第三話 「約束」
01
音楽が流れ始めても、身体はすぐにはついてこなかった。足の裏が床を蹴る感覚が鈍くて、呼吸のリズムもどこかちぐはぐだ。振りを間違えているわけではない。鏡に映る自分の動きに、芯が無い。
ダンスの動きに、心が置いて行かれているみたいだった。
「音楽止めて」
藍良の声が鋭く響く。オーディオの音声認識が働いて、ぴたりと音楽が止まった。ダンスシューズが床を踏みしめる高い音がやけに大きかった。
「ヒロくん、今日なんか変じゃない?」
顔を上げると、鏡に映る藍良がわずかに首を傾げていた。ブリキのおもちゃのように、首だけをゆっくり動かして隣を見る。藍良が、厳しい目線を一彩に向けていた。
咄嗟に口を開いて言い訳をしようとしたけれど、思いつかない。後から「そうかな?」と誤魔化せば良かったのだと考えてももう遅い。一彩の態度は藍良の疑問を肯定することにしかならなくて、その場に沈黙が落ちる。
鏡の中、斜め後ろにいる巽とマヨイが、心配そうにこちらを見ていた。
一彩はメンバーの顔を順番に見渡し、最後にもう一度藍良を見つめる。二日前、事務所で天祥院英智に呼び止められた時以上の緊張が走った。彼の一言一句が、違わず脳裏に再生される。
「皆に言わなきゃいけないことが」
そこまで絞り出して、また黙ってしまった。巽の表情がふと和らいで、レッスン室の端に溜まっている荷物から四人分のドリンクを持ってくる。
一彩と藍良の間にそれを置いて、四人で輪になるように座った。一彩は巽に手渡されたドリンクを一口含む。言葉まで飲み込んでしまわないよう、細く流し込むように嚥下した。
一瞬だけ目を閉じて、意を決して口を開く。
「ライブフェスのスタプロ代表のことだけれど」
一彩がそこまで口にした時にはもう、藍良の瞳が揺れていた。
「ALKALOIDからは、僕に決まったんだ」
先日の映画の顔合わせのあと、事務所に寄った一彩はたまたま天祥院英智と鉢合わせた。ちょうどいい、とついでのように報告された内容は『君はスタプロ代表のメンバーに選ばれたよ』というものだった。
嬉しさと誇らしさよりも先に、仲間の顔が浮かんだ。ALKALOID全員で立候補しようと誓い合ったあの日から、四人ともがそれまで以上にアイドル活動に勤しんだ。巽はラジオの仕事が功を奏して動画配信サイトにもレギュラー番組ができたし、マヨイは自身のダンスにより磨きをかけ、その身のこなしをモデル活動にも活かしていた。
そして藍良は、きっと自分よりも代表に選ばれたがっていた。誰よりもアイドルが好きなアイドルだ。
譲られることを嫌がる藍良は、きっとこの結果を受け入れるけれど、自分から報告するのを苦しいと思ってしまった。
だからあの日、藍良が新しい雑誌の仕事をもらえそうだと嬉しそうに報告してきた時のことだ。
一彩の頭の中は、藍良に代表のことをどう伝えるか、そればかりが頭を占めていた。
映画のゲスト出演が決まったことなど、そのときの一彩からは、すっかり抜け落ちていた。あの時英智に会わなければと、心の中で失礼なことを考えてしまった。
報告を後回しにしているのは自分なのに。
事務所からの正式な発表が今夜あるらしい。メンバーにあらかじめ報告しておくのなら、もう時間が無かった。
「おめでとうございます、一彩さん。さすがですね」
まずマヨイが拍手をする。巽が頷き、優しく微笑んだ。
「誰が選ばれてもおかしくない状況でしたが、俺も納得です」
ふたりの祝福が出そろった後、一彩は残るひとりの沈黙をどうしても無視できなかった。
藍良は何も言わず、目を伏せたまま床を見ている。口元は真一文字に結ばれていて、前髪で隠れた目元にどんな感情があるのかを読み取れない。
「その、藍良……ごめん」
