
「家を買ったよ、和光市にわざわざ引っ越して。頭金を義両親に出してもらって。僕はまだ、実家に仕送りをしてる。それはいい、だって世話になったんだから――僕が母校で教師をしている、それは自分だけの力でなったのでは到底、ないんだ……」
「頭金……」
ああ。坊ちゃんには頭金ということが分からない。僕が説明すると、センちゃんは懐から何かメモ帳を出して熱心に書き始めた。
「頭金、か。なるほど、わかった――そういうものがある。それから、お前には、ローンの返済がある。これは、多くの人が家を買う時に、必然的に拵える借金のようなもの……」
頭を抱え、一度ため息をついた後、また涼しい顔に戻ったセンちゃんは、懐にメモを仕舞ってお猪口からさっき注文した「月弓」とかいう酒をぐいっと一飲みした。
「根本。私が記憶しているところによると、お前の父上は――ああそうだ、父上も母上も恙無いか」
「うん、つつがないよ一応……父さんは血圧、ずいぶん高いみたいだけど」
「お前の父上は、確か難治性のうつ病か何かで、仕事を休み休みこなしていた」
「うん、あってる」
「――私は、それは並大抵のことではないと思う。親である者にとって、子に対して情けないと思うことは辛いことだ。私はそれを身をもって知る」
「君は立派なお父ちゃんだよ」
「それは、お前が私を買い被っているんだ。私も不安で仕方がなかった。私は父が私たちにしてくれただけのことを、あの子らにやってあげられるような気がしない。ボーッと生きてきた私は、未だに坊ちゃんと呼ばれ、外に行けば立派だと言われることができる。私は恥ずかしい――何もできない男なのに、私は、なぜかレールに乗せられて、外では立派な紳士だと思われるのが歯がゆい。伊織は偉いんだ。父親が本当は碌でなしなことを知っていて、私を侮る。私は、下の二人が私を慕うときに切ない」
「……う、うん」
センちゃんの喉から滔々と漏れ出る言葉たち。僕はこんな饒舌な君を、初めて見た。
「私はそれでも、伊織からダメ親父と謗られ、和泉や伊吹から盲目的に慕われたいと思う。どうかそれが彼らの本心であってほしい。本心を捻じ曲げて生きることはつらいからだ」
僕が珍しく黙っている。「話すとポンコツ」と言われた彼の言葉は、若い頃、僕にはよく理解できなかった。それはポンコツだからなんかじゃなく、多分彼が深く考えすぎるからなんだろうな。彼の心の深淵を理解できないので、みんなポンコツなんていう結論に達してしまうんだろう。
わ、見られた。なに考えてるかわかんないけど、真っ黒の目が確かに僕を射抜いている。
「……なんだ、お前が話さないと調子が狂うじゃないか?」
「センちゃんが珍しくたくさん話してくれるなって思って見てたよ」
「ふん……酔ってるんだろう。私は家で、酒を飲むなと言われている。一度始めると際限なく飲んでるから、体を壊すと」
「センちゃんが強すぎるんだって」
「自分でも酔ってるのか酔ってないのか分からない……多分酔ってるな、お前が私の話を聞いているなんて異常だ……それで。どうしたらいい、お前の煩悶に付き合ったらいいの?お前は、父親になる自信がないんだな」
「う、うん多分。自信ないっていうか……僕は想像力が欠けてたよ。普通、子どもが生まれるって嬉しいイベントなんでしょ?僕も最初は嬉しいと思ったんだ、これからどんなことがあるんだろうとか想像してさ……でもお腹大きくなるたびに楽しみより、不安が大きくなって来た。有香ちゃんにこんなふうになってること知られたら、幻滅されるんだろうなぁ」
僕はなんとなく有香ちゃんの細い腕なんかを頭に思い浮かべている。僕がこういう頼りない奴だって、バレたくないなぁ。
「変かなぁ。他の人ってこんなふうに思わないのかな?ほら、普通はさ、子どもが生まれるとか嬉しいってなるでしょ。ドラマとかで見るし……なんだろ。僕あんまり真似上手くないよ?でもさ……こうさ」
人がいないと思って、僕は身振り手振りを少し大袈裟に、ドラマにありそうな、奥さんに「妊娠した」ことを告げられた時の夫の反応をやってみた。
まずびっくりした顔からやらないとね!
