何より尊崇するあなたへ

「殿下」
「……はっ。着いたか?」
「着きましたよ、何度かお声掛けしたのにお返事にならないので心配になりました」
「……白昼夢だ。白昼夢を見ていたのだ――着いた?何公園だったか」
「デュペルー公園です。殿下、本当にお気は確かですか?」
 ええい、マリウスめ。私の気はいつでも確かだ。こんなに優秀な次期国王は、世界のどこを見渡してもいまい?
 私はいま、愛の回想をしていた。だが今は現実に戻って、愛の記録を更新する時だ。 
「ヨーン、邪魔はするな。遠くから見ていること。誰にも言わないこと……言ったらどうなるか」
「ひぇ」
 小心者め。だがお前は、腕っぷしと瞬発力に優れたSPだ。ちゃんと私は、知っている。だから信頼して言うのだ。
「私より先に、私の天使を守りなさい」
「それは……なんといいましょうか」
「――Si ja(はい、といえ).」
「……Ja, Dares høyhet(承知いたしました、殿下).」
 影のように付いてくる。ヨーンは空気の読める男だろうね?近くにいて彼女に存在感が丸出しのようでは、雰囲気はぶち壊しなのだからな。
 チャットが届いている。喜びで手が震えそうに――いや、震えている。君は「池のところにいる」と素っ気なく要件だけ送り届けた。池って、どこだ。公園の入り口にざっくりとした地図を描いた看板があった。そうか、この小さな池がそうなのだな。
 なかなか小綺麗にされたいい公園だ。晩秋にもかかわらず、美しい花々が咲いている。ピンクの花がやたらと目についた。あのときのオーロラの色とよく似ているよ。目に灼きついて離れない色だ。優しい色だったのに、私の中に鮮烈な印象を与えていった――それは君がいたゆえである。
 噴水が見えた。水がまだ凍るような時期ではないので、ジャブジャブと勢いよく噴射しているじゃないか。まるで、子どものように元気だ。さいわい今の時間は、人がまばらで遠くに数名見えるだけ。時間によっては、子ども連れが押し寄せているのかもしれない――ああ、君に会うのはいつぶりだろう!
 長いブリュネットを一つに束ねて、ピンクグレーというのだろうか?そういう色の長いカーディガンを着込んだ君が見えたよ。私は走り出したくなる衝動を抑えた。踊り出したくなる衝動も抑えないといけない!気が変になりそうだ。
「Frøken(お嬢さん)!」
「……あなたっていつも、話しかける時はそれなのね」
 振り向いてくれた。
 君の手は「お嬢さん」にしては大きくて骨張っている。肌はその呼び名に相応しく柔らかい。取った手の甲に唇を押し当てた。君は照れている。だって目を合わせてくれないのだから――でも本心は分かる、少しだけ耳の先がピンク色になるのだ。
 トルコ石と似た色の美しい目が私を可愛く睨んでいる。日本人の祖父を持つ君の目の形は僅かに東洋の面影を残して切れ長だが、その光は君が優しいたましいの持ち主であることを雄弁に物語っている。
「来てあげたわ。あと、私は決してお嬢さんじゃない」
「知ってる。ボリスラフ・ゲオルギエヴィチ」
 女性なら、「ボリスラヴァ・ゲオルギエヴナ」になるはずなのだ――そう、私の天使は、男性だった。だけど私は君を天使だと思っているので、本当にどちらでも構わない。
「その名前でわざわざ呼ぶのは、やめてほしい……ビョルン。私は、その名前は嫌いじゃない。ママがつけてくれた名前にパパの父称が付いている」
 君を生まれさせてくれた素晴らしい父上と母上ならいつか私は挨拶に行くんだ。可及的速やかに。
「知ってる、ごめん」
 君は繋ごうとした私の手を振り払うようなことはしない。私が王太子だと知る前も、知った後も嫌なことは嫌だと言うし、私としても君が嫌がるようなことは絶対にしない。
「――でも私は女じゃなかった」
「まだそれを言っているんだね」
「女じゃないせいで、私はあなたを悩ませている。お互いオスロとモスクワからわざわざ来て、コソコソ会わないといけないのよ」
 その運命を呪う?
