何より尊崇するあなたへ

 ロワシー空港に降り立つと、私はSPが後ろに尾けてくる気配を感じた。もう駄目だ――一体何人、ついて来たんだろう。そんなことは、隣で荷物を持ってくれているマリウスに確認すればすぐだ。だがもう少し後にする。落ち着ける場所にまずは入りたい。
「マリウス、車は手配してあるのだろうね」
「ええございます。オーヴェルニュ家から一台貸してくださる手筈です」
「そのまままず、オーヴェルニュ家に行きたい。私は疲れている。休ませてもらいたいんだ」
 母上の生家である。とはいえあそこは母上が生まれた当時、迎賓館として公に供されていたのであそこで母上が育ったわけではないらしいが、母上の兄である当主ピエールが若い頃にそこを買い上げて暮らし始めた。だからいまは、あそこがオーヴェルニュ家の本拠地だ。パリの古い貴族屋敷街マレ地区に、ブルボン時代から取り残されたようにして今も当主の一家が暮らすパリで唯一の屋敷だ。
「ビョルン=ハーラル殿下、ようこそお越しくださいました。私はオーヴェルニュ家のマルクと申します。今日から数日こちらの車を使ってくださるとのことで、光栄にございます」
 立派な執事兼運転手のマルク。アスカー城に引き抜きたいくらいだ。オーヴェルニュ家の執事たちはだれを引いて来てもしっかりしているし好感が持てる。
「ああ、ありがとう。マルク、覚えている。何度か会ったじゃないか」
「殿下に覚えていただいているとは、大変な光栄にございます」
 あそこは、いまの私にとって一番落ち着ける場所だ。厳重な警備があるからノルウェーから尾いてきたSPどももそんなに私には目を光らせない。私は与えられた部屋でゆっくり作戦を練ることができるだろう。
「まず、オーヴェルニュ家に連れて行って欲しい。休みたいんだ」
「おや、そうでございますか。では、執事長にすぐ連絡いたします」
 私はあそこに行くとただの「坊ちゃん」になれる。ノルウェーの生家はだめだ、「王太子」にされる。グリュックスブルク家――私はあそこの次期当主として見込まれているのであそこに本来安息を見出したいところだが、今それができない。
 王は人なのか?存在するだけでありがたがられるのと引き換えに、人として当然の享楽すら憚らねばならない。この違和感が急激に強くなったのも、あの人に出逢ってからだ。
 

 オーヴェルニュ家に泊した翌日、私は朝からマリウスに車を出してもらい、セーヌ川を渡って南西方面に出かけた。目的地はパスツール研究所。
 パリにやってきた表向きの理由は、二年前まで留学して籍を置いていたパスツール研究所が主催する研究発表会に顔を出すというもの。私は平素、オスロ大学で生物学研究に従事している。
 研究会の会場に顔を出したら所長が飛んできて、王太子が来ていると衆参者の前で挨拶をさせられた。アポなしでいきなり顔を見せたので何事かと思われたらしいが、適当に「公務が休みだったから」と言っておいた。これは本当だ――休みに「してもらった」。
 一通り興味のある演題に耳を傾けた。ついでに質問もした。見てくれみんな。私はこの研究会にちゃんと、参加している。終わった後、主任研究員の一人でこの研究会の運営メンバーであるブリュショルリー氏が慇懃な様子で挨拶に来た。
 別にそんなに畏まらなくてもいいのに。立派な研究業績を持つ、年齢倍近い方なのに――これも私が王太子だから悪いのだ。
「殿下、この後懇親会がありますがいかがですか」
「ああ……いや、あいにく私はこの後用事があるのです。ええ、もう行かなければならない――ムッシュ・ブリュショルリー。短い時間でしたが、お会いできてよかったです」
 いかにも誠実そうな目線で目を合わせ、大きな手からは意外に思われる優美さで握手してやれば、男女問わず大概の相手に満足を与えることができる。男にはあまり必要がないと思う母譲りの美貌も、こうして時々役に立っている。
「時間通りか」
 王太子よりも、生物学研究者よりも、私は今愛に生きている――時計を見た。午後五時。まだ少しだけ明るいのは、パリの緯度がオスロより低いからだ。これだけでも、寒い時にパリまで来た甲斐がある。太陽が出ているうちにどうか君の顔を拝みたいと思う。
 マリウスは私との約束を寸部も違えない。私が研究所を出ると同時に門扉の前に乗り付けていた。
