叔父の休日
日曜午後、礼拝が終わって家に帰ってくると、大抵この時間はうとうとしてしまう。帰ってきてすぐに居間のソファに寝転がった兄はとっくに寝息を立てていた。
誰か入ってきた気配を察知して振り返ったら、祖母だった。クレマン=ラファエル伊吹は眠いのにまだ爛々輝いているヘーゼルアイをそちらに向けて、彼女が年長の孫を気遣うのを見た。
「あら……伊織ちゃんもう寝てる。寒くないかしらね」
ヴァニューシャは上着をソファの背もたれに引っ掛けたまま横になった。それを手に取ると優しい祖母は、そっと息子の長男の上半身に赤茶色のベロアでできたカーディガンを引っ掛けた。これから下がってくる気温のために彼が風邪をひかないように。
「ばあちゃん。お兄ちゃんは、礼拝の間も眠そうだったよ」
「疲れているのよ。ついこの間まで文化祭の準備で忙しかったし、この子は日曜日しかお休みがないのに、こうして礼拝に参加するものだから……おやすみしたっていいのに、真面目なのね」
「真面目だよねぇ、僕中学生になったら日曜日は毎日寝ていたいなぁ!でも起きるよ、聖堂に行くんだもん」
「あらあら、伊吹ちゃんも良い子で、亡くなったおじいちゃまとおばあちゃまが喜んでるわね」
「だといいなぁ……僕も眠いや。ばあちゃん、僕も寝ていいかなぁ」
「寝なさい、寝なさい。伊吹ちゃんこそ薄着よね――毛布でも持ってこようかしら」
ふぁ――祖母がしずしずとした足取りで出て行った後ろ姿を見届けながら、クリーマは猫のように大きなあくびをした。
安積家の居間は親戚が集まった時に全員収容できる広さが確保されてある。あちこちに立っている柱が少々邪魔だが、明治時代に最初に建造された時の設計上、木造だったためこれは仕方がないのだという。
ホテルのロビーのようにソファとテーブルの組み合わせが複数置かれている。兄の寝ているソファと机を挟んで向かい側にクリーマは寝転がった。
デスクボードに卓上式のカレンダーが立てかけてある。
「んー……十月かぁ」
少し前までは暑かったが、最近は肌寒い日がとみに増えてきた。だから、祖母は肌寒いと言って孫たちを心配して、ああして毛布を取りに行ったのだ。意識を手放しかけた頃、ふんわりと肩のところに毛布のかけられた感触があった。
「んー」
なんだか騒がしい。クリーマが目を覚ますと、多分寝入ってからあまり時間は経っていないと見える――というのも、まだ窓から見える外が明るかったから。しばらくぼんやりと、窓から見える庭の木々を凝視していた。居間の隣のテーブル席に誰か来ている。聴き慣れた声である。
兄は向かいのソファからいなくなっている。祖母が持ってきたのだろう毛布が綺麗に畳まれてそこに置いてあった。兄が起きて行ったのは来客のためだろうか。来客、というか、その人は里帰りしにきただけなのだ――父と声の高さは近いけど音色がずっと明るく、そのために少し高く聞こえるそれは、叔父・知匡の声である。
「うーん……叔父ちゃん来てるの?」
起き上がると、史上稀に見る爽やかな代議士と評される叔父の姿はたしかにそこにあった。同じテーブルを囲むのは、祖父と兄だった。父・千理の姿はなかったが、クリーマは直感的に「パパはお昼寝中だ」と思った。
こうして父の世代だけ傍系にずれた三世代が机を囲み、女中のたえにお茶を淹れてもらっているところだった。
「お、クリーマ起きた?薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)食べる?」
「んー食べるよ?たえちゃん僕のお茶あるー?」
齢七十を超えても安積家に奉職する女中・たえは、末っ子坊ちゃんの問いかけに満面の笑みで答えた。
「はい伊吹坊ちゃん。いますぐ、ご用意いたしますよ――あらちょうどいいとこに」
たえが出るまでもなく、もう一人の女中・りえがやってきた。どこかで聞き耳を立てていたのか、彼女の手にはもう一つの湯呑みがあった。それはクリーマが愛用している犬が描いてあるやつ。
「わ、すごい連携プレイだな」
「りえは地獄耳だからなぁ」
「馨さま、そんな地獄耳だなんて。天国耳でお願い致しますわ」
「ああ。天国耳は役に立つな――なぁ?」
クリーマは自分のためにも淹れられたお茶と、出された薯蕷饅頭の前に、叔父の隣に腰を下ろした。向かいに兄がいたのでまるで緊張感はなかった。
「叔父ちゃん、今日は聖堂にいなかったね?」
「そう、会津に行っていたから。さっき帰ってきたところ……瑠美と睦希は来てたでしょ」