藍良が顔を上げた。前髪が揺れて、目がはっきりと見えた。一彩を、まっすぐに睨んでいた。
「なんで謝るの」
「あっ……」
藍良の低い声に、息が詰まる。また間違えた。気づくのがいつも遅すぎる。
床を蹴る音がして、藍良がレッスン室を飛び出したことに気づいた。一彩はハッと息を呑んで、咄嗟にその背を追いかける。
「まって、藍良!」
閉まりかけたドアを手で押し開け、廊下に飛び出す。遠ざかる足音が反響し、心臓の鼓動と呼応するように響く。
風を切る。スニーカーの底が床を叩く音が連なり、焦らせる。
「ついて来るなよバカ!」
振り向きざまに藍良の声が飛んできた。それでも、一彩は足を止めるわけにはいかなかった。
「い、嫌だよ藍良!」
傷つけてしまったまま離れたくない。何がいけなかったのかを教えて欲しい。いつもみたいに。ああまた、自分は藍良に甘えている。
いつもならすぐ捕まえられるのに、空中庭園に飛び出したところでやっと追いついた。掴まれた腕を振りほどこうとした藍良だったが、力が抜けるようにしてその場に膝をつく。足元に影を落としたまま、一彩の視線を避けるように目を伏せた。
「なんで、謝ったの」
さっきと同じ質問なのに、答えられない。藍良が代表に選ばれたがっていたことを知っていたから。それなのに自分が選ばれてしまったから。思いつく答えはどれも不正解な気がする。
「選ばれたんだよ? もっと嬉しそうにしてよ。おめでとうって言わせてよ! おれに自慢したらいいじゃん! 悔しがらせてよ!」
一彩の胸を叩く手に力は入っていない。それでも、心が痛くなった。
「ヒロくんはおれたちの、ALKALOIDのリーダーなんだよ? 選ばれたんだから堂々としてよ!」
最後はもう涙声で、かろうじて言葉になって一彩の耳に届いた。
張りつめていた糸が、ぷつんと音を立てて切れたようだった。藍良がわっと泣き出す。
どうにか堪えようとしていた顔が、ぐしゃぐしゃに崩れていく。唇を噛んで、必死にこらえようとするが、肩はもう小刻みに震えていた。
堰を切ったように、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
そんな自分を止められないことが悔しいのか、藍良は首を横に振りながら、唇をきつく結んだ。
それでも、喉の奥では声にならない嗚咽が鳴っていた。
眉の間にしわを寄せて、何度も瞬きを繰り返してみせる。けれどもう、止まらなかった。
涙は頬を伝い、口元を歪ませ、呼吸のたびにしゃくり声が混ざる。
きっと、こんなふうに人前で泣くのは、久しぶりだったのだと思う。
泣き崩れる藍良を前にして、一彩はもう何も考えられなかった。このまま崩れてしまいそうな藍良を、ただ受け止めたくて、腕が勝手に動いていた。
痛みも、怒りも、悲しさも、すべて包み込んでしまえる気がした。
そんなのは、きっと思い上がりだってわかってるのに、それでも。ただ、藍良の涙を止めたい一心で抱きしめた。
温かいけど、細い肩。ぐっと力を入れたら、壊れてしまいそうで、一彩は腕の強さを迷った。それでも、離したくなかった。
「な、なにしてるのヒロくん!」
腕の中で咄嗟に藍良がもがく。胸元を押す手が震えている。
「やめて、同情なんかいらな……っ」
続きの言葉が出る前に、すぐ近くで顔を覗き込む。藍良の目が、一彩を見上げた。
睨んでいるようでいて、その奥にある感情が読み取れない。
涙に滲んだその瞳に、自分がどう映っているのかなんて、考える余裕はなかった。
ただ、息がかすかに触れ合って、藍良の唇が動こうとした瞬間、二人の唇が重なっていた。
なにかを言い返される前に、もうこれ以上、藍良を泣かせないために。一彩は藍良の言葉を塞いでいた。