「――ほんとか?ほんと?まじで!わぁ……嬉しい、嬉しいなぁ……男かな?女かな?君は?君はどっちがいい?俺。俺は……女の子かなぁ!やっぱ娘とか、可愛いだろ!でも男もいいかな!キャッチボールとかしt……痛あっ!」
キャッチボールをする真似をしようとして振った手を下ろすとき、テーブルの縁に思い切り指先をぶつけた!演技が下手、最後の「痛あっ」てところだけ迫真で、そりゃ当たり前――マジで痛かった!
「ぷっ」
痛くて悶絶。無事な方の手で患部を摩り出したら、センちゃんの吹き出す声がした。
「はははははっ、ははは……お前、下手だなぁ!はははっ」
「……わぁめちゃくちゃ笑うじゃん!センちゃん酷っ!めちゃくちゃ笑うじゃん……あははは、あはは……」
センちゃんはツボったみたいで、腹を抱えて襲ってくる腹筋の痛さに耐えているらしい。僕も酔いが回っているせいもあって、センちゃんが笑っているのを見ながら、笑いが込み上げて来て仕方がなかった。笑おうと思って笑ったんじゃない、まるで何か、誰か外からのものに無理やり笑うように仕向けられているような変な感覚。
おっと仲居さん!
「あの……安積さま。次のお料理そろそろ、お持ちしても」
「ふうっ……うん、もって来て」
仲居さんは戻っていきながら肩を震わせて、くすくすと笑っていた。目に皺ができてて、あれは多分――うーん、五十代半ばってところかな。なんて、僕ってば女性の年齢推し量るなんて失礼かもね。センちゃんは突然の仲居さんの登場に我に返ったんだね。涼しい顔でまたお猪口に注いでるや。
「その、へたな演技」
「?」
「私も、似たようなのやったことある。妻の腹が出て来た頃かな……夜に妻が寝た後、眠れなくてな。一人で、コソコソ縁側に行って。お前と同じように下手な猿芝居して……なんでだろ、って月を見上げた」
「なんでだろ、って?」
「なんで生まれたらおめでとうなんだ?誰に対しておめでとうって言ってる?とか……考えてたな」
「あー。確かに。誰に対してなんだろ?」
「親にだろうな……赤子には言ったってわからん。まず、産婦が無事でよかった。次に、その夫が妻を失わないでよかった。その後どんな人間になるか自分でもわからん赤子からしたら、ひどい無責任な祝福だな――傍迷惑な話だよ」
ああセンちゃんの喉にまた酒が落ちていったぞ。また空にした?あーそんな感じみたい。まだ飲むのかい?
仲居さんが料理を運んできた。また何か日本酒注文したよこの人は――僕ももう一杯だけ付き合うことにした。
8
お勘定しないで出て行くから何事かと思ったら、「ツケ」なんだって。僕の飲食分に一体いくら掛かったのか分からないんだけど――恐ろしい、これが上流階級の食事か。
僕の懐から出るお金など要らないということらしい――大学生の時いつも奢られていたのを思い出しちゃう。僕ってば、どれだけセンちゃんの世話になってんだろ。
「あの、中路さん。ほんと、お世話になります」
「お安い御用です」
結構遠いから大丈夫だと言ったのだけど、首都高に乗れば三十分で和光市に行けるから乗れと。僕はついついそのお言葉に甘え、センちゃんを迎えにきた中路さんの車に乗ることになった。
来た時は助手席にいたセンちゃんは後部座席に、僕の右に乗った。
「懐かしいね、昔はこうやって乗ってたよ。僕がこっちで、君がそっちだ。遊んだ帰りによく乗せてもらった」
僕の小平市の実家は、玉川上水が流れる近辺にあり、「首都圏のプチ田舎」と称される市内でもなかなか田舎っぽい場所にある。学生時代にはセンちゃんと遊んで帰る時とか、よく車に乗せてもらった。
あの頃はまだ少年時代だったから、こんなに暗い時間ではなかったけど――ああそうだ、この感じ。懐かしい。もう二十年以上経って変わっただろうに、車窓から見る景色すら、あの頃もこうだったような気がしてきた。でも、今から向かうのは小平じゃなくて、埼玉の和光市なんだな。
ずいぶん時間が経ったのだね。その間に、僕らは大人になったのか。なれているか?
