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シ・ピリカ・メノコ

 ☆

 お前を日本に連れ帰った船の中で、申し訳程度の旨さの――まぁまぁ食えんこともないくらいの味のボルシチが出たよな。お嬢さんにはあんまり美味くなかっただろうよ。食欲もあんまりなかった――細腕が心配で、俺は柄にもなく女の身体のことを気遣わないでおられなかった。
 ビーツがみるみるうちにスープを赤く染める。見事なもんだ。この赤、たとえばトマトなんかとはまったく趣が違う。鮮烈な赤だ。ここにサワークリームを入れるとあの独特の甘みと酸味が出るってわけだな。
 しばらく煮込んでおく必要がある。俺は一旦蓋を半分くらい閉めて時計を見た。ミチが帰ってくる時間はもうすぐだ。今日はオーヴェルニュ家のモンに迎えを頼んだから、マルセルか、マルクか、ジャン=バティストあたりが連れて来てくれるだろう。
 マルーシャでもなく、オーヴェルニュ家が贔屓にしてる筋のシェフでもなく、ママでもなく、親父が「男の料理」してんのを、あいつは意外に思うんだろう。
 少し鍋の前を離れて、サーニャの顔を見に行く。ベッドに伏していた。なんだ、手術って言われてビビってんのかな。それとも――嫌なこと思い出して、気が塞いだか。
「サーニャ」
「はぁい」
 声だけは元気そうだが、ちょっと顔が青いな。額に手ぇ充てたら、やっぱり小ちゃい顔だな。まぁ俺の手がでかいんだが。
 青い目は不安そうに揺れている。初めて出会った日もこんな目だった。やつれていたと思うけど、それてお前を綺麗な女だなと思った。いまもこうやって見ると、あの時と同じような新鮮な気持ちで、お前を美しいと思う。ちょっと歳取ったのは否めんけど――いやそれもまたいい。
「安定剤は」
「ううん、もうちょっと大丈夫」
「しんどかったら遠慮なく飲んだらいい。そのために開発されてんだからよ」
「うん、うん。イサ、私はわかってる」
「ああそうだ、長いこと飲んでるんだもんな。何かあったら呼んでくれ」
「ねぇ?」
「ん」
「もうちょっとここにいてほしい……」
「……」
 鍋が気になる。だが気丈なお前が弱音を吐いてるのを放っておくわけにもいかないな。俺は硬派なもんで、こういうときは黙って抱きしめたり、キスでもしてあげたらいいんだろうがどうも格好がつかん――気がする。
 それが日本男児――いや、お袋には小さい頃、何度か「ピルカ・ニシパ」と呼ばれた。それはアイヌ語で「立派なおやっさん」くらいの意味だろう。そんな者になれたのかな。
「鍋の火、そのままにしてきた」
 抱きしめておきながら吐く言葉はこんなのだ。ロマンがなくて悪い。にしても、筋肉の塊だから俺は熱いのだが、お前は幾分かいつもより体温が低い。やっばり具合が悪いんだろう。
「うん、ごめん」
「いや、一番弱火にしてあるからもう少し」
「……うん」
 臭くねぇのかなと思うんだが、こいつは俺の胸あたりで息を深く吸ったり吐いたりを繰り返している。何回か訊いたな、臭くねぇのかって。どうも女には、嗅覚で男を見極める習性があるらしい。
「心配すんなよ」
「うん、イサ」
「絶望知らずのお嬢さん」
「……なに、それ?」
 ウラジオのお世辞にも綺麗とは言えないアジトの建物で、俺は初めてお前に会った。銃の密輸の商談の途中に、いい女がいるから見ろと兄弟に言われて、まぁどんなのが仕入れられたのかと思って見に行った。
 娼婦だと思っていたので普通にサービスを提供されるのかと思ったら、触れると顔に恐怖の色が浮かんだのを見て、俺は抱こうとする手を止めた。事情を聞いた。その気は無いのに囚われてこの仕事に従事するしかない。可愛い息子が人質になっているので、逃げ出すわけにもいかない。
「お前は、絶望しなかった」
 俺はロシアの兄弟とは仲良くやってきた。だがこの時ばかりは怒りが湧いた。仁義を通さない奴は、どの文化圏でも最後にはダメになる運命だ。嫌がる女に春を鬻がせるのは俺には吐き気のする所業だった。
「?」
