私がオノレでも、オノリーヌでも。
お馬鹿な甥のことが私は可愛い。
「オノリーヌ叔母さまはなんのお花がお好きですか」
「え?何。急に変なこと訊くのね」
イヴ=ガブリエル和泉というずいぶんな名前をつけられた長姉の至福の息子が生まれた時、私は二十歳で、医学を修める学生だった。
東洋系の義兄から引き継いだ綺麗な黒髪。それと、多分両家に流れるスラヴの血が強く作用して現れた真っ青の――はっとするくらいに鮮やかな、濃い青の瞳。私は時々、この子に見上げられる時ゾッとしたものだ。いまもちょっと、不思議な感覚に襲われていることは否めない。この子は地上の存在ではないのではないかと思わせる美にやられて。
でも、この美少年も、いたって世俗的なことで悩んだりする。
「お花です……何色が好きですか?」
「私が好きなのは、白」
「わかりました、そしたら、他には……薔薇とか、マーガレットとか、ビオラとか、すずらんとかがあります。どんな白い花がお好きですか?」
何の目的でこんなことを訊くのかしら。あなたがお花を好きだというのは、知っている。お母さまがお花を好きなので――ああ、あなたからしたらおばあさまね――、この子も自然にお花が好きになった。
でも、私の好きな花なんて聞いたって仕方がないじゃない。あんまり、興味ないし。
「何かしらね。白ければ、なんでもいいけど。あんまり、花びらの大きくないお花がいい。目立たない、かわいいのが」
「そうですか。すてきです」
「イヴォンは?」
「私ですか?私は、青いお花が好きです。とくにネモフィラがいいです――あ、でもこないだ見かけた青いチューリップはとても可愛かったです、あれも好きです」
「あらそう。かわいいわね」
「ふふふ……」
天真爛漫な子。お姉さまとそっくり。お顔はお義兄さんの要素もあるようだけど、まるで女の子みたい。小さい頃は街を連れ歩くと美少女と騒がれていた。
きっと飛び級しないで普通に学校に通っていれば、女の子にも男の子にもモテたでしょう。それがいい意味なのかは、わからないけれど。
私は、お姉さまと違って華やかさに欠けるので、あまりモテなかった。勉学に集中できたのでよかった。お姉さまのようにゴージャスなブロンドも持たず、どちらかというとおばあさまに似た栗毛。それを短くして、眼鏡をかけて、ごく地味な服装。
オーヴェルニュ家の美人姉妹と言ったら、クレール、スザンヌ、シルヴェーヌ。ここまで。私は、その頭数に入らない。
私は、男の子であることを切望されて生まれてきた、失敗作の女の子だから。お姉さまたちのように、女らしく見た目を着飾るのに抵抗があった。
「――ねぇイヴォン」
「はい?」
「なんで、お花のことなんて聞いたの」
「……ひみつです」
「隠し事が下手なのね。そういうときは、なんとなく、って言った方がいいの」
「ああ……!そうかもしれない、ですね。しっぱいしました」
「おばかね。かわいいけど」
「ふふふ、うれしいです」
十歳の男の子ってこんな感じなのかしら。違うような気がするんだけど。ねぇイヴォン、あなたは自分のこと男の子だって思ってる?私と同じように、自分の性別はなんだか、居心地が悪いと感じていたりしないのかしら。
――あなたの場合、私よりもっとあからさまよね。
私は、女であることは否定しない。ただ、社会が求める「女」としての生き方に迎合できないだけ。あなたは、もっと根底から「男ではない」気がするんだけど。
ま、私から言わない方がいいことよね。気になってはいるけれど。
イヴォンはその歳の子どもが絶対に読まないような難解な歴史書を好奇心いっぱいに読みながら、私の隣に座ってじっとしていた。そういうところ、クレールお姉さまにそっくりなのね。
私がイヴォンを自分の家に呼んだのではない。私の夫がこの子と仲がいいので、いまこの子は私の家にやってきている。十歳にしてリセに転学を認められた天才児。その天才ぶりに、フランスの国民教育担当大臣が特例の認可を与えて類例のない五年の飛級を認めた。この子は将来、人文科学分野の教員として生きていきたいらしい。
ならば、高等師範学校を出ていまリセの哲学科教員を勤める私の夫が、その師として適任だった。私の夫は――もうすぐ帰ってくる。
エルネスト・リーバーマンというのが夫の名で、私たちはドーヴェルニュ=リーバーマンという複合姓を用いている。結婚したのは昨年。エルネストは、私の中学校からの腐れ縁で、言ってみれば恋愛というよりは友情結婚。
「わぁ……ベズビオス山はそんなに噴火したのですね」
あなたが生まれたばかりの時、エルネストは家にやってきて、あなたを抱っこしたのよ。覚えてる?天才少年。
あら、鍵が開く音。エルネストはもう帰ってきたのかしら。
「わぁ、エルニー帰りましたか?」
難しい本を読んでも、やっぱりかわいい子どもね。イヴォンは嬉しそうに本を伏せると、玄関の方に駆けていった。まるで、帰ってきたパパに会いたくて走っていくみたいな姿。
でもイヴォンのパパは、東京に住んでいる。あの子は両親と引き離されて、いつも寂しがっている。だから、気の許せる親戚たちにこんなに懐く。
