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叔父の休日

「あ、パパ」
 車から降りて庭を歩いていると、池の縁の岩場に座る和装の人があった。礼拝から帰ってきてすぐに自室に篭って寝てしまった父・千理がお気に入りのスポットに座って鯉を眺めていたのである。手の中には鯉の餌を入れた椀があった。
「……ん、伊吹。知匡とどこか行ってきたの?」
 叔父と父はあまり似ていない。クリーマは間違いなく父の子だが、叔父の面影を指摘されることがよくある。真っ黒で切れ長の日本人らしい目をしているが、目に奥行きがありよく見ればやたらと西洋人らしい骨格をしている千理は、聖堂で初めて会うロシア人に、よくトルキスタン方面の人と勘違いされる。
 知匡はパッと見外国人だが、千理はステルス外国人――親族が集まると大叔父たちからそんな笑い話まで飛び出す。
 まだぼんやりしているらしい父に、知匡は冷や水を浴びせかけるつもりらしい。
「兄さん。クリーマがさっき、僕と父子と間違えられて、それがうれしいと言ってたよ」
「――え。あ、ああ。そう……まぁ、お前の方が伊吹に似ているからな」
 鯉に餌をパラパラ散らす。瞬きが増えた。
「くっくっ。ほら、あれはちょっとショックを受けているんだよ、クリーマ」
「い、いや違うけど。事実だろう、昔から私は、伊吹がパパと呼ぶとその辺の人には意外そうな顔をされるんだから」
「――んー、ある程度似ていると思うけどね?」
「クレールがいないと、私は変な親父だよ。その子は東洋人の面影が少なくてフランス人に見えるから、私がくっついていると不審者みたいで……その袋はなに?」
「あ、セイコー堂に行ったの。パパは行ったことある?」
「――昔、何度かあるな。私はあそこ、苦手だったね。なぁ知匡、お前が政治家をやったほうがいいと私が思った決定打のひとつだよ」
「……ふーん、そんなに重かったのか」
 知匡は父に近づいて、彼が持つ椀の中にあった鯉の餌をひと掴みすると、さっき父が投げ入れたのと違う方向に大相撲の塩撒きのような勢いで投げた。遠くで水飛沫が立った。
「兄さん、気が付かなかったよ。安心して、僕がなんとかしとくから。って、いつも言ってるね」
「……うん。お前はえらいね」
 クリーマは父と叔父のやりとりを近くで見ていて、どこか前者が後者に対して劣等感を持っているような気がした。
 父は文筆家で、あまり外に出ない。内向的で、人前に出るのも好まない。叔父は全く逆の外向的性格で、政治家としてもうまく人間関係を構築しているように見える。
「パパ、叔父ちゃん、僕買い物した袋を家の中に入れるね。叔父ちゃんは持って帰りたいものがあったら、持っていかなきゃダメだよ」
 クリーマは家の中に入って居間に袋を持ち込んだ。兄がソファでまだ眠っていた。袋をテーブルに置くと、そのガサガサいう音で兄の瞼が開き、銀の瞳が覗いた。
「……ああ、帰ったんですね」
「うん、いろいろ買ったの」
「――ずいぶんたくさん、買い物をしたようで」
「そう。これは夢が詰まった袋だよ、兄ちゃん。セイコー堂は楽しかった」
「……そう、ですか。ふぅ……起きるか。その様子であれば、クリーマ。お前のほうが私より、やっぱり政治家に向いていると思いますね」
「へ?なんで」
 ふぁ――上品にあくびをした後、ゆっくりと思案して兄は言葉を選ぶ。自分でもどういう理屈で発した言葉なのか掴みかねているときの話し方だ。
「そうですね……うちでは、お前は叔父さまに似ていると言われてきました」
「うん」
「私は不本意ながら父さんに似ているとよく言われます。その度にじいさまに似ていると言ってくれと主張していますがこの言い換えは一向に浸透しません」
「そうかも」
 態と苦々しい表情を作った。兄は、父に対して謎の対抗意識を燃やしている。クリーマにはいったいそれがなぜなのかわからないが、執事に聞くと男の子は、特に長男にはそれはよくあることなのではないかと言われる。三男の自分には理解できない心性がそこには作用しているらしいと諒解し、あまり詮索しないようになった。