「――太陽を見ていた。天主を信じていたか。それとも、イヴァン坊ちゃんのゆえか?」
「……うん?」
 俺はあのとき、可哀想な女を助けようと思った。大枚叩いて身請けした――表向きは、「外国人パブで働いてもらうために女を輸入」するって言ったが、自由の身にするためだ。だがそれだけだったのかな。
 お前の芯の強いとこをあの古いホテルの部屋で感じて、グッときていたところがあった。
「ボロボロになっても光を失わないところな。お前の、そういうところに俺は惚れたんだろうな」
「……私だって落ち込んじゃうのよ?」
「んな話じゃねぇ。落ち込もうが、元気だろうが、俺にとっては――」
 なんて言うかね。これでも昔俺はホストだったんだが、硬派なキャラとして人気だったからな。正直、甘い言葉を吐くようなタイプじゃねぇ。なんて言ったらいいかな。
「……惚れてんだよ」
「……う、うん」
 間が空いた。聴いたか?二回目は言わんぞ、恥ずかしいから。驚いてんじゃねぇよ。吹き飛んだかな、お前の心に懸ったモヤは。無理かな。ずっと無理かもしれねぇけど、一瞬でも晴らせたらそれでいい。
 鍋が気になるなァ――そう思った時に、ちょうどインターホンが鳴った。こりゃ、ミチが帰ってきたな。
 送り届けてくれたのはジャン=バティストだった。今から和泉坊ちゃんの方に回るってよ。ご苦労なことだ――うちのやんちゃ坊主はキッチンに俺が立っているのを見ると、ダイニングテーブルに座って興味津々な目をして見てやがる。
「パパって料理できるんだ?」
「ちょっとだけな」
「へぇ、知らなかった。何作ってんの?いい匂いしてきたぞ」
「ボルシチ。ママのリクエストだ。あんまり美味くねぇかもしんねぇな。日本海フェリーのには勝ちたいけど」
「ニホンカイフェリーってなに?」
「……ああ、昔な。お前のママと乗ったフェリーだ。昼飯にボルシチが出たけど、あんまり美味くなかった。仕方ねぇよな、大して上等でも無いフェリーで出る飯だ」
「ふぅん?それってデート?」
「――まぁそんなとこだな。そろそろいいかな……あとは適当にサラダでも作っておく。お前、宿題は……ねぇんだったな」
 また口を突いて出ちまった「宿題」。
 日本の親は、帰ってきた子どもに「宿題は?」って言うもんだろう。フランスにはそれがないんだそうだ。それはいいことなのかも知れないな。俺が小学生の頃の周りを見る限り、孤児院でマトモに宿題を仕上げていけるようなガキは数えるほどしかいなかった。
「宿題、俺もやってみたいね。日本で育ったら、宿題があったんだろ」
「ああそうだな。でもあんなメンドーなモンは、避けて生きた方がいい。俺はお前はフランスで育っていいと思うぞ。そっちのが合ってる」
「そうかな」
 お、冷蔵庫にマルーシャがつけ置きしたピクルスがあるじゃねぇか。このくらい彩りがあれば上等じゃね?ご丁寧にいつ作ったか書いてある――昨日の昼。
「昨日、マルーシャ来てたのか」
「そうなの?」
 月曜だったから、あいつの仕事は休み。おおかたサーニャが茶飲み友達扱いで呼んだんだろう。二人は長い付き合いになる。二十歳くらいのころからくっついていたメイドは、俺の知らないサーニャのことをいろいろと知っていて、全幅の信頼を置かれている。
 いい女だ、あれも――いや、そういう意味じゃねぇ。俺は、気の多い男じゃないんだ――おっと冷蔵庫がご機嫌斜めだ。早く閉めろよ親父ってピーピー鳴ってやがる。
「ママは?」
「寝てんの」
「……また、調子悪いのか」
 あーあ、ミチの顔が曇ったぞ。だがこりゃあ俺のせいじゃない――運命のせいだ。あの女がウラジオで受け続けた辱めは俺のせいじゃ無いし、その頃に感染したウィルスが子宮の下の方で悪さしてるっていうのも俺のせいじゃねぇ。
 でも――俺が一緒にいてやれなかった日々は取り返しのつかないモンなんだよな。そうしたら……俺のせいも、少しはある。
「ミチ」
「……ん」
 生まれながらに元気な奴だ。俺はちっさい時のお前と、八歳になってからのお前しか知らないが、赤子の時は保健師の人が目ぇひん剥いてたんだぜ。こりゃあ、元気な赤ちゃんですねぇってな。