「うん、会ったよ」
「会津はどうでした?」
「んー、いろいろ聞いてきたけど。廃炉の予算が足りてないとか――あと、やっぱりだけど農業の次世代不足とか……町工場が経営難とかね……地方にはよくある話だね。政府の方でも考えておきますと言ってきた。合いそうな委員会とかで俎上に上げるしかないね」
「んー、楽しかった?」
「……いや、疲れた」
叔父は会津に遊びに帰ったわけではない。自分が選挙区とする福島二区の人たちに国政の報告をしたり、地元民の陳情を受け取りに行ったり、視察に行ったりなどで月に最低一度は出向いている。要するに仕事なのだ。
「ヘマはできないでしょ?先祖代々の顔に泥を塗るでしょ?ねぇ、父さん」
「……ん、まぁな。特に俺たちみたいに東京生まれだとな。地元民にとって身近な存在と思ってもらえないと支持は得にくい」
「言われるの、やっぱり東京のもんは違いますねぇって……どう返したらいい?」
「俺も言われたが――お前はまだいいだろう、俺の時は日本人ではないとすら言われたから……」
「ああ――父さんはそうだろうね。僕はまだ、ましか」
選挙区と離れて首都で暮らす代議士には、クリーマには想像できない労苦があるらしい。祖父が「日本人ではない」と言われたのは、また別の問題だとは思う。彼は日露間に生まれたいわゆるハーフであり、きょうだいたちの中では最も日本人であった父に似ていたが、異国の血をとても隠しきれていない。髪こそ黒いが、日本人にはほとんどいない淡い鳶色の窪んだ目と、高く細い鼻筋は、純粋な日本人というには厳しいものがある。ではその下の世代の知匡までいくと、その外国の血は薄まったはずなのに外見上はまったくそうはいかなかった。
安積家はまた「ガイジンみたいな代議士」を輩出した。
知匡の髪は、その父よりずっと茶色く、全体的に色素が薄く、外国の血を思わせずにはおられない外貌となっている。それでも彼が代議士として人種的偏見に晒されていないのは、いかに純然と日本の国益を考えているかをアピールし続けて政治家を務め上げた父のおかげである。安積馨コンスタンチンの拓いたあとの轍を踏むから、知匡は外国人との偏見を受けないで済んでいるのだ。
知匡はお茶を飲み干すと、次のを注ごうか迷った手を引っ込めた。
「この後セイコー堂にいくつもりなんだよね」
「おじちゃん、セイコー堂ってなに?」
叔父が返事をする先に、答えたのは祖父だった。
「伊吹、お前も知っていた方がいいな。この辺りに住んでいるみんながよく行くスーパーのひとつだ。食料とか、日用品とかを買う」
「ああ、スーパーかぁ」
「お前、そんなことも知らないで……でも私も、数えるほどしか行ったことがない。じいさま、私たちはほとんど買い物に行きませんがそれはなぜですか?」
「……人手があるから、だな。なければ自分で行くよ」
人手。この家には使用人が常に複数人常駐している。離れには夜間に執事が一名当直し、必要に応じて――たとえば家族の病気時など――当直の人数は増える。確かに人手には事欠かない。
「普通の家の人は自分で買い物に行きますが、私たちは滅多に行きません。クリーマ、お前はこのことを変だと思いませんか」
「……じゃ、うちは普通じゃないの?」
「普通ではないな。その自覚をしているからこそ、こうして定期的に出向かなければならない。私も現役中は、週に一度は無理でも……二週に一度くらいは市井のスーパーだとか、ホームセンターだとかに出かけたものだ」
「なんで?」
たぶん、クリーマ以外の者は答えを知っている。一番歳の近い兄に聞いてみたかった。見上げると、怜悧さを直接物語る銀色の鋭い瞳とばっちりと目が合った。
「普通の人々の生活実態を、しっかり弁えておくためです。使い古された言葉ですが知っていますか――パンがなければ、ケーキを食べればいいのに――」
「フランス革命」
「そうです。まぁ、その言葉の出所がマリーアントワネットではないことがわかっているんですが。それはさておき、庶民の生活実態を分かっていなかった上流階級が、あまりにも厚顔無恥であることを示す格好の言辞です」
「はは。ヴァニューシャはよく勉強してるな。僕の後を継ぐか?」
冗談めかして叔父は、兄に政治家の世襲を打診する。しかしそのオファーは、次の祖父の言葉によって途端に不確かなものとなる。兄はコースチャの弟・ミーシャの病院の後継として、ずいぶん幼い頃からずっと期待されている――それはクリーマも知っているくらいあからさまに。