「エルニー、イヴォンはさっき、いいことを聞きました」
「ん、どうしたんだい」
「おかえり」
「ああ――ただいま、オノリーヌ。ゆっくり休めた?」
「まぁまぁね」
「あのですね、オノリーヌおばさまが、好きなお花についてです」
「……へぇ?どんな花が好きだって?」
「エルニーは知らないですか?旦那さんなのに、知らないんですか」
「だって、教えてないもの。そんなの、知らせる必要ないんだからね」
「はは、そうだね。訊いたことないし」
「ええっ、でも、私のお父さまは、お母さまのお好きな花をご存知です。だってお母さまは、何回もどんなお花が好きだっていうことをお父さまに話したのです」
それは、クレールお姉さまがそういう人だから。あの人は、おとぎ話に出てくるお姫様のような人生を送ることに、なんの違和感も持たない幸せな人だからそうなのよ。
私はそうじゃない。
「イヴォンのママは、パパに好きなお花を知って欲しかったんだ。そういう人なんだ――何食べる?ちょっといろいろ買ってきたけど……」
「ホタテなかったかしら?」
「ああ、あったよ」
「アヒージョが食べたい」
「いいね。じゃあ用意をしよう――それから、あとは……まぁ適当にサラダも作れそうだ。あとはブルストを焼こう――パンはある」
私、今日お休みだったのに、エルネストは家事もしなくていいという。ああ本当に、よくできた「奥さん」になれそうな男。
もしも家事が必要な時には、私の実家からいつでもメイドを呼んでこればいい――ああなんて、恵まれた生活。
こんな風に私は物質的には圧倒的に幸せなのに、何かが欠けていると思われている。
結婚してそろそろ一年が経つ。そういう話をしようものなら、「お子さんはまだですか」と尋ねられるようになった。もちろん、ごく一部の保守的な人たちから。リベラルな人たちは、そんなことは聞いてこないけれど。
まず、実家の親戚縁者。次に、教会で知り合うご婦人方。
私の未来に、出産などというものはない。
そして、エルネスト、いま冷蔵庫から何かを上機嫌で取り出そうとするあなたの未来予定の中にも、「父親になる」という項目は存在しない。ましてや、あなたに至っては、つい一昨年くらいまで、「だれか女の夫となる」という項目もなかった。
あなたは女を好きになる人ではない。
私は、男を必要としない。
そんな私たちが一緒になることにしたのは、ただ、世間体のためだった。でも、これ以上好きな「性別の異なる」相手がお互いにいなかったので、それは性愛ではなかったけれども、私たちは結婚するに至った。
「すぅ……すぅ……」
「あら寝てる」
「んー、もう九時だし。どうしようか、そろそろ、迎えにきてもらう?それとも……」
夕食後、イヴォンはエルネストと哲学書を読みながら、眠りこけてしまった。いま三十歳のエルネストと、十歳のイヴォン――若い父親と息子に、見えないこともない。ごく客観的にみれば。
「お母さまに電話するわ――着信があったみたい」
イヴォンがいつ帰るのか、帰らないとするなら、泊まることになり、明日学校に行くために何時に運転手を迎えに出せばいいか。だいたいそんなような内容だ。
『もしもし、オノリーヌ。イヴォンちゃんは、どうしているかしら』
「エルネストと哲学書を読んで、いま寝ちゃったの」
『あら、そう。じゃあ、そのまま今日はお泊まりかしら』
「ええ、たぶん」
『さっきね、クレールが電話をくれたのよ』
「あらよくあることじゃない?イヴォンのことが気になって?」
『まあそういう話もあるけど――ほらあの子、もう近いうちに四十歳になるじゃない』
「そうね。えっと……三十八よね、いま」
『テオ君と話し合ったらしいのよ、もう子どもを作らないのかどうするのかって――』
げっ、そういう感じの話なの?そもそも、三十八にしてまだ産むつもりがあったことに驚愕した。
「ふ、ふぅん」
『それでね、やめようってことになったんですって』
「いいんじゃないかしら。もう一応、三人もいるんだし――ああジャンミはアレだけど……でも実質、三人の母親よね」
『でもあの子が言うには、二回しか産んでないからもう一度くらいいけるなら行っておきたいというのよ』
「はぁ――」
『でもテオ君がね、もうあの子がお腹を痛めるのは見たくないと言ったんですって。それで、冷静になったそうなのよ……残された人生を今いる家族のために使うことにして、もう新しいメンバーを入れるのはやめよう、って』
「へぇ」
『まぁ、そんな話をされたの――優しいわよね、テオ君って……素敵』
「……で?」
『あらごめんなさい。イヴォンの話だったわね――』
電話を切った後、げんなりとした気持ちになった。
お姉さまはどれだけ「女」なんだろう。多分、生物学的にいえばこういうことだ。四十歳という、自然妊娠の限界期に近づいてきて、本能からもう一人くらい出産したらどうかという気持ちが湧いてきた。それで、惑ったお姉さまは、夫に相談して――いくらか理性的な夫の説得によって、本能の疼きを押し留めることにした。
電話を切るや否や無意識にためいきが出た。
「はぁ」
