センちゃん、あのね
1
根本航(ねもとわたる)。結構凡人、現在三十七歳――ええと。二年ほど前に独身ではなくなった。
「いってらっしゃい」
「うん、有香ちゃんありがとう」
「……航さんって、いつもありがとうって言うよね」
「そうだっけ……そうかも知んない。あはは……いいことだと思ってる。いけないかな」
「ううん、いいことだよ。いってらっしゃい、気をつけて」
妻の有香は新卒からずっとやっていた仕事を休業して産休に入った。身重の体で僕よりも早く起きて、朝食を用意したり、洗濯物を干したりしていたようだ――他方、僕は与太郎のように呑気に寝ていただけだ。感謝の言葉が口をついて出るんだ。
家族が増えるからって買ったマンションのローンは重いといえば重い。中古と言ったって三千万円を超えていた――多分、明細書を幼少時代の僕に見せたら卒倒するんだろうな。わざわざ都心部を避けて埼玉県和光市に移り住んだけど、少しでも新しいのにしようと思ったら結局、高くついたというね。
これは少しばかり余裕のあるらしい義両親が頭金を出してくれたのでものすごく助かった。あとは僕が頑張らなければならない。
まず頑張って駅に辿り着かなければ――ギアチェンジ。
「間に合うかなぁ……あはは」
駅に向かい、自転車を漕ぐ脚が早くも疲れてきた。運動不足だな。
有香ちゃんはよくこんな僕のことを選んだもんだ。
僕は小平市の決して裕福ではない家に生まれた。今でも零細な生活を営む老いた両親が生家に住んでいる。貧乏は祖父が事業に失敗して作った多額の借金のせいと、働き盛りの時に父親がうつ病に罹患して大黒柱なのに短時間勤務しかできなくなったことのダブルパンチによる。僕は両親に少し仕送りをしないといけない。
運が良かったのは、勉強だけは得意だったことと、周りの大人たちがいろいろと助けてくれたこと。よくできるのに貧乏な親類の家の子が可哀想だと言って、裕福だが子がいないという祖母の兄――つまり僕からしたら大伯父になるのかな――が援助をしてくれて、僕の家の世帯収入では到底叶うことがない進路を取ることができた。塾代は両親が必死に工面してくれた。たまには姉ちゃんのバイト代なんかが上乗せされていたらしい。
感謝しても仕切れないね。
親戚の中では我が一族始まって以来の――だなんて言われていた僕だったけども、入学した日本屈指の進学校だった中高では凡人であり、その後入学した東大でも平凡の代表のような成績だった。そして今は、母校の数学教員をしているしがない「おじさん」になった。
駐輪場にやや雑に自転車を停め、再びダッシュだ。僕は今日、遅刻するわけにはいかない――いや、ほとんど遅刻なんてしないよ。そうだな……月に一、二回遅刻して、滑り込みアウトになった職員室で「またお前か」って笑われる程度さ。
でも今日は、我が校の入学式なんだ。しかも今年は新中学一年の担任の役回り。そんな重要な役目を仰つかつっておきながら、入学式に遅刻とはありえない。新入生たちが僕の遅刻の一部始終を見ていないとしても、お天道様に見られている――という感じがする。
「ぜぇ……ぜぇ……やった!これは間に合う」
東武東上線。ホームに辿り着くとほぼ同時に、目当ての電車がやってきた。この後は都心に向かうサラリーマンたちの群れに揉まれ、池袋で乗り換えて西日暮里まで。
息を整えつつ、痴漢に間違われたらイヤだなぁとすぐ近くに立っている女子高生をチラ見して、視線を僅かに見える窓の外に定めた――そう、僕はどっちかと言えば背が低い。
身長ダメ、見た目多分普通、学歴はよし、収入は並の上程度、性格は――わかんないけど多分お喋りでうざったい!年齢は、決して若くない。いわゆる婚活市場だと――どうだろう。僕の予想では多分、釣り書きの段階では学歴と収入の部分でOKを出されても、実際会ったら三度目までにFOされる。そんな男だと思う。
結婚とかもう無理っすよ、と言って飲み会でいつも苦笑いしていた。伴侶を全く欲しくないと思うわけではなかったけど、十八からずっと一人暮らししていて、三十を回ってもう人生の半分近くを家族なしで暮らすようになったら、その生活に慣れが生じ、もうどうでもいいと思いつつあった。そんな時に急に、久しぶりに顔を出した学会で修士課程の時の先輩に声をかけられて、三歳年下の女性との見合い話が降って湧いた。それが有香ちゃんだったというわけ。
とんとん拍子で話が進んで一年もしないうちに独身じゃなくなった。今でも僕の身の上に起こったことが整理できないくらい、怒涛の展開だった。
そしてもうすぐお父ちゃんになるって?――うーん、なんていうんだろう。男なのに僕って若干、マタニティブルー。
なんでだろう。最初は嬉しかったんだけど、有香ちゃんのお腹が大きくなるたびに、当たり前のようだけども、僕がお父ちゃんになるということが現実味を増していく。エコー写真の像が人間に近づくたびに、喜びと同時に不安が頭を擡げ出す。
ああこれではいけないから、いいことを考えよう。多分娘なんだよ――僕のところに生まれるのは、エコーを見た医師の判定によれば女の子だ。僕はそれを知ってから、生徒たちを見ると思うようになった。うちは男子校だから、男だらけ。こいつには娘を嫁に出したくないな、とか。この子なら合格点だ、とか。そういう変な目で生徒らを見ることになるとは思わなかったけど、これはちょっと楽しい。性格、悪いかな。ごめんね、僕の良心のために、本人たちに謝る代わりにお天道様に謝っておくよ。