「ミーシャが内内定させてるからな……」
「じゃ、クリーマか」
「僕はガイコクジンって言われちゃうよ、叔父ちゃんよりガイコクジンの見た目だもん」
「そうかな……ん、でも大丈夫。その可愛さを維持できれば……少なくとも選挙の女性票は硬い」
「そんな軟弱な。政策で勝負しろ……ん。とりあえず、なんだ。パンがなきゃケーキ。その言葉を引用したのは、なぜだ、ヴァニューシャ」
みんながわあきゃあと喋っても、祖父が低い声で話すと静かになる。この家には家父長の香りが少し残存していた。
「はい。政治にとってもっとも肝要なのは、人々の生活です。民の細部に至るまで赤貧の者がでないように、貧困が出ないように、心を砕くのが政治の仕事です。私たちのような浮世を離れて生活するようになってしまった一族が政治に関わるときには、意識的に一般の人々の生活を理解するように努めなければなりません」
「うむ」
「……はは、ヴァニューシャはパパよりちゃんと言えるんじゃないか」
「千理は政治が嫌いだからな――まぁ、あいつは生まれつきそうだったんだ。よし、知匡。社会勉強だ。伊吹をセイコー堂に連れて行ってやってくれないか。ひとつ、ふたつくらい菓子を買い与えてやってもいい」
「え、僕を連れてってくれるの?」
「父さんの帝王学か……ふふ、懐かしいねぇ僕も受けたやつ。それをクリーマにやるとは光栄だね。じゃ、一緒にセイコー堂に行こう。すぐだ、すぐ――大垣を呼んでくる。あ、りえちゃん。いい?車出してって。大垣にお願いして――」
クリーマは一番にはフランス人の母に似たのだが、父系の要素で言うと、自分は父親である千理より、叔父の知匡の方に似ている。それは父と叔父の両者を知っている親友・朔太郎に兼ねてから言われていて、それは自分も首肯するところだ。だからなのか、知匡は小さな頃から好ましい叔父だった。
「知匡さま、車の準備ができました」
「よし。クリーマ行こう、大事な勉強だ」
「わーい、セイコー堂!」
「あまりわがままを言って叔父さまの足手纏いにならないんですよ、クリーマ」
「わかってるよ」
兄は迷惑をかけぬように釘を刺したが、クリーマが空気の読めないわがままを言うような少年ではないことを、彼はよく知っている。そのことを理解しているから、この兄弟の声の掛け合いはいつも穏便だ。
大垣は主人が甥を伴って歩いてくるのを見ると恭しげにお辞儀した。彼はその黒スーツの下に隆々たる筋肉を隠している。
「伊吹坊ちゃんも、今日はセイコー堂参りですか」
「参りなの?はは、面白いねぇ。楽しみだよ、あんまり行くことないもんね」
「さぁお乗りくださいませ」
クリーマがどこに最初に行きたがるか、知匡は最初から把握していた。お菓子のコーナーである。菓子類を扱う店棚は二つあり、そのうち特に目を引くのは――。
「あっこれ、たぶんこの前テレビで見たやつだ」
「なにそれ」
「んーと、ドラゴンズサーガと書いてある」
「ドラゴン英雄伝説的な……?なにが入ってるんだそれは」
お菓子のコーナーのはずなのに玩具が置いてある。クリーマはこれら色とりどりの小さな箱を見るのが好きだった。
しかし、よくわからない。何か番号で振り分けされて何種類かのおもちゃから選べるらしい。元のアニメをよく知らないので、さまざまなドラゴン的な生き物が描かれたパッケージを見てもあまり興奮を覚えない。
「これはなにか組み立てるらしい」
「プラモデル的な感じか。これ何円するんだ……五百円?へぇそのくらいか」
知匡は律儀に値段をスマホに書き込んでいるらしい。彼にとってそれは高く感じるのか、安く感じるのか。クリーマはそれを訊いてみたいと思った。
「これって高いのかな?こっちは、三百五十円らしい。んーと、指人形。ちょっとさっきのより安いね。でも小さいからそんなもの?」
「安いようにも思うが、中に入っているもののクオリティと比べなければなんとも……一つ買おう。何番がいい?」
「ええー……三番が一番かっこいいかなぁ」
三番は火を吹く赤い竜の模型が作れるようだが、棚の中をひっくり返してもひとつもない。全部、一番と四番である。
「ないよ」
「なるほど買い占められているのかな。一番と四番ってどれ」
一番は人間のキャラがメインで小さなドラゴンの子どものようなものが付属している。四番は緑色の少し不気味なデザイン。三番と同じくなくなっている二番は、水竜で二番めくらいにかっこいい。
「なるほど人気のものが最初に無くなっていくわけか。こういうのはコンプリートしたいものじゃないんだな」
