何より尊崇するあなたへ

 寒くなってくるとオスロに昼は無くなる――それは大袈裟としても、まだ午後四時なのにすっかり暗い。
「殿下、ようこそお越しくださいました」
「うん」
「お寒くありませんか」
「寒い。でも心は燃えているから大丈夫」
「……ほほう、結構なことですね」
 幼い頃、私はいつも母上の腕の中に微睡んでいられた。母上の話すノルウェー語は少しへんだった。何が変かといえば、要するに遠いところから嫁いできた人特有の訛り、少しつっかえたような感じ。
 だから物心ついて私がおしゃべりをするようになると、母上と私のそばには必ず誰かネイティブのノルウェー語話者がいた。それは国王だった、少し前に崩御されたお祖父さまフレデリク七世のこともあったし、当時王太子だった父上エイリク四世のこともあったが、侍従長のこともあった。とにかく、母上は肩身の狭い思いをしていたと思う。彼女はフランスの名門に生まれたが、まさかノルウェーに嫁ぐことになると思わず、ノルウェー語もそれに少し似たところのある他の北欧語にもほとんど触れないまま学生時代を終えていた。
 久方ぶりに王太子用のアスカー宮殿から王宮にやってきた私を真っ先に出迎えたのは侍従長だったが、生まれた時から馴染みの家族はなかなか出てこなかった。いつものラウンジに足を運んだら、母上と妹が普通に過ごしている。次代の国王という私も舐められたもんだね。まぁ、いいけれども。
 私は二人が女同士の話に花を咲かせるのを向いのソファに座ってぼんやりと聞いていた。ふと、母上のその流れるようなノルウェー語が素晴らしいことに思い当たったので両手を叩いた。
「母上」
「あらどうしたのビョルン」
 驚かせたか。びっくりと肩を震わせてこちらを見る美しい母上と妹である――まぁ、私も負けず劣らず美しいのだが。一九〇を超える長身である私の手もまた大きいので、拍手がやたらと部屋内に響いてしまったのだね。
「あなたのノルウェー語は、とても流暢です」
「まぁ、いまさらよ。ねぇ、グレタどうかしら?いまさらだと思わない?」
 マルグレーテは母上に同調し、私が面白いおしゃべりを遮ったことを謗るような目線をこちらに向ける。ああ、空気が読めない兄貴ですまなかったね。生まれてこの方、読もうとしたことはないわけだが。
 しかしこんなわがまま坊ちゃんの私も、母上の切ない気持ちを少しくらいは考えてみたことがあるんだ。グレタ、君が母上のお腹に宿る少し前、私がまだ文字通りの幼児だった時期にね。
「グレタ、君には分からないだろうね」
「いったい何の話、お兄さま。お母さまのノルウェー語が流暢でいらっしゃることと何の関係が」
「先に生まれた者の特権だ、この感慨は……母上のノルウェー語はよくなった、それは見違えるくらいに……今思うと君が大きくなった頃には、今くらいに流暢であったかもしれないね」
 母上の金に近いほど薄い琥珀のような瞳は、角度によっては緑っぽく見える。聡明なマリア・テレーゼ王妃は私の言わんとしたことをお分かりである。それはこの玉虫色に潤んだ瞳が何よりの証拠。
「そうね、昔私はへただったわ。あなたが変な発音を覚えやしないかって、気を遣って気を遣って、ね」
「そう、気を遣わされてね、周りの連中から。ちょっとしたときにも口を開くのも困難だった頃もあった――気がする」
「まぁ、ビョルン。あなたってばよく見ていたのね」
 四歳の頃かな。ずいぶん幼い頃から聡明だったからね。よく覚えてる、やっと二人きりになれたときに、母上が私にごめんねとこぼした日のことは。
 ノルウェー王家を守っていかなければならない。ノルウェー人の伝統、民族統合の誇りでいなければならない――そのため、変にフランス風の作法を時期国王たる長男に教え込んでくれるな。陰に陽にそういう牽制が、母上の上にはあったと思う。
 四歳の折、私は王室のメンバーであることの重圧にはまだ気が付いていなかった。いまも私は父上に守られてわがまま坊ちゃんを通しているが、さすがに二十代後半に入って世間からの目も痛い。変なことはしてくれるなとたびたび釘を刺される。
「私が嫁いできた時、他の国の王族でもない、ノルウェー人でもない王妃は初めてだったのよ」
「……それって、重要なこと?」
「きっと、一部の国民にとっては大切なことなの。ねぇグレタ、あなたは好きな人と結婚しなさい。でも、国民の目があるわ。誰もがいいと思うような素敵な相手を見つけるのよ」
「ふぅん。それって面倒よね……ねぇお兄さまは?」
 ぎくっ。
 今その話をしてくれるな、グレタ、我が妹よ。その類の質問は、いま兄の急所に入るから。
「まだ早いよ、早い……私ってまだ……いや、もう二十五、か……いやまだ早いだろう。ねぇ母上。父上と母上がご結婚した頃、あなたたちはいくつだった」
「そうねぇ……たしか、あの人が三十二歳で私がその四つ下よ」
 母上は新婚の日々のことを比較的よく覚えているが、年齢をズバリというのを躊躇った。もう六十になろうという年齢だから、それも仕方がなかろう。 
 三十前後。父上は、三十二のときに結婚、か。ならば私の年齢からしたらまだ五、六年の猶予がある。しかし、五、六年といえば案外に短いぞ。
 私は妹の顔を見た。母上に似て美しい少女だったグレタ。グレタはいま、二十一歳になる。五、六年前には、この娘はまだ高校に通っていて、あどけなかった。それがいまや、立派な淑女の風格を備えつつある。
 それに、私は驚きを隠せない。たかが五、六年、されど五、六年。あっという間に年月は過ぎ去っていくものなのだ。