「……どうしたの、オノリーヌ」
「……お母さまは、私に子どもを産んで欲しいのかしら」
「別に、そんなこと考えてないんじゃないの。あの人はあの人で、苦労しているでしょ……最初から帝王切開、あと二回のチャンスしかなくて――結局女の子しか出てこなかった、って。何回も聞いたよ」
「最後の失敗が私ね」
「……失敗だなんて。そんなことはない――それに、ここに立派な後継の男の子ならいるじゃないか」
ぽんぽん。イヴォンのことを、お父さまは後継として考えているらしい。それは、状況からしても言動からしても明らか。
クレールお姉さまが十代半ばの時にロシアのリゾート地で出逢ってからずっと好きだった人を追いかけ回した末に捕まえて、生んだ子がイヴォンとクリーマ。なのにその前にスゾンお姉さまが「お手つき」していて、ひっそり産んでいたジャンミ。その三人の「母親」として、クレールお姉さまはもう、これで十年かしらね。
確かにテオドール義兄さんは、エキゾチックないい男――なのだろう。
しかしそうまでして、私の姉たちが女なのはなぜなのか。
三姉のシルヴェーヌお姉さまは、まだ私には理解できる。彼女は外交官になった。キャリアを邁進しながら、幼い娘と息子一人ずつを育てている。結婚相手は、ポーランド系貴族の血筋で、ユーロ圏最大手の製薬会社の息子。その相手は「現代のハプスブルク」と社交界でもマスコミでも揶揄されたほどに政略結婚に余念がなかったギョームおじいさまが見つけてきたので、これはどう見ても政略結婚のたぐい。薬学研究者でもあり実業家でもある夫とは対等な関係を持ち、二人の子も非常に計画的に産んでいる。
私には、上の二人――つまり、双子として生まれてきた姉のひと揃いが理解できない。どうしてそんなに、女でいられるのか!
特にやっぱり一番私から遠いと思うのが、クレールお姉さま。スゾンお姉さまはまだ少しわかる――彼女は男を二回乗り換えているのだが――四人を産んでいるが、その父親は三種類ある!それは、彼女が人間としての自己決定権を行使し、パートナーを能動的に変えたからそうなったのだ。
それに対して、クレールお姉さまは「お姫さま」なのだ。童話に出てくる「お姫さま」のように、一人の男に傅き、お世話をし、いわゆる良妻賢母というのだろうか。十八世紀の貴族社会にタイムスリップさせても、彼女は貴族の女として及第点を取るだろう!多分、私は当然として、スゾンお姉さまもシルヴェーヌお姉さまも落第だ。なぜなら、個を持ち、自分の力で男を乗り換えたり、キャリアを切り開いたりするのだから。
それに比べ、クレールお姉さまといったら――多分、テオドール義兄さんが「もう一人作る」ということに同意したら、来年の今頃には、乳飲み子を抱えているだろう。なんなら、自分は子を持ちたくなくても、義兄さんがそれを希望すれば、何度でも出産しているのではないだろうか――度重なる産休がキャリアの妨げになるとしても、彼女は幸せそうに笑っているのではないだろうか。ジャンミの時は結婚前だったからまだいいとして、結婚途中で不倫されてできた婚外子が発覚したとしても我慢しそうだ。そのくらい、あの人は「女」なのだ。
前近代的な女!そう、私はそれを言いたい。男の所有物であることになんら違和感を覚えずに状況を受け入れるそんな女である。
義兄さんが理性的な人で本当に良かった。
「――オノリーヌ?」
「え?」
「……ずっとなにか、考え込んでいたからどうしたのかなって」
「いいえ、少なくとも、私の個人的な問題の話よ」
「そう?なにかあったら、僕でよければいつでも聞くよ……だって君の夫だからね、それはこの世に一人しかいない称号だ」
その称号を、あなたは誇らしげに掲げるわよね。まるで、「スーパーヒーロー」みたいな空疎な称号を、無邪気な幼い少年が誇らしげに名乗る時のように。
私たちは友情結婚。その間に性愛はない。でも私はそれを、悲しいとは思わない。だって、私には性的欲求がないから。
でもどうしてこんなに、モヤモヤすることがあるのかしら。
「んー、ねむい、です……」
「イヴォン、はやくおきて。あなたの叔父さんも叔母さんも、お仕事にいかなければならないの」
「はっ……ここ、叔母さまのおうちでした」
エルネストが明け渡したベッドの上に、イヴォンは伸び伸びと眠っていた。姻族の甥に寝床を奪われた可哀想な主は、リビングのソファに寝ていたけれど誰よりも早く起きて、朝食べるパンを焼き、スクランブルエッグと温野菜を用意していた。
そして私は、あなたを起こしにきた。
「なんじですか」
「八時。もうあなたのジャン=バティストがお迎えに来てる」
「ふぇ」
「教科書、全部積んであるから必要なのを入れながら行けばいいって。早くお着替えして。こないだ置いて行った服あるから。ほらそこに」
昨日の夜のうちにエルネストが気を回して用意しておいてくれたのよ。多分私は、朝になるまでそこまで気が回らなかった。ほら、私って家事やら育児やらがそもそも性に合わない人間なのよ。
十歳とはいえ、着替えを見られたら恥ずかしい年頃。私はイヴォン用になっているエルネストの部屋を後にした。
