第三話 「約束」
02
やってしまった、と思った時にはもう遅かった。藍良から、爽やかな柑橘系の香りがした。
藍良が両手で一彩の胸を押したので、慌てて藍良を解放した。
ぺたんと座り込んでいる藍良の隣にしゃがんで顔を覗き込むと、涙で赤くなった目で睨まれた。
「ヒロくんは、わかってない」
「……うん」
藍良が震える声で言う。一彩は、ただ頷くことしかできない。
「わかってないから、教えてほしいよ」
また怒られるかもしれないけれど、一彩は藍良にそう乞う。相手の想いを推し量ることについては未熟な自分は、そうするしかなかった。大事な藍良のことだから、今すぐ答えが知りたかったのだ。
それを藍良本人に聞くのは、ずるいのかもしれないけれど。
藍良が細く深く、深呼吸をした。風の音の中なのに、それははっきりと一彩の耳に届く。
「おれはね、アイドルが好き」
ぽつりぽつりと、藍良が話し始める。
「うん」
「一人の時は何もできなかったおれが、ALKALOIDの皆に出会って、アイドルとしていっぱい活動ができるようになって」
空は高く、雲はゆるやかに流れていた。都会の喧騒が嘘のように静かなこの場所では、藍良の声だけが真っすぐに響いていた。
「身近にヒロくんっていうライバルがいて、一緒に成長できるのが嬉しいの」
藍良の手が、庭園に敷き詰められたタイルをなぞる。膝や手のひらが汚れてしまうのではと心配になってしまったけれど、そんな心配をさせてもらえる状況ではない。
「ヒロくんはどんどん新しいことを覚えて、おれよりセンスがあって」
藍良は寂しそうに、笑った。
「もう、おれがあれこれ教えてあげなくてもいいくらい」
ぐすっと鼻をすする音が聞こえ、胸が苦しくなる。
「そんな君の背中を追いかけてさ、おれもがんばろうってがむしゃらにやってるのにさァ」
藍良の声はかすれていたけれど、その眼差しはまっすぐだった。目に涙を溜めながらも、一彩を責めるような色はない。
むしろそれは期待のような、願いのようなものが宿っていた。
「なんで、立ち止まるの?」
少し震えた声が、心に突き刺さる。
藍良の足がもつれないようにと、立ち止まって手を伸ばしたつもりだった。けれど、それは藍良にとって、走る理由を奪うことだったのかもしれない。
「なんでおれのこと振り返るの? ヒロくんはずっと前を走っててよ」
藍良の側にいたくて、一緒に走りたくてそうしていたつもりだった。けれどそうやって一彩がアイドルとしての歩みを止めることを、藍良は望んでいないのだ。
「ヒロくんはすごいんだよ。おれ、ヒロくんの足を引っ張りたくないよ」
少し考えれば分かるはずだったのに、何故気づけなかったのだろう。藍良は誰よりもアイドルを愛している。藍良に愛してもらうためには、アイドルであり続けなければならないのに。
「手を差し伸べたりしないでよ。……甘えそうになるから」
その言葉には藍良の本音が滲んでいた。ここまで言わせないと分からない自分が嫌になる。けれど、その想いは確かに一彩の心に響いた。
「お願い、ヒロくん。ヒロくんはヒロくんのままで、ずっとおれの前を走っていて。おれは、そうやって輝いてる君が好きなの」
涙が伝う頬も、潤んだ目も、その全部が藍良の「本気」の証だった。声が震えていても、想いはまっすぐで揺るがない。
「最高のアイドル、天城一彩でありつづけてよ。おれ、絶対追いついてみせるから」
一彩は、胸が熱くなるのを感じていた。
声にならない何かが喉元まで込み上げてきて、でも、ただ、藍良の姿が眩しかった。
藍良に愛されるために。
追いかけられる存在であり続けるために。
「分かったよ、藍良」
一彩は自分の胸の前で、拳を握った。
怒られるのも、泣かれるのも、怖かったはずなのに。
いまはそれよりも、藍良の本音が聞けたことに、どこか救われていた。
藍良に愛されたい。藍良に追いかけて欲しい。そんな想いを、一彩は強く自覚した。
「僕からもひとつ、お願いしてもいいかな」