それにしても四月の晴れた空は、爽やかだなぁ――。
2
「今年の入学式は多少レイアウトが例年と違っているので――」
「何か、質問のある方はー」
やっぱり、電車の時間もう一本早めたほうがいいかなぁー。
西日暮里で降りてから学校まで走るもんだから、朝の職員会議の時間は大体まだ呼吸が整っていないんだよね。隣の小西先生に変な顔されたら、どうしよー。
おっ、今年度の新入生名簿が改めて配られた。と言っても、誰が誰だか分からない名前の羅列だからなぁー。一応、僕が担任する生徒たちの名前はあらかじめ全部確認して、ざっくり覚えたんだけど。新入生だけで三百人いるから全員は無理。一通り目を通してキラキラネームとか探してみるんだけど、うちの学校は進学校だから珍しいんだよね。変わった名前はごく稀だよ。
おっ、今年もまたカタカナ名前がいるな。一年四組の出席名簿最初。例年、外資系とか外交官の息子とかでハーフらしき子が一人くらいはいるのだけど。この子は特に、名前が長いなぁ……安積ジャン=ミシェル伊織?安積――安積、かぁ。
あさか?あづみ?どっちだろう。前者なら、僕もその苗字のやつは知ってるぞ。でも息子じゃないよね――うーん、息子だとしたら、センちゃんは博士課程に行ってたし、逆算したら学生の時に産まれたことになるよね。結婚したって聞いてないし、多分違うんだろう。
「このジャン=ミシェル伊織君って名前長いですねぇ」
やっぱり目立つよね。他の教員も言ってるや。
「パパかママがフランス人なんでしょうね。それはフランス語の名前です」
なるほど、世界史教員は外国の名前に詳しいなぁ。
うーん。こりゃ、読みはあづみではないな――蘆田君と言う子のほうが名簿が後だ。この子の苗字を「あさか」って読むのは間違いない。
「あさか、かぁ」
僕の脳裏には十代から二十代の前半にかけて親しくした美青年の顔が浮かんでいるのだけど、奴は自分のことを多く語りたがらず、果たして結婚したのかどうかすら知らない。いまだに僕は彼のことを親友だと信じて疑わないが、ここ数年は年賀状の往復と、年に数回長電話するだけ――しかも、僕が一方的に話すだけの異様な通話。
職員会議終わり。あとは入学式の開始を待つだけで……僕が担任になる一年五組の名簿を見直すか。えっと、出席番号一番、安藤蒼介……。
「――せんせい。根本先生」
「ひゃっ!は、はい?」
まずいまたボーッとしてた。学年主任の田所先生(ちなみに国語科担当)が僕を向かい側の席から見て、眼鏡の奥から鋭い目線を向けてきてる。縮み上がったよ。
「あなた、中一生の担任二回目ですわね」
「は、はい二巡目です」
だいたい学年ごと持ち上がっていくので、そのようになる。最初の数年は副担任をしていたので、僕は昨年卒業生を初めて送り出した。
「期待しております」
「はぁ……」
その含みを持たせた笑顔、怖いんだよねぇ。なんて言うんだろう、昔ドラマで見たような、典型的な口うるさくて怖い女の先生って感じなんだ。
一年生のクラス担任として壇上で挨拶したが、全体としてミスったと言える出来だ。
何回噛んだかなぁー。六年前のほうが良くできたんじゃないかなぁー。今度は教室で挨拶しないといけないんだ、まだこっちのがましだけど、保護者の距離が近いのがまずい。だいたい、入学するだけでも栄誉あるとされる超・進学校魁星中学なので、両親とも揃って来ている子が多いんだもの。威圧感、二倍増しよ。
「みなさん今日はたくさん教科書を持ち帰ってもらうことになりますけど、うちの授業では、ほとんど教科書を使って授業をすることはありません――」
ほとんどレジュメ作って印刷だよ。奉職して最初の頃は地獄だった、レジュメを一から作らないといけないんだから――教科書通りに進めたらこの子達は賢すぎて「ちんたら」した授業だと感じてしまうらしい。とはいえ落ちこぼれる子も出てくるので、油断は禁物で。天才児を扱うのも一筋縄ではいかない。彼らは思った以上に繊細――僕もここの卒業生だけど、おおらかだったので全然気が付かなかった。
「ま、教科書をどのくらい使うかは先生によりますので、各教科、あらかじめ配られたシラバスを熟読してください。紙袋の中に入っているピンクの表紙のやつがそうですね。ちなみに僕は数学担当ですが、ほとんど使いません。毎回要点と練習問題の書かれた紙を配っています。教科書は予習にでも用いてください」
早速ぼやぼやしてる奴、ど緊張してる奴、そわそわしている奴、いろんなのがいる。面白いなぁ。まだ小学生から抜け出したばかりの彼らは、可能性の塊。どれだけ頭良くっても、まだ十二年しか生きていない小さい身体に成長途上の脳を持つ。
緊張の自己紹介タイムに、写真撮影をこなせばあとはサヨウナラだ。そして、また明日だ。中学一年のチビたちを相手にする慌ただしい日々が始まる。
3
翌日、まだ本格的に授業開始ではない。ガイダンスに、在校生との対面式と部活動紹介、ホームルーム。
早い放課――まともに授業が開始されるのは明日から。
終わった終わった。同じ小学校から来ているごく少数の連中が連んで帰るが、まだ生徒同士はぎこちない。パラパラと教室を後にしていく――このあとは、帰るもよし、興味のある部活動の部室を覗くもよしだ。
さすがにまだ新学期開始したばかり、もう少し教室に居残ろうと黒板をちんたらと掃除していると、一人の生徒が右手の方の席から、僕のもとへと歩いてやって来た。
「せんせー」
「ん、君は確か……んーと」
来たな美少年!