 私は却ってよかったとすら思うよ――君、君が二度めに会った時に、言いにくそうに、涙声になって自分は男だと打ち明けた。
 私は君でなかったら、「ああ、そうだったのか。そしたらいい友達になろう」と肝を冷やしながら口走っていたかもしれない。君だから、「男だって?それがなんだというんだい?」という言葉が口をついて出て来た。
 それって、凄まじい運命の力だと思わないか。
「私は異性愛者だと思っていたが、今はスラーヴァ愛者なので、全く関係のないことだ。いつも、言っているだろう」
 手を強く握った。私の大きな手にかかれば君の手は十分に小さい。長身の私の隣に来たら、一八〇センチを超える君だってたおやかな女性に見える。
「……なんども言ったじゃない。あなたがよくっても、ノルウェーの人たちが許さないって」
「そんなものを気にするっていうのかい」
「――あなたは生物学をやっているんだから、染色体を顕微鏡で一度くらい見たでしょう?」
「見たよ。また言うのだろう、Y染色体の話?」
「そう、だけど?」
 私たちはY染色体の保持者同士だ。現状の技術では、まだ精子と精子から子どもを作ることはできない。卵子が必要だ――少なくとも卵子の染色体を除いた部分が必要になる。そして、母体が必要になる。私たちは子宮を持っていない。
「あなたは、ノルウェー国王になったら、次の代の国王を作らないといけない。少なくともそのように期待されるでしょ」
 スラーヴァはピンク色の花をじっと見て、せつなげに言う。花は、雄蕊が花粉を飛ばして雌蕊に受粉し、種子を作る。こいつはいま花を咲かせて人の目を楽しませているが、それは主が命じた本能の副産物だ。彼らは本来、次の代を作るためだけに花を咲かせている。役目を終えると枯れていく。
 人間も、そういうもの?
「国よりも私は君の方が大事だね」
「私には、荷が重いのよ」
「君の荷ごと、私が持ったらいい。ほら、どうだろう。身体なら鍛えた――よっ」
「ぎゃっ!何するのよ」
 ああスラーヴァ、君は思った以上に軽かった。ちょっと肩透かしを喰らった気分だよ。勢いをつけて抱き上げたら、私の腰が反った。
「軽い、君より重い女性はいくらでもいる」
「おろしなさい」
「……はい」
 地に天使を下ろしてあげた。スラーヴァは私を下から覗き込むようにして猫のような目で睨んできた。全然、怖くないけど。
「体重の話はしていません。体重が重かろうが軽かろうがその人の価値はなにも変わりません――ビョルン殿下。私は、主が私を男性として世に生まれさせたことを間違いだと思っていないのよ」
「――信仰心ゆえに?」
 私は十字を切った。スラーヴァの所属する正教会の様式で。私は立場上福音ルーテル派の信徒でなければならない。そのように我が国の憲法で規定されている。
 私は、君のために全力で主と憲法、そして国内の右翼勢力に背く用意があるというのに。君はいつもまっすぐに、主に向かおうとする。
「……そうね、それよりももっと深い理由から」
 君は天を仰いだ。もう空は暗くなった――そんな中でも、あの日のオーロラに照らされているが如く、君の美しさは燦然と輝いている。潤んだ目を見て、私はこの壊れそうに見える繊細な人を守ることをいまここで誓わないといけないような気になった。
「ああ、君は天使だからね」
「あら?私が天使だって、言ったことがあるかしら?」
「私が決めた。そうだと決めた。天使と人が結婚するんだ。男と男が結婚しようっていうよりもっとややこしいじゃないか――そんなのは、人間が可否を決める問題じゃないだろう。だから祈るんだ」
 私も空を見上げた。
 天にいる我らが主、もしおられるなら――私が、あまり熱心な信仰者でないことをあらかじめお断りしておく。そして、これかもしかしたら熱心になるかもしれないし、そうではないかもしれない。不信心者である。先に罪の告白をさせて欲しい。
 もしおられるなら、この人をお守りください。私が社会から排斥されて世界からいなくなっても、この人だけはお守りください。
「――ビョルン、どうしたのよ」
「――え?」
「あなたにしては珍しく、じいっと空を見ていたのね」
「……ああ、殉教の誓いさ」
「あら、どういう心境の変化があったのかしら?」
 君の額の毛の分かれ方、その流し方は父方から遺伝したんだそうだね。私は左側に流された前髪をかき分けて、額にキスした。
 過激な保守派が少なからずいる。その人たちは勝手に国王陛下を理想化して尊崇する。私は理想的な君主には絶対になれない――父上も、先代のお祖父さまもそう。生身の人間だからだ。偶像じゃない。
「くすぐったいわね、そろそろやめにしない?」
「ふふふ」
「……もう」
 私は君を何よりも尊崇する。理想像ではなく、ここに在るありのままを。
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