「……ああ、結婚のことを気にしているなら、ね。ビョルン。あなたとの結婚を夢見ている女の子たちはごまんといるから、心配しないでちょうだい。あなたさえその気なら、すぐに縁談は舞い込むと思うのよ――ただ」
「た、ただ?」
「世の中に流布されている、あなたの完璧な王太子というイメージと、実際のその落ち着きのなさのギャップは、びっくりされるかもしれないわね」
「ああ、そんなことなら、とうに分かっているさ……」
 私は白々しい演技を続けた。
 母上、私はもう心に決めた人があるんだよ。いま、全く結婚相手を得られるかどうかの心配はしていない。そうじゃなくて、あの子と、私が共にいることを、みんなが――みんなってなんだ?――まぁともかく、多くの人々が許してくれるのかどうかという問題なんだ。
「お兄さま、どうしたのよ変な顔して」
「――いいやっ!なんでもない。なんでもないよ、グレタ。君は自分の結婚の心配だけしていればいい。兄の結婚?そんなのは、どこ吹く風で生きていきなさい」
「……まぁ、そういうわけにもいかないんだけどね、次期国王陛下」
「う、ううむ」
 私は最近、自分の出生の境遇を恨むようになった。自分は王子だ王太子だと言われ、誰からも傅かれるのを鼻にかけていた時期もあった。あれは十一、二歳の頃か。ティーンエイジャーになる直前の最も無鉄砲で鼻持ちならない時期だ。
 だが今は、少しずつ世間の要請というものを感知し、ある程度は応えねばならないという一定の「常識」を身につけたんだよ。だってもう、私も二十五歳だ!
 しかし、その常識を以てしても乗り越えることが難しい問題が立ちはだかった。それは、他ならない愛の問題だ。
 ――愛。
「――Любовь」
「あら、どうしたの、何?その言葉は……確か、ロシア語かしら」
「い、いや?この前、ロシア人にはリュボフィという名前の女の子がいることを知ってね。それは可愛い名前じゃないか?リュボフィ。愛ちゃんだ、愛ちゃん。アムールちゃん。ケァールリェットちゃん……?ケァールリェット?ううむ、我が母国語はあまり可愛くない。母上。貴女の母国語なら、ほら。アムールちゃんは可愛いじゃないか?どう?」
「……ビョルン。今日のあなたは、へんよ」
 母上の訝しがる視線が痛くて、私はついに黙った。そうだね――あの子の父上のように、私も冷静な演技派であれば、こんなボロは出さなかっただろう!そう、もっと涼しい顔をして、胸の高鳴りや高揚する気持ちを抑え、いつものように振る舞ったはず。
 今何時だ。私は時計を見て、出発の時間を考えないといけない。母上とグレタが顔を見合わせて、ソワソワする私を「へんよね」と謗っているが、もう私は構わないことにした。愛しているよ、母上、それに私の唯一のはらからグレタ。
 しかし、親兄弟との訣別の時が近づきつつあるのだ――私は愛に生きる。私がいま落ち着きがないと思っても、その理由は質そうとしないでくれ。興が覚める。
「ビョルン=ハーラル殿下。あなたは先ほどいらっしゃったばかりで、一体どちらに行かれるのですか」
「今日の公務は休みだ。どこに行ったっていいじゃないか。私にはマリウスがいれば良いのだ」
 侍従長が私を追いかけてくる――振り払ってやる!私の方が脚が長いんだ。
「殿下!SPを置いていくことは絶対に許しませんからね!それは危険なのです」
「知らない、知らない!誰もついて来るなッ!」
 私は、この愛の秘密を君たちに知らせるわけにはいかないのだ――唯一、仕方がなくマリウスには打ち明けた。幼い頃から運転手をしてくれる彼には、私のどんな秘密でも打ち明けてきた。父上に打ち明けることはできないさまざまなことを、父上と同年輩のからはいつも聞いてくれた。悪い、ともいい、とも言わないでいてくれる。
 父上はダメだ。すべて、国王の、王朝の論理が差し挟まって、私の自由を侵害するようなことしか言わない――いや、あの人も可哀想な人なのだ。そうやって、自由を奪われてきた人なのだから。
 私はマリウスの車に足早に戻った。王宮に用事があったのは、単に忘れ物を取りに寄っただけ。いつもの風来坊の病が火を噴いた、その程度に思ってはくれまいか。
「マリウス。SPを振り払って空港へ行ってくれ」
「殿下。それは危険です――私一人であなたを守る自信はございません」
「早く発車しろ――ああSP車が準備されてしまう。早く」
「はぁ……板挟みです。殿下、悪く思わないでいただきたいのです。私にも、立場というものがあります。あなたを守らなければならないのです。しかし一人では不可能なのですから」
「早くしろ」 
 マリウスは私の豹変ぶりに驚いている。だが余裕がないのだ。協力してくれないのか――私は、いまから愛する人に会いにいくのだ。その愛が成就することは前途多難だと、お前も知っているだろう。
 その迷いは運転の様子に現れていた。よろよろと発進させるマリウスの白髪の禿頭を見て、私は時が経ったのを思い出した。幼い頃豊かな栗毛の毛髪を持っていたお前は、歳をとった。そんなお前に苦労をかけるわけにもいかない。これからはSPも籠絡し、私の愛の成就のために協力してくれるように説得してゆかねばならない。
 もしパリまでくっついて来た奴がいれば、私はそいつをまず味方につけるように交渉しよう――そう、車中で奸計をめぐらせていた。
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