「なんでしょう……その袋には確かに珍しいものが入っていることは確かです」
「あ、うん。こういうのを買ったんだ。開けてみよう」
「はぁ、食玩……というやつですね。昔、セイコー堂についていって私も買ってもらいましたけど。そうですか、今はこういうのが流行りか。お前は犬が好きですもんね。女児向けと思いますが」
 ヴァニューシャは「ドリーのぼうけん」の玩具菓子の箱を目を細めて無感動に眺め、音もなく机上に置いた。クリーマはそれを手に取って開封し始めた。
「私はね、悲しいと想うことがあるのですよ」
「へ?悲しいの?なにが?」
「そのようなものを、珍しいとか、お前の言葉からしたら夢のようなものと思うような身の上をですかね」
「……ふぅん?それってなんで?」
「クリーマ、お前はまだ世界が狭いから気がついていないかもしれませんけど、私たちはほとんどの人と話が合わない。お前はもうじきミルクの散歩に出かけますね」
「うん、そろそろそういう時間だよ」
「たくさんの人々が街を歩いていますね。たくさんすれ違いますね、いろんな人と」
「うん」
 箱から出てきたコリー犬の人形は大きな目をして、アニメ調にデフォルメされている。少し重いと思ったら磁石になっていて、冷蔵庫などにくっつけることができるらしい。しかも、口になにか紙を挟むことができる。
「へぇ」
 クリーマはそれを可愛いと思い、密かに後で台所へ持って行くことにした。温度差のまるで違う兄の声が頭上から聞こえてくる。
「――その人たちのほとんどは、私たちと話が合わないですよ」
 すれ違う人々――クリーマは散歩中に犬のことしか考えていないし、いまも犬のことで頭をいっぱいにしていた。だからなのか兄の言うことの表層しか理解できなかった。
「話が合わない、ってどんな感じかな」
「あの人たちには執事も女中もいません。セイコー堂のようなスーパーに何日かに一回行きます。自分の手で買い物をして、重い袋を持って帰ってきます。自分の手で調理をし、食べたら自分で皿を洗います。ベッドや布団は自らの手でメイキングしますし自分で洗います」
「うん?」
「スーパー袋の中に夢が詰まっている。お前が夢と言ったのは多くの人にとっての日常です」
「……そっかぁ」
 多くの人たちと自分が違う生活をしていると言いたいらしい。ただ、クリーマにはそこから生じる寂寥感はなかった。単に事実として、「異なっている」ことを改めて言われて心に刻んだという程度だ。
 しかし兄はそれを、切なく思うらしい。
「兄ちゃんのさみしさが、僕にはあまり分からなかった。もっと大人になったらわかるのかな?」
 顔を上げたら、椅子に座る兄の銀の目は床に座った弟を見下ろしていた。逆光になって光源は無いはずなのに、美しい狼のような瞳はきらりと輝いて見える。その一筋のよわい光を見て、兄の悲しみのほんの一欠片だけがクリーマの心に届いたように錯覚した。
「――いいえ、分からないからこそお前は政治家に向いていると思うんです。きっとこの先も、分かるようになりません。分からない方がいいんじゃないでしょうか」
「兄ちゃん、僕はまだわからないよ」
「知匡叔父さまも分からないから政治家をやれていると思います。分かっていたら、日々一般の人たちの生活を調べ、そのために国会で弁論を戦わせることに耐えられないはずですから。私は到底耐えられると思いません」
「……そっか、人と違っていると思うことがしんどいからか。僕はたしかに、しんどくないかもしれないね」
「まぁ、そんな感じです。人と違っていること……そこは少し、違うような気もしますけど。なんでしょう。嫌ですよ。生まれながら不平等の上の方に立っていることが私には耐えられません」
「不平等なの?わっ」
 素朴な疑問を鸚鵡のように返してくる弟の頭に、兄の大きな手が乗って、わしゃわしゃと撫でられる。まるでクリーマが飼い犬のミルクにやっているみたいな手つきで。
「私は大人になったらこの家を出ようと思っています。長男の特権とやらからは全力で逃げますよ。父さんみたいに飼い殺しされるわけにはいきませんから」
