ラーゲリに生まれて
3
秋空は高い。キリルの名を出すと、窓の外を眺めていた兄さんが掠れ声で呟く。
「キリル――あの人は不思議なひとだったね」
そんなに話しにくいのに無理に話そうとするくらいに、昔のことにも関わらず、兄さんあなたは彼のことを結構鮮明に覚えているらしい。そんな鮮烈な印象をあなたに与えた、父親の若い頃の姿を私は知らないよ。
これ以上辛そうな声を聞くのが忍びない私も、その日々のことを聞きたくてついつい問いを畳み掛けた。
「どんなふうに不思議?」
「どうだろうねぇ――母さんが、父さんがおっ死んでから元気をなくして――ゲフッ、そうだね……」
兄さんと姉さんの父親は――オレグは、白系ロシア人で対ソ連部隊を組織した日本軍に雇われており、白軍で将軍を務めた勇猛果敢な戦士だった彼は白系露人部隊の実質的な指揮官の座にあった。一九四三年の晩秋、母さんとまだ年端もいかない二人の子――これが私の兄さんと姉さん――を遺して、ハイラル郊外の冷たい土の上に銃弾に斃れた。おそらくソ連かその傀儡のモンゴル兵の仕業で。
「元気になったよ、あのひとがきてから……まぁ、な、お前が生まれたことを、思えば、な――ゲホッ、ゲフンッ」
「うん」
「――ありゃあ、恋だな」
私が生まれた時、母さんは三十八歳かそこらだった。そうか、そんな歳になっても女は恋をすることがあるのか――と思ったものだが、今になって思えば三十八なんてなんて若いことか。
ここにいるのは二人の老いぼれた爺さんだ。
「日本人なのにな、日本人ではないようだった。確かにロシア人ではないが……モンゴル人でも、満州人でも、中国人でも――ないん、だな。これが――綺麗な、男なんだが。まったく、どこの人間だか――ゲホッゲホッ」
「ああすまない、兄さん。無理をさせたね」
「いや――」
なるほど、キリルは確かに不思議な男だったのかもしれない。私は兄さんを黙らせ、また別の時の回想を述べた。
何年のことだったか詳しく覚えていない。
ただ、確かあの時フョードルの坊主がもう大人になる頃合いだったのは確かで。学ラン――日本の多くの中高生が着ている軍服みたいなあの変な制服――はとっくに脱ぎ、私が教鞭を執る大学に通っている頃だったのは記憶している。そしてあの少し後くらいに、キリルにとって最年長の孫であったマーシャが結婚し、彼に初めてひ孫が生まれた。
あらためてこれらの情報から推測したら、二〇〇〇年前後のことと思う。
私はこの頃には、キリルが家長を務める安積家にしょっちゅう出入りすることを許されていた。知り合って結構すぐに夕食に招かれ、それ以降結構頻回に出入りしていた。最初の頃は気が付かなかったが、あの家は東京にあるには異様に大きく、「あさかさん」といえば都内の人はだいたい分かるらしい。
そんな広い屋敷なので、私が出入りを許されている部屋は、たくさんある部屋の中でもほんの数部屋程度だった。一つは「イマ」と呼ばれているやたらと広いリビングで、また一つはよくご馳走になる食堂であり、そして最後に、二階にある個人のものとしては膨大な蔵書のあるキリルの書斎だ。その蔵書数は大学にある一般的な教員部屋を軽く凌駕していた。書斎に入ることを許される者は、自慢ではないが身内くらいしかいない。
「キリューシャ」
私は書斎におり、キリルと二人きりだった。あれは確か、春だったと思う。彼は書斎の机で書き物をしていた。彼は晩年少しコンピュータを触っていたが、ほとんどはアナログで通していたものだ。さらさらと聞こえる筆致は澱みなかった。
「キリューシャ、何をしてるんです」
「……ああ、手紙を書いてる」
「だれに?」
「――うんとね。私の遠い親戚」
「……そうですか」
彼はたぶん、いくつもの国家機密情報を握っていた。いつも饒舌であるのに、時々ひどく言葉少なになるときがあり、私はそのうち、そういう時は身内にも、たとえ妻や子にであっても漏らしてはならないような情報を扱っている時だと悟るようになった。
いつもならこのあとにどういう繋がりの親戚で、何の用事で――と話が続くはずだった。しかし彼は黙ってそっけない。だからこの時も、私はこれきりで口を噤んだ。
「そうだゴーラ、今日は天気がいいね」
書き終えたあと、彼は窓を開け放った。七十五前後だった彼はいまの私よりよほど矍鑠としており、逆光に映るシルエットはその年齢の老人のものとは思えないほど凛としていた。彼の表情は見えなかった。
「僕の部屋に来るか」
「それは嬉しい、はじめてではないですか」
「――そういえば、そうか。僕と君の仲なのにねぇ――まぁ僕は、居間と書斎にいる方が好きだから。家長部屋なんて寝る時くらいしか行かない」
「ではなぜ?」
「あまり大したものではない――けど見せたいものがある」
私は二つ返事でついていった。階下に降りて、あの家の一番奥にある、立派な襖で隔てられた座敷に。金色の襖には松の絵が描かれているのだ。
襖が引かれていくとき、私は宝箱が開くようにわくわくした――しかし、そこに現れたのはさっぱりとした広い和室である。何の変哲もない。
