両親が来る日

「ふん、ふん、ふん♩」
 無意識に漏れてくる鼻歌としては音程がずいぶんと合っている。
 肩ほどまで伸びた艶々の黒髪、真ん中で分けた前髪の間から覗く白い額。見るものをはっとさせる深い青の瞳。少女と見紛われることの多い綺麗な少年が一人、空き教室でスマホを取り出してチャットアプリを開いていた。その画面にはフランス語と日本語で「Mère/お母さま」と書かれてあり、その下に「もうロワシー(注: シャルル・ド・ゴール空港のこと。敢えて言えば、東京国際空港を羽田と呼ぶようなもの)に着いたから、あと四十分くらい待ってね」とある。
「!」
 ガラガラと空き教室の扉が開け放たれた。次の講義の準備のために教官が入ってきたのだ。少年はこの人を顔だけ知っている。志望する進路の関係で取っていない化学の教官だ。彼はあまり見慣れない生徒を見ると目を瞬かせ、グランゼコール準備級の年齢に到った学生に話しかけるには不似合いな慈悲深い表情になった。
「イヴ=ガブリエル。一人でいるからびっくりしたよ」
「私の名前?」
 イヴはこの学校では有名人だ。自分は有名になりたくなくても、一人だけ歳若いので明らかに浮いている――特例の飛び級のために周りより五歳若いのだ。それゆえ、ほぼ全ての在校者に一方的に名前を知られてしまっている。
「知ってるよ。君は僕のこと知らなくてもね……僕はルヴェリエだ。君が生まれる前からここで化学を教えてる」
「ルヴェリエ先生。私、お邪魔ですね」
「ん、そんなことないよ。僕は、今回はちょっと早く来すぎた。君は?次の授業?」
「今日はもう家に帰ります」
「ああそう。気をつけて帰って――ああ君は車でお迎えだね。そういう歳だった……いくつだっけ」
「十二歳になったばかりです」
「へー、わっかいなぁ」
「えへへ……恥ずかしいです。先生、さようなら」
「またね」
 あと一年は一人で外に出歩いてはいけない。フランスの法律では十三歳にならない子どもを大人なしで外出することは禁じられているのだ。イヴは迎えがやってくるまでしばらくは、学内で暇を潰さなければならない。
「ふん、ふん♩」
 実質的な育ての親である祖父譲りの音感は、ちょっとした鼻歌ですら鈍ることがない。今日は必要以上に機嫌が良い――それは、両親が日本から渡仏してきたから。もうすぐ会えるのだ。
 いつも大人しくとぼとぼと歩いている「天才少年」が軽い足取りで鼻歌さえ歌うのを廊下ですれ違う学生は興味深げに見つめてくるが、イヴはそれに気が付かない。両親は今頃郊外の空港からパリの市街地に入るために高速道路に乗っている頃合いだろうが、お構い無しにそこまで文字通り飛んでいきたいほどの衝動に駆られていた。
「どうしましょ……この教室は……ああ人がいます。どこにいきましょう……」
 両親を乗せた車がやってくるまであと三十分ほどかかるだろう。暇を潰すならばだれか友人を呼ぶのが一般だが、残念ながらイヴにはそういう人がいなかった。しかし友人ではないが、一人呼べば必ずきてくれる男がいる。
 副島孝紀。東京にある父の家から幼少の頃よりパリに派遣されているまだ若い執事である。彼は今日、こういうこともあるだろうとわざわざこのルイグランリセの近くに待機していた。電話をすると特別の着信音が鳴るので坊ちゃんからだと分かる。即座に応答があった。
『はい、坊ちゃんどうしました?』
「お父さまとお母さまがもうすぐ来られるんですが、それまでの間ひまです」
『学校の中ですか?』
「はい」
『すぐに参ります。五分くらいお待ちください』
「ありがとうございます」
 本当に五分――いや四分で孝紀はリセの門前にやってきた。彼はイヴが小走りで駆けてくるのを目を細めて眺め、近くに来ると辛抱たまらない様子で笑った。
「坊ちゃん嬉しそうですね」
「へ」
「あなたがああやって走られるのは、嬉しい時なのです」
「走りましたか。ああ……走りましたね」
