シ・ピリカ・メノコ
息子のミチは、俺の息子らしく元気が有り余ってやがる。もう十時だってぇのに、小学生がそんなにはしゃぐな。
「パパ!」
扉を開ける音も、もう少し静かにできねぇか。ちょっと睨んでも怯みやしねぇ。
「聞こえてんだよ。あ?ミチ、もう少し静かにしろ。もう遅いんだからよ」
「ママもう寝ちゃったよ!」
「お前も、もう寝た方がいいぞ」
目が合った。まだ目は爛々としているな――だがこいつは、心配には及ばない。赤子ははしゃぎ疲れたら次の瞬間にころりと寝入ることがあるが、こいつも似たようなもんで、眠気が襲ってきたら瞬間あっちの世界だ。
「どうした、何か聞きたいことがあったんだろ」
俺はパソコンを閉じた。別にいま、一瞬たりとも見逃しちゃならないような注目するべき株の動きはなかった。
「うん、あのさ。今日学校で、緯度について習ったよ」
「ああ、関心関心。お前、ちゃんと授業聞いていたんだな?親父は忘れちまったよ。緯度ってなんだ、教えてくれないか」
普通に、覚えてるけどな。
戸惑った顔してる。まぁ一回習っただけじゃあ、記憶していなくても無理はねぇ。ミチ、俺はお前と一緒にいられなかった八年を今、取り返さないといけねぇんだ。
信頼できる親父だと思われるために、じっと目を見る――嫌かも知れねぇな。でもお前は、緯度がなんだったかを一生懸命思い出そうとしていてそんなこと関係ないようだ。
「えっと……地球儀があるだろ。それで、タテの線とヨコの線があるよね。緯度っていうのは、ヨコの線の方なんだ。地球儀の上の方は、北極。下の方は、南極。これは、高緯度地域というんだよ。真ん中の方は……えっと、赤道だ。そこは、緯度ゼロなんだぜ」
「――お、すげぇ」
思った以上に息子が優秀で驚いた。やばいな――歳取ると涙腺が緩むんだよ。若い時に世話したお前の異母兄は――もう二十五になるけど――、どんなにすげぇことやっても俺の目は潤みもしなかったのに。この程度のことでカッコ悪りぃ親父だよ。
「ふっ」
「合ってた?」
「だいたいな。小学五年でそれだけ言えりゃ、百点だろ」
思わず頭を撫でそうになる。俺よりちょっと茶色いクリンクリンの頭。サーニャの血が入って少し色素が薄まった。
ああ――お前は生まれてきたんだっけ。今更だけど、ほんの小さい頃のことを思い出すよ。お前の親父はお前がまだ半年の頃に引き離されてまぁまぁのロングな懲役を喰らったんだぜ。んで、去年戻ってきて、俺を親父と認めてくれた――少なくとも、表面上。
頭を撫でかけた手を引っ込めて、代わりにパソコンを仕舞った。タブレットを出した――こっちの方が身軽だ。俺はタブレットを起動して立て掛け、引き続き株価の行方を見守る姿勢をとった。
なぁ、親父。親父ってぇのは、こういう素っ気ないけど頼もしい背中を見せりゃあいいんじゃねぇの――五歳の時に死に別れた親父よぉ。
「んで?話はそれだけってわけじゃないんだろ」
「あ、そうだったよ。先生が、パリと同じくらいの緯度の世界のいろんな都市を教えてくれたんだ」
「ああ――札幌、入ってたか」
「そうそう!サッポロさ……俺ね、パパの故郷がサッポロだって、何回も先生に言ったことがあるもんね」
「そうか。そんなつまらん話、先生はうんうん言って聞いてくれるかぁ?」
「うん。だって俺のパパは、仕事が忙しくてずっと一緒に暮らせなかった。それがさ、つい去年にやっと暮らせるようになったんだからさぁ?何回も話したんだ、嬉しくて。先生はそれがわかってるからさぁ。いい先生だろ、パパ。シルヴィー先生って言うんだ」
やっていたのは仕事じゃなくて、「おつとめ」だけどな。大人たちと示しを合わせて、このきつい現実のことはこいつに言わねぇことにしている。