「綺麗ですね」
「ああ、まぁあまり使わないしね……タートカは僕より使っているが綺麗好きなので……それよりも、あれを見てくれないか」
あれ――指差した先に、書院造の硬派な和室に相応しいとはおよそ言えない西洋人形が、ドールケースに綺麗に仕舞われて鎮座していた。およそ全長三十センチ。
「――はぁ、かわいい……ですね」
「これはいずみちゃんというんだ」
「いずみ、ちゃん……?いずみとはисточник?」
「そうだ、ゴーラ。よく覚えた。どうだ、かわいいじゃないか。男の子に見える、女の子に見える?」
私はキリルが嬉しそうに抱えて持ってきた人形をあらためてまじまじと見つめた。老爺と人形。あまり見られない取り合わせだが、二人は不思議としっくりしていた。
肩くらいまで伸ばされた黒髪。長めの前髪を真ん中分けして覗くまるい額。青の瞳――それは人の目には珍しいほどに鮮やかな深い青。長いまつ毛は一本一本が天井を向いている。ほっぺは紅く染まって、つるつるとしなやか。唇は慎ましやかににっこりと笑っていた。
「女の子――いや、男の子か……わかりません、どっち?」
「君、御使に性はあるか」
「――ああ、この子は天使だ」
性別を問われたため、顔を見るのに必死になっていた。私は重要な情報を見落としていた――いずみの背中に、翼がついている。その翼は蝋のような質感で、これもやはり相当丁寧に作られていた。
「僕はこれを、コースチャが生まれた頃にボンで作ってもらった――外交官になって最初の赴任地だ」
「そしたらこれはコースチャが遊んだ人形?」
五十の声を聞こうかというキリルの長男・馨コンスタンチンはこの当時すでに立派な衆議院議員であり、若い頃からその傾向はあったが、年齢以上の威厳を備えていた。そんな男に、たとえ幼子のときであれこんなにかわいい人形が宛てがわれていたと思うとミスマッチだ。
しかし答えは否だった。
「いや、これは僕のお人形だ」
「はぁ」
「こいつを持ち帰ったとき、妻にも両親にもへんだと言われてね。どうだ変だろう、いい歳した男がだ――あのとき二十七くらいかな」
言いながらドールケースを開ける。人形は取り出され、宝物のように老人の手に抱かれた。艶のある髪を指の腹で、これ以上ないほどの優しさで撫でている。
「あなたの趣味?」
「いやそういうわけではないよ。だってこいつしかいないだろう――だがこの子は、僕の宝物なんだ」
「まるで我が子のように撫でるんですね」
「いやある意味我が子よりも大切かもしれないね――と言っても、縋ってくるような子はもういなくなった。あのユーラチカでさえ僕のもとをとっくに巣立っていったのだからな」
ユーラチカは――もう一人のゲオルギーは、これよりおよそ五年前に母方の故郷ロシアに旅立った――言ってみたら、私と入れ違い、ゲオルギーが交換されたようなもので。四十を超えてから出来た可愛い末息子もいなくなって寂しいのかなと思った。
だがこの人形を愛でるのはそんなありきたりな理由からではなかった。
「君は信じないだろうね、この話を信じてくれたのはユーラチカ、あの子だけなんだ」
僕は――キリルは若き日のことを私に、彼の口から初めて教えくれた。そう、それはまさに兄さんあなたが知っている頃の話。
この時に僕はやっと確信した。
キリル――和臣、私の父はやはりあなただったのだ。
おおよそ以下のようである。彼の口調のままで思い出そう。
僕はもうすぐ天の父(注: キリルはクリスチャンなので、彼が天の父といえばそれは神のことである)のもとにいく年齢だ。たとえ君がどこかしかるべきところにこの話を伝えても、僕を逮捕する者はもういないし、僕の信条においては親の因果は孫子を罰しない。だから打ち明けよう。
僕は肩に戦争で負ったとしている傷があるのだが――これは君には見せたことがないな。僕は戦場に行ったのではなく、ハルビンに行ったのだ。
何のために?それは情報を収集するためだ。僕は、学徒出陣の時に情報将校にロシア語を買われて、密かにあの地に送り込まれた。独ソ戦が終わった後――君の国では大祖国戦争というね――、三ヶ月で日本を攻める。ヤルタでスターリンはルーズベルトとチャーチルと密約を交わした。一方で日本には攻めませんよと言っておきながら、他方では侵攻を行う約束をする二枚舌だ。
僕の上官はストックホルムの武官を通してこの情報を仕入れていた。本当に攻めてくると想定しなければならないのに、参謀本部は何を思ったかこれを黙殺したんだ。おそらくあまりに不都合な情報だったんだろう――なかったことにした。一方、この本部の決定に違和感を拭えなかった僕の上官は、来るソ連参戦に備えるために、ソ満国境に徹底的な諜報作戦を敷いた。僕もその一員として駆り出されたわけだ。
でも上官は僕を毛頭、危険な国境地帯に派遣してくれなくて――これは、後から思えば僕を守ってくれたのだと思うが……別の仕事を言い渡した。ハルビンには白系露人事務局というのがあって、そこに亡命ロシア人とその子孫を戸籍登録させていたんだ。