振り返らずに前を走る覚悟をするために。
一彩は、心の奥にずっとしまっていた“願い”をそっと差し出すように、口を開いた。
「なに?」
藍良が首を傾げる。涙で濡れた頬に、長い前髪が貼り付いていた。
一彩はそんな藍良の瞳をまっすぐ見つめた。
「藍良が、僕に追いついたと思ったその時には――」
夜風が吹き抜ける。藍良の髪が揺れて、かすかにレモンの香りがした。
「僕に、君のいちばん大事な願いを叶えさせて」
それがどんな願いでも構わない。
言葉にしてくれなくてもいい。
ただ、その時が来たなら、迷わずに渡してほしい。
“君が追いかけてくれると信じて、走り続ける”
それが一彩なりの、藍良に選ばれるための覚悟だった。
頷いた藍良が、一彩の手を握り返す。
ただならぬ様子で帰ってきた二人を、巽とマヨイはなんでもないように受け入れて、いつも通りレッスンが再開した。
そしてその夜、ESの公式SNSにて大型ライブフェスの告知が発表され、キャンペーンサイトがオープンした。
◆
一彩はカラフルな照明が交差するセットの中で、ひな壇の端に座っていた。スタジオには明るい音楽が流れていた。
隣には別事務所の芸人コンビが座っていて、司会者が軽快にトークを回すたびに、一彩もタイミングよく笑ったり頷いたりしていた。
短く整えられた前髪の奥の瞳は、番組の進行をしっかり追いながら、場の空気を読むように動いていた。
その姿が、なんだかいつもより遠くに感じられた。
『注目が集まるES主催大型ライブフェス、一彩さんは特別ユニットに選ばれているんですよね』
司会者の女性が一彩にマイクを向ける。話を振られた一彩は胸を張って頷いた。
『先輩たちと一緒に新曲を歌うから、楽しみにしていてほしいよ!』
『一彩さんは来春公開を控える映画への出演も決まっているそうで————』
頭をくるんだバスタオルの間から、藍良はスマホの画面を見つめていた。ネットで人気のバラエティ番組に出演している一彩が、司会者に紹介されていた。
まっすぐな目で言葉を選びながら話すその姿は、いつもより大人びて見える。少し前の一彩だったら、破天荒な発言をしてしまいそうで、生配信に出すのは不安だった。だからいつも自分が隣にいてツッコミ役を任されていたし、番組側も一彩のお守り目的で藍良を起用していたように思う。
それが今はある程度、藍良がいなくても自分でトークを回せるようになっていた。
視聴者のチャット欄では『一彩くん今日はひとりで頑張ってる!』『アルカのメンバーいなくても喋れててえらい』というコメントが流れていた。それらのコメントに目を通しながら、藍良は、自分の名前で検索したときに見かける『白鳥藍良は天城一彩とセットじゃないと活きない』という意見を思い出してしまった。
一彩は、自分がいなくてもこうして一人で番組出演をこなしているのに。そんな余計な考えが浮かんでしまった。
それを振り払うように、藍良は手に取ったオイルを髪になじませながら、濡れた髪をかき上げた。
振り返らずに走れと言ったのは自分だ。一彩を追いかけて、一彩に引っ張られるならまだしも、ファンのコメントに自分が引きずられるわけにはいかない。画面から目を逸らしながら、コームで丁寧になじませる。すると、代わりに先日の空中庭園でのことが思い出された。
アイドルとして走り続け、それを藍良が追いかける。いつか必ず追いついて隣に並ぶ。その約束があれば大丈夫だ。
自分を見つめる一彩の瞳を思い出すと、急に唇に柔らかな熱が蘇ってきた。キスなんて、あんな思い切った行動をされたせいで、妙に印象に残ってしまった。
藍良はその感触を上書きするように、リップクリームを塗る。それはヘアオイルとおそろいの、レモン柄のパッケージをしていた。
司会者のマイクが他のアイドルへと渡った。
藍良は画面の端でにこにこと頷いている一彩を眺めながら、ドライヤーの電源を入れた。風の音が、画面の音をかき消していく。それでも、一彩の声だけは、耳の奥に残り続けていた。