「三十分弱ですから、まぁすぐにいらっしゃるでしょう。ですが坊ちゃんくらいの歳の子は、三十分すら長いんです」
「孝紀さんの三十分とおなじです」
「いいえ明確に違いますよ。時間の経つスピードが二十歳を超えた頃から加速度的に――個人差があるかもしれませんが、ね――速く感じられるようになるのです。どうされます。コーヒー一杯くらいなら飲む時間がありますでしょう」
「そうします」
「ではいつものところに」
 三分くらい歩くと、レンガ色のオーニングが設置された小さいが上品なカフェがある。Le tabouret de Louis le Grand――ルイ大王の腰掛けという名が冠されたこのカフェには、学生時代にパリジェンヌの母もよく通ったそうだ。中に入ると、もはや馴染みの客となったイヴの顔を認めて店主が破顔した。
「おや坊ちゃん」
「ムッシュ、こんにちは」
「ムッシュ。今日はちょっとだけいて帰ります――坊ちゃんのお母さまとお父さまがいらっしゃるので」
「ああお嬢さんが帰ってこられるの。綺麗だったなぁこの子のママは……うん。いつもの?」
「はい、いつもの」
「私はブラックでお願いします」
「うん二人とも、いつものだね」
 店内には学生と思われる若い人たちが読書に耽ったり、議論をしたりしていた。その中で少し珍しい組み合わせの少年と執事は、いま空いたばかりの隅の席を選んだ。
 イヴはコーヒーにミルクを「たくさん」入れなければならない。しばらくして、ギャルソンが二杯分のコーヒーと「大きめのミルク瓶」を机の上に置いた。
「ごゆっくり」
「ありがとうございます」
 溢れんばかりにミルクを注ぐ。溢れかけたくらいが一番塩梅が良い。少しだけミルクが溢れ、ソーサーに添えてあったビスケットに引っかかった。
「あ、ビスケット……」
「坊ちゃんは召し上がらないんでしょう」
「ビスケットは、今日も孝紀さんにあげます。でも濡れちゃいました」
「ふふ、坊ちゃんは難しいお人ですね、甘いものが苦手なのに苦いのも苦手と来ておられる」
「普通くらいがいいんです。私にはミルクをたくさん入れたらちょうどなんです」
「はい、はい。そうですね――坊ちゃん、あなたはいつまでも可愛らしいです。今でも鮮明に思い出します、あなたがこんなに小さい時のこと」
「はずかしいです」
 こんなに――そう言いながら孝紀が両手で表現するのは、ちょうど乳飲み子の大きさだ。孝紀の生家・副島家はイヴの父方の実家になる安積家と浅からぬ縁を持ち、維新後より一貫して家令を務めてきた。副島家は安積家の敷地内に存し、両家は隣り合っている。かつて当主の姉が嫁いだことがあり、事実上の親類ですらある。
「あなたはこんなに小さくてですね、私が抱っこすると泣くんですよ」
「ごめんなさい」
「赤ちゃんはそういうものなので」
 イヴは母がいわゆる「里帰り出産」をしたのでパリで生まれ、学齢期の直前までそのまま母の実家で育った。父はこのときまだ博士課程の学生だったが、イヴが二歳を目前とするころまで在外研究と称してパリに滞在し続けた。一方でその間に母はソルボンヌで博士課程を終えた。
 その間、まだ高校生だった孝紀が一人でパリを訪れてきた。坊ちゃんが生まれたというので、居ても立っても居られない気持ちになって見に来たのだそうだ。安積家の執事になるのはなぜか、この男にとっては幼い頃からの夢だった――イヴはそれを聞いて、そんなに執事の身分に憧れるとはよく分からぬと思うのだが、どうやらそれは本心のようだ。
「私は、あなたに仕えると決めて大学でもフランス語を学んだんですよ。おかげさまで役に立っています、あなたがこちらに住むようになったので尚更です」
「私が日本に残っていたら、フランス語あまり使いませんでしたものね」
「ご兄弟のうち誰か一人はオーヴェルニュ家に入る運命でしたので……それがあなたになった。私にとっては大いに結構ですが、それは、坊ちゃんにとっては……」
「……うう」