そう、別に僕は少年愛者ではないんだ。でも、艶々の髪を長く伸ばした――いわゆる「おかっぱ」頭の、美少女と間違えるような色白の子がいたので、この子の顔だけは昨日のうちに脳裏に焼きついた。
「か」
「……笠井」
「うん。で?」
「岳(がく)……だっけ?合ってる?」
好奇心いっぱいの目で見上げてくるねぇ。そのにやにやした顔はやめてくれないか――間違ったんじゃないかとヒヤヒヤする。
「せいかい」
「よかった。笠井岳君ね。どうした」
「先生どこに住んでるの?」
やたらと馴れ馴れしいぞ。なんだろうこの、人を食ったような態度は。それでいて、こういう小生意気な態度は似合っていて、嫌な気がしないのは――やっぱり可愛いからなのかもしれない。悔しいが。
「和光市。分かる?埼玉」
「ん、あー。あるね、和光市。行ったことない」
「そりゃ、別に何もないからな……笠井はどこに住んでる?」
「半蔵門ー」
半蔵門!超一等地じゃないか。親は何してる人だろう――いや、この学校には裕福な家の子が多いので、驚くべきことではないのかもしれないが。半蔵門は、ちょっとたまげるな。
「でも帰ったら一人なんだ」
「……あ、そう?お父ちゃんもお母ちゃんも忙しい?」
「ん、いや?俺は母子家庭」
――あ、そうか。クラスの子達の入学資料を見ていたら、確かそんな子、一人いた気がする。君だったのか……親が揃っていない子ってこの学校だと珍しいんだよなぁ。
詳しい事情は知らないが。離婚、死別――または未婚の母?とはいえ、そんな細かい事情をずけずけと聞けるものでなく、間を持たせようとして僕はチョークを全部しまった。
「一人っ子?」
「うん、そうー」
一人っ子で、お父ちゃんもいないのか。なら、僕にまとわりついて来たのも寂しいからかな?とはいえ僕にはまだ、子どもが生まれていないんだけども。マイナス二ヶ月児が有香ちゃんのお腹の中にいるけど、それは父親となったとはまだ言えない。間違った意味の方の役不足だぞ。
「部活の見学でも行ったら?お兄ちゃんができるかもね」
「そうかもね」
「小学校は……麹町?」
「うん」
「麹町小の子、他にもいたろ?名前……忘れたけど」
「ん、悠貴とかいるけど、もうテニス部見にいくって行っちゃったし。俺、暇。なんか手伝うことない?」
「部活は?」
「んー。まだいっかなー」
「習い事とか」
「別にやってないし……俺は家ではいつもギター弾いてんの……けっこう上手くできる」
ギター弾き鳴らす真似。エアギター、様になってるな。こりゃ、かなりの弾き手に違いない。
「軽音楽部行ったら?」
「一人でぇ?あれはグループ組んで行くもんじゃないのか?」
「そんなもん?行ってみたら誰かいて、チームができるかも知れないじゃないか。どこだっけ、軽音楽部の部室……連れて行ってやろうか」
教卓に放置していた部活動紹介の冊子を捲り、「軽音楽部」のページを開いた。中学視聴覚室――ああ確かに、あの辺からそんな音してたな。でも防音効いてる部屋だから微かだけれど。
「視聴覚室。職員室行くついでに一緒に行くか」
「仕方ないな、ついていってやるよ、せんせ」
「……いや、僕だけどね?ついていってあげるのは」
「冗談」
一人の美少年、視聴覚室ご案内。いや、昨年度まで大人並みに育った高三生の相手をしていたから、隣をパタパタ歩く軽い足音がなんとも可愛らしい。この子も、五年くらいしたら大きく育っちゃうんだろうなぁ。みーんなだいたい、僕より大きくなってしまう。笠井、君は女泣かせの青年に成長するのかな。ここ、男子校だけど。
視聴覚室のドアの前まで来た。
「さ、ここだよ――ほら、人の気配がするし大丈夫だ」
「うん、先生。ありがと」
アイドルみたいな笑顔を向けて扉の向こうに消えて行った。なんだろうかあの透明感と、ちょっとアブナイ感じ。
アブナイ――この危なさを一体、どこから感じているのかはわからない。どこかこの世のものではないような、喩えて言うならば――妖精とか、妖(あやかし)とか、そういうのに近い何かを今日の笠井からは感じた。
ちょっと校内をぐるっと回って新入生たちが困っていないか見張りつつ、実は視聴覚室とは全然違う方向である職員室に戻ろう。
4
弦楽器の音、か。
僕は音楽にはさほど詳しくない。だが、その聞こえてくる音が美しいか醜いかくらいは判断できる耳くらいは持っている。音楽室に近づくに連れて、その音が空気を振動させるのが手に取るようにわかってきた。
これは、並大抵の弾き手ではない!
これまでこんなに華やかな音色を奏でる生徒がいただろうか。そりゃ、我が校の管弦楽部は文化祭の花形。昨日も入学式では祝典行進曲を高らかに響かせて花を添えてくれた。多分、ヴァイオリンの弾き手もいいのが揃っている――と、素人の僕は思っている。が、この音はちょっと、聞いたことがない。
僕は音楽室の前で足を止めた。何人かの野次馬が集っていて、その中には音楽教諭の大河内先生がいた。顧問のはずなのになかなか中に入ろうとしない。
東京音大を出て、オーケストラの指揮を至る所で任されている、教諭というより音楽家。先生はただ気むずかしげに腕を組んで、半開きとなった音楽室の扉の前に立っていた。