親が犯罪者、ってなかなか堪えるぜ――俺は、それを身を以て知っているから尚更、隠し通さなきゃならないと思う。
「よかったな、いい先公で。ミチ、そろそろ寝室に引っ込んだらどうだ。まだママの添い寝が必要ってわけじゃあねぇだろう?」
「うん、もちろんさ。そんなのは、四歳ごろに卒業した――でもさ?パパ、俺は今さ。知りたいことがあるんだ」
「ああ」
「パパが戻ってきてからママは元気そうなんだ」
「おう、そうだろう?悪りぃことしたよ、あいつにも」
「ママは、パパが帰ってくるまでは、俺が小さい時からずっと、ときどきすごく体調が悪い。ずっと寝てることもあったよ……パパは、なんでいられなかったんだよ、一緒に……」
「……」
いま、それを言い出すか。
俺は全く、心の準備ができていなかったんだぜ。タブレットも閉じて、お前の顔をじっと見据えにゃならん。株のトレーダーは休みだ。俺は親父という重要な仕事を請け負った――退けない戦いだ。
「それは、謝る。一生かけて」
「そんな大袈裟なことはいいんだよ。でもなんでだろう、って思った」
「……おつとめだ。俺は、家族にも会えねぇで、すっげぇ大事な仕事をやっていた。全人類のために――命を賭けて……っと、言ったらいいか」
嘘じゃないぞ、ミチ――目を合わせた。お前の顔は、俺に似ている。だけど少しサーニャに似て可愛い。柔道家としてはもう少し粗野な方がいいぞ――いまはそんなことは、どうでもいいな。
「すげぇこと、してたの?スパイダーマンみたいな!」
「――おう、そうだな。それに近い」
「たとえばどんなこと?」
「悪い奴を仕留める仕事をした――悪い奴。なぁミチ。世の中には、いい奴と悪い奴がいる。悪い奴は、いい奴を殺そうと考えている」
「そうなのかな?」
「そうだ――俺は、いい奴を守るために仕事をしていたんだ。世界のためだ――殺されては困るいい人を助けるために、ずっとその人のそばにいなきゃならなかったんだ」
「……そっか。でも、俺は、その人のそばにいるより、ママのそばにいてくれる方がよかったな」
「――ああ。そうだろう。すまなかったな。ミチ、今度の休みは、どこに行きたい?」
「アクリマタシオン庭園」
「また、そんなところでいいのか?」
近くの公園。ミチには少し、子どもっぽくなってきた遊び場だとサーニャは言っていた。そんなところでいいのか。遠慮はいらない。コートダジュールといっても、俺は連れて行ってやるのにな。
「いいんだ。あそこ、昔ママとよく行ったんだ。三人で行くのが、嬉しいんだよ俺。へんかな……子どもっぽいかな?気になるよ、クラスのみんな、だんだん大人っぽくなるのに、俺だけなんか、子どもっぽくなってくみたいでさぁ……はは。パパ、ごめん。俺寝る。おやすみ」
「……」
返事ができなかった。考え込んでいたら扉が閉まっていたことに気がついた。俺は、この空白の八年の落とし前をどうつけたらいいんだろう。
指詰め……ちげぇ。そんなんじゃねぇんだ。
「はぁ……」
親父。洞爺湖に眠っている俺の親父の魂。聞いてくれよ。なぁ、親父が俺にやった不義理と、俺があいつにやった不義理は、どっちがひでぇだろう?戻ってきた分、俺のほうがマシだよな。なぁ、親父。俺は、五歳から父なし子で、親父を失ったお袋は根無草となり、ついに八歳からは孤児だ。
でもさ、俺のことは俺のことだからいいんだよ。いま問題は、十歳になって、そろそろ多感な時期を迎えてんのに、意味不明な経歴の親父が帰って来ちまったミチの苦悩をどうするかだ。
☆
もう何度目になったかしら。
仕事を始めてからもちゃんとクリニックに行っている。共同経営者のカミーロさんは私が婦人科クリニックにぜひ行って来なさいと背中を押してくれる。忙しい時も、絶対に行くようにって休みを取らせてくれる。
なんていい人だろう!でも、あの熱心な眼差しはきっと、彼にもいろいろあったからこそだと思うのね。