つづく
やってしまった、と思った時にはもう遅かった。藍良から、爽やかな柑橘系の香りがした。
藍良が両手で一彩の胸を押したので、慌てて藍良を解放した。
ぺたんと座り込んでいる藍良の隣にしゃがんで顔を覗き込むと、涙で赤くなった目で睨まれた。
「ヒロくんは、わかってない」
「……うん」
藍良が震える声で言う。一彩は、ただ頷くことしかできない。
「わかってないから、教えてほしいよ」
また怒られるかもしれないけれど、一彩は藍良にそう乞う。相手の想いを推し量ることについては未熟な自分は、そうするしかなかった。大事な藍良のことだから、今すぐ答えが知りたかったのだ。
それを藍良本人に聞くのは、ずるいのかもしれないけれど。
藍良が細く深く、深呼吸をした。風の音の中なのに、それははっきりと一彩の耳に届く。
「おれはね、アイドルが好き」
ぽつりぽつりと、藍良が話し始める。
「うん」
「一人の時は何もできなかったおれが、ALKALOIDの皆に出会って、アイドルとしていっぱい活動ができるようになって」
空は高く、雲はゆるやかに流れていた。都会の喧騒が嘘のように静かなこの場所では、藍良の声だけが真っすぐに響いていた。
「身近にヒロくんっていうライバルがいて、一緒に成長できるのが嬉しいの」
藍良の手が、庭園に敷き詰められたタイルをなぞる。膝や手のひらが汚れてしまうのではと心配になってしまったけれど、そんな心配をさせてもらえる状況ではない。
「ヒロくんはどんどん新しいことを覚えて、おれよりセンスがあって」
藍良は寂しそうに、笑った。
「もう、おれがあれこれ教えてあげなくてもいいくらい」
ぐすっと鼻をすする音が聞こえ、胸が苦しくなる。
「そんな君の背中を追いかけてさ、おれもがんばろうってがむしゃらにやってるのにさァ」
藍良の声はかすれていたけれど、その眼差しはまっすぐだった。目に涙を溜めながらも、一彩を責めるような色はない。
むしろそれは期待のような、願いのようなものが宿っていた。
「なんで、立ち止まるの?」
少し震えた声が、心に突き刺さる。
藍良の足がもつれないようにと、立ち止まって手を伸ばしたつもりだった。けれど、それは藍良にとって、走る理由を奪うことだったのかもしれない。
「なんでおれのこと振り返るの? ヒロくんはずっと前を走っててよ」
藍良の側にいたくて、一緒に走りたくてそうしていたつもりだった。けれどそうやって一彩がアイドルとしての歩みを止めることを、藍良は望んでいないのだ。
「ヒロくんはすごいんだよ。おれ、ヒロくんの足を引っ張りたくないよ」
少し考えれば分かるはずだったのに、何故気づけなかったのだろう。藍良は誰よりもアイドルを愛している。藍良に愛してもらうためには、アイドルであり続けなければならないのに。
「手を差し伸べたりしないでよ。……甘えそうになるから」
その言葉には藍良の本音が滲んでいた。ここまで言わせないと分からない自分が嫌になる。けれど、その想いは確かに一彩の心に響いた。
「お願い、ヒロくん。ヒロくんはヒロくんのままで、ずっとおれの前を走っていて。おれは、そうやって輝いてる君が好きなの」
涙が伝う頬も、潤んだ目も、その全部が藍良の「本気」の証だった。声が震えていても、想いはまっすぐで揺るがない。
「最高のアイドル、天城一彩でありつづけてよ。おれ、絶対追いついてみせるから」
一彩は、胸が熱くなるのを感じていた。
声にならない何かが喉元まで込み上げてきて、でも、ただ、藍良の姿が眩しかった。
藍良に愛されるために。
追いかけられる存在であり続けるために。
「分かったよ、藍良」
一彩は自分の胸の前で、拳を握った。
怒られるのも、泣かれるのも、怖かったはずなのに。
いまはそれよりも、藍良の本音が聞けたことに、どこか救われていた。
藍良に愛されたい。藍良に追いかけて欲しい。そんな想いを、一彩は強く自覚した。
「僕からもひとつ、お願いしてもいいかな」