 何を言いたいのかはよく分かる。そのために両親と兄弟と離れて暮らすことになったからだ――今日浮き足だっていたのもその寂し味の反動。
「でも私が、フランスに帰ると言ってしまったからです」
「そうでしたね。あなたのお父さまはものすごくショックを受けていましたが」
「そうなんです?」
「それはもう、顔色がお悪かったです。あなたの学修院(注: モデルは学習院ですが名前を変更しています)の制服を眺めて、何度もため息を」
「お父さま……」
 五歳になるまで日本語に縁なく育った兄は――このあたりの事情をイヴは詳しく知らないのだが――母親の留学先で覚えたのだというロシア語が流暢で、あとは辿々しいフランス語しか話すことができず、小学四年の秋までロシア外務省の運営するロシア人学校に在学していた。イヴと兄・ジャン=ミシェル伊織(愛称はロシア語の「ジャン」に当たるイヴァンから取ってヴァニューシャ)は二学年差だから、イヴが小学一年生になる頃、兄はまだ学修院の制服を着ていなかった。
 そういうわけで、自分が着ていたのと同じ伝統的な制服にイヴが袖を通すのを、父はうれしく眺めていたのだという。
 しかし、二年生の夏休みに、イヴは母の実家に遊びに行ったとき、「日本に戻りたくない」と泣いて部屋に引きこもり、強情を張った。日本の学校に馴染めなかった――しかし結局、転校した先のフランスの学校にも馴染めなかったのだが。
 そのままなし崩し的に、オーヴェルニュ家の跡取り孫ということにされた。
「でもお兄さまがそのあと、学修院の制服を着ましたから」
「もちろん、そのときも嬉しそうでしたが。ああ、もうそろそろお時間では」
 タイミングがよく着信が入る――こういうことは案外よくある。イヴはポケットに入れていたスマホが急にバイブを鳴らしたのでびっくりした。
「わっ」
 母からの着信。イヴは喜び勇んで応答したのだった。孝紀はイヴが夢中になって母と話すのを目を細めて眺めていた。


「お母さま!」
「イヴォン、大きくなったわね」
「まだ小さいですもん」
「まぁ……そうだったかしら?あら本当、まだ小さかったわね」
 少し前まで抱擁を受けると母のお腹あたりに顔が来た気がするのに、眼前に胸がやってくるのでちょっと困る。さっきの孝紀の話で、「こんなに小さかった」ときは腹を満たすため、生存のために吸っていたはずのものが恥ずかしいものになりつつあるのに気がついて、イヴは一抹の寂しさを覚えた。
「お父さま」
「ん」
 パリに来ても和装ばかりしている父。決して自分から抱き締めてはこない。ただ腕を少し広げて待つので、その広い胸に何の遠慮もなく突撃した。
「お父さま――!」
「ぐっ」
 予想より力が強かったのか、若干よろめかれてしまった。また、自分は大きくなったのではなかろうか――イヴは心配して父の顔を見上げた。まだまだ上にあると思って安堵した。
 父方の実家の者数名しか呼ばぬ日本語名。イヴはその響きが好きだ――いずみ。
「和泉、お前強くなったね」
「いやです、まだよわいです」
「ああ……そうだった。和泉。お前はまだ弱いね。小さい、小さい……」
 大きな手が頭を撫でる。目を閉じて触覚を研ぎ澄ませた。この手も、昔はとても大きかったのに、今は自分のとさほど変わらないのではないか――ピアニストの祖父から受け継いでしまった歳の割に大きな手が憎かった。
 たとえ、この手によってピアノが上手く弾けたとしても、それと引き換えに大きくなるのは嫌だと思った。
 ――しかしなぜだろう。なぜ、小さくいたいと思うのだろう。二人揃って次男に「小さい小さい」と言い、顔を見合わせて苦笑いする両親を、イヴは交互に見た。
「イヴォン、車に乗りなさいな」
「ああいつまでも路上に停めておくのはよくない――孝紀、お前の乗るスペースは……ギリギリ、あるか。五人乗りまでいけたな」
「おっしゃる通り、五人まで乗っていただけます。どうぞ」