あ、先生が来ちゃった。
「スザンヌさん。検査結果が出ましたよ」
「――はい」
先生は私の前に紙を置いて、ペンを持っていつものように検査結果を説明してくれようとする。その中に、目立つように「中等度異形成」と書いてあるのを見つけて、前と同じだとわかった。
それがいいこととは言い難いことは、先生の顔色を見たらわかる。
「スザンヌさんの感染状況は、前回の検査から比べて良くも悪くもなりませんでした。よくいえば、顕著に悪化はしていない。でも悪くいうと、炎症が治っていないということです。ずいぶん長いこと炎症がおさまっていない状態ですね。こちらのクリニックに来られてから五年が経ちますが、最初は軽度でした。それが、少し進行して、しばらくは足踏みの状態が続いています」
「異形成、って……」
「子宮頸部の細胞が、通常とは異なる状態になっているという意味です。誤解を恐れずにいえば、子宮頸がんになりかけている、といえます」
「は、はい……です、よね」
「今後の方針を考えないといけません」
検査のペースは三ヶ月に一度にする。もう少し進行したら、本格的に癌に進んでしまう可能性がいよいよ高くなるので、簡単な手術をしなければならないこと。
「手術ですか……」
「ええ、それは本当に簡単な手術です。主にふた種類の方法があります。一応パンフレットがあります――これです。もちろん、スザンヌさんの場合すぐにやらないといけないというわけではありません。ただこれまでの経過を考えて、炎症がこの後軽減する可能性より、悪化していく可能性の方が高いと思います」
もう五年は治っていないし、なんならちゃんと検査をしていなかった頃から異形成が始まっていたかもしれないものね。多分近い将来、この手術をやらないといけないんだわ。
簡単、簡単と先生はいうし、パンフレットを見ても確かに。私が思い浮かべる手術って、もっと大掛かりで、たとえばお腹をバッサリ切ったりするイメージだから。でもちょっと、手が震えた。
「大丈夫、多くの女性が同じ道を通り、元気に人生を謳歌していらっしゃいます」
「……はい」
「次の検査は――」
きっかり三ヶ月後に検査予約を取って、私はクリニックをあとにした。あの人は終わる頃に迎えに来ると言っていたけど――ああちゃんといつもの車が待っている。心底ほっとしたわ、手術なんて聞いた後だもの、心細かった。
「よかった、間に合ったか。今きたばかりだ」
「間に合ってる。イサ、あのね」
「ん」
いつもは後ろに座るけど、今日は助手席がいいかしらね。近くで話したい気分なの――と言っても、クリニックからうちまではすぐなのにね。夕陽が眩しい。あなたはサングラスを掛けているけど、外して私の目を見た。真っ黒な目、最初はちょっと怖いかなと思えた三白眼。
もう知ってるわ、あなたってとびきり優しいってこと。
「もうすぐ、手術かも」
「――そうか」
あなたはこんな時も、取り乱さないでいてくれる。ねぇたまに思うけど、私の夫があなたじゃなくてフェージャだったら、こんな時心細かったかもしれない。あの人も一緒にオロオロしそう。
「今日は、何食おうか。お前の好きなもんにしよう――どこかにいくでもいいし、今からシェフを呼んでもいいし、買い出しに行って俺が作ってもいいぞ」
「まぁ、あなたが作るってどういうこと」
「文字通りだ。不味くはないだろう……ちょっと、お嬢さんがいつも食べているものよりは落ちるだろうが。学生時代は苦学生で、いろいろ自分で作った。ユーリイ坊ちゃんに食ってもらったこともある。坊ちゃんには美味いと言われたが――あいつは世辞を言わねぇ」