君のお母さんは――ターニャは……そう、君の母はタチヤーナというんだ。僕は知っている、タチヤーナは白系露人事務局に働いていた。僕はそこにロシア人の設定で入り込むことになった。そこではキリルと呼ばれていた――尤もこれは、生まれた時からタートカの家族にもそう呼ばれていたが。だから僕にはキリルは自然な名前だ。
本土にいたら何も言われないのに、大陸では軍人から本当に日本人か確認されることが結構あった。純血の日本人に見えないところがあったらしい。当時の日本人としたら背も高かった。
ああ、それでその事務局に入り込んだ僕が任されたのは、白系ロシア人の中に紛れている日ソ二重スパイの摘発だった。事務局に入った当初から僕は日本語がわからないふりをしなければならなかった。母親がロシア人で、父親がわからない、アジア系の男――そういう設定にしてあった。ハルビンに生まれたので、ロシア語しか話せない――この演技は本当に大変だった。日本語がまるでわからない顔をし続けるのは難しかったね。なにせ日本育ちなもので。
さいわい上官はロシア語を話す人だった。僕は生まれた時からロシア語を聴いて育ったが、あの人は十八かそこらからだったから決して流暢ではなくて、二人だけの時は日本語を使いもしたが、ハルビンにいる間はとにかくほとんどロシア語しか使わなかったね。
――ところで、君の母さんの家に僕は下宿していた。あの人は僕の出自が本当は日本であることを知っている唯一のロシア人だった。そうだ、彼女の子たちは――ニコライとオリガは元気かい。君の兄さんと姉さんだろう。
……ああそうか、それはよかった。
ハルビンの白系露人事務局で僕は緊迫した半年と少しを過ごした。状況が変わったのは八月に入ってからだ。
八月八日、僕は上官にハルビンを出て本土に戻れと言われた。その時、物資が不足した本土に大陸からそれらを届ける船が盛んに出ていて――これはニチゴウ作戦(注: 日号作戦。大戦末期に実際に存在した)と呼ばれていた。それに乗って帰れと。僕はよくわからないまま従うことにした。
僕が乗った船は大破して沈んだ。なぜかって?ソ連が空襲を挙行したからだ。僕の肩のこの傷は、ソ連の空襲に遭って海上でついたものだ。戦場でついたんじゃない。結構大きな傷なんだ、このくらいあって――死ぬほどの血が出たのに、僕は生きていたんだ。
どうして生きていられたかといえば、いずみ、この天使のおかげだ。いや、本当なんだ――こらそんな顔するな、本当なんだからな。
いずみは僕のそばにいた。僕は確かにこの子の姿を見たよ、一度だけじゃなくて、彼女は――いや彼かな……僕の前に二度現れた。
最初は、出血多量で意識がなかった時。あれは夢の中だったと思う。きらきらときらめく光の中に、この子の姿を見た。大丈夫、と笑っていた。失血死しても何ら不思議でない量の血を流しながら、僕は安らかに眠ってられた。
二回目は、僕が北鮮から南鮮に移動する時に案内してくれた。まさに夢か現かという様子でこの子は現れたんだよ。この傷がもとで僕は軍病院で寝かされていたんだ。意識が戻った日、この天使が窓の外に現れて、僕に話しかけた。驚くべきは、その病室は二階だったんだよ。あり得ないじゃないか、え?足場になる木のようなものもなくてね。光に包まれた可愛い天使だ、そんなのを見せられて僕はお迎えが来たのだと思った。でも天国に行くとしたら想像するようなことはね、天使が天に僕を引き上げてくれるということは一向になくて、彼女は興味津々に僕にいろいろ聞いてくるんだ。言葉はロシア語だったね。
どこで生まれたのとか、何歳なのとか、とにかくいろいろだ。あの時の青い目は好奇心に満ち溢れていて本当に可愛らしかったね。うーん、歳の頃は十二かそこらに見えたかな。ほらちょうど、この人形はそのくらいの年頃の子どもを表現してもらった。そのくらいに見えるだろう。天使に大人とか子どもがあるのか知らないけど、いずみはまだ子どもで、多分人間ってどんな奴なんだろうって気になっていたんじゃないか。
いろいろ話した後、いずみは最後に、僕の国の言葉で名前をつけてほしいと頼んできた。僕はなんとなくその時点で頭に浮かんだ単語を口走ったのだ――それが「いずみ」でね。多分目の深い青がそれを連想させたのかな。
いずみが消えた後、僕は白昼夢を見ていたような気がしてまた眠りに落ちた。次に目を覚ましたら、看護婦の巡回があって――ああまたかなと思っていたら、年配の婦長じゃなかったんだよな。
白衣の天使という言葉があるがまさにそうで、さっきの天使が人間になって、看護婦をしていた――化けていた、というのか。彼女はいずみと名乗って、他のスタッフにもそう呼ばれていた。いずみちゃん、いずみちゃん、他の傷病兵はあの子がみんな好きだった。まぁ可愛かったからね……でも奇妙なのは、青い目をしているのに日本人として通っていたことかな。多分、人を幻惑するのは一種の天使の力なのだろう。