「センちゃん」
「うん」
「僕たちって大人になったかな?」
「――どう思う?」
暗くて君がどんな表情をしているのだか分からないけど、窓の外を見て正反対の方向を見ていた僕らは、顔を見合わせた。
「君は大人だよ。僕はまだ、レベルの低いところで止まってる」
「そうか。多分、私たちは思っているよりずっと近くだ」
「……」
「いや、違うな――近くに居させてくれ。私には、お前くらいしか学生時代の友人がない」
「……なんでだろ?」
「?」
「君は多分、もっと友達できたでしょ。近寄るなオーラっていうの?あれさえ解いていたら、君の周りには人が集まっただろうに、なんで僕みたいなのとばっかり連んだのかなぁ」
「……さぁ」
「僕らって似てないのにね」
「――いや、お前と私は、多分似てる」
「……畏れ多いなぁ!ははは」
君が放課後に教室にいつも残って何かを書いているので、僕は何をしているのか気になって、勇気を出して話しかけた――そしたら隠されて。見ちゃダメなものを見ようとしたことを、僕は謝った。僕は空気が読めなくて、マシンガントーク野郎で、めんどくさい奴だから友達がなかなかできないんだ。
このときも失敗したと思ったけど、君は謝り返した。恥ずかしそうに、何か思うことがあって、物語を書いて悩みを昇華しようとしていると教えてくれた。
次の日からお昼を一緒に食べるようになった。君のはいつも重箱にたくさん綺麗な食べ物が入っていて、淡々とその大きなのを平らげていた。そのうち、僕の家が貧しいのを知ったからか、分けてくれるようになり、半年が過ぎた頃には僕はお弁当を持って行かなくなった。
君の家のお女中さんたちに大きくしてもらったようなもんだね……と言っても、背は低いままだ。センちゃんは見上げるように背が高くなった。何から何まで負けている、それなのに嬉しいんだ。「根本だけいたらじゅうぶん」と言ってくれていたからかな。
僕は君の、飼い犬みたいなもんだったのかも。
飼い犬は、素敵なお嬢さんと結婚して、お父ちゃんになることになった。君はそれを「恙無しや」と気にしてくれるんだろう。おめでとうではなく、無事か、と訊いてくれるんだ。
……………
「――ちゃん。根本の坊ちゃん」
「えっ」
わ、寝てた。ここ、どこ……ああ、家のすぐ近くの公園か。そういや、町名までは事前に言っておいたんだ。
「この近辺ですよね。どちらです?」
「えっと……少し行って、右です」
センちゃんは――あ、寝てる。
なんだ、僕らは中路さんの車に揺られて、寝ていたのか。
「次、突き当たりを左です」
中学の時と何にも変わらないや。小平は遠くって、一時間くらいかかるもんだから、僕もセンちゃんも寝落ちして。センちゃんなんて、眠りが深くって僕が降りる時にも起きないでいたこともあった。
「もうすぐです、ていうか、マンション見えてます」
「この高層階の?」
「そうですそうです、もうここでいいです」
車が止まった。相変わらず優しい運転をするなぁ。あっ――料金払わないでいいのかな。どうしよう、訊いたら却って変な感じ?
「あの、ガソリン代とか」
「要らん」
「あ――起きたの、センちゃん」
「ああ起きた。訊きたいことがある」
「なに?」
「こういう時は、いろいろと入り用だ。何か欲しいものはあるか……用意しておく、誕生祝い」
「え、別にそんな」
これ以上世話になるとか、できないよなぁ。
「私は生まれてくる赤子にはおめでとうとは言えないが、恙無く生まれた時にはお前にはおめでとうを言う」
あ、そういえば、ベビーベッド用意してないや。あれって高いのかな?ちゃんとしたのだと高い?有香ちゃんが昨日見てたベビー用品カタログ、僕もしっかり見とくんだったな。
ちょ、いますれ違った車のライトで見えたけど、眼光が強いよ。何か頼んでくれと言う圧がすごいけど?
「べ、ベビーベッドまだ用意してないね」
「ふっ……私は、人生で最初の寝具のおじさんか。悪くない……用意しておく」
わぁ頼んじゃったよ。大丈夫かなぁ、結婚式のご祝儀袋の時みたいに、予想外なもの届けて来そう。でもまぁいいか。そういうちょっとズレているところがあるのが君だ。
君はズレた男だから、ズレた僕と一緒にいてくれたんだ。
「細君に宜しく」
「うん」
「伊織を宜しく」
「――ああ、うん」
「おやすみ」
胸がいっぱいになった。ああ、こんど学校で君の息子を見たら、僕は変な顔をしてしまいそうだよ。手を振って黒い車が闇の向こうに消えて行くのを見届けながら、反対の手を胸に当てた。
僕の中にあったモヤモヤは、確かに小さくなったように思われた。