手術のことを蒸し返すことはなかった。私もその方が気楽だと思えたわ。だってこの人は、私の体のことをちゃんとわかっていて、夜になったら検査結果の紙を見て、その上ネットで調べておいてくれるんだものね。私より詳しいくらい。
食べ物の話?ええ、これはあなたの優しさなの。
「じゃあ、何か作ってみてよ」
「何にすっかなぁ」
「ボルシチにしましょう」
「ボルシチ……まぁググれば作れんこともない。買い出しに行くか。店はマルーシャにでも聞けばいいだろう、あいついつもどこからかロシア料理の材料を仕入れてくるからな――」
「私一軒、知ってるわ。スラヴ移民の人たちがよく使うスーパーがあるの。パッシー駅の近くだったと思うわ、一回マルーシャと一緒に行ったのよ」
「わかった、そこに行く。一緒に行くか?お前だけ家に戻ってもいいんだぞ」
私は一緒に行きたい。
なんでロシア料理なんて思い浮かんだんでしょう――あなたとはウラジオストクで出逢ったのよ。
私の今の病気は、あそこにいた頃にさせられていた「仕事」が原因だと思う。ヒトパピローマウイルスは性交渉で感染することがある。あの頃――私の仕事は男性のお客を取ることだった。たくさん稼いだのよ、私に渡されるお金はほんの少しだったけど、本当に、たくさん稼いだ。マフィアのために。
「……ねぇ、イサ?」
「ん」
車をまっすぐにパッシー駅方面に走らせているあなたには悪いけれど、私は気分が悪くなった。あんなことを思い出すもんじゃないのにね。
「やっぱり、一回家に帰りたい」
「――ああ。そうしようか、お嬢さん」
私の顔色をあなたはすぐに気遣う。東洋の人って何を考えているのか分かりにくいと思われているけど、それはお付き合いがないからそう思うだけ。人によって違う。そして、あなたと出逢って私は幸せになった。いま、不安だったり不快な気持ちだったりに襲われても心の奥底で安心していられるのは、あなたがいるから。
そうに違いない。
なんの躊躇いもなく自宅の方面に車の軌道を変えた。ハンドルを握るイサの腕は、いつも以上に頼もしく見える。
「パパ!」
扉を開ける音も、もう少し静かにできねぇか。ちょっと睨んでも怯みやしねぇ。
「聞こえてんだよ。あ?ミチ、もう少し静かにしろ。もう遅いんだからよ」
「ママもう寝ちゃったよ!」
「お前も、もう寝た方がいいぞ」
目が合った。まだ目は爛々としているな――だがこいつは、心配には及ばない。赤子ははしゃぎ疲れたら次の瞬間にころりと寝入ることがあるが、こいつも似たようなもんで、眠気が襲ってきたら瞬間あっちの世界だ。
「どうした、何か聞きたいことがあったんだろ」
俺はパソコンを閉じた。別にいま、一瞬たりとも見逃しちゃならないような注目するべき株の動きはなかった。
「うん、あのさ。今日学校で、緯度について習ったよ」
「ああ、関心関心。お前、ちゃんと授業聞いていたんだな?親父は忘れちまったよ。緯度ってなんだ、教えてくれないか」
普通に、覚えてるけどな。
戸惑った顔してる。まぁ一回習っただけじゃあ、記憶していなくても無理はねぇ。ミチ、俺はお前と一緒にいられなかった八年を今、取り返さないといけねぇんだ。
信頼できる親父だと思われるために、じっと目を見る――嫌かも知れねぇな。でもお前は、緯度がなんだったかを一生懸命思い出そうとしていてそんなこと関係ないようだ。
「えっと……地球儀があるだろ。それで、タテの線とヨコの線があるよね。緯度っていうのは、ヨコの線の方なんだ。地球儀の上の方は、北極。下の方は、南極。これは、高緯度地域というんだよ。真ん中の方は……えっと、赤道だ。そこは、緯度ゼロなんだぜ」
「――お、すげぇ」
思った以上に息子が優秀で驚いた。やばいな――歳取ると涙腺が緩むんだよ。若い時に世話したお前の異母兄は――もう二十五になるけど――、どんなにすげぇことやっても俺の目は潤みもしなかったのに。この程度のことでカッコ悪りぃ親父だよ。