「ふぇ、飼い殺し?」
 やっと解放された。癖っ毛のダークブロンドがボサボサになったのを兄は崩壊させたその手で直し、何も言わなかった。
 そのとき居間のドアがノックされた。ヴァニューシャは扉が開きかけた瞬間、整えていたクリーマの乱れ髪を放り出して腕を組み、すまし顔をした。たぶん照れ隠しだ。ほどなくして叔父が顔を出した。
「今日買ったものはうちに置いていく。好きなように使ってくれ」
「そうなの?むっちゃんにお土産は?」
 買った菓子の類のうちいくらかは従姉の睦希が欲しがるかもしれないと思った。だが叔父は首を横に振り、娘にはそれを要らないという。胸ポケットから細長い紙切れを取り出した。
「レシートさえあればいいんだ」
「四五二八円だって。たくさん買ったねぇ」
「それだけじゃない、日用品の値段もメモした。写しとく?クリーマも社会勉強にいいかもしれない――僕は、よく父さんから教えられた。どれがいくらくらいして、どのくらいの頻度で買わないといけない……」
「叔父さま、こいつの後学のためにぜひ印刷してください。うちの父さんは帝王学を全く身につけていませんから、あなたがやってあげてください」
「兄さんはそれが要らない人だったよ。君とおんなじだ……やっぱり、に」
「よしてください」
 似ている、の四文字すら言わせない速さで甥に言葉を遮られて、知匡はニヤリとした。予想通りの反応だったからだ。彼は機嫌良く執事の一人を呼ぶとレシートを挟んだメモ帳を渡し、これこれを印刷するようにと指示を出した。
「知匡さま、申し訳ございません。お帰りだったのに気がつくのが遅れました」
「ああ、いいんだ彩ちゃん。もうすぐ帰るからいいのに。ありがとう」
 叔父の帰還を知った女中が急いで茶を淹れて持ってきた。今度はスーパーで買った茶菓子などを出して茶会が再開された。
「兄さんの自己嫌悪は僕にはいまだによく分からないんだ」
「自己嫌悪?なにそれ」
「クリーマには分からなくても、多分ヴァニューシャには分かるんだろうね――あの言葉は、言わないけど」
「……ふん」
「僕らは似てなくてねぇ。似てなさすぎて仲が悪くなる隙もなかった。クリーマくらいの歳の頃かなぁ。兄さんは政治家になるつもりが全くないし、多分やらせたら死んじゃうと思って、僕がやるんだなって自覚した」
「軟弱。私なら、ギリギリまだやれると思います――やりたくありませんけどね」
「僕はずっとサッカー選手になりたかった。この歳になって学生時代にサッカーばっかりやっていたのに助けられていると思うけどね。結構体力勝負なところがあってさ……クリーマはテニスを続けなさい。培われる体力は無駄にはならない」
 なんだか、自分が叔父の後継者にならなければならない風潮が完璧に出来上がってきているような気がする。安積一族の仕来りとして、特段の事情がない限り東京本家の者が福島二区の選挙区の地盤を受け継がなければならない。次男とか三男が代議士をしても、その次代は長男の子が継承する。だから、次男の知匡がいまは政治家をしていても、長男の息子である兄か自分が次を担わなければならない。
「……僕今からでも、ママに弟を作ってって頼もうかなぁ!」
「あの人四十二ですよ。もう無理でしょう」
「わぁ、ママ怒るよ!それに、四十二歳だと無理なの?なんで?」
 兄はソファに転がしてあったコリーのマグネットを取ってクリーマに握らせた。
「お前は、ゆっくり勉強しなさい。まだ大人にならなくていい」
「クリーマはいいね、頼もしい兄さんがいて」
「まぁね、あの人よりは頼り甲斐があると思いますよ」
 ヴァニューシャは父より頼りになると暗に叔父に認定されたので得意げにしている。 
「ふっ」
「笑わないでくださいよ」
「ごめん」
 そろそろ帰るのだと言いながら馴染みのソファに深く腰掛けた叔父は、どちらかが自らの地位を継ぐように運命付けられた二人の甥のやりとりを目を細めて眺めていた。

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