「僕の予想だよ叔父ちゃん」
「どんな予想」
四種類ある。五百円を四つ買おうと思うと、小学生にとっては決して安い金額ではない。多分このアニメの対象年齢は小学生くらい。
「なるほど、たしかに。それで好きなものだけ買うとこうなるんだな」
知匡はマーケティング的には失敗、もっと全部等しく人気の出そうな商品を開発するべきだと論評を下した。
結局そのドラゴンのアニメの玩具菓子は買うのをやめ、代わりにまだ可愛いと思った犬のキャラクターの玩具にした。これも知らないキャラクターだったし、多分女子向けだ。
「この犬はコリーかなぁ!可愛いよね」
「ドリーのぼうけん」
「こいつがドリーっていうらしい!他にもいろんな犬がいる」
「四百二十円か。ふむ……野菜とかより高いし、一般的な家庭だと毎日のように買うようなものじゃなさそうだな……」
「他のお菓子も見て回ろう、おもちゃがついていないのは安いのかな?」
「どうだろうね。その分たくさん入っているから安いとはいえないかもしれない――ん、んん?いや、ちょっと安いんだな。やっぱり玩具は開発とか工程で人件費がかかっているからそうなるかぁ……」
市井のおばあちゃんがよく買っていくような、煎餅の詰め合わせ。二百五十円。玩具菓子より大きいけれど単価が安い。
「こっちのボーロはもっと安いねぇ。これ、僕小さい時に食べたことがある気がするよ!」
「そうだね、だれかが買い出しで買ってきたんだ。似たようなのは僕も小さい頃に食べた……ロングラン商品かも知れない。パッケージもこんなだったような気がするな」
叔父はボーロをしげしげと眺めていた。クリーマは叔父の幼い頃ならまだ昭和かな、とふと思った。そうするとパッケージに描かれた「たまごボーロ」というレタリングも、キリンさんのイラストもどこか昭和レトロなんじゃないかという気がしてくる。
「昭和ってどんな感じかな?」
「昭和?僕もあんまり覚えていないが……時代は連続しているから、しっかり記憶のある平成初期とそんなに変わらないかもな」
ボーロは、僕たちの記憶を繋ぐものなのかも知れない。迷うことなくそれも買い物籠に入れた。少しずつ重量を増してくるそれは、クリーマにとって宝の山のようだった。
「お勘定お願いします」
レジへ持ち込み、なんとなくレジ打ちのおばちゃんの顔をじいっと見ていたら、彼女はまず背の高い知匡の顔を見て変な声を上げる。
「いらっしゃいませ……ん、まぁ」
「はい……?」
「テレビで見たことがあります。俳優さん?」
「あ、あー……いえ。テレビには映っているかもしれませんが、俳優ではないですね」
「坊ちゃん、パパはかっこいいわね……あらー坊ちゃん、なんて可愛らしいのかしら」
レジ打ちの手が止まりかけては、思い出したように次を手に取る。クリーマはいったい何から訂正したらいいのかわからなかった。
――おじちゃんは、俳優じゃなくて政治家だよ。
――おじちゃんは、パパじゃなくて僕のパパの弟なんだ。叔父ちゃんなんだよ。
そのどっちも、あとにつっかえている他の客の接客をより遅らせるだけのような気がして、二人で愛想笑いをしていた。ようやく全ての読み込みを終えて籠を引き取った叔父は荷詰め台に移動するまで笑顔を貼り付け、籠を台に置いた瞬間ため息が漏れ出た。
「はぁ、疲れた……おばちゃん、喋るの好きだなぁ」
「おばちゃんは、あんまり国会中継を見ないんだろうね」
「んー……そんなもんだよ。そのうち僕が誰なのか気がついてくれれば、あの人も政治に興味を持ってくれるんじゃない?」
レジ袋に詰める順番はよく分からない。ああでもない、こうでもない。柔らかいものは最後の方がいいんじゃないか、これは割れるから上の方がいい――そんなことを言い合っていると、後ろから八十過ぎのおばあさんが「かわいい父子じゃの」とぽつり。
「――んー、パパじゃないんだけどね」
「まぁそう見えるよ。仕方ない……いやかな」
「ううん、全然。ちょっと、うれしいや」
「そうかぁ?そしたら、兄さんに言いつけておこう。兄さんショック受けるぞー」
「パパはショック受けないよ、こんなことで」
「いや、受けると思うよ。兄さんは、クリーマが思っているよりずっと繊細で、泣き虫で、困ったやつなんだ」
セイコー堂参り終了。大垣の車がちゃんと予定通りのところに乗り付けていた。クリーマが持つと言って叔父の手から預かった大きなスーパー袋の中には夢がいっぱい詰まっている。