その後ろに、演奏に聞き入る生徒数人。管弦楽部の生徒たちだろうか?一人だけ知っている子がいる――けど名前まで知らない。ちょっと声をかけてみた。
「これ有名な曲なの?」
「たぶん、サラサーテのツィゴネルワイゼンかと……」
「誰が弾いてるの」
「新入生です」
「はぁ……そうなんだ?」
僕が呑気な感嘆を発した時、演奏が終わった。しん、と空気が振動をやめた瞬間、さっき演奏が聞こえ出した時と別の意味での衝撃を感じた。ああ、静けさって、こんなものだったのだっけ。
「素晴らしい!」
「!」
大河内先生が大きな拍手をして、音楽室の扉を開け放って入って行った。僕は他の何人かと一緒に中の様子を覗き見た。
「あの子が……?」
大河内先生は学生時代に欧州に留学しており、指揮を務めた後にコンサートマスターのヴァイオリン奏者に派手な握手をする癖がある。それと同じ手つきで、まだ幼さの残る少年の手を両手で握り、ぶんぶんと振っていた。ヴァイオリンは隣に佇んでいる上級生のものだったらしく、そっと回収された。
呆気に取られた様子で熱い握手をされる少年の顔を僕は見た。
あれは――日本人じゃない。綺麗な外国の少年。綺麗――と一言で言い表してもいいのだろうか。前の方に向かって長くなるように整えられた髪の色は日本人にはちょっといないほど茶色く、目の色も僕は遠目でわからないが多分、黒くない。何か明らかに淡い。彼はぎこちなく笑みを作り、自分より背の高い教諭を見上げて恭しげに挨拶をしている。堂々たる演奏をしていたのが嘘のように、恥ずかしそうに少し頬を赤くしている。
誰かに似ている。僕は、あんな外国人の――いや、国籍は日本なのかも知れない、けれど外国人に見える――あんな外国人の知り合い、いただろうか。
学生の時の指導教員は、ロシア人だったが。僕が出会った時に、すでにそれなりの年齢になっていた。もっと若い、あの子とそう変わらない歳の、少年の面影が僕の脳裏に過っていた。
「――センちゃん?」
安積千理――僕がセンちゃんと呼んでいた、この学舎で出会った唯一無二の親友(たぶん。僕だけが思ってるのかも知れないけど)。日露ハーフであまり日本人らしくないカッコいい父さんと、みんなが羨む美貌の、そして優しい母親を持っていた。ああそうか、センちゃん。黒髪に黒目を持っていたが、君の顔は、確かにどことなく異国の香りがした。
5
「おかえり、はやかったね」
「有香ちゃん。ただいま――今日は、お腹張らなかった?」
「大丈夫、大丈夫……今日は、ゆっくりしていたから」
ゆっくり――と言いつつ、手抜きをしているように見えない料理の途中。
カレンダーには、明日の欄に「検診」と丹念な文字で書かれている。僕は仕事で着いて行くことができないけど、病院は近いし、タクシーを使っても構わないと言ってあるし。
「何か手伝うよ……えっと?」
足手纏いか。でも何かやりたいんだ――ああ唐揚げなの!最高、最高……もうほとんどできているようなので、食器棚から食器を一律取り出すことにした。
「唐揚げってどのお皿がいいー?青い花柄のやつ?」
「航さんありがとう。それでいいよ」
「うんうん。わかった」
「いたた」
「え」
ふらりと椅子に座り込む。お腹を抑えて――ああきっと、お腹が張ったのだ。有香ちゃんがこういう時にどういう痛さなのか、僕には皆目見当つかない。
「大丈夫?」
「うん……ちょっと、休むね。ごめんね……たぶん少ししたら、おさまるやつだから」
脂汗が浮き出ているよ。なんてこった――その苦しさを、僕が少しでも請け負えるといいのだが、まったく傷まない僕の腹よ。
「えっと……と、とりあえずお味噌汁あっためて、お椀に入れる、よ」
「ありがと」
こんなんでいいんだろうか?よくわらかない。役立たず亭主かな?でも、こういうときにお腹を撫でたら却ってダメだと、こないだ言われた。
そこはかとない罪悪感というか自己嫌悪というか――そんなものが頭にやってきて、僕はコンロの前で首を横に振った。
お父ちゃんはしっかりものでなければ、子どもは不安なのだ。これは、心の病で思い切り働くことが無理だった僕のお父ちゃんがいつも、僕と姉さんに謝っていたことなんだ。
有香ちゃんのお腹の異変は、僕がバタバタとダイニングで動いているうちに和らいで行った。少しいつもより遅くなったけど、二人で揃って食卓を囲んだ。
「うん、美味しい。航さんがあっため直してくれて、よかった」
「そんなこと、ないよ。僕なんにもしてないし、役に立ってない……ごめんね」
「どうして。大丈夫だよ……航さん、元気ない?どうしたの」
「えっ。いや?そんなことないよ。元気。まぁちょっとね。一年生の担任って疲れるんだ――まぁまだ二日目で何言ってんのって話だよね。これから、大過なくすぎれば六年の付き合いだ――」
口をつけたお味噌汁は確かに暖かい。唐揚げは、外はカリッとして中は肉汁がたくさんで美味い。僕の実家の家庭菜園で採れたって言って、お母ちゃんが最近送ってきた春キャベツは変わらない味。
なんの心配もない。有香ちゃんのお腹は無事、明日は検診で、お腹の子が元気なことが確認されるはず。
僕は何かに引っかかっている――なんだろう、この憂鬱?男のマタニティブルーかい?