「マリウス。クレテイユのデュペルー公園へ連れて行ってくれないか」
「承知いたしました。まだずいぶん、郊外の方を選んだのですね……デュペルーの綴りは?」
「ええと……たしかD-U-P-E-Y-R-O-U-Xだ」
 生粋のノルウェー人であるマリウスには馴染みのない綴りだろう。ぎこちない手つきでカーナビを操作している。どうしてそこがいいと思ったかというと、多分人が少ないと予想できたし、よく整備されているとの評判を見たからだ。
「ヨーン」
「は」
「昨日話した通りだ。黙っているんだな……分かるね、お前は私の自由の守り手になるのだ」
 真っ直ぐに見つめると、彼はびっくりしたように視線を返してきた。ヨーン――この車にはもう一人乗っている。馴染みのSPの一人だ。ナルヴィクの田舎から出てきた彼は無骨で素朴なところがあるが、それゆえ信頼できると判断した。伝えた時には目を剥いていたが、それはその純朴さゆえだろう。四十になろうとする年頃らしいが愛らしいところすらある。
 私は今から、愛する人に会いに行くんだ。
 カーナビの算出ではデュペルー公園まで二十分ほどかかるそうだ。私はその間目を閉じて、三年前の記憶を脳裏に蘇らせていた。
 三年前の冬、私はその直前の夏にオスロ大学の学士課程を終え、パリのパスツール研究所への留学準備をしていた。内定している受け入れ先から出された研究課題をやり、母上から習った自分のフランス語が普通に通用することを確かめたくて、過剰なほどに先方と連絡を取っていた。
 私はノルウェーの冬が好きになれない。ほとんど太陽が出ていないのだから。だが唯一好きなところは、オーロラが楽しめるところだった。
 研究課題が一段落したので、気まぐれに我が国最北の地でオーロラ観測に最適と言われるキルケネスを旅行した。王太子の一人旅とニュースに流され、こういう一人の愉しみすらみなに共有されてしまうのかと少し不快な思いがあった。
 ロシアとフィンランド、それに我が国の三ヶ国の国境の町キルケネスにはロシア人もフィンランド人もそれなりにいて、小さな国際都市だった。あそこは都会暮らしの私には信じられないほどに長閑で、寒かったが分厚いフロックコートに包まれながら町を見て回った。見晴らしの良いホテルを取って連日オーロラが現れるのを待った。
 クリスマスが近かったので、人々の可愛い家々はイルミネーションで飾られていた。クリスマスにはさすがに王宮に戻らないといけなかった。王太子が来ていると連日私を探す市民がいて、キルケネスになぜ来たのか訊ねてくれた。オーロラならもっと都会で観るものもあるベルゲンでよかったのにと。
 私はキルケネスでよかったと思っていた。何もない――確かに何もない田舎だったが、私にとってそれは自由の象徴に思われたからだ。町の人たちはここには何もないと自らの故郷を愛を込めて謗っていた。観光客を迎え入れる準備すらろくにしていない飾らなさを私は愛した。その町には気の利いたスクエアすらなかった。
 キルケネスにやってきて四日目の夜、私は夕刻にまどろみ出した。起きてみると、ホテルの窓から異様な光が入ってくるのを見て目を疑った。それまでにもうっすらとした青みのオーロラは出ていたのだ。だけどこの時の光は可愛らしいピンク色だった――可愛らしい、としか表現できないくらい見事な色だったのだ。
 ピンク色のオーロラは聞いたことがない。私はまだ夢を見ているのだろうかと自らを疑いながら外に出て、寒気にあたってハッとした。一番綺麗に見えるスポットがどこか周辺を見渡し、忙しなく動き回った。
 平地で高台はない。高い建物はなく、田舎だからあまり電灯もない。どこでもよかったが、せっかくだから景色のいいところを選び写真を撮っておこう――何よりも、ピンク色というのは珍しかった。写真にして残さないわけには行かないという信念のもと、私は町の人に聞いて、良さそうな場所に連れて行ってもらった。
 民家は近くにあるにせよ、そこだけ少し開けていて、誰かの銅像が立っていて目立った。
――あれは?だれですか。
――ナチスからこの街を開放したソ連兵を讃えるための銅像です。
――なるほど、勉強不足でした。