夢――それというのは、クリーマにとりて見たら、普通の人たちの生活を彩るものたち。
誰か入ってきた気配を察知して振り返ったら、祖母だった。クレマン=ラファエル伊吹は眠いのにまだ爛々輝いているヘーゼルアイをそちらに向けて、彼女が年長の孫を気遣うのを見た。
「あら……伊織ちゃんもう寝てる。寒くないかしらね」
ヴァニューシャは上着をソファの背もたれに引っ掛けたまま横になった。それを手に取ると優しい祖母は、そっと息子の長男の上半身に赤茶色のベロアでできたカーディガンを引っ掛けた。これから下がってくる気温のために彼が風邪をひかないように。
「ばあちゃん。お兄ちゃんは、礼拝の間も眠そうだったよ」
「疲れているのよ。ついこの間まで文化祭の準備で忙しかったし、この子は日曜日しかお休みがないのに、こうして礼拝に参加するものだから……おやすみしたっていいのに、真面目なのね」
「真面目だよねぇ、僕中学生になったら日曜日は毎日寝ていたいなぁ!でも起きるよ、聖堂に行くんだもん」
「あらあら、伊吹ちゃんも良い子で、亡くなったおじいちゃまとおばあちゃまが喜んでるわね」
「だといいなぁ……僕も眠いや。ばあちゃん、僕も寝ていいかなぁ」
「寝なさい、寝なさい。伊吹ちゃんこそ薄着よね――毛布でも持ってこようかしら」
ふぁ――祖母がしずしずとした足取りで出て行った後ろ姿を見届けながら、クリーマは猫のように大きなあくびをした。
安積家の居間は親戚が集まった時に全員収容できる広さが確保されてある。あちこちに立っている柱が少々邪魔だが、明治時代に最初に建造された時の設計上、木造だったためこれは仕方がないのだという。
ホテルのロビーのようにソファとテーブルの組み合わせが複数置かれている。兄の寝ているソファと机を挟んで向かい側にクリーマは寝転がった。
デスクボードに卓上式のカレンダーが立てかけてある。
「んー……十月かぁ」
少し前までは暑かったが、最近は肌寒い日がとみに増えてきた。だから、祖母は肌寒いと言って孫たちを心配して、ああして毛布を取りに行ったのだ。意識を手放しかけた頃、ふんわりと肩のところに毛布のかけられた感触があった。
「んー」
なんだか騒がしい。クリーマが目を覚ますと、多分寝入ってからあまり時間は経っていないと見える――というのも、まだ窓から見える外が明るかったから。しばらくぼんやりと、窓から見える庭の木々を凝視していた。居間の隣のテーブル席に誰か来ている。聴き慣れた声である。
兄は向かいのソファからいなくなっている。祖母が持ってきたのだろう毛布が綺麗に畳まれてそこに置いてあった。兄が起きて行ったのは来客のためだろうか。来客、というか、その人は里帰りしにきただけなのだ――父と声の高さは近いけど音色がずっと明るく、そのために少し高く聞こえるそれは、叔父・知匡の声である。
「うーん……叔父ちゃん来てるの?」
起き上がると、史上稀に見る爽やかな代議士と評される叔父の姿はたしかにそこにあった。同じテーブルを囲むのは、祖父と兄だった。父・千理の姿はなかったが、クリーマは直感的に「パパはお昼寝中だ」と思った。
こうして父の世代だけ傍系にずれた三世代が机を囲み、女中のたえにお茶を淹れてもらっているところだった。
「お、クリーマ起きた?薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)食べる?」
「んー食べるよ?たえちゃん僕のお茶あるー?」
齢七十を超えても安積家に奉職する女中・たえは、末っ子坊ちゃんの問いかけに満面の笑みで答えた。
「はい伊吹坊ちゃん。いますぐ、ご用意いたしますよ――あらちょうどいいとこに」
たえが出るまでもなく、もう一人の女中・りえがやってきた。どこかで聞き耳を立てていたのか、彼女の手にはもう一つの湯呑みがあった。それはクリーマが愛用している犬が描いてあるやつ。
「わ、すごい連携プレイだな」
「りえは地獄耳だからなぁ」
「馨さま、そんな地獄耳だなんて。天国耳でお願い致しますわ」
「ああ。天国耳は役に立つな――なぁ?」
クリーマは自分のためにも淹れられたお茶と、出された薯蕷饅頭の前に、叔父の隣に腰を下ろした。向かいに兄がいたのでまるで緊張感はなかった。
「叔父ちゃん、今日は聖堂にいなかったね?」
「そう、会津に行っていたから。さっき帰ってきたところ……瑠美と睦希は来てたでしょ」
「うん、会ったよ」
「会津はどうでした?」