その日の夜、消灯前に厠に僕が向かう時、いずみに出くわした。それで変なことを言うんだ、南鮮に行こうとね――僕が入院していたのは元山というところでこれは北朝鮮の港町だ。
不思議なことに、翌日僕は看護婦たちに見送られて病院を後にした。退院の日取りなど決まっていなかったのにね――いずみに導かれて、うんと歩いて、電車に乗った。こうして京城(注: ソウル)にたどり着いたんだ。
当時朝鮮は日本の植民地だったからそこには朝鮮総督府があったわけだ。僕の叔父に義祐というのがいて、それがちょうど次官をやっていた。いずみは僕をそこまで送り届けて、ここで旅は終いだと言った。私の役目は終わりなのだとね。
人間の姿をしていたいずみは、次の瞬間に光をまとって、翼を生やして、それまでの国民服(注: 戦局が悪化したのちにに定められた政府指定の服装。女子はもんぺを履くように定められた)から衣替えして、ものすごく明るい白い服を身に纏った。
いずみが天使であることは、最初の段階から知っていたのだが、僕は腰を抜かしてしまった。なんだろう、あれは圧倒されたというのかもしれない。綺麗だったんだ、ほらこの子はこの通り可愛いが、全体的には綺麗だったんだ。僕を圧倒したのが単に光の強さなのか、彼女自身の清らかさなのかそれはわからない。
次に僕は、義祐叔父さんの事務室のソファで目を覚ますことになる。
後で分かったのだが、僕があのまま北鮮にいたらどうなっていたか――君のお母さんときょうだいを逮捕したあの赤軍が押し寄せてくる。いずみについて行かずに元山にあのままいたら、僕は君たちと同じようにシベリアに流刑になったはずだ――実際、シベリア抑留といって、そういう日本人はたくさんいたんだ。
いずみは、多分それを予見して僕を南鮮に連れて行ったと思うね。なぜそんなことをしてくれたか分からないが――四十五年の冬には、僕は日本に帰ることができた。船を待つ途中で周囲でチフスが流行って大変な思いをしたが、シベリアに連れ攫われた邦人のことを考えればあのくらいは大したことはなかった。
日本が独立を回復した講和会議で、多くの国との国交が回復した。その結果、いろいろ紆余曲折を経て外交官に任官していた僕に、西独赴任の辞令が下った。ボンに東独から逃れてきた綺麗な人形を作る人形師がいるのをひょんなことで知って、思い立ってその人を訪ねた。この子のことが忘れられなくて、作ってもらってお守りにしようと思ったんだ。やたらと注文をつけて変な男だなと思われていたよ。
これを作ってもらうためにまだそう多くなかった外交官の給与のほとんどを叩いたね。妻子に送金もせずにだよ。このときの所業は、巣鴨から戻った父さんにはひどく怒られた(注: キリルの父親・栄祐は太平洋戦争の予算を組んだ大蔵大臣であり、東京裁判でA級戦犯指定を受けて巣鴨刑務所に服役したという設定)。
――だって妻子を食わせる金をろくに送らないで、代わりに持ってきたのがこれだろ?それは怒るだろう。
「私は信じた。だってキリルは別に、人形が好きな人ではなかった――」
「……」
兄さんは返事をしない。空を窓を通してじっと見ていたと思ったが、私の長い回想を聞きながら眠ってしまったのだ。
ああ大事な話だったのに。どこまで聞いてくれたんだ。私のとっておきの話だったのにな――しかし、健やかな寝息を聞いたらそれでもいいかと思って、私は再びソファに深く腰かけ直した。
「兄さん。キリルは、八十八で逝ったよ。たくさんの家族に囲まれてね――ええと、もう八年も前になるね。生きてたら九十六か――天使じゃあるまいに、人間がそんなに生きなくてもいいよな」
返事がない。
喉が枯れてきたから、そろそろいいか――ちょっといい落ちがあったんだが。
いずみ人形のことを打ち明けられてから数年経ったころ、フョードルの坊主がフランス人と結婚した――この奥さんがものすごく綺麗な人なのだが――息子が生まれて、それがあの人形のいずみにそっくりなんだ。フョードルがその子の目を見て、人形を思い出して日本語名を「いずみ」とつけた。
キリルが死んだ時まだ五歳かそこらだったかな。生まれてから三年ほどずっと女の子かと思っていたら男だと言われて驚愕した。
キリルはその子どもが成長するに従いいずみ人形と瓜二つになることを知らずに逝ってしまった。いま、成長したあの子を見たらキリルはなんと言うのだろう。フランスで育てられているその可愛い少年のことを、たまにしか会わないのに彼はやたらと可愛がっていた。いずみという名前がつけられたのが嬉しくて仕方がなかったのだろう、あの人は家人を印欧語の名前で呼ぶのが好きだが、あの子だけはいずみと呼んでいた。
「……兄さん、おやすみ。安心しな」
全てはきっと、主によって安んぜられる。
キリル――いや父さん、あなたを父さんと呼ぶことはついになかったね。でも私は、あなたに会うことができて幸せだった。あなたも、主の御許でそう思ってくれていたら幸いだ。