つづく
音楽が流れ始めても、身体はすぐにはついてこなかった。足の裏が床を蹴る感覚が鈍くて、呼吸のリズムもどこかちぐはぐだ。振りを間違えているわけではない。鏡に映る自分の動きに、芯が無い。
ダンスの動きに、心が置いて行かれているみたいだった。
「音楽止めて」
藍良の声が鋭く響く。オーディオの音声認識が働いて、ぴたりと音楽が止まった。ダンスシューズが床を踏みしめる高い音がやけに大きかった。
「ヒロくん、今日なんか変じゃない?」
顔を上げると、鏡に映る藍良がわずかに首を傾げていた。ブリキのおもちゃのように、首だけをゆっくり動かして隣を見る。藍良が、厳しい目線を一彩に向けていた。
咄嗟に口を開いて言い訳をしようとしたけれど、思いつかない。後から「そうかな?」と誤魔化せば良かったのだと考えてももう遅い。一彩の態度は藍良の疑問を肯定することにしかならなくて、その場に沈黙が落ちる。
鏡の中、斜め後ろにいる巽とマヨイが、心配そうにこちらを見ていた。
一彩はメンバーの顔を順番に見渡し、最後にもう一度藍良を見つめる。二日前、事務所で天祥院英智に呼び止められた時以上の緊張が走った。彼の一言一句が、違わず脳裏に再生される。
「皆に言わなきゃいけないことが」
そこまで絞り出して、また黙ってしまった。巽の表情がふと和らいで、レッスン室の端に溜まっている荷物から四人分のドリンクを持ってくる。
一彩と藍良の間にそれを置いて、四人で輪になるように座った。一彩は巽に手渡されたドリンクを一口含む。言葉まで飲み込んでしまわないよう、細く流し込むように嚥下した。
一瞬だけ目を閉じて、意を決して口を開く。
「ライブフェスのスタプロ代表のことだけれど」
一彩がそこまで口にした時にはもう、藍良の瞳が揺れていた。
「ALKALOIDからは、僕に決まったんだ」
先日の映画の顔合わせのあと、事務所に寄った一彩はたまたま天祥院英智と鉢合わせた。ちょうどいい、とついでのように報告された内容は『君はスタプロ代表のメンバーに選ばれたよ』というものだった。
嬉しさと誇らしさよりも先に、仲間の顔が浮かんだ。ALKALOID全員で立候補しようと誓い合ったあの日から、四人ともがそれまで以上にアイドル活動に勤しんだ。巽はラジオの仕事が功を奏して動画配信サイトにもレギュラー番組ができたし、マヨイは自身のダンスにより磨きをかけ、その身のこなしをモデル活動にも活かしていた。
そして藍良は、きっと自分よりも代表に選ばれたがっていた。誰よりもアイドルが好きなアイドルだ。
譲られることを嫌がる藍良は、きっとこの結果を受け入れるけれど、自分から報告するのを苦しいと思ってしまった。
だからあの日、藍良が新しい雑誌の仕事をもらえそうだと嬉しそうに報告してきた時のことだ。
一彩の頭の中は、藍良に代表のことをどう伝えるか、そればかりが頭を占めていた。
映画のゲスト出演が決まったことなど、そのときの一彩からは、すっかり抜け落ちていた。あの時英智に会わなければと、心の中で失礼なことを考えてしまった。
報告を後回しにしているのは自分なのに。
事務所からの正式な発表が今夜あるらしい。メンバーにあらかじめ報告しておくのなら、もう時間が無かった。
「おめでとうございます、一彩さん。さすがですね」
まずマヨイが拍手をする。巽が頷き、優しく微笑んだ。
「誰が選ばれてもおかしくない状況でしたが、俺も納得です」
ふたりの祝福が出そろった後、一彩は残るひとりの沈黙をどうしても無視できなかった。
藍良は何も言わず、目を伏せたまま床を見ている。口元は真一文字に結ばれていて、前髪で隠れた目元にどんな感情があるのかを読み取れない。
「その、藍良……ごめん」