リビングの机に出されていた私とエルネストの食器はすっかり片付けられている。私の「よくできた夫」は布巾で机の上を拭いていた。
「――イヴォン起きた?」
「ええ、なんとか。あの子誰に似たのかしら?あんなお寝坊さんで」
「お義兄さんでしょ。あの人前言ってた、三度の飯より寝るほうが好きだって――」
「ああ、そうだった?」
男のことは私よりよく見ているのかも。エルネストは、要するに男性同性愛者なのだ。まぁどちらにせよ彼からしたら義姉の夫というわけで、恋愛対象に入れてはならない相手であることは確かだけど。
「イヴォンは、パンを食べるかな?時間あるかな……焼いとくか。ちゃんと着替えられるかな?」
「何言ってるのよ十歳よ」
「そうだった。もうそんなにか……びっくりだ」
私は可愛い甥の世話を焼こうとするエルネストの背中を見ながら思った。私は、あなたにどれだけ助けられているんだろう。男だとか、女だとかの好きじゃなくて、なにか全人的な愛情を、私はあなたに抱いている。
「あんなに小さかったんだ、それがもう十歳だなんて……その間に、僕はどれだけのことができたんだろうね」
「あなたは哲学博士になって、リセの教員になったじゃない」
「……うん、そうだけど。十年か――その時間の流れに見合うように、僕は大きくなることができたのだろうかね……」
世の人は、私とあなたが並んだのを見た時、男女の性愛の間柄なのだと考える。私たちの愛情の形を的確に表現する方法を、人類は持たないのかもしれない。そして、私もそれを表現し切る言語力を持ち合わせてはいない。
私はあなたに幸せでいてほしい。あなたは、私に世話を焼くのが嫌いではない――歪な関係かもしれないけれど。
いつかあなたに本当に愛する人ができた時、私はあなたを送り出すだろう。それはまるで、母親が息子を送り出すときに似ている気がする。だが私は、母親になれる人間として生まれついていない。根本的にそのような生き方が、合わない。
では、私とあなたの関係とは、一体何なのかしらね。私とは、一体何なのかしらね――ああ。
私とは。オノレと名付けられる予定だったが、女だったがためにオノリーヌとなった私とは?
「――オノリーヌ、どうしたのじっと立ったままで。仕事の時間は、大丈夫?」
「……ああ、そうね。そろそろ、出かける用意をしないとね」
私は医師をしている。数年前にパリの北の方、どちらかというと移民がちょっと多い地区に診療所を構え始めた。
いつも持っていく鞄がちゃんと整理されているか、改めて中を開きながら――私は医学の道を志すことに決めた十八歳のころ、社交界でお母さまがダンマルタンの奥さまに言われていた言葉を思い出した。
たしかこんなようなこと――オーヴェルニュ家の四人姉妹は、だれも花嫁修行をしなかったんですね。
お母さまは、時代に合ったレディを育てたのよ、と切り返しておられた。
手堅い長女は社会科学の大学教師に、奔放な次女には新体操を学業はそっちのけにしてやらせ、社会派の三女は外交官の道に――男の子をと期待をかけられて生まれてきてしまった私、四女は医師の道へ。
どんな立派な男子に嫁がせるかで女子の価値を決めない。その子がやりたいことをやらせる――だれと結婚するかは、その子自身が決めたらいい。そんな自由主義の気風が浸透するのは、保守的な旧貴族の社会では遅いらしかった。
私は、後ろめたさを少し感じたような気がする。最後の私は、一番「女らしくない」道を選んだ。
「ああ――バティお迎えに来たの」
玄関口には、すでに支度を済ませたイヴォンが私を待っていて、その傍にはいつもこの子の世話をしている専属運転手のジャン=バティストがいた。皺が刻まれた穏やかな人柄がよく反映された顔で、彼は優しい笑みを作りながらお辞儀した。
「おはようございます、オノリーヌさま。今日は、マルセルの代わりに私がオノリーヌさまもお仕事場までお送りすることになりました。お二人、ご一緒に」
「……エルネスト、あなたは?」
気配はずっとしていた。後ろからエルネストが覗いていた。その両腕にはイヴォンが脱いだネグリジェが入った籠。まだ家事が終わっていないといった出立ち。
「僕は、一人でメトロで行くからいいよ。男一人、狙われることもないだろう……それは、いつものことだ」
「気をつけてよ」
「うん」
「エルニー、いってきます」
いつも、ありがとう――それは、いつかちゃんと、二人きりで落ち着いた時間に言いましょう。いまは、イヴォンが可愛くエルニーに手を振ってあげるだけで十分だわ。
私がオノレだったら、あの人と本当の恋愛関係になったのかしら――それは、わからない。
私がオノレでもオノリーヌでも、エルネストが幸せでいてくれたらそれでいい。あなたの幸せが私の幸せだと思える。これからどんなことが訪れようとも、きっと、ずっと、永遠に――。
「オノリーヌおばさま、マリー橋です♪」
「そうね」
少なくとも、ねぇエルネスト。私たちが暮らすこの中州・サン=ルイを浸すセーヌ川が、この地に今も昔も流れている――その恒久性と同じくらい長い時間、私はこのことを誓うでしょう。