「ふっ」
「合ってた?」
「だいたいな。小学五年でそれだけ言えりゃ、百点だろ」
思わず頭を撫でそうになる。俺よりちょっと茶色いクリンクリンの頭。サーニャの血が入って少し色素が薄まった。
ああ――お前は生まれてきたんだっけ。今更だけど、ほんの小さい頃のことを思い出すよ。お前の親父はお前がまだ半年の頃に引き離されてまぁまぁのロングな懲役を喰らったんだぜ。んで、去年戻ってきて、俺を親父と認めてくれた――少なくとも、表面上。
頭を撫でかけた手を引っ込めて、代わりにパソコンを仕舞った。タブレットを出した――こっちの方が身軽だ。俺はタブレットを起動して立て掛け、引き続き株価の行方を見守る姿勢をとった。
なぁ、親父。親父ってぇのは、こういう素っ気ないけど頼もしい背中を見せりゃあいいんじゃねぇの――五歳の時に死に別れた親父よぉ。
「んで?話はそれだけってわけじゃないんだろ」
「あ、そうだったよ。先生が、パリと同じくらいの緯度の世界のいろんな都市を教えてくれたんだ」
「ああ――札幌、入ってたか」
「そうそう!サッポロさ……俺ね、パパの故郷がサッポロだって、何回も先生に言ったことがあるもんね」
「そうか。そんなつまらん話、先生はうんうん言って聞いてくれるかぁ?」
「うん。だって俺のパパは、仕事が忙しくてずっと一緒に暮らせなかった。それがさ、つい去年にやっと暮らせるようになったんだからさぁ?何回も話したんだ、嬉しくて。先生はそれがわかってるからさぁ。いい先生だろ、パパ。シルヴィー先生って言うんだ」
やっていたのは仕事じゃなくて、「おつとめ」だけどな。大人たちと示しを合わせて、このきつい現実のことはこいつに言わねぇことにしている。
親が犯罪者、ってなかなか堪えるぜ――俺は、それを身を以て知っているから尚更、隠し通さなきゃならないと思う。
「よかったな、いい先公で。ミチ、そろそろ寝室に引っ込んだらどうだ。まだママの添い寝が必要ってわけじゃあねぇだろう?」
「うん、もちろんさ。そんなのは、四歳ごろに卒業した――でもさ?パパ、俺は今さ。知りたいことがあるんだ」
「ああ」
「パパが戻ってきてからママは元気そうなんだ」
「おう、そうだろう?悪りぃことしたよ、あいつにも」
「ママは、パパが帰ってくるまでは、俺が小さい時からずっと、ときどきすごく体調が悪い。ずっと寝てることもあったよ……パパは、なんでいられなかったんだよ、一緒に……」
「……」
いま、それを言い出すか。
俺は全く、心の準備ができていなかったんだぜ。タブレットも閉じて、お前の顔をじっと見据えにゃならん。株のトレーダーは休みだ。俺は親父という重要な仕事を請け負った――退けない戦いだ。
「それは、謝る。一生かけて」
「そんな大袈裟なことはいいんだよ。でもなんでだろう、って思った」
「……おつとめだ。俺は、家族にも会えねぇで、すっげぇ大事な仕事をやっていた。全人類のために――命を賭けて……っと、言ったらいいか」
嘘じゃないぞ、ミチ――目を合わせた。お前の顔は、俺に似ている。だけど少しサーニャに似て可愛い。柔道家としてはもう少し粗野な方がいいぞ――いまはそんなことは、どうでもいいな。
「すげぇこと、してたの?スパイダーマンみたいな!」
「――おう、そうだな。それに近い」
「たとえばどんなこと?」
「悪い奴を仕留める仕事をした――悪い奴。なぁミチ。世の中には、いい奴と悪い奴がいる。悪い奴は、いい奴を殺そうと考えている」
「そうなのかな?」
「そうだ――俺は、いい奴を守るために仕事をしていたんだ。世界のためだ――殺されては困るいい人を助けるために、ずっとその人のそばにいなきゃならなかったんだ」
「……そっか。でも、俺は、その人のそばにいるより、ママのそばにいてくれる方がよかったな」