「んー、いろいろ聞いてきたけど。廃炉の予算が足りてないとか――あと、やっぱりだけど農業の次世代不足とか……町工場が経営難とかね……地方にはよくある話だね。政府の方でも考えておきますと言ってきた。合いそうな委員会とかで俎上に上げるしかないね」
「んー、楽しかった?」
「……いや、疲れた」
叔父は会津に遊びに帰ったわけではない。自分が選挙区とする福島二区の人たちに国政の報告をしたり、地元民の陳情を受け取りに行ったり、視察に行ったりなどで月に最低一度は出向いている。要するに仕事なのだ。
「ヘマはできないでしょ?先祖代々の顔に泥を塗るでしょ?ねぇ、父さん」
「……ん、まぁな。特に俺たちみたいに東京生まれだとな。地元民にとって身近な存在と思ってもらえないと支持は得にくい」
「言われるの、やっぱり東京のもんは違いますねぇって……どう返したらいい?」
「俺も言われたが――お前はまだいいだろう、俺の時は日本人ではないとすら言われたから……」
「ああ――父さんはそうだろうね。僕はまだ、ましか」
選挙区と離れて首都で暮らす代議士には、クリーマには想像できない労苦があるらしい。祖父が「日本人ではない」と言われたのは、また別の問題だとは思う。彼は日露間に生まれたいわゆるハーフであり、きょうだいたちの中では最も日本人であった父に似ていたが、異国の血をとても隠しきれていない。髪こそ黒いが、日本人にはほとんどいない淡い鳶色の窪んだ目と、高く細い鼻筋は、純粋な日本人というには厳しいものがある。ではその下の世代の知匡までいくと、その外国の血は薄まったはずなのに外見上はまったくそうはいかなかった。
安積家はまた「ガイジンみたいな代議士」を輩出した。
知匡の髪は、その父よりずっと茶色く、全体的に色素が薄く、外国の血を思わせずにはおられない外貌となっている。それでも彼が代議士として人種的偏見に晒されていないのは、いかに純然と日本の国益を考えているかをアピールし続けて政治家を務め上げた父のおかげである。安積馨コンスタンチンの拓いたあとの轍を踏むから、知匡は外国人との偏見を受けないで済んでいるのだ。
知匡はお茶を飲み干すと、次のを注ごうか迷った手を引っ込めた。
「この後セイコー堂にいくつもりなんだよね」
「おじちゃん、セイコー堂ってなに?」
叔父が返事をする先に、答えたのは祖父だった。
「伊吹、お前も知っていた方がいいな。この辺りに住んでいるみんながよく行くスーパーのひとつだ。食料とか、日用品とかを買う」
「ああ、スーパーかぁ」
「お前、そんなことも知らないで……でも私も、数えるほどしか行ったことがない。じいさま、私たちはほとんど買い物に行きませんがそれはなぜですか?」
「……人手があるから、だな。なければ自分で行くよ」
人手。この家には使用人が常に複数人常駐している。離れには夜間に執事が一名当直し、必要に応じて――たとえば家族の病気時など――当直の人数は増える。確かに人手には事欠かない。
「普通の家の人は自分で買い物に行きますが、私たちは滅多に行きません。クリーマ、お前はこのことを変だと思いませんか」
「……じゃ、うちは普通じゃないの?」
「普通ではないな。その自覚をしているからこそ、こうして定期的に出向かなければならない。私も現役中は、週に一度は無理でも……二週に一度くらいは市井のスーパーだとか、ホームセンターだとかに出かけたものだ」
「なんで?」
たぶん、クリーマ以外の者は答えを知っている。一番歳の近い兄に聞いてみたかった。見上げると、怜悧さを直接物語る銀色の鋭い瞳とばっちりと目が合った。
「普通の人々の生活実態を、しっかり弁えておくためです。使い古された言葉ですが知っていますか――パンがなければ、ケーキを食べればいいのに――」
「フランス革命」
「そうです。まぁ、その言葉の出所がマリーアントワネットではないことがわかっているんですが。それはさておき、庶民の生活実態を分かっていなかった上流階級が、あまりにも厚顔無恥であることを示す格好の言辞です」
「はは。ヴァニューシャはよく勉強してるな。僕の後を継ぐか?」
冗談めかして叔父は、兄に政治家の世襲を打診する。しかしそのオファーは、次の祖父の言葉によって途端に不確かなものとなる。兄はコースチャの弟・ミーシャの病院の後継として、ずいぶん幼い頃からずっと期待されている――それはクリーマも知っているくらいあからさまに。
「ミーシャが内内定させてるからな……」
「じゃ、クリーマか」