 頭撫でても嫌がらねぇな。よかった。
「ママにおかえり、って言ってやれ。お前のママはいつも心に太陽を抱いてる」
「――なんだそれ、パパにしてはアレなこと言うなぁ?」
「アレ、ってなんだ?」
「何て言うんだろう……んー……キザ?」
「ああ……忘れてくれ。俺はそんな男じゃねぇ。もう言わねぇけど――でも本当のことだ。行ってやりな、元気に、帰ったよって」
 


 サーニャはボルシチを食うと、少しずつ血色を取り戻していった。食べ終わる頃にはいつもの笑顔を取り戻した。そんなに簡単に治るもんじゃない。調子はいいときも、悪い時もある。
 心的外傷後ストレス障害――そう診断されているから。
「美味しかったんじゃない」
「……フェリーのとどっちがよかった」
「あんまり覚えていないけど?いいじゃない、イサ。あなたは料理もできる男なのね。ますます素敵だわ」
「にひひ」
 自分の分の皿を洗いながら、ミチが笑ってやがる。そうだよな。親がイチャついてんのはそろそろ恥ずかしい年頃なのかもしれねぇ。でも――フランス育ちのお前は、どんな感覚なんだろう。
 お前の親父の国じゃ、親が仲良くしてるとガキは気まずいんだ。変だろ?多分、こっちの文化からしたらそれは変で、親父とお袋がイチャついてんのがスタンダード。少しだけ、日本の血が流れてんのかな――いや、アイヌの血、と言いたいところではある。
 俺のアイデンティティ――日本人ではあるにせよ、ずっとアイヌ人の血を意識してきた。濃い体毛、眉毛と目が近くて、眼光が鋭い。
 親父は、滝沢郁夫は、アイヌ差別に遭って「グレた」。同胞が内地の奴らによって戦争で使い捨てにされていたのを間近に見た。親父も軍隊に取られたがギリギリ生き延びて帰ってきたらしい。アイヌだからと言って、和人より下に見て、軽々しく激戦地に送り込まれて犬死にさせられた。戦後、日本は変わるかと思ったがアイヌへの偏見は依然厳しく、親父は絶望した。絶望は怒りに変わり、愚連隊を組織した――それは、蝦夷と呼ばれた者たちの厭世観と不思議な共鳴を起こし、瞬く間に道内では右に出るもののない暴力団組織に成長した。
 俺は、それは聖戦だったのだと思う。少なくとも親父にとっては。父祖の光輝を穢す社会への復讐だった。抗争で死んだ親父の骨は洞爺湖に眠っているらしい――らしい、と言うのは、あの人は俺が五歳の時に抗争でおっ死んだからだ。遺産の分前は、若い妾であるお袋にはなく、葬儀場で古株の妾らによって手酷く追い出された。
 俺は親父のことを、ヤク中になる前の頭がマトモだったころのお袋から幾度も聞いた。聞いただけ――あったかかった大きな手と、大きな背中の記憶が少しだけ残っている。
 ある日、急にいなくなってしまった。
「……イサ?」
「ん?」
「どうしたの、ぼんやりしてる」
「――ああ、昔のことを思い出した」
 俺は、あの人みたいににいきなりいなくなるような親父にゃならねぇ。こいつと出会うまでずいぶん危なっかしい日々を送った。任侠の世界で。でも今は、地に足をついて生きてる。多分、若い時分の俺に言ったら、スカして、ダセェっていうような生き方なんだろうな。
 サーニャは俺の昔を知らん。知らなくていい。
 なぜだか闇取引に従事しているけれど、突然やってきた富豪で正義の味方。俺ももうそれでいいかと思っている。
 ピンポン。
 なんだこんな時間に。誰か来たのか。
「俺出るよー」
 俺が腰を上げるより先に、ミチがインターホンに走って行った。宅配だそうだ。早めの夕飯だったがもう七時半だぜ。こんな時間にご苦労なこった。抜き打ちで宅配が届くのは割と珍しい。
「こちらです。イサオ・カイザワさん……で間違いございませんか」
 中華系の移民だと思われる配達員は、読みにくそうに俺の名のアルファベを読んだ。表札には「ドーヴェルニュ」と、妻の方の姓しか記載していないから変だと思ったんだろう。ああ、あんたと同じ東洋人だよ。顔を見たら納得してくれたらしい。