「オノリーヌ叔母さまはなんのお花がお好きですか」
「え?何。急に変なこと訊くのね」
イヴ=ガブリエル和泉というずいぶんな名前をつけられた長姉の至福の息子が生まれた時、私は二十歳で、医学を修める学生だった。
東洋系の義兄から引き継いだ綺麗な黒髪。それと、多分両家に流れるスラヴの血が強く作用して現れた真っ青の――はっとするくらいに鮮やかな、濃い青の瞳。私は時々、この子に見上げられる時ゾッとしたものだ。いまもちょっと、不思議な感覚に襲われていることは否めない。この子は地上の存在ではないのではないかと思わせる美にやられて。
でも、この美少年も、いたって世俗的なことで悩んだりする。
「お花です……何色が好きですか?」
「私が好きなのは、白」
「わかりました、そしたら、他には……薔薇とか、マーガレットとか、ビオラとか、すずらんとかがあります。どんな白い花がお好きですか?」
何の目的でこんなことを訊くのかしら。あなたがお花を好きだというのは、知っている。お母さまがお花を好きなので――ああ、あなたからしたらおばあさまね――、この子も自然にお花が好きになった。
でも、私の好きな花なんて聞いたって仕方がないじゃない。あんまり、興味ないし。
「何かしらね。白ければ、なんでもいいけど。あんまり、花びらの大きくないお花がいい。目立たない、かわいいのが」
「そうですか。すてきです」
「イヴォンは?」
「私ですか?私は、青いお花が好きです。とくにネモフィラがいいです――あ、でもこないだ見かけた青いチューリップはとても可愛かったです、あれも好きです」
「あらそう。かわいいわね」
「ふふふ……」
天真爛漫な子。お姉さまとそっくり。お顔はお義兄さんの要素もあるようだけど、まるで女の子みたい。小さい頃は街を連れ歩くと美少女と騒がれていた。
きっと飛び級しないで普通に学校に通っていれば、女の子にも男の子にもモテたでしょう。それがいい意味なのかは、わからないけれど。
私は、お姉さまと違って華やかさに欠けるので、あまりモテなかった。勉学に集中できたのでよかった。お姉さまのようにゴージャスなブロンドも持たず、どちらかというとおばあさまに似た栗毛。それを短くして、眼鏡をかけて、ごく地味な服装。
オーヴェルニュ家の美人姉妹と言ったら、クレール、スザンヌ、シルヴェーヌ。ここまで。私は、その頭数に入らない。
私は、男の子であることを切望されて生まれてきた、失敗作の女の子だから。お姉さまたちのように、女らしく見た目を着飾るのに抵抗があった。
「――ねぇイヴォン」
「はい?」
「なんで、お花のことなんて聞いたの」
「……ひみつです」
「隠し事が下手なのね。そういうときは、なんとなく、って言った方がいいの」
「ああ……!そうかもしれない、ですね。しっぱいしました」
「おばかね。かわいいけど」
「ふふふ、うれしいです」
十歳の男の子ってこんな感じなのかしら。違うような気がするんだけど。ねぇイヴォン、あなたは自分のこと男の子だって思ってる?私と同じように、自分の性別はなんだか、居心地が悪いと感じていたりしないのかしら。
――あなたの場合、私よりもっとあからさまよね。
私は、女であることは否定しない。ただ、社会が求める「女」としての生き方に迎合できないだけ。あなたは、もっと根底から「男ではない」気がするんだけど。
ま、私から言わない方がいいことよね。気になってはいるけれど。
イヴォンはその歳の子どもが絶対に読まないような難解な歴史書を好奇心いっぱいに読みながら、私の隣に座ってじっとしていた。そういうところ、クレールお姉さまにそっくりなのね。
私がイヴォンを自分の家に呼んだのではない。私の夫がこの子と仲がいいので、いまこの子は私の家にやってきている。十歳にしてリセに転学を認められた天才児。その天才ぶりに、フランスの国民教育担当大臣が特例の認可を与えて類例のない五年の飛級を認めた。この子は将来、人文科学分野の教員として生きていきたいらしい。
ならば、高等師範学校を出ていまリセの哲学科教員を勤める私の夫が、その師として適任だった。私の夫は――もうすぐ帰ってくる。
エルネスト・リーバーマンというのが夫の名で、私たちはドーヴェルニュ=リーバーマンという複合姓を用いている。結婚したのは昨年。エルネストは、私の中学校からの腐れ縁で、言ってみれば恋愛というよりは友情結婚。
「わぁ……ベズビオス山はそんなに噴火したのですね」
あなたが生まれたばかりの時、エルネストは家にやってきて、あなたを抱っこしたのよ。覚えてる?天才少年。
あら、鍵が開く音。エルネストはもう帰ってきたのかしら。
「わぁ、エルニー帰りましたか?」
難しい本を読んでも、やっぱりかわいい子どもね。イヴォンは嬉しそうに本を伏せると、玄関の方に駆けていった。まるで、帰ってきたパパに会いたくて走っていくみたいな姿。
でもイヴォンのパパは、東京に住んでいる。あの子は両親と引き離されて、いつも寂しがっている。だから、気の許せる親戚たちにこんなに懐く。