「僕はガイコクジンって言われちゃうよ、叔父ちゃんよりガイコクジンの見た目だもん」
「そうかな……ん、でも大丈夫。その可愛さを維持できれば……少なくとも選挙の女性票は硬い」
「そんな軟弱な。政策で勝負しろ……ん。とりあえず、なんだ。パンがなきゃケーキ。その言葉を引用したのは、なぜだ、ヴァニューシャ」
みんながわあきゃあと喋っても、祖父が低い声で話すと静かになる。この家には家父長の香りが少し残存していた。
「はい。政治にとってもっとも肝要なのは、人々の生活です。民の細部に至るまで赤貧の者がでないように、貧困が出ないように、心を砕くのが政治の仕事です。私たちのような浮世を離れて生活するようになってしまった一族が政治に関わるときには、意識的に一般の人々の生活を理解するように努めなければなりません」
「うむ」
「……はは、ヴァニューシャはパパよりちゃんと言えるんじゃないか」
「千理は政治が嫌いだからな――まぁ、あいつは生まれつきそうだったんだ。よし、知匡。社会勉強だ。伊吹をセイコー堂に連れて行ってやってくれないか。ひとつ、ふたつくらい菓子を買い与えてやってもいい」
「え、僕を連れてってくれるの?」
「父さんの帝王学か……ふふ、懐かしいねぇ僕も受けたやつ。それをクリーマにやるとは光栄だね。じゃ、一緒にセイコー堂に行こう。すぐだ、すぐ――大垣を呼んでくる。あ、りえちゃん。いい?車出してって。大垣にお願いして――」
クリーマは一番にはフランス人の母に似たのだが、父系の要素で言うと、自分は父親である千理より、叔父の知匡の方に似ている。それは父と叔父の両者を知っている親友・朔太郎に兼ねてから言われていて、それは自分も首肯するところだ。だからなのか、知匡は小さな頃から好ましい叔父だった。
「知匡さま、車の準備ができました」
「よし。クリーマ行こう、大事な勉強だ」
「わーい、セイコー堂!」
「あまりわがままを言って叔父さまの足手纏いにならないんですよ、クリーマ」
「わかってるよ」
兄は迷惑をかけぬように釘を刺したが、クリーマが空気の読めないわがままを言うような少年ではないことを、彼はよく知っている。そのことを理解しているから、この兄弟の声の掛け合いはいつも穏便だ。
大垣は主人が甥を伴って歩いてくるのを見ると恭しげにお辞儀した。彼はその黒スーツの下に隆々たる筋肉を隠している。
「伊吹坊ちゃんも、今日はセイコー堂参りですか」
「参りなの?はは、面白いねぇ。楽しみだよ、あんまり行くことないもんね」
「さぁお乗りくださいませ」
クリーマがどこに最初に行きたがるか、知匡は最初から把握していた。お菓子のコーナーである。菓子類を扱う店棚は二つあり、そのうち特に目を引くのは――。
「あっこれ、たぶんこの前テレビで見たやつだ」
「なにそれ」
「んーと、ドラゴンズサーガと書いてある」
「ドラゴン英雄伝説的な……?なにが入ってるんだそれは」
お菓子のコーナーのはずなのに玩具が置いてある。クリーマはこれら色とりどりの小さな箱を見るのが好きだった。
しかし、よくわからない。何か番号で振り分けされて何種類かのおもちゃから選べるらしい。元のアニメをよく知らないので、さまざまなドラゴン的な生き物が描かれたパッケージを見てもあまり興奮を覚えない。
「これはなにか組み立てるらしい」
「プラモデル的な感じか。これ何円するんだ……五百円?へぇそのくらいか」
知匡は律儀に値段をスマホに書き込んでいるらしい。彼にとってそれは高く感じるのか、安く感じるのか。クリーマはそれを訊いてみたいと思った。
「これって高いのかな?こっちは、三百五十円らしい。んーと、指人形。ちょっとさっきのより安いね。でも小さいからそんなもの?」
「安いようにも思うが、中に入っているもののクオリティと比べなければなんとも……一つ買おう。何番がいい?」
「ええー……三番が一番かっこいいかなぁ」
三番は火を吹く赤い竜の模型が作れるようだが、棚の中をひっくり返してもひとつもない。全部、一番と四番である。
「ないよ」
「なるほど買い占められているのかな。一番と四番ってどれ」
一番は人間のキャラがメインで小さなドラゴンの子どものようなものが付属している。四番は緑色の少し不気味なデザイン。三番と同じくなくなっている二番は、水竜で二番めくらいにかっこいい。
「なるほど人気のものが最初に無くなっていくわけか。こういうのはコンプリートしたいものじゃないんだな」
「僕の予想だよ叔父ちゃん」