「ねぇ、航さん。一年生って、可愛いでしょ?まだ小学生上がりたてだもんね」
「今日、新入生の中にすごくヴァイオリンが上手い子がいて。音楽室の前で聴き入っちゃった」
「そう」
「誰かに似てると思って。僕の親友に似てて――それが、苗字も同じなんだけど」
「……それ息子なんじゃないの?親友、って……あの着物の人?」
「そう、そう……」
「安藤さん、だっけ?」
センちゃんは二年前、僕の結婚式に来てくれた。いつもと違う色付きのメガネをかけて、ちょっと変だった。僕は見た途端に笑いそうになったけど、僕の笑いを堪えた顔を見てきょとんとした顔をしてた。
式が終わると、僕に挨拶に来てすぐに帰って行った。
安積千理の名を出したくないので、偽名で「安藤芳典」がいいと頼んできて――誰だよ。異様に分厚い御祝儀袋にまでご丁寧に「安藤芳典」、しかも書道家のお母さんの美しい揮毫で。有香ちゃんは、センちゃんのことをいまだに「富豪の安藤さん」だと思っている。
仕方がない、ちょっと有名人だから。
「でもさ、結婚したとも知らないし、まさかもう中学一年になる息子がいるとか、聞いてないからなぁ……」
「安藤さんって何者なの?」
「教えると嫌がるからなぁ……」
「そうなの。航さんは知ってるんだ」
「そりゃ、中学からの仲だからねぇ」
「男子校って、なんかいいね。女には入り込めない熱い友情っていうか……いや、あの人のは、なんか熱くはなさそうだけど」
「そう、そう。熱くない。なんだろう……ドライアイスみたいな奴だよ」
「なにそれ、へんなの」
僕にもよくわかんない。気がついたら霧のように消えてる、そういう男なんだ。
根本航(ねもとわたる)。結構凡人、現在三十七歳――ええと。二年ほど前に独身ではなくなった。
「いってらっしゃい」
「うん、有香ちゃんありがとう」
「……航さんって、いつもありがとうって言うよね」
「そうだっけ……そうかも知んない。あはは……いいことだと思ってる。いけないかな」
「ううん、いいことだよ。いってらっしゃい、気をつけて」
妻の有香は新卒からずっとやっていた仕事を休業して産休に入った。身重の体で僕よりも早く起きて、朝食を用意したり、洗濯物を干したりしていたようだ――他方、僕は与太郎のように呑気に寝ていただけだ。感謝の言葉が口をついて出るんだ。
家族が増えるからって買ったマンションのローンは重いといえば重い。中古と言ったって三千万円を超えていた――多分、明細書を幼少時代の僕に見せたら卒倒するんだろうな。わざわざ都心部を避けて埼玉県和光市に移り住んだけど、少しでも新しいのにしようと思ったら結局、高くついたというね。
これは少しばかり余裕のあるらしい義両親が頭金を出してくれたのでものすごく助かった。あとは僕が頑張らなければならない。
まず頑張って駅に辿り着かなければ――ギアチェンジ。
「間に合うかなぁ……あはは」
駅に向かい、自転車を漕ぐ脚が早くも疲れてきた。運動不足だな。
有香ちゃんはよくこんな僕のことを選んだもんだ。
僕は小平市の決して裕福ではない家に生まれた。今でも零細な生活を営む老いた両親が生家に住んでいる。貧乏は祖父が事業に失敗して作った多額の借金のせいと、働き盛りの時に父親がうつ病に罹患して大黒柱なのに短時間勤務しかできなくなったことのダブルパンチによる。僕は両親に少し仕送りをしないといけない。
運が良かったのは、勉強だけは得意だったことと、周りの大人たちがいろいろと助けてくれたこと。よくできるのに貧乏な親類の家の子が可哀想だと言って、裕福だが子がいないという祖母の兄――つまり僕からしたら大伯父になるのかな――が援助をしてくれて、僕の家の世帯収入では到底叶うことがない進路を取ることができた。塾代は両親が必死に工面してくれた。たまには姉ちゃんのバイト代なんかが上乗せされていたらしい。
感謝しても仕切れないね。
親戚の中では我が一族始まって以来の――だなんて言われていた僕だったけども、入学した日本屈指の進学校だった中高では凡人であり、その後入学した東大でも平凡の代表のような成績だった。そして今は、母校の数学教員をしているしがない「おじさん」になった。
駐輪場にやや雑に自転車を停め、再びダッシュだ。僕は今日、遅刻するわけにはいかない――いや、ほとんど遅刻なんてしないよ。そうだな……月に一、二回遅刻して、滑り込みアウトになった職員室で「またお前か」って笑われる程度さ。
でも今日は、我が校の入学式なんだ。しかも今年は新中学一年の担任の役回り。そんな重要な役目を仰つかつっておきながら、入学式に遅刻とはありえない。新入生たちが僕の遅刻の一部始終を見ていないとしても、お天道様に見られている――という感じがする。
「ぜぇ……ぜぇ……やった!これは間に合う」
東武東上線。ホームに辿り着くとほぼ同時に、目当ての電車がやってきた。この後は都心に向かうサラリーマンたちの群れに揉まれ、池袋で乗り換えて西日暮里まで。
息を整えつつ、痴漢に間違われたらイヤだなぁとすぐ近くに立っている女子高生をチラ見して、視線を僅かに見える窓の外に定めた――そう、僕はどっちかと言えば背が低い。
身長ダメ、見た目多分普通、学歴はよし、収入は並の上程度、性格は――わかんないけど多分お喋りでうざったい!年齢は、決して若くない。いわゆる婚活市場だと――どうだろう。僕の予想では多分、釣り書きの段階では学歴と収入の部分でOKを出されても、実際会ったら三度目までにFOされる。そんな男だと思う。
結婚とかもう無理っすよ、と言って飲み会でいつも苦笑いしていた。伴侶を全く欲しくないと思うわけではなかったけど、十八からずっと一人暮らししていて、三十を回ってもう人生の半分近くを家族なしで暮らすようになったら、その生活に慣れが生じ、もうどうでもいいと思いつつあった。そんな時に急に、久しぶりに顔を出した学会で修士課程の時の先輩に声をかけられて、三歳年下の女性との見合い話が降って湧いた。それが有香ちゃんだったというわけ。
とんとん拍子で話が進んで一年もしないうちに独身じゃなくなった。今でも僕の身の上に起こったことが整理できないくらい、怒涛の展開だった。
そしてもうすぐお父ちゃんになるって?――うーん、なんていうんだろう。男なのに僕って若干、マタニティブルー。