秋空は高い。キリルの名を出すと、窓の外を眺めていた兄さんが掠れ声で呟く。
「キリル――あの人は不思議なひとだったね」
そんなに話しにくいのに無理に話そうとするくらいに、昔のことにも関わらず、兄さんあなたは彼のことを結構鮮明に覚えているらしい。そんな鮮烈な印象をあなたに与えた、父親の若い頃の姿を私は知らないよ。
これ以上辛そうな声を聞くのが忍びない私も、その日々のことを聞きたくてついつい問いを畳み掛けた。
「どんなふうに不思議?」
「どうだろうねぇ――母さんが、父さんがおっ死んでから元気をなくして――ゲフッ、そうだね……」
兄さんと姉さんの父親は――オレグは、白系ロシア人で対ソ連部隊を組織した日本軍に雇われており、白軍で将軍を務めた勇猛果敢な戦士だった彼は白系露人部隊の実質的な指揮官の座にあった。一九四三年の晩秋、母さんとまだ年端もいかない二人の子――これが私の兄さんと姉さん――を遺して、ハイラル郊外の冷たい土の上に銃弾に斃れた。おそらくソ連かその傀儡のモンゴル兵の仕業で。
「元気になったよ、あのひとがきてから……まぁ、な、お前が生まれたことを、思えば、な――ゲホッ、ゲフンッ」
「うん」
「――ありゃあ、恋だな」
私が生まれた時、母さんは三十八歳かそこらだった。そうか、そんな歳になっても女は恋をすることがあるのか――と思ったものだが、今になって思えば三十八なんてなんて若いことか。
ここにいるのは二人の老いぼれた爺さんだ。
「日本人なのにな、日本人ではないようだった。確かにロシア人ではないが……モンゴル人でも、満州人でも、中国人でも――ないん、だな。これが――綺麗な、男なんだが。まったく、どこの人間だか――ゲホッゲホッ」
「ああすまない、兄さん。無理をさせたね」
「いや――」
なるほど、キリルは確かに不思議な男だったのかもしれない。私は兄さんを黙らせ、また別の時の回想を述べた。
何年のことだったか詳しく覚えていない。
ただ、確かあの時フョードルの坊主がもう大人になる頃合いだったのは確かで。学ラン――日本の多くの中高生が着ている軍服みたいなあの変な制服――はとっくに脱ぎ、私が教鞭を執る大学に通っている頃だったのは記憶している。そしてあの少し後くらいに、キリルにとって最年長の孫であったマーシャが結婚し、彼に初めてひ孫が生まれた。
あらためてこれらの情報から推測したら、二〇〇〇年前後のことと思う。
私はこの頃には、キリルが家長を務める安積家にしょっちゅう出入りすることを許されていた。知り合って結構すぐに夕食に招かれ、それ以降結構頻回に出入りしていた。最初の頃は気が付かなかったが、あの家は東京にあるには異様に大きく、「あさかさん」といえば都内の人はだいたい分かるらしい。
そんな広い屋敷なので、私が出入りを許されている部屋は、たくさんある部屋の中でもほんの数部屋程度だった。一つは「イマ」と呼ばれているやたらと広いリビングで、また一つはよくご馳走になる食堂であり、そして最後に、二階にある個人のものとしては膨大な蔵書のあるキリルの書斎だ。その蔵書数は大学にある一般的な教員部屋を軽く凌駕していた。書斎に入ることを許される者は、自慢ではないが身内くらいしかいない。
「キリューシャ」
私は書斎におり、キリルと二人きりだった。あれは確か、春だったと思う。彼は書斎の机で書き物をしていた。彼は晩年少しコンピュータを触っていたが、ほとんどはアナログで通していたものだ。さらさらと聞こえる筆致は澱みなかった。
「キリューシャ、何をしてるんです」
「……ああ、手紙を書いてる」
「だれに?」
「――うんとね。私の遠い親戚」
「……そうですか」
彼はたぶん、いくつもの国家機密情報を握っていた。いつも饒舌であるのに、時々ひどく言葉少なになるときがあり、私はそのうち、そういう時は身内にも、たとえ妻や子にであっても漏らしてはならないような情報を扱っている時だと悟るようになった。
いつもならこのあとにどういう繋がりの親戚で、何の用事で――と話が続くはずだった。しかし彼は黙ってそっけない。だからこの時も、私はこれきりで口を噤んだ。
「そうだゴーラ、今日は天気がいいね」
書き終えたあと、彼は窓を開け放った。七十五前後だった彼はいまの私よりよほど矍鑠としており、逆光に映るシルエットはその年齢の老人のものとは思えないほど凛としていた。彼の表情は見えなかった。
「僕の部屋に来るか」
「それは嬉しい、はじめてではないですか」
「――そういえば、そうか。僕と君の仲なのにねぇ――まぁ僕は、居間と書斎にいる方が好きだから。家長部屋なんて寝る時くらいしか行かない」
「ではなぜ?」
「あまり大したものではない――けど見せたいものがある」
私は二つ返事でついていった。階下に降りて、あの家の一番奥にある、立派な襖で隔てられた座敷に。金色の襖には松の絵が描かれているのだ。
襖が引かれていくとき、私は宝箱が開くようにわくわくした――しかし、そこに現れたのはさっぱりとした広い和室である。何の変哲もない。