「どんな予想」
四種類ある。五百円を四つ買おうと思うと、小学生にとっては決して安い金額ではない。多分このアニメの対象年齢は小学生くらい。
「なるほど、たしかに。それで好きなものだけ買うとこうなるんだな」
知匡はマーケティング的には失敗、もっと全部等しく人気の出そうな商品を開発するべきだと論評を下した。
結局そのドラゴンのアニメの玩具菓子は買うのをやめ、代わりにまだ可愛いと思った犬のキャラクターの玩具にした。これも知らないキャラクターだったし、多分女子向けだ。
「この犬はコリーかなぁ!可愛いよね」
「ドリーのぼうけん」
「こいつがドリーっていうらしい!他にもいろんな犬がいる」
「四百二十円か。ふむ……野菜とかより高いし、一般的な家庭だと毎日のように買うようなものじゃなさそうだな……」
「他のお菓子も見て回ろう、おもちゃがついていないのは安いのかな?」
「どうだろうね。その分たくさん入っているから安いとはいえないかもしれない――ん、んん?いや、ちょっと安いんだな。やっぱり玩具は開発とか工程で人件費がかかっているからそうなるかぁ……」
市井のおばあちゃんがよく買っていくような、煎餅の詰め合わせ。二百五十円。玩具菓子より大きいけれど単価が安い。
「こっちのボーロはもっと安いねぇ。これ、僕小さい時に食べたことがある気がするよ!」
「そうだね、だれかが買い出しで買ってきたんだ。似たようなのは僕も小さい頃に食べた……ロングラン商品かも知れない。パッケージもこんなだったような気がするな」
叔父はボーロをしげしげと眺めていた。クリーマは叔父の幼い頃ならまだ昭和かな、とふと思った。そうするとパッケージに描かれた「たまごボーロ」というレタリングも、キリンさんのイラストもどこか昭和レトロなんじゃないかという気がしてくる。
「昭和ってどんな感じかな?」
「昭和?僕もあんまり覚えていないが……時代は連続しているから、しっかり記憶のある平成初期とそんなに変わらないかもな」
ボーロは、僕たちの記憶を繋ぐものなのかも知れない。迷うことなくそれも買い物籠に入れた。少しずつ重量を増してくるそれは、クリーマにとって宝の山のようだった。
「お勘定お願いします」
レジへ持ち込み、なんとなくレジ打ちのおばちゃんの顔をじいっと見ていたら、彼女はまず背の高い知匡の顔を見て変な声を上げる。
「いらっしゃいませ……ん、まぁ」
「はい……?」
「テレビで見たことがあります。俳優さん?」
「あ、あー……いえ。テレビには映っているかもしれませんが、俳優ではないですね」
「坊ちゃん、パパはかっこいいわね……あらー坊ちゃん、なんて可愛らしいのかしら」
レジ打ちの手が止まりかけては、思い出したように次を手に取る。クリーマはいったい何から訂正したらいいのかわからなかった。
――おじちゃんは、俳優じゃなくて政治家だよ。
――おじちゃんは、パパじゃなくて僕のパパの弟なんだ。叔父ちゃんなんだよ。
そのどっちも、あとにつっかえている他の客の接客をより遅らせるだけのような気がして、二人で愛想笑いをしていた。ようやく全ての読み込みを終えて籠を引き取った叔父は荷詰め台に移動するまで笑顔を貼り付け、籠を台に置いた瞬間ため息が漏れ出た。
「はぁ、疲れた……おばちゃん、喋るの好きだなぁ」
「おばちゃんは、あんまり国会中継を見ないんだろうね」
「んー……そんなもんだよ。そのうち僕が誰なのか気がついてくれれば、あの人も政治に興味を持ってくれるんじゃない?」
レジ袋に詰める順番はよく分からない。ああでもない、こうでもない。柔らかいものは最後の方がいいんじゃないか、これは割れるから上の方がいい――そんなことを言い合っていると、後ろから八十過ぎのおばあさんが「かわいい父子じゃの」とぽつり。
「――んー、パパじゃないんだけどね」
「まぁそう見えるよ。仕方ない……いやかな」
「ううん、全然。ちょっと、うれしいや」
「そうかぁ?そしたら、兄さんに言いつけておこう。兄さんショック受けるぞー」
「パパはショック受けないよ、こんなことで」
「いや、受けると思うよ。兄さんは、クリーマが思っているよりずっと繊細で、泣き虫で、困ったやつなんだ」
セイコー堂参り終了。大垣の車がちゃんと予定通りのところに乗り付けていた。クリーマが持つと言って叔父の手から預かった大きなスーパー袋の中には夢がいっぱい詰まっている。
夢――それというのは、クリーマにとりて見たら、普通の人たちの生活を彩るものたち。