「――ああ。そうだろう。すまなかったな。ミチ、今度の休みは、どこに行きたい?」
「アクリマタシオン庭園」
「また、そんなところでいいのか?」
近くの公園。ミチには少し、子どもっぽくなってきた遊び場だとサーニャは言っていた。そんなところでいいのか。遠慮はいらない。コートダジュールといっても、俺は連れて行ってやるのにな。
「いいんだ。あそこ、昔ママとよく行ったんだ。三人で行くのが、嬉しいんだよ俺。へんかな……子どもっぽいかな?気になるよ、クラスのみんな、だんだん大人っぽくなるのに、俺だけなんか、子どもっぽくなってくみたいでさぁ……はは。パパ、ごめん。俺寝る。おやすみ」
「……」
返事ができなかった。考え込んでいたら扉が閉まっていたことに気がついた。俺は、この空白の八年の落とし前をどうつけたらいいんだろう。
指詰め……ちげぇ。そんなんじゃねぇんだ。
「はぁ……」
親父。洞爺湖に眠っている俺の親父の魂。聞いてくれよ。なぁ、親父が俺にやった不義理と、俺があいつにやった不義理は、どっちがひでぇだろう?戻ってきた分、俺のほうがマシだよな。なぁ、親父。俺は、五歳から父なし子で、親父を失ったお袋は根無草となり、ついに八歳からは孤児だ。
でもさ、俺のことは俺のことだからいいんだよ。いま問題は、十歳になって、そろそろ多感な時期を迎えてんのに、意味不明な経歴の親父が帰って来ちまったミチの苦悩をどうするかだ。
☆
もう何度目になったかしら。
仕事を始めてからもちゃんとクリニックに行っている。共同経営者のカミーロさんは私が婦人科クリニックにぜひ行って来なさいと背中を押してくれる。忙しい時も、絶対に行くようにって休みを取らせてくれる。
なんていい人だろう!でも、あの熱心な眼差しはきっと、彼にもいろいろあったからこそだと思うのね。
あ、先生が来ちゃった。
「スザンヌさん。検査結果が出ましたよ」
「――はい」
先生は私の前に紙を置いて、ペンを持っていつものように検査結果を説明してくれようとする。その中に、目立つように「中等度異形成」と書いてあるのを見つけて、前と同じだとわかった。
それがいいこととは言い難いことは、先生の顔色を見たらわかる。
「スザンヌさんの感染状況は、前回の検査から比べて良くも悪くもなりませんでした。よくいえば、顕著に悪化はしていない。でも悪くいうと、炎症が治っていないということです。ずいぶん長いこと炎症がおさまっていない状態ですね。こちらのクリニックに来られてから五年が経ちますが、最初は軽度でした。それが、少し進行して、しばらくは足踏みの状態が続いています」
「異形成、って……」
「子宮頸部の細胞が、通常とは異なる状態になっているという意味です。誤解を恐れずにいえば、子宮頸がんになりかけている、といえます」
「は、はい……です、よね」
「今後の方針を考えないといけません」
検査のペースは三ヶ月に一度にする。もう少し進行したら、本格的に癌に進んでしまう可能性がいよいよ高くなるので、簡単な手術をしなければならないこと。
「手術ですか……」
「ええ、それは本当に簡単な手術です。主にふた種類の方法があります。一応パンフレットがあります――これです。もちろん、スザンヌさんの場合すぐにやらないといけないというわけではありません。ただこれまでの経過を考えて、炎症がこの後軽減する可能性より、悪化していく可能性の方が高いと思います」
もう五年は治っていないし、なんならちゃんと検査をしていなかった頃から異形成が始まっていたかもしれないものね。多分近い将来、この手術をやらないといけないんだわ。
簡単、簡単と先生はいうし、パンフレットを見ても確かに。私が思い浮かべる手術って、もっと大掛かりで、たとえばお腹をバッサリ切ったりするイメージだから。でもちょっと、手が震えた。