「綺麗ですね」
「ああ、まぁあまり使わないしね……タートカは僕より使っているが綺麗好きなので……それよりも、あれを見てくれないか」
あれ――指差した先に、書院造の硬派な和室に相応しいとはおよそ言えない西洋人形が、ドールケースに綺麗に仕舞われて鎮座していた。およそ全長三十センチ。
「――はぁ、かわいい……ですね」
「これはいずみちゃんというんだ」
「いずみ、ちゃん……?いずみとはисточник?」
「そうだ、ゴーラ。よく覚えた。どうだ、かわいいじゃないか。男の子に見える、女の子に見える?」
私はキリルが嬉しそうに抱えて持ってきた人形をあらためてまじまじと見つめた。老爺と人形。あまり見られない取り合わせだが、二人は不思議としっくりしていた。
肩くらいまで伸ばされた黒髪。長めの前髪を真ん中分けして覗くまるい額。青の瞳――それは人の目には珍しいほどに鮮やかな深い青。長いまつ毛は一本一本が天井を向いている。ほっぺは紅く染まって、つるつるとしなやか。唇は慎ましやかににっこりと笑っていた。
「女の子――いや、男の子か……わかりません、どっち?」
「君、御使に性はあるか」
「――ああ、この子は天使だ」
性別を問われたため、顔を見るのに必死になっていた。私は重要な情報を見落としていた――いずみの背中に、翼がついている。その翼は蝋のような質感で、これもやはり相当丁寧に作られていた。
「僕はこれを、コースチャが生まれた頃にボンで作ってもらった――外交官になって最初の赴任地だ」
「そしたらこれはコースチャが遊んだ人形?」
五十の声を聞こうかというキリルの長男・馨コンスタンチンはこの当時すでに立派な衆議院議員であり、若い頃からその傾向はあったが、年齢以上の威厳を備えていた。そんな男に、たとえ幼子のときであれこんなにかわいい人形が宛てがわれていたと思うとミスマッチだ。
しかし答えは否だった。
「いや、これは僕のお人形だ」
「はぁ」
「こいつを持ち帰ったとき、妻にも両親にもへんだと言われてね。どうだ変だろう、いい歳した男がだ――あのとき二十七くらいかな」
言いながらドールケースを開ける。人形は取り出され、宝物のように老人の手に抱かれた。艶のある髪を指の腹で、これ以上ないほどの優しさで撫でている。
「あなたの趣味?」
「いやそういうわけではないよ。だってこいつしかいないだろう――だがこの子は、僕の宝物なんだ」
「まるで我が子のように撫でるんですね」
「いやある意味我が子よりも大切かもしれないね――と言っても、縋ってくるような子はもういなくなった。あのユーラチカでさえ僕のもとをとっくに巣立っていったのだからな」
ユーラチカは――もう一人のゲオルギーは、これよりおよそ五年前に母方の故郷ロシアに旅立った――言ってみたら、私と入れ違い、ゲオルギーが交換されたようなもので。四十を超えてから出来た可愛い末息子もいなくなって寂しいのかなと思った。
だがこの人形を愛でるのはそんなありきたりな理由からではなかった。
「君は信じないだろうね、この話を信じてくれたのはユーラチカ、あの子だけなんだ」
僕は――キリルは若き日のことを私に、彼の口から初めて教えくれた。そう、それはまさに兄さんあなたが知っている頃の話。
この時に僕はやっと確信した。
キリル――和臣、私の父はやはりあなただったのだ。
おおよそ以下のようである。彼の口調のままで思い出そう。
僕はもうすぐ天の父(注: キリルはクリスチャンなので、彼が天の父といえばそれは神のことである)のもとにいく年齢だ。たとえ君がどこかしかるべきところにこの話を伝えても、僕を逮捕する者はもういないし、僕の信条においては親の因果は孫子を罰しない。だから打ち明けよう。
僕は肩に戦争で負ったとしている傷があるのだが――これは君には見せたことがないな。僕は戦場に行ったのではなく、ハルビンに行ったのだ。
何のために?それは情報を収集するためだ。僕は、学徒出陣の時に情報将校にロシア語を買われて、密かにあの地に送り込まれた。独ソ戦が終わった後――君の国では大祖国戦争というね――、三ヶ月で日本を攻める。ヤルタでスターリンはルーズベルトとチャーチルと密約を交わした。一方で日本には攻めませんよと言っておきながら、他方では侵攻を行う約束をする二枚舌だ。
僕の上官はストックホルムの武官を通してこの情報を仕入れていた。本当に攻めてくると想定しなければならないのに、参謀本部は何を思ったかこれを黙殺したんだ。おそらくあまりに不都合な情報だったんだろう――なかったことにした。一方、この本部の決定に違和感を拭えなかった僕の上官は、来るソ連参戦に備えるために、ソ満国境に徹底的な諜報作戦を敷いた。僕もその一員として駆り出されたわけだ。
でも上官は僕を毛頭、危険な国境地帯に派遣してくれなくて――これは、後から思えば僕を守ってくれたのだと思うが……別の仕事を言い渡した。ハルビンには白系露人事務局というのがあって、そこに亡命ロシア人とその子孫を戸籍登録させていたんだ。