なんでだろう。最初は嬉しかったんだけど、有香ちゃんのお腹が大きくなるたびに、当たり前のようだけども、僕がお父ちゃんになるということが現実味を増していく。エコー写真の像が人間に近づくたびに、喜びと同時に不安が頭を擡げ出す。
ああこれではいけないから、いいことを考えよう。多分娘なんだよ――僕のところに生まれるのは、エコーを見た医師の判定によれば女の子だ。僕はそれを知ってから、生徒たちを見ると思うようになった。うちは男子校だから、男だらけ。こいつには娘を嫁に出したくないな、とか。この子なら合格点だ、とか。そういう変な目で生徒らを見ることになるとは思わなかったけど、これはちょっと楽しい。性格、悪いかな。ごめんね、僕の良心のために、本人たちに謝る代わりにお天道様に謝っておくよ。
それにしても四月の晴れた空は、爽やかだなぁ――。
2
「今年の入学式は多少レイアウトが例年と違っているので――」
「何か、質問のある方はー」
やっぱり、電車の時間もう一本早めたほうがいいかなぁー。
西日暮里で降りてから学校まで走るもんだから、朝の職員会議の時間は大体まだ呼吸が整っていないんだよね。隣の小西先生に変な顔されたら、どうしよー。
おっ、今年度の新入生名簿が改めて配られた。と言っても、誰が誰だか分からない名前の羅列だからなぁー。一応、僕が担任する生徒たちの名前はあらかじめ全部確認して、ざっくり覚えたんだけど。新入生だけで三百人いるから全員は無理。一通り目を通してキラキラネームとか探してみるんだけど、うちの学校は進学校だから珍しいんだよね。変わった名前はごく稀だよ。
おっ、今年もまたカタカナ名前がいるな。一年四組の出席名簿最初。例年、外資系とか外交官の息子とかでハーフらしき子が一人くらいはいるのだけど。この子は特に、名前が長いなぁ……安積ジャン=ミシェル伊織?安積――安積、かぁ。
あさか?あづみ?どっちだろう。前者なら、僕もその苗字のやつは知ってるぞ。でも息子じゃないよね――うーん、息子だとしたら、センちゃんは博士課程に行ってたし、逆算したら学生の時に産まれたことになるよね。結婚したって聞いてないし、多分違うんだろう。
「このジャン=ミシェル伊織君って名前長いですねぇ」
やっぱり目立つよね。他の教員も言ってるや。
「パパかママがフランス人なんでしょうね。それはフランス語の名前です」
なるほど、世界史教員は外国の名前に詳しいなぁ。
うーん。こりゃ、読みはあづみではないな――蘆田君と言う子のほうが名簿が後だ。この子の苗字を「あさか」って読むのは間違いない。
「あさか、かぁ」
僕の脳裏には十代から二十代の前半にかけて親しくした美青年の顔が浮かんでいるのだけど、奴は自分のことを多く語りたがらず、果たして結婚したのかどうかすら知らない。いまだに僕は彼のことを親友だと信じて疑わないが、ここ数年は年賀状の往復と、年に数回長電話するだけ――しかも、僕が一方的に話すだけの異様な通話。
職員会議終わり。あとは入学式の開始を待つだけで……僕が担任になる一年五組の名簿を見直すか。えっと、出席番号一番、安藤蒼介……。
「――せんせい。根本先生」
「ひゃっ!は、はい?」
まずいまたボーッとしてた。学年主任の田所先生(ちなみに国語科担当)が僕を向かい側の席から見て、眼鏡の奥から鋭い目線を向けてきてる。縮み上がったよ。
「あなた、中一生の担任二回目ですわね」
「は、はい二巡目です」
だいたい学年ごと持ち上がっていくので、そのようになる。最初の数年は副担任をしていたので、僕は昨年卒業生を初めて送り出した。
「期待しております」
「はぁ……」
その含みを持たせた笑顔、怖いんだよねぇ。なんて言うんだろう、昔ドラマで見たような、典型的な口うるさくて怖い女の先生って感じなんだ。
一年生のクラス担任として壇上で挨拶したが、全体としてミスったと言える出来だ。
何回噛んだかなぁー。六年前のほうが良くできたんじゃないかなぁー。今度は教室で挨拶しないといけないんだ、まだこっちのがましだけど、保護者の距離が近いのがまずい。だいたい、入学するだけでも栄誉あるとされる超・進学校魁星中学なので、両親とも揃って来ている子が多いんだもの。威圧感、二倍増しよ。
「みなさん今日はたくさん教科書を持ち帰ってもらうことになりますけど、うちの授業では、ほとんど教科書を使って授業をすることはありません――」
ほとんどレジュメ作って印刷だよ。奉職して最初の頃は地獄だった、レジュメを一から作らないといけないんだから――教科書通りに進めたらこの子達は賢すぎて「ちんたら」した授業だと感じてしまうらしい。とはいえ落ちこぼれる子も出てくるので、油断は禁物で。天才児を扱うのも一筋縄ではいかない。彼らは思った以上に繊細――僕もここの卒業生だけど、おおらかだったので全然気が付かなかった。
「ま、教科書をどのくらい使うかは先生によりますので、各教科、あらかじめ配られたシラバスを熟読してください。紙袋の中に入っているピンクの表紙のやつがそうですね。ちなみに僕は数学担当ですが、ほとんど使いません。毎回要点と練習問題の書かれた紙を配っています。教科書は予習にでも用いてください」
早速ぼやぼやしてる奴、ど緊張してる奴、そわそわしている奴、いろんなのがいる。面白いなぁ。まだ小学生から抜け出したばかりの彼らは、可能性の塊。どれだけ頭良くっても、まだ十二年しか生きていない小さい身体に成長途上の脳を持つ。
緊張の自己紹介タイムに、写真撮影をこなせばあとはサヨウナラだ。そして、また明日だ。中学一年のチビたちを相手にする慌ただしい日々が始まる。
3
翌日、まだ本格的に授業開始ではない。ガイダンスに、在校生との対面式と部活動紹介、ホームルーム。
早い放課――まともに授業が開始されるのは明日から。
終わった終わった。同じ小学校から来ているごく少数の連中が連んで帰るが、まだ生徒同士はぎこちない。パラパラと教室を後にしていく――このあとは、帰るもよし、興味のある部活動の部室を覗くもよしだ。
さすがにまだ新学期開始したばかり、もう少し教室に居残ろうと黒板をちんたらと掃除していると、一人の生徒が右手の方の席から、僕のもとへと歩いてやって来た。
「せんせー」
「ん、君は確か……んーと」
来たな美少年!