 モニュメントが立っていた。彼を讃えるためだろう、その時は雪に覆われていたが周りをよく手入れされた芝生が囲んでいた。この町の歴史をろくに知らなかったことを恥じ入るとともに、王室の一員として祖国の歴史を、周辺国の歴史と含めて学び直す必要を感じた。ピンク色に照らされた兵士の彫像は精悍で堂々としていて、モデルとなったソ連兵がいたとしたら私より多分背が低いけれども、男としてだいぶ負けていると思った。
 その英雄を背に、私はカメラを構えた。ろくに詳しくないカメラをこの日のために買ったのだ。撮らないで帰るわけにも行くまい。
 しかしピンク色というのは人を変な気にさせるもので、これが寒色のよくあるオーロラの色だったら大丈夫だったと思うが、私はそのうちぼうっとしてきた。
 私は銅像の大きな台座の傍に座り込み、ぼんやりと宙を見ていた。その間何度かSPに心配されたが、しばらく放っておいてくれと頼んだ。不思議な心地がして、金縛りに遭ったようにその場に囚われた。今思うと、主が私をそこにいるように定めたとしか思われない。その人が現れるために、私をその人に合わせるために。
 ――はっとした。
 何分くらいそこに蹲っていたかわからないが、新たな人の気配を察知したのだ。相変わらず桃色の柔らかな光が私を包んでいた。足音がする方向を見た。普段身辺のことを心配するわけではないが、SPは私に誰かが近づこうとする時必ずそばにいる。だけどこの時、あのとき一緒だった彼らはその者の存在に気がついていないのか、それともあのピンクの魔法に幻惑されたのか、微動だにしなかった。
 もし近づいてきていたのが怪しい輩だったら、彼らは一体どう責任を取ったのだろう。ソ連兵士像と同じ方向を向くようにして私は座っていた。台座で言えば私のいる面の右後方に垂直をなす面のそばに、長い髪を靡かせた背の高い女性が立った。
――……もしもし、お嬢さん(Frøken)?
――あら、人がいらっしゃったのに気が付かなくて……ごめんなさい。
 ノルウェー語で返ってくると思ったので、予想外のリズムの言葉に冷えた耳がピンと立つような錯覚を覚えた。ロシア語だと勘付くのに三秒はかかった。最後の「Извините 」は聞いたことがあった――謝罪したのだと理解できた。
 彼女もまたオーロラを見にきたのだろう、じっと空に見入っていた。ここに住んでいるロシア人だろうか。英語なら分かってくれるだろうか。あいにく、私にはロシア語の心得がない。
――ピンクのオーロラは、見たことがありますか。
――……はじめてね。あなたは?
 落ち着いた声だ。女性のものとしてはだいぶ低く掠れているけど十分魅力的な響きを持っていた。
――私もそう、初めてです。町の人に、観るにはここが良いって言われて来たんだ。この銅像は、あなたの祖国の兵士なんだそうだね。
――あらそう。どうしてノルウェーにロシア兵が?ここは帝国領だったかしら?
――違うんだ、もっと新しい時代の話だそうで……私もさっき、聞いたばかりで。ナチスに占領されていたここに赤軍が来た。開放してくれたソヴィエト兵だって。
 彼女は少し離れて、じっとソ連兵の像を眺めた。私は改めてこの運命の人の姿を見た。座ったままだったから、女性にしては恐ろしく背が高く見えた。
 彼女は、私の正体を知らないだろうか。この像を知らないと言うことは、平生ここに住んでいるロシア人ではないのかもしれない。目にしているのが王太子だとわかると、外国人でも大抵は態度が恭しくなる。でも彼女は私の数メートル前に堂々と立っていた。ピンクの光が照らしている姿は女神のようですらある。
 逆光になって顔がよく見えない。
 誤解を招きそうだが、私は特に女性に目がないというわけではない。これまでの四半世紀の人生で何度か恋をしたこともあった。だから女性なら誰でもいいわけではない。
 だけどこの人の全貌は見たいと思ったんだ。それは直観で、特に理由があるわけではない。
 やっとSPがいそいそとやってきて、ぼんやりしている私を促そうとした。
――殿下、どうなさいます?そちらの女性は?
――もう少しだ――もう少し待ってくれ。私はここに留まる。あれらが消えるまで。
 あれら――オーロラを指差しながら。でもなんとなく、この人はオーロラの精のようなものではないかと思われて、私が言った「あれら」の中に彼女も含み込んでいた。いま思うと、その中心だったかもしれない。君の全貌を見たいがために、オーロラに託けて――。
2/3ページ
スキ