藍良が顔を上げた。前髪が揺れて、目がはっきりと見えた。一彩を、まっすぐに睨んでいた。
「なんで謝るの」
「あっ……」
藍良の低い声に、息が詰まる。また間違えた。気づくのがいつも遅すぎる。
床を蹴る音がして、藍良がレッスン室を飛び出したことに気づいた。一彩はハッと息を呑んで、咄嗟にその背を追いかける。
「まって、藍良!」
閉まりかけたドアを手で押し開け、廊下に飛び出す。遠ざかる足音が反響し、心臓の鼓動と呼応するように響く。
風を切る。スニーカーの底が床を叩く音が連なり、焦らせる。
「ついて来るなよバカ!」
振り向きざまに藍良の声が飛んできた。それでも、一彩は足を止めるわけにはいかなかった。
「い、嫌だよ藍良!」
傷つけてしまったまま離れたくない。何がいけなかったのかを教えて欲しい。いつもみたいに。ああまた、自分は藍良に甘えている。
いつもならすぐ捕まえられるのに、空中庭園に飛び出したところでやっと追いついた。掴まれた腕を振りほどこうとした藍良だったが、力が抜けるようにしてその場に膝をつく。足元に影を落としたまま、一彩の視線を避けるように目を伏せた。
「なんで、謝ったの」
さっきと同じ質問なのに、答えられない。藍良が代表に選ばれたがっていたことを知っていたから。それなのに自分が選ばれてしまったから。思いつく答えはどれも不正解な気がする。
「選ばれたんだよ? もっと嬉しそうにしてよ。おめでとうって言わせてよ! おれに自慢したらいいじゃん! 悔しがらせてよ!」
一彩の胸を叩く手に力は入っていない。それでも、心が痛くなった。
「ヒロくんはおれたちの、ALKALOIDのリーダーなんだよ? 選ばれたんだから堂々としてよ!」
最後はもう涙声で、かろうじて言葉になって一彩の耳に届いた。
張りつめていた糸が、ぷつんと音を立てて切れたようだった。藍良がわっと泣き出す。
どうにか堪えようとしていた顔が、ぐしゃぐしゃに崩れていく。唇を噛んで、必死にこらえようとするが、肩はもう小刻みに震えていた。
堰を切ったように、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
そんな自分を止められないことが悔しいのか、藍良は首を横に振りながら、唇をきつく結んだ。
それでも、喉の奥では声にならない嗚咽が鳴っていた。
眉の間にしわを寄せて、何度も瞬きを繰り返してみせる。けれどもう、止まらなかった。
涙は頬を伝い、口元を歪ませ、呼吸のたびにしゃくり声が混ざる。
きっと、こんなふうに人前で泣くのは、久しぶりだったのだと思う。
泣き崩れる藍良を前にして、一彩はもう何も考えられなかった。このまま崩れてしまいそうな藍良を、ただ受け止めたくて、腕が勝手に動いていた。
痛みも、怒りも、悲しさも、すべて包み込んでしまえる気がした。
そんなのは、きっと思い上がりだってわかってるのに、それでも。ただ、藍良の涙を止めたい一心で抱きしめた。
温かいけど、細い肩。ぐっと力を入れたら、壊れてしまいそうで、一彩は腕の強さを迷った。それでも、離したくなかった。
「な、なにしてるのヒロくん!」
腕の中で咄嗟に藍良がもがく。胸元を押す手が震えている。
「やめて、同情なんかいらな……っ」
続きの言葉が出る前に、すぐ近くで顔を覗き込む。藍良の目が、一彩を見上げた。
睨んでいるようでいて、その奥にある感情が読み取れない。
涙に滲んだその瞳に、自分がどう映っているのかなんて、考える余裕はなかった。
ただ、息がかすかに触れ合って、藍良の唇が動こうとした瞬間、二人の唇が重なっていた。
なにかを言い返される前に、もうこれ以上、藍良を泣かせないために。一彩は藍良の言葉を塞いでいた。
つづく