そう、別に僕は少年愛者ではないんだ。でも、艶々の髪を長く伸ばした――いわゆる「おかっぱ」頭の、美少女と間違えるような色白の子がいたので、この子の顔だけは昨日のうちに脳裏に焼きついた。
「か」
「……笠井」
「うん。で?」
「岳(がく)……だっけ?合ってる?」
好奇心いっぱいの目で見上げてくるねぇ。そのにやにやした顔はやめてくれないか――間違ったんじゃないかとヒヤヒヤする。
「せいかい」
「よかった。笠井岳君ね。どうした」
「先生どこに住んでるの?」
やたらと馴れ馴れしいぞ。なんだろうこの、人を食ったような態度は。それでいて、こういう小生意気な態度は似合っていて、嫌な気がしないのは――やっぱり可愛いからなのかもしれない。悔しいが。
「和光市。分かる?埼玉」
「ん、あー。あるね、和光市。行ったことない」
「そりゃ、別に何もないからな……笠井はどこに住んでる?」
「半蔵門ー」
半蔵門!超一等地じゃないか。親は何してる人だろう――いや、この学校には裕福な家の子が多いので、驚くべきことではないのかもしれないが。半蔵門は、ちょっとたまげるな。
「でも帰ったら一人なんだ」
「……あ、そう?お父ちゃんもお母ちゃんも忙しい?」
「ん、いや?俺は母子家庭」
――あ、そうか。クラスの子達の入学資料を見ていたら、確かそんな子、一人いた気がする。君だったのか……親が揃っていない子ってこの学校だと珍しいんだよなぁ。
詳しい事情は知らないが。離婚、死別――または未婚の母?とはいえ、そんな細かい事情をずけずけと聞けるものでなく、間を持たせようとして僕はチョークを全部しまった。
「一人っ子?」
「うん、そうー」
一人っ子で、お父ちゃんもいないのか。なら、僕にまとわりついて来たのも寂しいからかな?とはいえ僕にはまだ、子どもが生まれていないんだけども。マイナス二ヶ月児が有香ちゃんのお腹の中にいるけど、それは父親となったとはまだ言えない。間違った意味の方の役不足だぞ。
「部活の見学でも行ったら?お兄ちゃんができるかもね」
「そうかもね」
「小学校は……麹町?」
「うん」
「麹町小の子、他にもいたろ?名前……忘れたけど」
「ん、悠貴とかいるけど、もうテニス部見にいくって行っちゃったし。俺、暇。なんか手伝うことない?」
「部活は?」
「んー。まだいっかなー」
「習い事とか」
「別にやってないし……俺は家ではいつもギター弾いてんの……けっこう上手くできる」
ギター弾き鳴らす真似。エアギター、様になってるな。こりゃ、かなりの弾き手に違いない。
「軽音楽部行ったら?」
「一人でぇ?あれはグループ組んで行くもんじゃないのか?」
「そんなもん?行ってみたら誰かいて、チームができるかも知れないじゃないか。どこだっけ、軽音楽部の部室……連れて行ってやろうか」
教卓に放置していた部活動紹介の冊子を捲り、「軽音楽部」のページを開いた。中学視聴覚室――ああ確かに、あの辺からそんな音してたな。でも防音効いてる部屋だから微かだけれど。
「視聴覚室。職員室行くついでに一緒に行くか」
「仕方ないな、ついていってやるよ、せんせ」
「……いや、僕だけどね?ついていってあげるのは」
「冗談」
一人の美少年、視聴覚室ご案内。いや、昨年度まで大人並みに育った高三生の相手をしていたから、隣をパタパタ歩く軽い足音がなんとも可愛らしい。この子も、五年くらいしたら大きく育っちゃうんだろうなぁ。みーんなだいたい、僕より大きくなってしまう。笠井、君は女泣かせの青年に成長するのかな。ここ、男子校だけど。
視聴覚室のドアの前まで来た。
「さ、ここだよ――ほら、人の気配がするし大丈夫だ」
「うん、先生。ありがと」
アイドルみたいな笑顔を向けて扉の向こうに消えて行った。なんだろうかあの透明感と、ちょっとアブナイ感じ。
アブナイ――この危なさを一体、どこから感じているのかはわからない。どこかこの世のものではないような、喩えて言うならば――妖精とか、妖(あやかし)とか、そういうのに近い何かを今日の笠井からは感じた。
ちょっと校内をぐるっと回って新入生たちが困っていないか見張りつつ、実は視聴覚室とは全然違う方向である職員室に戻ろう。
4
弦楽器の音、か。
僕は音楽にはさほど詳しくない。だが、その聞こえてくる音が美しいか醜いかくらいは判断できる耳くらいは持っている。音楽室に近づくに連れて、その音が空気を振動させるのが手に取るようにわかってきた。
これは、並大抵の弾き手ではない!
これまでこんなに華やかな音色を奏でる生徒がいただろうか。そりゃ、我が校の管弦楽部は文化祭の花形。昨日も入学式では祝典行進曲を高らかに響かせて花を添えてくれた。多分、ヴァイオリンの弾き手もいいのが揃っている――と、素人の僕は思っている。が、この音はちょっと、聞いたことがない。
僕は音楽室の前で足を止めた。何人かの野次馬が集っていて、その中には音楽教諭の大河内先生がいた。顧問のはずなのになかなか中に入ろうとしない。
東京音大を出て、オーケストラの指揮を至る所で任されている、教諭というより音楽家。先生はただ気むずかしげに腕を組んで、半開きとなった音楽室の扉の前に立っていた。
その後ろに、演奏に聞き入る生徒数人。管弦楽部の生徒たちだろうか?一人だけ知っている子がいる――けど名前まで知らない。ちょっと声をかけてみた。
「これ有名な曲なの?」
「たぶん、サラサーテのツィゴネルワイゼンかと……」
「誰が弾いてるの」
「新入生です」
「はぁ……そうなんだ?」
僕が呑気な感嘆を発した時、演奏が終わった。しん、と空気が振動をやめた瞬間、さっき演奏が聞こえ出した時と別の意味での衝撃を感じた。ああ、静けさって、こんなものだったのだっけ。
「素晴らしい!」
「!」
大河内先生が大きな拍手をして、音楽室の扉を開け放って入って行った。僕は他の何人かと一緒に中の様子を覗き見た。
「あの子が……?」