 それにしてもどこからだ――差出人欄には、カオル・アサカとある。先生だ。こいつは丁重に取り扱わんといかん代物。差出人の安積馨コンスタンチンは俺の大学の時の恩師だ。俺の卒業とともに政治家に転身し、四年前まで日本の総理大臣の椅子に座っていた。
 先生が、何かを送ってきた。これは初めてのことで、さすがの俺も浮き足だっちまう。俺は、先生に導かれ、また先生のために多くを犠牲にした。それを全く後悔していない。
 それはおよそ十年前の話だ。ミチが赤子だった時のこと。
 兼ねてから先生の命(タマ)が狙われているという情報を聞きつけていた俺は、頼まれもしねぇのに野良のSPをしていた。敵対する暴力団がその裏で動いていたことを知っていた。政府の雇ったSPより俺らの方が警備の勝手を知っていた。運命の日、上野の演説会で、俺は銃口を先生の頭に向ける右翼の鉄砲玉を銃殺した。白昼堂々の発砲だ――俺は現行犯逮捕された。
 害者が安積総理を本当に狙っていたのかを立証することが困難で、裁判の末食らった判決は懲役八年。広域暴力団上部組織の若頭に対して司法は厳しかった。思ったよりロング懲役を喰らうことになっちまったんだ。
「ああ、先生の字だ」
 貝沢君。お節介かもしれないが北海道の代議士の先生の伝手でこの本を入手した。私は二部譲ってもらって、一冊を君に贈ることにする。私が名付けた君の愛息にも、父方のルーツを教えてあげて欲しい。そのうちまた続編が出るらしいが、それはまたそのとき。
 思わず玄関口で開封しちまって、ビリビリになった包を不恰好に持ってリビングに入った。
「イサ、何が届いたの?」
「先生から本が届いた」
「まぁ、先生。それって、あれかしら?フェージャのお父さま?」
「ああ、そう――ミチ、お前に日本語の名前をつけてくれたおっちゃんだ」
 倫臣(みちおみ)。ヤクザの倅の俺の息子だってのに、ずいぶん高尚そうなお名前をくれた。先生の親父さんの名前から「臣」の字を貰って、まるで孫みたいだ。俺は嬉しかった。
「へぇ?何くれたの、難しい本?」
「アイヌ語研究……だとよ」
 北海道大学アイヌ文化研究センターのアイヌ語研究者の論文集のようなもの。後ろにはアイヌ語の索引がつけられている。
 こういうのは、大学の図書館に所蔵されて、巷にはほとんど出回らないやつだ。俺はあんまり触らない本だが、先生がくれたものだ、大切にしよう。宝の持ち腐れだな。興味津々のミチに手渡した。サーニャと並んで捲っているが――日本語だからよくわからんだろう。特にサーニャは日本語ができない。
 早々にギブアップして俺の手に渡ってきた。俺もちゃんと読まんとよく分からんし、第一こういう学問っていうのは、モチベーションがねぇと続かんのだ。俺は索引を見た。
 パラパラ見ているうちに、いたずら心が湧き起こって来やがった。まるでガキみたいな。
「シ・ピリカ・メノコ」
「なにそれ?」
「アイヌ語で、ママみたいな女のことだ」
「まぁ、私みたいな女?なにそれ。イサ、ちゃんと教えてちょうだい、なに?」
 最もかわいい女、最もいい女、最も美しい女――というところだよ。言わねぇ。
「ミチ、お前は日本語を勉強して、これを読んで、ママに教えてやれ。シ・ピリカ・メノコ。どんな意味だ――よし、宿題。夏休みの宿題だ」
「えー宿題?」
「お前、宿題やってみたかったって言ったじゃねぇか」
「いざとなったらめんどくさい」
「ケッ」
 俺は若い頃、家族なんていうのはアホみたいな営みだと思っていた。それは、まともな家族に恵まれず、五歳で親父を亡くし八歳でお袋に捨てられたルサンチマンがそう思わせていたんだ。
 高校生くらいの俺に今の俺を見せると、ダッセェと言うだろう。ダサくても構わん。
「もう、なによその。シ・ピリカ……メ?」
「シ・ピリカ・メノコな」
 シ・ピリカ・メノコ。お前の光に当てられて、俺は光を歩むことにした。もしこの先不安なことが押し寄せても、今度は俺もお前を照らす光になろう。
 

 
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