 そろそろ「お嬢さま」たちが車に乗ることを察して、母の学生時分から運転手を務めているというマルセルは後部座席の扉を開いた。
 三人で後部座席に――イヴは両親を左右に座らせて真ん中に座った。兄弟が三人揃うと、片方が両親のどちらかだとしてももう片方に大概弟のクレマン=ラファエル伊吹(愛称クリーマ)が配置されることになるので、両親が左右に来るのはこういう時だけだ――パリに両親だけでやってきた時。
「お母さま、いまからどこに行きますか?」
「荷物整理するから、一回お家に行くわよ。そのあと、どこがいい?」
「お父さまとお母さまと一緒ならどこでもうれしいです」
「あらそうなの?イヴォン、あなたって本当、可愛いわね。どうする?春だしお花が咲いてるかも。見に行く?ねぇマルセル、お花早いかしら?」
「まだ少々早いですが――ソー公園ならいくらか。今年は暖かいので少し桜が咲くのが早いようです」
「サクラ?サクラが咲いていますか?」
「咲いていますよ、まぁ……なんというんでしょう、開き方が半分くらいですが」
「五分咲きか」
「ああ――ゴブザキというのですか」
 イヴはその名が出たことに驚いた。日本で見た桜の記憶が蘇る――フランスにも桜の名所があったとは、何年も住んでいたのにいまだに知らなかった。
「満開ではないのでまだ人もそこまで多くありませんし、ごゆっくりなさるならちょうどいいのではないでしょうか」
 イヴはうんうんと頷いて、思わず地面につけていた脚をパタパタと動かした――もうずいぶん長くなった脚!
「そうしましょう……ふふ、イヴォンったら……」
「わ」
 右側から母の微笑。反対側から、ぽんぽん――左に座っていた父の手が、自分と同じ髪色で生まれてきた息子の頭を撫でた。

 
「わぁ、サクラ咲いています……でもこんなにピンクなんですね」
 快晴。陽は落ちかけているが十分に明るい。昔小石川後楽園で見た景色を彷彿とさせる――ここは、本当にパリだろうか。東京の間違いではないか――イヴは、自分が東京に住んでいた六年前に戻った気持ちになった。
「そうね、ねぇフェドゥーリャ(父の洗礼名・フョードルの愛称形)白いのは、古いんでしょう?」
「そうだったかな……俗説じゃなかったかな。品種によるかも――いやわからん。孝紀、この桜の品種は?」
「わかりません。千理さま(イヴの父の日本語名。本名は安積千理)、私あなたより一回りも若いんですから、生き字引だと思わないでください――ググります……ええと。ソー公園、桜、品種……」
 学修院初等科の入学式を翌日に控えた日、小石川後楽園に桜を見に行き、兄に手を引かれて歩いていた。三歳になった弟は元気いっぱいで、走り回るのでしょっちゅう父にとっ捕まって抱っこされていた――自分もああやって抱っこされたいと思いながら、言い出せないでじっとしていた。代わりに兄に繋がれたのと反対のもう片方の手で母の手を掴んだ。
「ここのは、八重桜ですね。坊ちゃんが後楽園で見られたのは、ソメイヨシノではないでしょうか。品種が違うみたいです」
「八重桜か。綺麗だな」
「あら、品種が違うのね。そしたら、ヤエちゃんとヨシノちゃんなのね」
「クラーロチカ(イヴの母の名前――本名はクレール。ロシア語風の愛称形で呼んでいる)お前、ヨシノはともかく、ヤエも名前だって知っているんだな」
「あら昔の人のお名前にたまにあるわね?」
「偉いな。よく勉強した」
「まぁ……もう七年も日本の大学で教えているのに」
「そうだった」
 ヨシノは親戚の女の子にそういう名前の子がいた気がする。確か、会津に暮らす父の従兄の娘。
 イヴの後ろで両親が手を繋いでいる――結婚十年以上経って恋人同士のようにしている夫婦はフランスではそう珍しくないが、イヴが日本にいるときは面白がられた。「イヴちゃんのご両親は仲良しだね」、と同級生にいつも言われて少し恥ずかしい気がした。
 自分はあの真ん中にもう入ることができない。