大河内先生は学生時代に欧州に留学しており、指揮を務めた後にコンサートマスターのヴァイオリン奏者に派手な握手をする癖がある。それと同じ手つきで、まだ幼さの残る少年の手を両手で握り、ぶんぶんと振っていた。ヴァイオリンは隣に佇んでいる上級生のものだったらしく、そっと回収された。
呆気に取られた様子で熱い握手をされる少年の顔を僕は見た。
あれは――日本人じゃない。綺麗な外国の少年。綺麗――と一言で言い表してもいいのだろうか。前の方に向かって長くなるように整えられた髪の色は日本人にはちょっといないほど茶色く、目の色も僕は遠目でわからないが多分、黒くない。何か明らかに淡い。彼はぎこちなく笑みを作り、自分より背の高い教諭を見上げて恭しげに挨拶をしている。堂々たる演奏をしていたのが嘘のように、恥ずかしそうに少し頬を赤くしている。
誰かに似ている。僕は、あんな外国人の――いや、国籍は日本なのかも知れない、けれど外国人に見える――あんな外国人の知り合い、いただろうか。
学生の時の指導教員は、ロシア人だったが。僕が出会った時に、すでにそれなりの年齢になっていた。もっと若い、あの子とそう変わらない歳の、少年の面影が僕の脳裏に過っていた。
「――センちゃん?」
安積千理――僕がセンちゃんと呼んでいた、この学舎で出会った唯一無二の親友(たぶん。僕だけが思ってるのかも知れないけど)。日露ハーフであまり日本人らしくないカッコいい父さんと、みんなが羨む美貌の、そして優しい母親を持っていた。ああそうか、センちゃん。黒髪に黒目を持っていたが、君の顔は、確かにどことなく異国の香りがした。
5
「おかえり、はやかったね」
「有香ちゃん。ただいま――今日は、お腹張らなかった?」
「大丈夫、大丈夫……今日は、ゆっくりしていたから」
ゆっくり――と言いつつ、手抜きをしているように見えない料理の途中。
カレンダーには、明日の欄に「検診」と丹念な文字で書かれている。僕は仕事で着いて行くことができないけど、病院は近いし、タクシーを使っても構わないと言ってあるし。
「何か手伝うよ……えっと?」
足手纏いか。でも何かやりたいんだ――ああ唐揚げなの!最高、最高……もうほとんどできているようなので、食器棚から食器を一律取り出すことにした。
「唐揚げってどのお皿がいいー?青い花柄のやつ?」
「航さんありがとう。それでいいよ」
「うんうん。わかった」
「いたた」
「え」
ふらりと椅子に座り込む。お腹を抑えて――ああきっと、お腹が張ったのだ。有香ちゃんがこういう時にどういう痛さなのか、僕には皆目見当つかない。
「大丈夫?」
「うん……ちょっと、休むね。ごめんね……たぶん少ししたら、おさまるやつだから」
脂汗が浮き出ているよ。なんてこった――その苦しさを、僕が少しでも請け負えるといいのだが、まったく傷まない僕の腹よ。
「えっと……と、とりあえずお味噌汁あっためて、お椀に入れる、よ」
「ありがと」
こんなんでいいんだろうか?よくわらかない。役立たず亭主かな?でも、こういうときにお腹を撫でたら却ってダメだと、こないだ言われた。
そこはかとない罪悪感というか自己嫌悪というか――そんなものが頭にやってきて、僕はコンロの前で首を横に振った。
お父ちゃんはしっかりものでなければ、子どもは不安なのだ。これは、心の病で思い切り働くことが無理だった僕のお父ちゃんがいつも、僕と姉さんに謝っていたことなんだ。
有香ちゃんのお腹の異変は、僕がバタバタとダイニングで動いているうちに和らいで行った。少しいつもより遅くなったけど、二人で揃って食卓を囲んだ。
「うん、美味しい。航さんがあっため直してくれて、よかった」
「そんなこと、ないよ。僕なんにもしてないし、役に立ってない……ごめんね」
「どうして。大丈夫だよ……航さん、元気ない?どうしたの」
「えっ。いや?そんなことないよ。元気。まぁちょっとね。一年生の担任って疲れるんだ――まぁまだ二日目で何言ってんのって話だよね。これから、大過なくすぎれば六年の付き合いだ――」
口をつけたお味噌汁は確かに暖かい。唐揚げは、外はカリッとして中は肉汁がたくさんで美味い。僕の実家の家庭菜園で採れたって言って、お母ちゃんが最近送ってきた春キャベツは変わらない味。
なんの心配もない。有香ちゃんのお腹は無事、明日は検診で、お腹の子が元気なことが確認されるはず。
僕は何かに引っかかっている――なんだろう、この憂鬱?男のマタニティブルーかい?
「ねぇ、航さん。一年生って、可愛いでしょ?まだ小学生上がりたてだもんね」
「今日、新入生の中にすごくヴァイオリンが上手い子がいて。音楽室の前で聴き入っちゃった」
「そう」
「誰かに似てると思って。僕の親友に似てて――それが、苗字も同じなんだけど」
「……それ息子なんじゃないの?親友、って……あの着物の人?」
「そう、そう……」
「安藤さん、だっけ?」
センちゃんは二年前、僕の結婚式に来てくれた。いつもと違う色付きのメガネをかけて、ちょっと変だった。僕は見た途端に笑いそうになったけど、僕の笑いを堪えた顔を見てきょとんとした顔をしてた。
式が終わると、僕に挨拶に来てすぐに帰って行った。
安積千理の名を出したくないので、偽名で「安藤芳典」がいいと頼んできて――誰だよ。異様に分厚い御祝儀袋にまでご丁寧に「安藤芳典」、しかも書道家のお母さんの美しい揮毫で。有香ちゃんは、センちゃんのことをいまだに「富豪の安藤さん」だと思っている。
仕方がない、ちょっと有名人だから。
「でもさ、結婚したとも知らないし、まさかもう中学一年になる息子がいるとか、聞いてないからなぁ……」
「安藤さんって何者なの?」
「教えると嫌がるからなぁ……」
「そうなの。航さんは知ってるんだ」
「そりゃ、中学からの仲だからねぇ」
「男子校って、なんかいいね。女には入り込めない熱い友情っていうか……いや、あの人のは、なんか熱くはなさそうだけど」
「そう、そう。熱くない。なんだろう……ドライアイスみたいな奴だよ」
「なにそれ、へんなの」
僕にもよくわかんない。気がついたら霧のように消えてる、そういう男なんだ。