「エルニー、イヴォンはさっき、いいことを聞きました」
「ん、どうしたんだい」
「おかえり」
「ああ――ただいま、オノリーヌ。ゆっくり休めた?」
「まぁまぁね」
「あのですね、オノリーヌおばさまが、好きなお花についてです」
「……へぇ?どんな花が好きだって?」
「エルニーは知らないですか?旦那さんなのに、知らないんですか」
「だって、教えてないもの。そんなの、知らせる必要ないんだからね」
「はは、そうだね。訊いたことないし」
「ええっ、でも、私のお父さまは、お母さまのお好きな花をご存知です。だってお母さまは、何回もどんなお花が好きだっていうことをお父さまに話したのです」
それは、クレールお姉さまがそういう人だから。あの人は、おとぎ話に出てくるお姫様のような人生を送ることに、なんの違和感も持たない幸せな人だからそうなのよ。
私はそうじゃない。
「イヴォンのママは、パパに好きなお花を知って欲しかったんだ。そういう人なんだ――何食べる?ちょっといろいろ買ってきたけど……」
「ホタテなかったかしら?」
「ああ、あったよ」
「アヒージョが食べたい」
「いいね。じゃあ用意をしよう――それから、あとは……まぁ適当にサラダも作れそうだ。あとはブルストを焼こう――パンはある」
私、今日お休みだったのに、エルネストは家事もしなくていいという。ああ本当に、よくできた「奥さん」になれそうな男。
もしも家事が必要な時には、私の実家からいつでもメイドを呼んでこればいい――ああなんて、恵まれた生活。
こんな風に私は物質的には圧倒的に幸せなのに、何かが欠けていると思われている。
結婚してそろそろ一年が経つ。そういう話をしようものなら、「お子さんはまだですか」と尋ねられるようになった。もちろん、ごく一部の保守的な人たちから。リベラルな人たちは、そんなことは聞いてこないけれど。
まず、実家の親戚縁者。次に、教会で知り合うご婦人方。
私の未来に、出産などというものはない。
そして、エルネスト、いま冷蔵庫から何かを上機嫌で取り出そうとするあなたの未来予定の中にも、「父親になる」という項目は存在しない。ましてや、あなたに至っては、つい一昨年くらいまで、「だれか女の夫となる」という項目もなかった。
あなたは女を好きになる人ではない。
私は、男を必要としない。
そんな私たちが一緒になることにしたのは、ただ、世間体のためだった。でも、これ以上好きな「性別の異なる」相手がお互いにいなかったので、それは性愛ではなかったけれども、私たちは結婚するに至った。
「すぅ……すぅ……」
「あら寝てる」
「んー、もう九時だし。どうしようか、そろそろ、迎えにきてもらう?それとも……」
夕食後、イヴォンはエルネストと哲学書を読みながら、眠りこけてしまった。いま三十歳のエルネストと、十歳のイヴォン――若い父親と息子に、見えないこともない。ごく客観的にみれば。
「お母さまに電話するわ――着信があったみたい」
イヴォンがいつ帰るのか、帰らないとするなら、泊まることになり、明日学校に行くために何時に運転手を迎えに出せばいいか。だいたいそんなような内容だ。
『もしもし、オノリーヌ。イヴォンちゃんは、どうしているかしら』
「エルネストと哲学書を読んで、いま寝ちゃったの」
『あら、そう。じゃあ、そのまま今日はお泊まりかしら』
「ええ、たぶん」
『さっきね、クレールが電話をくれたのよ』
「あらよくあることじゃない?イヴォンのことが気になって?」
『まあそういう話もあるけど――ほらあの子、もう近いうちに四十歳になるじゃない』
「そうね。えっと……三十八よね、いま」
『テオ君と話し合ったらしいのよ、もう子どもを作らないのかどうするのかって――』
げっ、そういう感じの話なの?そもそも、三十八にしてまだ産むつもりがあったことに驚愕した。
「ふ、ふぅん」
『それでね、やめようってことになったんですって』
「いいんじゃないかしら。もう一応、三人もいるんだし――ああジャンミはアレだけど……でも実質、三人の母親よね」
『でもあの子が言うには、二回しか産んでないからもう一度くらいいけるなら行っておきたいというのよ』
「はぁ――」
『でもテオ君がね、もうあの子がお腹を痛めるのは見たくないと言ったんですって。それで、冷静になったそうなのよ……残された人生を今いる家族のために使うことにして、もう新しいメンバーを入れるのはやめよう、って』
「へぇ」
『まぁ、そんな話をされたの――優しいわよね、テオ君って……素敵』
「……で?」
『あらごめんなさい。イヴォンの話だったわね――』
電話を切った後、げんなりとした気持ちになった。
お姉さまはどれだけ「女」なんだろう。多分、生物学的にいえばこういうことだ。四十歳という、自然妊娠の限界期に近づいてきて、本能からもう一人くらい出産したらどうかという気持ちが湧いてきた。それで、惑ったお姉さまは、夫に相談して――いくらか理性的な夫の説得によって、本能の疼きを押し留めることにした。
電話を切るや否や無意識にためいきが出た。
「はぁ」
「……どうしたの、オノリーヌ」