「大丈夫、多くの女性が同じ道を通り、元気に人生を謳歌していらっしゃいます」
「……はい」
「次の検査は――」
きっかり三ヶ月後に検査予約を取って、私はクリニックをあとにした。あの人は終わる頃に迎えに来ると言っていたけど――ああちゃんといつもの車が待っている。心底ほっとしたわ、手術なんて聞いた後だもの、心細かった。
「よかった、間に合ったか。今きたばかりだ」
「間に合ってる。イサ、あのね」
「ん」
いつもは後ろに座るけど、今日は助手席がいいかしらね。近くで話したい気分なの――と言っても、クリニックからうちまではすぐなのにね。夕陽が眩しい。あなたはサングラスを掛けているけど、外して私の目を見た。真っ黒な目、最初はちょっと怖いかなと思えた三白眼。
もう知ってるわ、あなたってとびきり優しいってこと。
「もうすぐ、手術かも」
「――そうか」
あなたはこんな時も、取り乱さないでいてくれる。ねぇたまに思うけど、私の夫があなたじゃなくてフェージャだったら、こんな時心細かったかもしれない。あの人も一緒にオロオロしそう。
「今日は、何食おうか。お前の好きなもんにしよう――どこかにいくでもいいし、今からシェフを呼んでもいいし、買い出しに行って俺が作ってもいいぞ」
「まぁ、あなたが作るってどういうこと」
「文字通りだ。不味くはないだろう……ちょっと、お嬢さんがいつも食べているものよりは落ちるだろうが。学生時代は苦学生で、いろいろ自分で作った。ユーリイ坊ちゃんに食ってもらったこともある。坊ちゃんには美味いと言われたが――あいつは世辞を言わねぇ」
手術のことを蒸し返すことはなかった。私もその方が気楽だと思えたわ。だってこの人は、私の体のことをちゃんとわかっていて、夜になったら検査結果の紙を見て、その上ネットで調べておいてくれるんだものね。私より詳しいくらい。
食べ物の話?ええ、これはあなたの優しさなの。
「じゃあ、何か作ってみてよ」
「何にすっかなぁ」
「ボルシチにしましょう」
「ボルシチ……まぁググれば作れんこともない。買い出しに行くか。店はマルーシャにでも聞けばいいだろう、あいついつもどこからかロシア料理の材料を仕入れてくるからな――」
「私一軒、知ってるわ。スラヴ移民の人たちがよく使うスーパーがあるの。パッシー駅の近くだったと思うわ、一回マルーシャと一緒に行ったのよ」
「わかった、そこに行く。一緒に行くか?お前だけ家に戻ってもいいんだぞ」
私は一緒に行きたい。
なんでロシア料理なんて思い浮かんだんでしょう――あなたとはウラジオストクで出逢ったのよ。
私の今の病気は、あそこにいた頃にさせられていた「仕事」が原因だと思う。ヒトパピローマウイルスは性交渉で感染することがある。あの頃――私の仕事は男性のお客を取ることだった。たくさん稼いだのよ、私に渡されるお金はほんの少しだったけど、本当に、たくさん稼いだ。マフィアのために。
「……ねぇ、イサ?」
「ん」
車をまっすぐにパッシー駅方面に走らせているあなたには悪いけれど、私は気分が悪くなった。あんなことを思い出すもんじゃないのにね。
「やっぱり、一回家に帰りたい」
「――ああ。そうしようか、お嬢さん」
私の顔色をあなたはすぐに気遣う。東洋の人って何を考えているのか分かりにくいと思われているけど、それはお付き合いがないからそう思うだけ。人によって違う。そして、あなたと出逢って私は幸せになった。いま、不安だったり不快な気持ちだったりに襲われても心の奥底で安心していられるのは、あなたがいるから。
そうに違いない。
なんの躊躇いもなく自宅の方面に車の軌道を変えた。ハンドルを握るイサの腕は、いつも以上に頼もしく見える。