振り返らずに前を走る覚悟をするために。
一彩は、心の奥にずっとしまっていた“願い”をそっと差し出すように、口を開いた。
「なに?」
藍良が首を傾げる。涙で濡れた頬に、長い前髪が貼り付いていた。
一彩はそんな藍良の瞳をまっすぐ見つめた。
「藍良が、僕に追いついたと思ったその時には――」
夜風が吹き抜ける。藍良の髪が揺れて、かすかにレモンの香りがした。
「僕に、君のいちばん大事な願いを叶えさせて」
それがどんな願いでも構わない。
言葉にしてくれなくてもいい。
ただ、その時が来たなら、迷わずに渡してほしい。
“君が追いかけてくれると信じて、走り続ける”
それが一彩なりの、藍良に選ばれるための覚悟だった。
頷いた藍良が、一彩の手を握り返す。
ただならぬ様子で帰ってきた二人を、巽とマヨイはなんでもないように受け入れて、いつも通りレッスンが再開した。
そしてその夜、ESの公式SNSにて大型ライブフェスの告知が発表され、キャンペーンサイトがオープンした。
◆
一彩はカラフルな照明が交差するセットの中で、ひな壇の端に座っていた。スタジオには明るい音楽が流れていた。
隣には別事務所の芸人コンビが座っていて、司会者が軽快にトークを回すたびに、一彩もタイミングよく笑ったり頷いたりしていた。
短く整えられた前髪の奥の瞳は、番組の進行をしっかり追いながら、場の空気を読むように動いていた。
その姿が、なんだかいつもより遠くに感じられた。
『注目が集まるES主催大型ライブフェス、一彩さんは特別ユニットに選ばれているんですよね』
司会者の女性が一彩にマイクを向ける。話を振られた一彩は胸を張って頷いた。
『先輩たちと一緒に新曲を歌うから、楽しみにしていてほしいよ!』
『一彩さんは来春公開を控える映画への出演も決まっているそうで————』
頭をくるんだバスタオルの間から、藍良はスマホの画面を見つめていた。ネットで人気のバラエティ番組に出演している一彩が、司会者に紹介されていた。
まっすぐな目で言葉を選びながら話すその姿は、いつもより大人びて見える。少し前の一彩だったら、破天荒な発言をしてしまいそうで、生配信に出すのは不安だった。だからいつも自分が隣にいてツッコミ役を任されていたし、番組側も一彩のお守り目的で藍良を起用していたように思う。
それが今はある程度、藍良がいなくても自分でトークを回せるようになっていた。
視聴者のチャット欄では『一彩くん今日はひとりで頑張ってる!』『アルカのメンバーいなくても喋れててえらい』というコメントが流れていた。それらのコメントに目を通しながら、藍良は、自分の名前で検索したときに見かける『白鳥藍良は天城一彩とセットじゃないと活きない』という意見を思い出してしまった。
一彩は、自分がいなくてもこうして一人で番組出演をこなしているのに。そんな余計な考えが浮かんでしまった。
それを振り払うように、藍良は手に取ったオイルを髪になじませながら、濡れた髪をかき上げた。
振り返らずに走れと言ったのは自分だ。一彩を追いかけて、一彩に引っ張られるならまだしも、ファンのコメントに自分が引きずられるわけにはいかない。画面から目を逸らしながら、コームで丁寧になじませる。すると、代わりに先日の空中庭園でのことが思い出された。
アイドルとして走り続け、それを藍良が追いかける。いつか必ず追いついて隣に並ぶ。その約束があれば大丈夫だ。
自分を見つめる一彩の瞳を思い出すと、急に唇に柔らかな熱が蘇ってきた。キスなんて、あんな思い切った行動をされたせいで、妙に印象に残ってしまった。
藍良はその感触を上書きするように、リップクリームを塗る。それはヘアオイルとおそろいの、レモン柄のパッケージをしていた。
司会者のマイクが他のアイドルへと渡った。
藍良は画面の端でにこにこと頷いている一彩を眺めながら、ドライヤーの電源を入れた。風の音が、画面の音をかき消していく。それでも、一彩の声だけは、耳の奥に残り続けていた。
つづく