「……お母さまは、私に子どもを産んで欲しいのかしら」
「別に、そんなこと考えてないんじゃないの。あの人はあの人で、苦労しているでしょ……最初から帝王切開、あと二回のチャンスしかなくて――結局女の子しか出てこなかった、って。何回も聞いたよ」
「最後の失敗が私ね」
「……失敗だなんて。そんなことはない――それに、ここに立派な後継の男の子ならいるじゃないか」
ぽんぽん。イヴォンのことを、お父さまは後継として考えているらしい。それは、状況からしても言動からしても明らか。
クレールお姉さまが十代半ばの時にロシアのリゾート地で出逢ってからずっと好きだった人を追いかけ回した末に捕まえて、生んだ子がイヴォンとクリーマ。なのにその前にスゾンお姉さまが「お手つき」していて、ひっそり産んでいたジャンミ。その三人の「母親」として、クレールお姉さまはもう、これで十年かしらね。
確かにテオドール義兄さんは、エキゾチックないい男――なのだろう。
しかしそうまでして、私の姉たちが女なのはなぜなのか。
三姉のシルヴェーヌお姉さまは、まだ私には理解できる。彼女は外交官になった。キャリアを邁進しながら、幼い娘と息子一人ずつを育てている。結婚相手は、ポーランド系貴族の血筋で、ユーロ圏最大手の製薬会社の息子。その相手は「現代のハプスブルク」と社交界でもマスコミでも揶揄されたほどに政略結婚に余念がなかったギョームおじいさまが見つけてきたので、これはどう見ても政略結婚のたぐい。薬学研究者でもあり実業家でもある夫とは対等な関係を持ち、二人の子も非常に計画的に産んでいる。
私には、上の二人――つまり、双子として生まれてきた姉のひと揃いが理解できない。どうしてそんなに、女でいられるのか!
特にやっぱり一番私から遠いと思うのが、クレールお姉さま。スゾンお姉さまはまだ少しわかる――彼女は男を二回乗り換えているのだが――四人を産んでいるが、その父親は三種類ある!それは、彼女が人間としての自己決定権を行使し、パートナーを能動的に変えたからそうなったのだ。
それに対して、クレールお姉さまは「お姫さま」なのだ。童話に出てくる「お姫さま」のように、一人の男に傅き、お世話をし、いわゆる良妻賢母というのだろうか。十八世紀の貴族社会にタイムスリップさせても、彼女は貴族の女として及第点を取るだろう!多分、私は当然として、スゾンお姉さまもシルヴェーヌお姉さまも落第だ。なぜなら、個を持ち、自分の力で男を乗り換えたり、キャリアを切り開いたりするのだから。
それに比べ、クレールお姉さまといったら――多分、テオドール義兄さんが「もう一人作る」ということに同意したら、来年の今頃には、乳飲み子を抱えているだろう。なんなら、自分は子を持ちたくなくても、義兄さんがそれを希望すれば、何度でも出産しているのではないだろうか――度重なる産休がキャリアの妨げになるとしても、彼女は幸せそうに笑っているのではないだろうか。ジャンミの時は結婚前だったからまだいいとして、結婚途中で不倫されてできた婚外子が発覚したとしても我慢しそうだ。そのくらい、あの人は「女」なのだ。
前近代的な女!そう、私はそれを言いたい。男の所有物であることになんら違和感を覚えずに状況を受け入れるそんな女である。
義兄さんが理性的な人で本当に良かった。
「――オノリーヌ?」
「え?」
「……ずっとなにか、考え込んでいたからどうしたのかなって」
「いいえ、少なくとも、私の個人的な問題の話よ」
「そう?なにかあったら、僕でよければいつでも聞くよ……だって君の夫だからね、それはこの世に一人しかいない称号だ」
その称号を、あなたは誇らしげに掲げるわよね。まるで、「スーパーヒーロー」みたいな空疎な称号を、無邪気な幼い少年が誇らしげに名乗る時のように。
私たちは友情結婚。その間に性愛はない。でも私はそれを、悲しいとは思わない。だって、私には性的欲求がないから。
でもどうしてこんなに、モヤモヤすることがあるのかしら。
「んー、ねむい、です……」
「イヴォン、はやくおきて。あなたの叔父さんも叔母さんも、お仕事にいかなければならないの」
「はっ……ここ、叔母さまのおうちでした」
エルネストが明け渡したベッドの上に、イヴォンは伸び伸びと眠っていた。姻族の甥に寝床を奪われた可哀想な主は、リビングのソファに寝ていたけれど誰よりも早く起きて、朝食べるパンを焼き、スクランブルエッグと温野菜を用意していた。
そして私は、あなたを起こしにきた。
「なんじですか」
「八時。もうあなたのジャン=バティストがお迎えに来てる」
「ふぇ」
「教科書、全部積んであるから必要なのを入れながら行けばいいって。早くお着替えして。こないだ置いて行った服あるから。ほらそこに」
昨日の夜のうちにエルネストが気を回して用意しておいてくれたのよ。多分私は、朝になるまでそこまで気が回らなかった。ほら、私って家事やら育児やらがそもそも性に合わない人間なのよ。
十歳とはいえ、着替えを見られたら恥ずかしい年頃。私はイヴォン用になっているエルネストの部屋を後にした。