君のお母さんは――ターニャは……そう、君の母はタチヤーナというんだ。僕は知っている、タチヤーナは白系露人事務局に働いていた。僕はそこにロシア人の設定で入り込むことになった。そこではキリルと呼ばれていた――尤もこれは、生まれた時からタートカの家族にもそう呼ばれていたが。だから僕にはキリルは自然な名前だ。
本土にいたら何も言われないのに、大陸では軍人から本当に日本人か確認されることが結構あった。純血の日本人に見えないところがあったらしい。当時の日本人としたら背も高かった。
ああ、それでその事務局に入り込んだ僕が任されたのは、白系ロシア人の中に紛れている日ソ二重スパイの摘発だった。事務局に入った当初から僕は日本語がわからないふりをしなければならなかった。母親がロシア人で、父親がわからない、アジア系の男――そういう設定にしてあった。ハルビンに生まれたので、ロシア語しか話せない――この演技は本当に大変だった。日本語がまるでわからない顔をし続けるのは難しかったね。なにせ日本育ちなもので。
さいわい上官はロシア語を話す人だった。僕は生まれた時からロシア語を聴いて育ったが、あの人は十八かそこらからだったから決して流暢ではなくて、二人だけの時は日本語を使いもしたが、ハルビンにいる間はとにかくほとんどロシア語しか使わなかったね。
――ところで、君の母さんの家に僕は下宿していた。あの人は僕の出自が本当は日本であることを知っている唯一のロシア人だった。そうだ、彼女の子たちは――ニコライとオリガは元気かい。君の兄さんと姉さんだろう。
……ああそうか、それはよかった。
ハルビンの白系露人事務局で僕は緊迫した半年と少しを過ごした。状況が変わったのは八月に入ってからだ。
八月八日、僕は上官にハルビンを出て本土に戻れと言われた。その時、物資が不足した本土に大陸からそれらを届ける船が盛んに出ていて――これはニチゴウ作戦(注: 日号作戦。大戦末期に実際に存在した)と呼ばれていた。それに乗って帰れと。僕はよくわからないまま従うことにした。
僕が乗った船は大破して沈んだ。なぜかって?ソ連が空襲を挙行したからだ。僕の肩のこの傷は、ソ連の空襲に遭って海上でついたものだ。戦場でついたんじゃない。結構大きな傷なんだ、このくらいあって――死ぬほどの血が出たのに、僕は生きていたんだ。
どうして生きていられたかといえば、いずみ、この天使のおかげだ。いや、本当なんだ――こらそんな顔するな、本当なんだからな。
いずみは僕のそばにいた。僕は確かにこの子の姿を見たよ、一度だけじゃなくて、彼女は――いや彼かな……僕の前に二度現れた。
最初は、出血多量で意識がなかった時。あれは夢の中だったと思う。きらきらときらめく光の中に、この子の姿を見た。大丈夫、と笑っていた。失血死しても何ら不思議でない量の血を流しながら、僕は安らかに眠ってられた。
二回目は、僕が北鮮から南鮮に移動する時に案内してくれた。まさに夢か現かという様子でこの子は現れたんだよ。この傷がもとで僕は軍病院で寝かされていたんだ。意識が戻った日、この天使が窓の外に現れて、僕に話しかけた。驚くべきは、その病室は二階だったんだよ。あり得ないじゃないか、え?足場になる木のようなものもなくてね。光に包まれた可愛い天使だ、そんなのを見せられて僕はお迎えが来たのだと思った。でも天国に行くとしたら想像するようなことはね、天使が天に僕を引き上げてくれるということは一向になくて、彼女は興味津々に僕にいろいろ聞いてくるんだ。言葉はロシア語だったね。
どこで生まれたのとか、何歳なのとか、とにかくいろいろだ。あの時の青い目は好奇心に満ち溢れていて本当に可愛らしかったね。うーん、歳の頃は十二かそこらに見えたかな。ほらちょうど、この人形はそのくらいの年頃の子どもを表現してもらった。そのくらいに見えるだろう。天使に大人とか子どもがあるのか知らないけど、いずみはまだ子どもで、多分人間ってどんな奴なんだろうって気になっていたんじゃないか。
いろいろ話した後、いずみは最後に、僕の国の言葉で名前をつけてほしいと頼んできた。僕はなんとなくその時点で頭に浮かんだ単語を口走ったのだ――それが「いずみ」でね。多分目の深い青がそれを連想させたのかな。
いずみが消えた後、僕は白昼夢を見ていたような気がしてまた眠りに落ちた。次に目を覚ましたら、看護婦の巡回があって――ああまたかなと思っていたら、年配の婦長じゃなかったんだよな。
白衣の天使という言葉があるがまさにそうで、さっきの天使が人間になって、看護婦をしていた――化けていた、というのか。彼女はいずみと名乗って、他のスタッフにもそう呼ばれていた。いずみちゃん、いずみちゃん、他の傷病兵はあの子がみんな好きだった。まぁ可愛かったからね……でも奇妙なのは、青い目をしているのに日本人として通っていたことかな。多分、人を幻惑するのは一種の天使の力なのだろう。