 イヴは目に留まった一際大きい桜の下に走って行った。
「……さくら、きれいです」
「そうですね、坊ちゃん」
「さくらは、毎年同じように咲いて、いいですね。毎年、同じように言われます。きれいですね」
 蹲み込んで見上げると、桜のピンクと空の青が鮮やかなコントラストを描いていた。傍に孝紀が立っている。両親が何か話しながら、後ろからゆっくり歩いてくる足音が聞こえる。
「坊ちゃん――?」
 ピンクと青が薄紫色になったような――視界が滲んだのだ。生暖かいものが頬を伝ったのに気がついて、イヴははっとした。
「どうしたの、イヴォン……あら?」
「ふぇ。見たらダメです。イヴォンもう大きいんです……もう、大きいんです……」
 俯いて、袖に涙を染み込ませた。早く泣き止まないと、変だと思われる。しかし、泣き止もうと自分を心の中で叱咤するたびに、涙腺はますます反抗して涙を次々に迸らせる。
「ひっ……ぐ、うぇ……ふぇ……」
「イヴォン、どうしたの。どこか痛いの……?あなたは大きくないわ、小さいんでしょう?」
「和泉」
「ひゃい……」
「パパと手を繋ごう」
「……ぴぇ」
 すぐ隣に父が同じように蹲み込み、膝を抱えたイヴの手に触れた。「パパ」――父がこんな自称を採るのを聞いたのは、何年ぶりだ。イヴは耳を疑い、顔を上げた。
「おとうしゃま……」
 反対側の手に、柔らかな手が添えられた。祖父の手に似て大きく、父の手に似て骨ばってきたイヴの手とまるで違う母の手だった。
「パパだけじゃずるいわ、ママも繋がせて」
「おかあ、さま」
「嫌かしら。子どもっぽくて、小さくて、嫌かしら。ねぇ、イヴォン」
 びっくりして一度引っ込んだ涙がまた溢れてきた。泣き顔は、もうこの歳になったら可愛くない。イヴは俯いて、泣きじゃくりを上げた。
 なんで、小さいと思われたいんだろう――その理由がやっと分かった。
 会わないうちに自分がどんどん大きくなって、あんなに大きく感じた両親が相対的に小さく見えていく。今はまだ、イヴの方が小さいが、きっとじきに母を抜き去ってしまうし、父に迫っていくし、父すらも、抜く日が来るかもしれない。
 自分はこんなにもこの人たちと一緒にいたかったのだ。
「あなたは、まだ小さいの。ねぇイヴォン、ママを許してね――いいえ、許さなくていいわ。たくさん甘えてね」
 父はなにも付言しない。その代わり、繋いだ手を強く握りしめた。力強いと思った――まだ、自分の方が小さいのだ。
「イヴォンは、いずみは、真ん中でもいいですか」
「真ん中にいなさい。私たちといるときは、お前はいつも真ん中だ」
 母は繋いだ手と反対側の手で、ハンカチを取り出してイヴの濡れた頬を拭った。こくり、こくりと頷くと、それを「立っていいという合図」と理解した父がまず立った。
「孝紀――あ、引っ込んだなあいつ」
 気がつくと孝紀の姿がない。父がキョロキョロあたりを見渡しているが、イヴはいつも一緒の執事が一体どこに隠れたのかすぐに分かった。数メートル後ろの太い桜の幹の影に、黒い服の男が影みたいにして立っている。
「私、あっちの方に行きたいです」
 イヴは公園の中にある運河の方に行きたくなった。心地の良い風がそこからこちらに吹き付けているのを感じたのである。
「お前は水があるところが好きだね」
「イズミちゃんだもの……ねぇ?」
「私、イヴです。ガブリエルです――和泉です」
「ふふふ、昔よく、そうやって自己紹介していたわね……」
 優しい風にそよぐ五分咲きの桜の木々の中を、三人が歩いて行った。傾いた陽は、三者の影を地に長く映じていた。左に長い影、右に次に長い影。それに一番短い影が真ん中に入って、跳ねるような足取りで歩いてゆく。それはありふれた親子の光景かもしれなかったが、この物語の主人公にとっては、忘れられぬ思い出となった。
 
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