リビングの机に出されていた私とエルネストの食器はすっかり片付けられている。私の「よくできた夫」は布巾で机の上を拭いていた。
「――イヴォン起きた?」
「ええ、なんとか。あの子誰に似たのかしら?あんなお寝坊さんで」
「お義兄さんでしょ。あの人前言ってた、三度の飯より寝るほうが好きだって――」
「ああ、そうだった?」
男のことは私よりよく見ているのかも。エルネストは、要するに男性同性愛者なのだ。まぁどちらにせよ彼からしたら義姉の夫というわけで、恋愛対象に入れてはならない相手であることは確かだけど。
「イヴォンは、パンを食べるかな?時間あるかな……焼いとくか。ちゃんと着替えられるかな?」
「何言ってるのよ十歳よ」
「そうだった。もうそんなにか……びっくりだ」
私は可愛い甥の世話を焼こうとするエルネストの背中を見ながら思った。私は、あなたにどれだけ助けられているんだろう。男だとか、女だとかの好きじゃなくて、なにか全人的な愛情を、私はあなたに抱いている。
「あんなに小さかったんだ、それがもう十歳だなんて……その間に、僕はどれだけのことができたんだろうね」
「あなたは哲学博士になって、リセの教員になったじゃない」
「……うん、そうだけど。十年か――その時間の流れに見合うように、僕は大きくなることができたのだろうかね……」
世の人は、私とあなたが並んだのを見た時、男女の性愛の間柄なのだと考える。私たちの愛情の形を的確に表現する方法を、人類は持たないのかもしれない。そして、私もそれを表現し切る言語力を持ち合わせてはいない。
私はあなたに幸せでいてほしい。あなたは、私に世話を焼くのが嫌いではない――歪な関係かもしれないけれど。
いつかあなたに本当に愛する人ができた時、私はあなたを送り出すだろう。それはまるで、母親が息子を送り出すときに似ている気がする。だが私は、母親になれる人間として生まれついていない。根本的にそのような生き方が、合わない。
では、私とあなたの関係とは、一体何なのかしらね。私とは、一体何なのかしらね――ああ。
私とは。オノレと名付けられる予定だったが、女だったがためにオノリーヌとなった私とは?
「――オノリーヌ、どうしたのじっと立ったままで。仕事の時間は、大丈夫?」
「……ああ、そうね。そろそろ、出かける用意をしないとね」
私は医師をしている。数年前にパリの北の方、どちらかというと移民がちょっと多い地区に診療所を構え始めた。
いつも持っていく鞄がちゃんと整理されているか、改めて中を開きながら――私は医学の道を志すことに決めた十八歳のころ、社交界でお母さまがダンマルタンの奥さまに言われていた言葉を思い出した。
たしかこんなようなこと――オーヴェルニュ家の四人姉妹は、だれも花嫁修行をしなかったんですね。
お母さまは、時代に合ったレディを育てたのよ、と切り返しておられた。
手堅い長女は社会科学の大学教師に、奔放な次女には新体操を学業はそっちのけにしてやらせ、社会派の三女は外交官の道に――男の子をと期待をかけられて生まれてきてしまった私、四女は医師の道へ。
どんな立派な男子に嫁がせるかで女子の価値を決めない。その子がやりたいことをやらせる――だれと結婚するかは、その子自身が決めたらいい。そんな自由主義の気風が浸透するのは、保守的な旧貴族の社会では遅いらしかった。
私は、後ろめたさを少し感じたような気がする。最後の私は、一番「女らしくない」道を選んだ。
「ああ――バティお迎えに来たの」
玄関口には、すでに支度を済ませたイヴォンが私を待っていて、その傍にはいつもこの子の世話をしている専属運転手のジャン=バティストがいた。皺が刻まれた穏やかな人柄がよく反映された顔で、彼は優しい笑みを作りながらお辞儀した。
「おはようございます、オノリーヌさま。今日は、マルセルの代わりに私がオノリーヌさまもお仕事場までお送りすることになりました。お二人、ご一緒に」
「……エルネスト、あなたは?」
気配はずっとしていた。後ろからエルネストが覗いていた。その両腕にはイヴォンが脱いだネグリジェが入った籠。まだ家事が終わっていないといった出立ち。
「僕は、一人でメトロで行くからいいよ。男一人、狙われることもないだろう……それは、いつものことだ」
「気をつけてよ」
「うん」
「エルニー、いってきます」
いつも、ありがとう――それは、いつかちゃんと、二人きりで落ち着いた時間に言いましょう。いまは、イヴォンが可愛くエルニーに手を振ってあげるだけで十分だわ。
私がオノレだったら、あの人と本当の恋愛関係になったのかしら――それは、わからない。
私がオノレでもオノリーヌでも、エルネストが幸せでいてくれたらそれでいい。あなたの幸せが私の幸せだと思える。これからどんなことが訪れようとも、きっと、ずっと、永遠に――。
「オノリーヌおばさま、マリー橋です♪」
「そうね」
少なくとも、ねぇエルネスト。私たちが暮らすこの中州・サン=ルイを浸すセーヌ川が、この地に今も昔も流れている――その恒久性と同じくらい長い時間、私はこのことを誓うでしょう。