その日の夜、消灯前に厠に僕が向かう時、いずみに出くわした。それで変なことを言うんだ、南鮮に行こうとね――僕が入院していたのは元山というところでこれは北朝鮮の港町だ。
不思議なことに、翌日僕は看護婦たちに見送られて病院を後にした。退院の日取りなど決まっていなかったのにね――いずみに導かれて、うんと歩いて、電車に乗った。こうして京城(注: ソウル)にたどり着いたんだ。
当時朝鮮は日本の植民地だったからそこには朝鮮総督府があったわけだ。僕の叔父に義祐というのがいて、それがちょうど次官をやっていた。いずみは僕をそこまで送り届けて、ここで旅は終いだと言った。私の役目は終わりなのだとね。
人間の姿をしていたいずみは、次の瞬間に光をまとって、翼を生やして、それまでの国民服(注: 戦局が悪化したのちにに定められた政府指定の服装。女子はもんぺを履くように定められた)から衣替えして、ものすごく明るい白い服を身に纏った。
いずみが天使であることは、最初の段階から知っていたのだが、僕は腰を抜かしてしまった。なんだろう、あれは圧倒されたというのかもしれない。綺麗だったんだ、ほらこの子はこの通り可愛いが、全体的には綺麗だったんだ。僕を圧倒したのが単に光の強さなのか、彼女自身の清らかさなのかそれはわからない。
次に僕は、義祐叔父さんの事務室のソファで目を覚ますことになる。
後で分かったのだが、僕があのまま北鮮にいたらどうなっていたか――君のお母さんときょうだいを逮捕したあの赤軍が押し寄せてくる。いずみについて行かずに元山にあのままいたら、僕は君たちと同じようにシベリアに流刑になったはずだ――実際、シベリア抑留といって、そういう日本人はたくさんいたんだ。
いずみは、多分それを予見して僕を南鮮に連れて行ったと思うね。なぜそんなことをしてくれたか分からないが――四十五年の冬には、僕は日本に帰ることができた。船を待つ途中で周囲でチフスが流行って大変な思いをしたが、シベリアに連れ攫われた邦人のことを考えればあのくらいは大したことはなかった。
日本が独立を回復した講和会議で、多くの国との国交が回復した。その結果、いろいろ紆余曲折を経て外交官に任官していた僕に、西独赴任の辞令が下った。ボンに東独から逃れてきた綺麗な人形を作る人形師がいるのをひょんなことで知って、思い立ってその人を訪ねた。この子のことが忘れられなくて、作ってもらってお守りにしようと思ったんだ。やたらと注文をつけて変な男だなと思われていたよ。
これを作ってもらうためにまだそう多くなかった外交官の給与のほとんどを叩いたね。妻子に送金もせずにだよ。このときの所業は、巣鴨から戻った父さんにはひどく怒られた(注: キリルの父親・栄祐は太平洋戦争の予算を組んだ大蔵大臣であり、東京裁判でA級戦犯指定を受けて巣鴨刑務所に服役したという設定)。
――だって妻子を食わせる金をろくに送らないで、代わりに持ってきたのがこれだろ?それは怒るだろう。
「私は信じた。だってキリルは別に、人形が好きな人ではなかった――」
「……」
兄さんは返事をしない。空を窓を通してじっと見ていたと思ったが、私の長い回想を聞きながら眠ってしまったのだ。
ああ大事な話だったのに。どこまで聞いてくれたんだ。私のとっておきの話だったのにな――しかし、健やかな寝息を聞いたらそれでもいいかと思って、私は再びソファに深く腰かけ直した。
「兄さん。キリルは、八十八で逝ったよ。たくさんの家族に囲まれてね――ええと、もう八年も前になるね。生きてたら九十六か――天使じゃあるまいに、人間がそんなに生きなくてもいいよな」
返事がない。
喉が枯れてきたから、そろそろいいか――ちょっといい落ちがあったんだが。
いずみ人形のことを打ち明けられてから数年経ったころ、フョードルの坊主がフランス人と結婚した――この奥さんがものすごく綺麗な人なのだが――息子が生まれて、それがあの人形のいずみにそっくりなんだ。フョードルがその子の目を見て、人形を思い出して日本語名を「いずみ」とつけた。
キリルが死んだ時まだ五歳かそこらだったかな。生まれてから三年ほどずっと女の子かと思っていたら男だと言われて驚愕した。
キリルはその子どもが成長するに従いいずみ人形と瓜二つになることを知らずに逝ってしまった。いま、成長したあの子を見たらキリルはなんと言うのだろう。フランスで育てられているその可愛い少年のことを、たまにしか会わないのに彼はやたらと可愛がっていた。いずみという名前がつけられたのが嬉しくて仕方がなかったのだろう、あの人は家人を印欧語の名前で呼ぶのが好きだが、あの子だけはいずみと呼んでいた。
「……兄さん、おやすみ。安心しな」
全てはきっと、主によって安んぜられる。
キリル――いや父さん、あなたを父さんと呼ぶことはついになかったね。でも私は、あなたに会うことができて幸せだった。あなたも、主の御許でそう思ってくれていたら幸いだ。